「本土決戦」へ極秘に掘られた「松代大本営」、歴史に埋もれた地下壕が「平和の尊さ伝える拠点に」
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太平洋戦争末期、日本軍が天皇の居室や中央省庁を移すため極秘裏に掘削した巨大な地下
信州は「神州」
山々の
三つの地区に分かれた壕のうち、現在公開しているのは「
壁に突き刺さったままの削岩機のドリル部分は、岩盤の硬さを物語る。ダイナマイトで爆破した岩の破片を運び出すトロッコの枕木跡も生々しく残る。
疎開先としてこの地が選ばれたのは、米軍が上陸する海岸線から遠く離れ、岩盤も強固で地下壕の建設地に適していると考えられたためだ。長野県を指す「信州」が「神州」に通じることも買われたという。軍は機密保持のため、地元住民らに「倉庫」の建設工事と説明した。
地下壕には皇位の象徴として天皇に継承される「三種の神器」も置かれる計画で、「国体護持」を目的に急ピッチで建設が進んだ。
その歴史を研究するNPO法人の松樹道真・事務局長(71)は「岩盤が硬かったことから作業は過酷で、ダイナマイトの爆発に巻き込まれるなどして多数の犠牲が出た」と語る。
「新資料」も展示
1945年8月15日の敗戦後、松代大本営は一部が中央気象台(現気象庁)の地震観測所になったものの、大半が放置され、歴史に埋もれていった。しかし80年代に沖縄を訪問した地元の高校生や有志の団体が古里の戦争遺跡を調べる中で価値が見直された。長野市は90年から象山地下壕の500メートルの一般公開を始めた。
同NPOは86年に結成された前身の団体の時代から、より深く歴史を伝えるため施設の建設を目指してきた。当初は「地元のイメージが悪くなる」などと住民から反対の声が上がった。しかし、実直に説明会を繰り返し、昨年4月、地元公民館で開いた会合では反対の声は上がらなかった。敷地の確保にもメドがつき、壕の入り口近くに開設が決まった。
2階建ての施設は「松代大本営平和祈念館」と名付け、壕の全体像を示すジオラマや、作業員が使った削岩機の先端などを展示する。事業費約4500万円は寄付金やクラウドファンディングで賄った。
地元で発見された「新資料」も紹介する。当時、松代地区に住んでいた男性がつづっていた2冊の冊子だ。今年3月、男性のひ孫から寄贈されたもので、現在はふさがれている坑口が描かれた挿絵のほか、掘削した土砂で墓地の移転を余儀なくされた住民の氏名などを記している。同NPOは「施設の様子を伝える貴重な資料だ」として展示品に加えることにした。
当初から活動する同NPOの北原高子さん(83)は「掘削時を知る住民が大勢いた頃は、もう戦争は思い出したくないと、祈念館の設置に反対する声が根強くあった」と振り返る。そのうえで「80年たった今だからこそ、冷静に見つめられることもある。資料を公開して戦争の記憶をとどめ、平和の尊さを伝える拠点にしたい」と語る。
軍の施設、疎開次々
戦局が悪化し、本土決戦が現実味を帯びると、軍の施設や軍需工場が疎開する動きが相次いだ。
戦闘機を製造していた中島飛行機も中核だった太田製作所(群馬県)を約8キロ離れた山中の地下に移転する計画を立てた。
工場は完成を待たず終戦となったが、壕の入り口は残る。保存活動に取り組む石塚久則さん(78)は「全国に残る遺跡は、戦争のむなしさを今に伝える生き証人だ」と語る。
◆ 松代大本営 =軍の中枢である大本営などを移すために1944年11月から工事が始まった地下壕。現在の長野市にある象山、舞鶴山、皆神山を掘削したもので、総延長は計約10キロに及ぶ。工事には日本人や朝鮮人労働者ら約1万人が従事したとされる。敗戦で実際に使われることはなかった。現在は象山地下壕のみが一般公開されており、2024年度は約4万6000人が訪れた。