海洋地球研究船「みらい」、最後の観測航海へ出港…原子力船「むつ」活用・日本の原子力政策と深い縁
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日本初の原子力船「むつ」の船体を活用した海洋研究開発機構の海洋地球研究船「みらい」が13日、最後の観測航海に向けて出港した。むつは1974年の放射線漏れ事故を契機に廃船となり、みらいになってからも2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故の影響を調べる航海に出た。日本の原子力政策と深い縁を紡いだ船の歴史を振り返る。
原子力船は、動力に原子炉を用いる船だ。戦後間もない日本は原子力研究を禁止されていたが、1952年のサンフランシスコ講和条約発効を機に原子力の平和利用が可能になり、開発が進められた。燃料の補給が長期間必要ないため航続距離が大きく伸び、貨物量も増やせると期待された。
こうして開発されたむつは、出力3万6000キロ・ワットの加圧水型軽水炉(PWR)を搭載し、69年6月に進水した。PWRは、原子炉で高温高圧にした水を蒸気発生器に送り、生まれた蒸気で発電タービンを回すタイプの原子炉だ。
ただ、日本は被爆国だけに、一部で原子力船開発への反対世論もあった。むつは74年8月、原子炉の出力を洋上で上昇させる試験のため、母港の大湊港(青森県むつ市)を出港する際、阻止しようとする漁船団に囲まれた。
なんとか出港したが、原子炉の
日本原子力研究開発機構(JAEA)青森研究開発センター副所長の工藤利博さん(57)は当時、地元の小学生で、むつについて「なぜか港から動かない船」という印象を持っていた。それでも青い空と海に映えるチェリーグレー色の船体のコントラストは地元の子どもたちの心をつかみ、「写生大会の題材になることが多かった」と振り返る。
その後、むつは85年に廃船にすることが決まった。今後の運用に多額の費用がかかるためだ。ただ、新たな任務も与えられた。廃船作業に入る前に実験航海を行い、海の揺れが原子炉に与える影響など詳細なデータを集めることだ。
工藤さんは「原子力は日本を支えるエネルギー源になる」と期待して87年にJAEAに入った。見慣れたむつが廃船になるさみしさもあり、「最後の実験航海を成功させて、この船の責務を全うさせよう」と乗船を決めた。
実験航海は91年に計4回実施された。特に最後の4次航海は荒天時での性能を確かめるため過酷を極めた。米アラスカ州アリューシャン列島付近で発達した低気圧を探し、わざとその海域に突っ込んだ。高さ10メートルを超える荒波で船は揺れ、通常はあり得ない後方からの波も受けた。船は30度ほど傾くこともあり、工藤さんは何度もブリッジに向かう階段をよじ登って気象や航海データを回収し、衛星電話を使って港の事務所へ送りつづけた。
実験航海で収集されたデータは航行中の原子炉内の温度や圧力など約150項目に上り、今もJAEAに残っている。
むつは廃船後に改造され、97年10月にみらいとして再就航した。その後、世界最大級の海洋観測船として、北極域や赤道域などで250回以上の航海を重ねた。原子炉があった場所は荒天でも屋内作業ができる格納庫となり、船内には分析装置が多数収納された。研究者は「海に浮かぶ実験室」と呼んだ。
みらいの最後の航海は13日に静岡市の清水港を出て、29日に再び同港へ戻ってくる計画だ。千島海溝や日本海溝で発生する巨大地震の発生メカニズムを探るために海底を掘削して泥を採取し、地震計も設置する。
むつは開発当初、海洋観測船として設計され、予算削減によって貨物船に変わったという経緯がある。工藤さんは「時代に