「森永ヒ素ミルク事件」追跡調査した保健師、原点の「氷の赤ちゃん」と半世紀後にめぐり合い
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「この子がそうですわ」。1969年6月、大阪市内の長屋を保健師の松尾礼子さん(84)=当時28歳=が訪ねると、出迎えた母親が部屋の奥を指さした。視線の先に、小学3、4年にしか見えない体の小さな14歳の少年が青白い顔で立っていた。
体が弱く、すぐ疲れて横になる。学校の勉強についていけない――。母親は嘆いた。別の家の少女は体中の湿疹をかきむしり、また別の少女は難聴だった。
3人の子に共通するのは、14年前に森永乳業のミルクを飲んだこと。粉ミルクにヒ素が混入し、乳児130人が死亡、1万2000人以上が被害に遭った「森永ヒ素ミルク事件」はしかし、後遺症の心配がほぼないとされてきた。それなのに、追跡調査で目にした子どもたちはこんなにも健康を害している。「事件は終わっていない」。胸の鼓動が速くなるのを感じた。(社会部 福元理央)
「毒飲ませた」苦悩に伴走
「子どもたちが今どうしているか知っているかね」
1968年秋。松尾礼子さん(84)は、大阪大医学部の丸山博教授(96年に86歳で死去)にそう問いかけられた。大阪市の保健師になって2年目。保健指導について学ぶため、保健師仲間らと教授のもとを訪れたときのことだ。
「子どもたち」とは、55年夏に起きた「森永ヒ素ミルク事件」の被害児のことだった。森永乳業徳島工場で製造された粉ミルクにヒ素が混入し、西日本を中心に、ミルクを飲んだ乳児に甚大な被害をもたらした集団食中毒事件だ。乳児たちは当時、発熱や
脱水状態の子 必死の姿浮かび調査参加を決意
教授は一つの仮説を立てていた。ある養護学校に脳性まひの子がいる。ヒ素入りミルクを飲んだことと何か関係があるのではないか。ひょっとしたら他の子どもも……。すでに追跡調査を始めており、松尾さんも参加を誘われた。
迷った。事件当時、自分は14歳。ラジオでニュースを聴き、大変な騒ぎだったことは覚えている。が、新米保健師にすぎない自分が国の出した結論に逆らうなんて、恐ろしい。こうも思った。「ヒ素中毒だと暴いてしまえば、子どもたちの将来の結婚や就職にも支障をきたす。内密にしておいた方が世間の偏見から守ることができるんだわ」。出自や障害の有無で差別がまかり通っていた時代だった。
だが、すでに調査に加わっていた保健師仲間の報告が心を揺さぶった。
ある女の子は赤ちゃんの頃、ミルクを受け付けなくなり、衰弱していった。脱水状態だったのだろう。真夏のある日、来客に出されたかき氷を小さな手でわしづかみにして、目の色を変えてほおばっていた――。
「氷の赤ちゃん」の姿がありありと浮かぶ。必死のSOS。「子どもたちを放っておくことは、彼らを無視して孤立させることになるんじゃないか」。調査に参加しよう。覚悟を決めた。
子どもたちのために動く。保健師として当然の仕事をしようとしたのに、上司は「もう解決した問題だ」と業務時間内での調査を認めない。「何かあれば責任をとります」と食らいついたが、「あなたにとれる責任は何もない」と返された。でもやるしかない。やむなく業務時間外の夜間や休日に調査を行うことにした。
手弁当の訪問 我が子の後遺症 語り出す親たち
69年6月から、教授が入手した大阪などの被害児の名簿を手に、担当地区に住む被害児3人の家を回った。病気や障害という、極めて個人的なことを聞き出すのだ。質問は必要最低限にとどめ、「聞かせてください、教えてください」という姿勢で傾聴しようと心がけた。
突然の家庭訪問にけげんな顔を見せた親たち。だが、やがて手を引っ張って家に招き入れ、せきを切ったように語り始めた。
体中の湿疹がひどい少女の母親は「病院に何度も連れて行き、薬を買い、もう嫁入り道具を買ってやるお金もない」と嘆いた。仲間からも沈痛な報告があがってくる。子どもがミルクを嫌がるから、苦肉の策で脱脂綿に含ませたミルクをその口に1滴ずつ落としたが、ヒ素混入を知って「毒を飲ませた」と悔いる親。またある親は皮膚の黒ずみを相談しに行った保健所で、「風呂の入れ方が悪い」と不潔のせいにされていた。
この子も、あの子も。保健師や養護教諭ら22人が行った追跡調査は、バラバラだった点を線へ、そして面へと広げ、後遺症と親たちの苦悩をあぶり出した。調査対象67人中50人に皮膚の黒ずみや脳性まひといった異常が認められ、調査結果は「14年目の訪問」と題した冊子にまとめられた。丸山教授が学会で調査結果を発表し、被害児の親たちが再び集結して「森永ミルク中毒のこどもを守る会(現・森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会)」を結成したのは、そのすぐ後だ。
当時神戸大の医学生だった医師、郷地秀夫さん(77)は報道で後遺症のことを知った。14年も見過ごしてきたことが、医学に携わる者の一人として情けない。「大阪の子どもに後遺症があるのなら、他の地域でもあるはずだ」。70年から、医学生仲間と神戸市内などに住む被害児の訪問調査に乗り出した。
各地で行政による検診も始まり、後遺症の実態がより鮮明になった。一度は蓋をされた被害に光が当たり、それはやがて大きな社会問題となっていく。
最後までヒラ だからこそ地域に尽くせた
深刻な実情を知ってしまった以上、ここで手を引くわけにはいかない。松尾さんはその後も、被害児のもとを手弁当で訪ね歩いた。
重度の知的障害で「おっかあ、まんま、あほう」という三つの言葉しか話せなかった少年は71年、17歳で亡くなった。「あほう」は、周囲にいつもそうからかわれていたのだろう。母親から話を聞きながら、救済の手が差し伸べられないまま人知れず死んでいく子どもに涙が止まらなかった。
だから、「守る会」が73年に森永と国を相手に賠償を求める訴訟を起こしたときは、上司の抵抗にあいながら原告側証人として法廷に立った。
緊張で手の震えが止まらない。でも、これだけは絶対に言っておきたくて力を込めた。「裁判でちゃんと話がついてから対策を練るなどということでは遅い。人の命の尊さをもう一度考えていただきたい」
その年の12月、森永は交渉の中で恒久的な対策を講じる意向を示し、国も救済事業への協力を約束。翌74年、森永、国、「守る会」による3者の合意に基づき「ひかり協会」(大阪市)が設立され、障害の重さに応じた金銭給付や教育支援の実施が決まった。「守る会」は訴訟を取り下げた。
法的な争いがひとまず終結したとはいえ、被害児たちの人生は続く。被害児のために企画された海水浴や絵画教室に参加し、子どもたちを見守った。
80年夏。体にまひがある被害者の一人、大阪市の井上明子さん(70)の顔つきがぐんと大人びているのに気づいた。聞けば、半月前に銀行に就職したという。「すっかり社会人の顔になって」。井上さんもうれしかった。「どんな集まりにも必ず松尾さんの姿があって、だからこそ小さな変化に気づいてくれた」
一方、職場では、森永の問題に関わっていることが影響したのか、いつまでもヒラだった。支援活動に参加するたびに上司には嫌な顔をされ、「イチ保健師が趣味でやっていること」ととらえられているように感じた。
「私がやっていることは間違っているんだろうか」。時々、そんな思いが頭をもたげる。思えば、追跡調査の結果が新聞の1面で報じられたあの日、被害児の母親に「どえらいことをしてくれはりましたな。うちはブタ箱に行くのは嫌でっせ」とどなられた。国や森永と
しかし、「これからは仲間がいる」と喜んでくれた親がいたのも事実。救済事業も始まり、被害児が少しずつ成長する過程も見てきた。「話をとことん聞き、聞きっぱなしにせずに必ず結果をお返しする」。追跡調査を通じて学んだこと。今こそ、保健師として住民と向き合う現場で実践するときなのではないか。
交流続け半世紀 みんな「私の子ども」
配属された保健所で、住民の声をじっくり聞き、世代間交流会や独り暮らしの高齢者向けの催しを次々と企画した。少しずつ明るさや元気を取り戻していく高齢者たち。転勤時期が近づくと転勤に反対する住民たちが市に直談判したほど、地域になくてはならない存在になっていった。
元大阪市の保健師で、50年来の友人でもある宮田
2001年3月、とうとうヒラのまま迎えた退職の日。辞令を受け取った後も、いつも通り受け持ちの住民の家に出向いた。「地域に根ざした活動ができたのは、ヒラだったからこそなんだ」。迷いや葛藤をすべてのみこんで、そう納得することができた。
23年夏。「守る会」の交流会で、一人の女性が披露した話に息をのんだ。「赤ちゃんだった私は、真夏のある日、かき氷を見つけて手づかみで食べたそうなんです」
女性は大阪市の谷口
今年、事件は発生から70年を迎えた。協会によると、10月時点で今も常時連絡がとれている被害者は5145人、うち571人が何らかの障害を抱えている。親世代の多くは鬼籍に入り、「守る会」を支えるのは被害者本人たちだ。
森永は事件を風化させない取り組みを続け、協会の運営費用を負担し、国や「守る会」と定期的に今後の救済について話し合う。社員向けの研修でも繰り返し事件を取りあげ、今春は新入社員153人が臨んだ。渉外部長の木下明さん(55)は「事件は我々が生涯背負うべき十字架だ。全社を挙げて救済事業への責任を果たす」と語る。
松尾さんは週1回デイケアに通い、短歌を習い、地域の催しに顔を出す。外出しない日はないほど、ますます元気だ。今も協会の地域救済対策委員として救済を支える。
被害児やその親の伴走に生涯をささげ、独身を貫き、子は持たなかった。問題を掘り起こした者としての強い責任感と使命感で、あの赤ちゃんたちの成長を喜び、時を共に過ごし、その不遇に涙して、寄り添ってきた半世紀。彼ら彼女たちを見ると、こう思わずにはいられない。「どの子もみんな、私の子ども」と。
ふくもと・りお 2011年に入社し、現在は東京社会部に所属。昨年長男を出産した。「毒を飲ませた」と自分を責める母親たちの、我が子を思う心に胸が痛んだ。同様の事件が二度と起きないようにと、取材にも熱が入った。37歳。