[時代の証言者]アニメで描く物語 富野由悠季<2>空襲の記憶 今も鮮明

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1歳の頃、母に抱かれて=本人提供
1歳の頃、母に抱かれて=本人提供

 《1941年12月8日、日本は米国の基地があるハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。その1か月前に富野さんは生まれている》

 僕の出身地は神奈川県小田原市です。3歳のときに終戦を迎えているのですが、空襲の体験は間違いなく覚えています。

 当時は借家で、大家さんの家の近くに防空 ごう がありました。警報が鳴ると、大家さんの家に絵本を2、3冊抱えて走りました。防空壕に逃げ込んだ記憶は複数回あり、入り口にかけたむしろがゆらゆらと揺れているのが怖かった印象があります。別の地域では、防空壕に 焼夷しょうい 弾が直撃し、20人ぐらいが焼け死んだということもあり、防空壕は必ずしも安全ではありませんでした。

 大家さんのおじいさんは僕をとてもかわいがってくれたのですが、焼夷弾の処理中に亡くなったと聞きました。その大家さんのおじいさんの葬式の時に見た 棺桶かんおけ の景色と、空襲の印象が直結して団子になっているのが、僕にとっての戦争の記憶なんです。

 今年は戦後80年で、当時のことを回顧する他の方々の文章を目にすることがあります。ただ、僕の戦争体験というものは体験と呼べるほどのものではありません。

 父親の喜平は東京都江東区の大島という地域の生まれでした。祖父は大島町長まで務めた人間で、家は質屋や物流の仕事をやっていました。町一つ富野の家だったというぐらい、大きな家でした。父は9番目の子どもで、幼い頃に両親を亡くして、長男夫婦に育てられました。

 裕福な家でしたから、父は中学を卒業して、高校は地元に新設された東京府立化学工業学校に入学しました。どうも写真家になりたかったらしく、卒業後は写真屋に奉公していました。日大芸術学部の前身で学んだほか、中野区にあったオリエンタル写真学校にも通い、写真の腕を磨いていた時期もありました。父の撮った写真が何枚も残されており、どれも素人にしてはプロ並みのうまさですね。今回掲載した母との写真は父が撮影したものです。学校時代の先輩に誘われる形で小田原に移住し、同じ頃に結婚しました。

 母も江東区大島の出身でした。日立製作所で働き、結婚したのが20代後半ですから、当時としては晩婚でしょうね。富野家ほどの資産家ではないのですが、名前の通っている家で、町内一円に告知するような結婚式をやっており、花嫁道具を小田原まで運ぶ人たちが写った写真が残っています。母としては東京を離れて知らない小田原の地に行くことは抵抗があったようです。(アニメーション映画監督)

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