日露戦争勝利の決め手「28センチ砲」を最前線へ…司馬遼太郎も見直した名参謀・落合豊三郎の底力
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この連載を始めて、もう7年。読んでいただいた方からいろいろなご指摘や情報をいただく。ご
今年4月、司馬の『坂の上の雲』を原作にしたNHKのスペシャルドラマが再放送されたのにあわせて、日本海海戦を取り上げた( こちら )ところ、日露戦争で陸軍第2軍の参謀だった落合豊三郎(1861~1934)の子孫の縁者の方から連絡をいただいた。落合が果たした役割はもっと注目されていい。資料を送るから、機会があれば取り上げてほしいという話だった。
ドラマでは伊藤洋三郎さんが演じた落合の出番はほんの少しだから、多くの人はその存在すら覚えていないのではないか。司馬の原作では、明治37年(1904年)8月末から9月初めにかけて、日露陸軍が初めて本格的に衝突した遼陽の会戦で敵状を見誤った“愚将”としている。主人公のひとり、秋山
“愚将”の見立て「誤りだった」
落合は日露戦争後に回想も交えた教訓書『孫子例解』を残しており、子孫が司馬の自宅を訪ねて、首山堡の攻撃は落合の判断ではないのでは、と質問したという。話を聞き、『孫子例解』を読んだ司馬は「原作を書く前に読んでいれば」と嘆息し、率直に誤りを認めた。司馬は全集に「首山堡と落合」という文章を追加し、この中で自らの誤りを検証している。それによると、落合を“愚将”とみなした理由は、<1>落合は軍参謀長の職にあったこと<2>この会戦の後、他に転出していること<3>敵に対して慎重すぎ、時に行動が鈍重になりがちだった――という3点だったという。
落合は首山堡を力攻めしないつもりだったが、総司令部の攻撃命令を拒否できなかった。命令を出したのは総司令部の作戦主任だった松川
陸軍軍人の谷寿夫(1882~1947)が陸軍大学校(陸大)の教科書とするため、日露戦争後に書いた『機密日露戦史』によると、松川は「(敵の正面にいる)第2軍参謀長が首山堡の防御工事堅固なる理由をもって(攻撃に)慎重なるは最も不可なり」といらだつメモまで残している。松川は短気で性急なところがあり、日ごろから落合の慎重な用兵が気に入らなかった。司馬の修正を受けて、ドラマでは鶴見辰吾さんが演じた松川が動きの鈍い前線にいら立つシーンが描かれている。
だとすると、前出の3つの理由のうち、判断ミスの責任が参謀長にある、と決めつける<1>はやや乱暴だった。首山堡の攻撃は慎重であるべきなのが正解だったわけで、<3>の「慎重すぎるから」は落合が“愚将”である理由にはならない。
28センチ砲導入の立役者は誰か
では、司馬が挙げた<2>についてはどうだろう。確かに遼陽会戦の直後、落合は第2軍参謀長から韓国駐屯(
落合の孫で防衛大学校副校長を務めた岡崎清(1925~97)は、この人事異動は左遷どころか、落合が長年にわたって準備してきた切り札となる兵器を投入するという重要な意味があったという説を唱えた。切り札となる兵器とは、旅順
ドラマでも原作でも、この巨砲の導入を進めたのは大本営参謀次長だった長岡
半信半疑で読み進めていくと、決定的証拠こそないが、丁寧に状況証拠を積み上げた岡崎の説にはなかなか説得力がある。日本を勝利に導いた巨砲は、どのようにして日露戦争の最前線に登場したのか、司馬とは違う視点でたどってみよう。
メッケルの一番弟子、陸軍首脳の秘蔵っ子
28センチ榴弾砲は文字通り口径が28センチあり、砲弾が曲線を描いて飛ぶため、長距離でも高精度の命中度が期待できる大砲だ。もともとイタリアで海岸の防備用に使われていた。明治10年(1877年)に日本が設計図を手に入れて国産化し、明治20年(1887年)に本土防衛の海岸砲として正式に採用された。
原作やドラマでは28「サンチ(珊)」榴弾砲と呼んでいるが、「サンチ」はcmのフランス読みだ。日本陸軍の兵式は明治3年(1870年)にフランス式に統一され、サンチはその名残といえる。陸軍の兵制は陸軍卿だった大山
メッケルの戦術に感銘を受けた日本の軍人が2人いた。1人は陸大校長だった児玉源太郎(1852~1906)、そしてもう1人がメッケルの一番弟子といわれた落合だった。メッケルは、後方から前線に人員や兵器を補給する「
明治29年(1896年)から約3年間、落合は公使館付武官としてイタリアに赴任しており、この間に28センチ砲の研究も深めていた可能性がある。国産化された28センチ砲は、イタリアの“本家”とは砲弾の材質などが異なっていた。威力が劣っていないか、台座の強度などに問題はないか、エンジニアの目線で研究すべきことはたくさんあったはずだ。
旅順総攻撃の前年、すでに「旅順要塞北の永久堡塁を強襲せず、西北および西方面を攻撃すれば
落合は日清戦争では第2軍参謀として司令官だった大山を補佐し、旅順攻略に活躍している。日露戦争では大山は満州軍総司令官、児玉が総参謀長を務めた。堅固な旅順要塞は日清戦争の時にはまだなかったし、日露戦争で旅順攻略にあたったのは落合が参謀を務めた第2軍ではなく、乃木希典(1849~1912)が率いる第3軍だったが、メッケルの薫陶を受け、旅順周辺の地形を知り、大山、児玉の秘蔵っ子の1人でもある落合が、旅順攻略に関わらない方が、むしろ不自然といえる。
韓国駐屯軍参謀の知られざる特命
落合が第2軍参謀長としてロシア軍と
第1次旅順総攻撃の失敗から半月もたたないうちに、長岡が明治天皇(1852~1912)に上奏し、28センチ砲の投入が決まる。対馬、東京湾、瀬戸内海などの海岸に配備または配備予定の巨砲がかき集められ、クレーンなど設置用の機材とともに旅順に送り込まれることになった。巨砲を短時間で分解して鉄道で運ぶ手順は、輸送ルートは、要員は……考えなければいけないことは山ほどある。
落合が韓国駐屯軍参謀になったのはそんな時だった。そもそも韓国駐屯軍は大陸の日本軍の後方支援のために日露開戦後に新設されている。大山と児玉は早くから遼陽会戦が終わったところで落合を配置換えするつもりだった、というのが岡崎の見立てだ。
28センチ砲の輸送が本格化したのは、韓国駐屯軍司令官の長谷川好道(1850~1924)と落合が宮中に参内するため一時帰国した直後からだ。落合から韓国の受け入れ準備の状況をじかに確認し、ゴーサインが出たのではないか。送り出す方も大変だったろうが、121年前のちょうど今ごろ、落合は目が回る忙しさだっただろう。
東京湾要塞司令官の内示を蹴り、陸軍を去った理由
落合の苦労のかいあって、28センチ砲が旅順攻略で大きな役割を果たしたのはご存知の通り。203高地を奪取しただけでなく、頂上からの観測で旅順港内に打ち込まれた砲弾で旅順艦隊は壊滅した。「旅順艦隊はこれ以前に事実上壊滅していた」とか、「28センチ砲の命中率は低く、艦船が沈んだのは多くが自沈だ」といった反論も出されているが、28センチ砲がロシアの戦意をそいだのは間違いない。この結果、海軍はバルチック艦隊の撃破に専念することができた。
陸軍は奉天(現・瀋陽)会戦でも28センチ砲6門を使っている。据え付け砲を野外戦闘に使ったのは世界初。落合の研究による分解・輸送・組み立て技術が可能にした戦術革命ともいえる。戦果はいま一つだったようだが、日露戦争終結後、ロシアは日本に28センチ砲を購入したいと申し出て、24門が売却された。ロシアは第1次世界大戦のドイツとの戦いで28センチ砲を使っている。