品川なぜあちこちにクジラ?江戸時代に現れ騒ぎに
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滑り台などの公園の遊具に橋の側面や川の水門に描かれた絵……。品川区を巡ると、あちこちでクジラをかたどったものや絵が目につく。品川沖でクジラを見られる機会などなさそうなのに……と不思議に思って地元の人々に尋ねてみると、江戸時代にクジラが現れ、時の将軍も上覧するなどの騒ぎになった記録が残されていると教えてくれた。(中薗あずさ)
京急線新馬場駅から天王洲運河の方へ5分ほど歩くと、クジラをかたどった遊具やオブジェが並ぶ品川区立品川浦公園が姿を現した。その隣、こぢんまりとした「
利田神社を管理する東品川一・三町会の戸川五郎会長(86)=写真=によると、一帯にはかつて運河ではなく海があり、養殖ノリの生産が盛んな漁師町だった。戸川会長は幼い頃、漁師たちから「昔、品川にクジラが来たんだよ」と聞かされたという。
また、同町会の和泉秀雄副会長(89)=写真=も子どもの時に同様の話を聞き、「『こんなところでクジラを見られたなんてすごい』と思っていた」と振り返る。
一帯は太平洋戦争の空襲でかなりの家屋が焼失したが、利田神社は焼けずに残った。戸川会長は「クジラが守り神になってくれたのかも」と笑う。
2人が話すように、品川沖にクジラが現れたのだろうか。区立品川歴史館の学芸員・冨川武史さん(46)=写真=を訪ねると、「品川町史」(1932年発行)のこんな記述を見せてくれた。
〈寛政十年五月朔日猟師町の漁夫鯨魚を獲たり〉
冨川さんの解説によれば、1798年5月1日朝、全長約16・5メートル、体高約2・04メートルのクジラが品川沖で潮を吹いているのを地元の漁師が見つけ、浅瀬に追い込んで捕らえて代官所に運んだ――と記録されている。
さらに、その2日後にクジラは浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)に移送され、江戸幕府の11代将軍・徳川家斉が上覧したことや、見物客も日に日に増えたことなども記録されている。クジラがいつ死んだかは定かではないが、捕獲から10日後には解体されたそうだ。
冨川さんによると、利田神社の鯨塚はこのクジラを供養するため、当初は今の場所から100メートルほど南に離れた場所につくられた。しかし、その後に土地整備のため鯨塚を現在の利田神社境内に移設。当初鯨塚があった場所には現在、民家が立ち並んでいる。
移設の際にクジラの骨を移したとの記録はなく、「今も民家の下に埋まっているかも」と冨川さん。「骨のかけらでもあれば当時のクジラのことを調べられたかもしれないのに、悔しいですね」と苦笑する。
骨はなくとも、当時の資料からクジラの種類を突き止めた人がいる。半世紀前からクジラに関する国内外の資料を2万点ほど収集する日本屈指の「クジラコレクター」で、クジラの資料館「
区教育委員会がまとめた資料によれば、クジラが現れた後、「品川の 沖にとまりし せみ鯨 みなみんみんと とんでくるなり」との狂歌がつくられたため、クジラは長年「セミクジラ」と考えられてきた。
細田さんは30年以上前、ロンドンのオークションでクジラを描いた墨絵が出品されているのを見つけ、落札。この墨絵は品川沖に流れ着いたクジラの見分書で、細田さんは見分書を見るや、「セミクジラではない」と感じた。腹部の色や、背びれの長さと体長の比率などから、地球上で最も大きな生物とされる「シロナガスクジラ」と結論づけた。
当時の日本鯨類研究所の理事長も同様の見解を示したという。町史の記録が伝える大きさだとシロナガスクジラとしては小さいため、細田さんは「子どもが迷い込んでしまったのでは」と推察した上で、「個体数が激減したため、シロナガスクジラは日本ではもうほぼ観察できない。当時の人が羨ましい」と笑う。
品川沖にクジラが出現してから200年に当たる1998年、細田さんはクジラをテーマにした懇親会を町内会と開催。以後、クジラを生かしてまちを盛り上げる機運が高まり、区も2006年に神社の鯨塚を区有形文化財に指定した。
細田さんは「都内の鯨塚はとても珍しく、貴重な地域の宝だ。クジラ出没の歴史とともに、後世に残してほしい」と期待を寄せる。