日本軍の戦果に熱狂した「軍都」は戦況傾き一変、そして迎えた「あの日」…「加害と被害は表裏一体」
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15歳だった切明さんは、爆心地から約2キロで被爆した。けがの治療で病院に向かう途中、日差しを避けるためにたまたま入った小屋が爆風で崩れて気を失い、ガラスの破片が頭に刺さった。学校に戻ると、建物疎開作業中に全身にやけどを負った下級生らが避難してきたが、次々と息を引き取っていった。校庭で火葬した後の小さな骨を涙ながらに拾い集めた。
切明さんと伊藤さんは現在、広島と岩手でそれぞれ戦争の語り部として活動している。原爆の惨状だけでなく、日本が戦争に向かった経緯にも言及する。
切明さんは「一人でも多くの人に証言し、核兵器の恐ろしさを伝えることが、生き残った者の責任だ」と語り、伊藤さんも「日本が戦争を推し進めた先に、原爆という悲劇的な結末があった。加害と被害は表裏一体だ」と訴える。
脳裏にこびりついた地獄絵図のような光景を、もう繰り返したくはない。
日清戦争の「大本営」
広島の軍都としての歴史は、1894年の日清戦争時、明治天皇が軍を指揮する「大本営」が置かれたことに始まる。開戦直前に山陽鉄道が広島まで延伸し、東京から鉄路がつながった。東京よりも戦地の中国に近い広島市南部の宇品港が陸軍の軍事拠点となり、臨時の首都機能も担った。
日露戦争や日中戦争を経て、陸軍は規模を増していく。太平洋戦争時、「暁部隊」には船員や軍属などを含めて全体で約30万人の人員がいたとされる。暁部隊の通称は、84年に始まった宇品港建設を推進した広島県令(知事)の千田貞暁の名前から取られたという。