日本軍の戦果に熱狂した「軍都」は戦況傾き一変、そして迎えた「あの日」…「加害と被害は表裏一体」
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もう一つのヒロシマ 戦後80年〈上〉
平和都市ヒロシマは、かつて「軍都」としての顔を持っていた。人々は戦地に向かう兵隊に熱狂し、軍艦や毒ガスの製造に携わった。その証言から、80年前の原爆投下に至るまでの街の姿をたどり、戦争の多面性について考える。
広島市南区に「暁橋」という橋がある。瀬戸内海に突き出した周囲約3キロの宇品島と本土を結ぶ、長さ10メートル余りの短い橋だ。
2年前の5月に被爆地・広島で開かれた先進7か国首脳会議(G7サミット)。電撃的に来日したウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領や各国首脳らを乗せた車が次々と暁橋を渡り、主会場だった島内のホテルに向かった。
橋の名は、橋を架けた「暁部隊」に由来する。太平洋戦争中、宇品港(現・広島港)のすぐ近くに拠点を置き、戦地への兵隊や物資の海上輸送などを担った旧陸軍部隊の通称だ。
■戦果のパレード
「日本軍が戦果をあげればパレードをして喜んだ。街全体が浮かれていた」。暁部隊の拠点があったエリアのそばで生まれ育った
父は宇品島の造船所で工場長を務めていた。小学生の切明さんは、宇品港から出征する兵隊に向かって「中国人を皆殺しにしてね!」と無邪気に日の丸を振った。父が造った陸軍の輸送船が、全国から集まる兵隊や物資を乗せて戦地に向かうさまは誇らしかった。
活気に包まれていた軍都の様相は、太平洋戦争の激化で一変する。切明さんら学生は軍需工場や、空襲に備えて建物を壊す「建物疎開」に動員され、兵隊たちの見送りもなくなった。島には撃沈された輸送船の残骸や乗組員の遺体が漂着するようになった。
■特攻隊熱望
戦況が傾きだしていた43年末、旧陸軍は兵力不足を補うため、特別幹部候補生(特幹)制度を導入し、15歳以上20歳未満の男子志願者の選抜を始めた。
旧制遠野中(現・岩手県立遠野高)5年生だった伊藤宣夫さん(97)(岩手県遠野市)は45年2月、暁部隊の特幹に志願した。「人間魚雷でも何でもよかった。真珠湾攻撃に参加した兄に憧れ、骨の髄まで軍国少年だった」