教訓は今も「島原大変肥後迷惑」での殿様の失敗とは
完了しました
インドネシアのスマトラ島とジャワ島の間にあるスンダ海峡で津波が発生し、死者は200人を超えた。付近のクラカタウ島にある活火山が津波到達の30分ほど前に噴火しており、火山活動によって海底で地滑りが起きたか、火砕流などが海に流れ込んで津波が発生したとみられる。この火山は1883年にも噴火し、やはり津波が起きて周辺の島民3万人以上が死亡している。
同じメカニズムによる災害は日本でも起きている。寛政4年(1792年)4月朔日(1日、今の暦で5月21日)には肥前(長崎県)島原の温泉(
この前年から火山活動が活発だった雲仙では、4月1日夜に2度の強い地震が起き、普賢岳の支山、
島原側と肥後側には、詳しい災害と復興の記録が残されている。災害時に人間がどんな行動をとり、何を思うのか。
噴火と群発地震で「警戒レベル」を設定
寛政3年(1791年)10月8日夜、島原城下での有感地震が「大変」の始まりだった。この時の震源は城から3里(約12キロ)西の
翌寛政4年1月18日には城下に激しい雷鳴のような鳴動が響き、温泉山から噴煙が上がって天を覆った。2月には城の東北の
ただ、後の「大変」を予測する人はまだ少なかった。領民は弁当持参で溶岩流見物に繰り出し、酒宴を開き、歌や三味線が山野に充ちたという。酒屋や茶店が設けられ、酔客で混雑したため、藩は遊覧を禁止する触れを出したほどだった。
3月1日から5日にかけては大きな地震が続き、城下でも石垣が崩れるなどの被害が出始めた。藩主の松平
しかし、レベル分けはあくまで城の危険度、つまり忠恕らの安全確保に主眼があった。山に異変があれば早鐘ですべての領民に異変を知らせ、「二区切りの鐘は山水(土石流)の流出、三区切りの鐘は燃岩(溶岩流)の切迫」と、つき方まで定めているが、領民の避難先や行動が細かく定められたわけではなく、領民は藩主らの動向を見て避難するかどうかを判断するしかなかった。
3月6日に忠恕の子や家臣の家族が城から避難する(『
3月9日には眉山山頂近くの
デマと言えば、このころ都や大坂では「島原では妖気をはらんで頭に3本の角を生やした鬼や、額がぱっくり開いた一つ目男が夜、町を徘徊している」「眉山が島原城を押し潰し、領内の人や家畜はことごとく死んだ」といった噂が飛び交い、それを絵図にして売る者までいたという。鬼や一つ目はともかく、想定外の何かとんでもないことが起きそうだという不安は確実に広がっていたようだ。
「島原大変」と熊本地震の共通点
4月朔日夜、地震の強さを示すマグニチュード6.4程度と推定される大きな地震が2度起きた。
士卒を問わず男子が緊急招集され、熊手やノコギリを持って、生き埋めになった人の救出活動が始まった。あるだけの松明を照らし、かがり火がたかれた。夜が明けて、眉山を見た人々は呆然とした。「山の南半分は飛んで、海中に幾千となく小山を築いている。市中は山になり川に変じていた」(『西肥島原大変聞録』)からだ。
折り重なった木や竹の下から救助された人は、三の丸御殿に設けられた臨時の養生所(病院)に運ばれた。大釜で薬を煎じ、大鍋で練り薬が作られた。藩医だけでは足りず、村医者30余人が召し出されて治療にあたった。
城の厨房で飯を炊き、粥を煮て役人や負傷者にふるまった。家族をなくした幼児に乳をやり、身寄りのなくなった老人の世話をする人も現れた。一方で、再度の変災を恐れて家人が避難した家に入って盗みを働く者や、土砂を掘って流された他人の財産を探す者、根も葉もない噂を吹聴する者も現れた。
近隣の藩はただちに使者を派遣して見舞い、米や味噌、稲の苗、金品などを送ってきた。大村侯は行商人に店を開かせて日用雑貨を平時の価格で売らせ、佐賀侯は役人や官船を派遣し、島原からの避難者には衣食を支給した。
2016年の熊本地震でも病院は戦場となり、避難所での助け合いや多くのボランティアの支援があった。一方で被災地での窃盗や「動物園からライオンが逃げた」というデマツイートもあった。近隣からの支援は島原藩からの要請を待たずに行われた「プッシュ型支援」といえる。
最悪だった地震発生時刻
一方の「肥後迷惑」はどんな状況だったのだろうか。2度の地震が起きた「酉の刻過ぎ」は「午後8時過ぎ」にあたる。島原と熊本の距離を考えると、津波の第1波が有明海を横断して対岸の肥後に到達したのはその20分後、午後8時半から9時ごろとみられる。
旧暦の4月朔日は新月で、大潮だった。今の暦に直して潮汐を調べると、満潮(午後9時54分)と約1時間しかずれておらず、海面は平均より1.9メートルも高かった。もともと内海の有明海では津波に対する備えが薄い。そこに闇夜の大潮という悪条件が重なった。
対岸の肥後では午後8時過ぎに海から轟音が聞こえ、島原方面に流星のように光り、火が次第に大きく見えた後に大波が来たという(『視聴草』)。荒尾付近では「川の水が引き潮のように海に吸い込まれていき、その後小山のような大津波が襲ってきた」(『荒尾史話』)という記録もある。
熊本城下でも3月1日には地震が60回を数え、人々は対岸から雲仙の噴煙を見て心配していた。「噴火した時は救出に向かおうと、船の準備もしていた」(『嶋原大変日記』)が、まさか自分たちが津波に襲われるとは思わなかっただろう。
有明海沿岸のほぼすべての村が津波に呑まれ、村民は逃げる暇もなかった。現在の熊本市北部、長洲町、玉名市
直径5メートルもある大岩が津波で流出し、寺の
藩主の避難決断は正しかったか
4月19日、島原藩主の忠恕は避難先の守山村から馬に乗って、島原城下を巡視した。大手門に設けた高座から砂の河原と化した市街を観て、しばし呆然とした後、「この変災は天がわが身に課したものだ」とつぶやき、涙を流したという。
忠恕は宇都宮から転封されて島原藩主となったが、前任地でも洪水や城下の大火など災害に苦しめられた。松平十八家の譜代大名として幕府に迷惑はかけられないという思いも強かったのだろう。頻繁に急使を出して幕府に火山活動の状況を報告し、「しばらく近くの村に避難して様子を見たい」「東覲(参勤交代)の時期だが、災害対応を指揮した後にしたい」など、細かな指示を仰いでいるのがその表れだ。
その一方で、「大変」後、早々に城を出て避難するなど、陣頭指揮を執ったとは言えない面もある。城からの退去時には馬廻りの川井
忠恕は退去後に城に残る家臣に書面で「城門を交代で守衛すれば城を空にしたことにはならない。多くの家臣が城中で罹災して死ぬようなことがあれば私が面目を失う。速やかに城を出よ」と呼びかけている。城からの退去は家臣の安全を思ってのことかも知れないが、城の被害が軽微だったのだから、やはり藩主は城を出ず、復旧の陣頭指揮を執るべきだった。熊本地震では役場が被災し、対策本部の設置が遅れた市町村もあった。対策本部をすばやく立ち上げ、首長のもとにすべての情報を集める体制をつくれるかどうかは、その後の復旧のスピードを大きく左右する。
もっとも、忠恕に陣頭指揮を求めるのは酷だったのかも知れない。城下巡視の翌日から体調を崩し、持病の
「欲を捨て、ともかく逃げよ」
忠恕の急死で復興は子で当時21歳の
「大変」の翌年には復興を支える人材を育成するため、藩校「稽古館」が創設された。ろうそくや医薬品などの原料になるハゼの実の増産を奨励して復興資金の確保を図り、忠馮自身も倹約に努めて藩士の俸禄を一部カットしている。だが、島原藩の財政難は結局、廃藩置県で消滅する明治まで続く。眉山の崩落地区の再開発が始まったのは1960年代になってからだった。
一方の熊本藩も幕府に3万両の借金を申請して復旧に取りかかった。村全体が津波に押し流され、360人が死亡した
復興にあたって熊本藩は、玉名、
「津波が来た時は欲を捨てて何も持ち出そうと考えず、老人を助け、子どもを連れて直ちに逃げよ。かねてより逃げ道を確かめておき、いざという時に迷わないように。みなこれらのことを覚悟して子孫に伝え、戒めよ」
船津村(熊本市西区河内町)の海沿いに立つ津波教訓碑には、こう刻まれている。この石碑を立てた庄屋の
不意に訪れる津波は避難も遅れがちになる。特に火山性津波は地震の観測網では発生をとらえにくく、津波警報なども出せない場合が多い。今に通じる教訓として肝に銘じておきたい。
余話 島原大変の前から災厄続きだった忠恕
島原藩主などを務めた
島原藩はキリスト教徒の反乱(島原の乱)があったこと、鎖国下の長崎の海防も担っていたことから「九州の目付(監視役)」といわれる重要な藩だった。ところが忠恕の父、
遠距離の引っ越しに巨額の費用がかかったため、忠祇は宇都宮で増税を断行しようとするが、領民の怒りを買って病気を理由に隠居してしまう。家督を継いだ忠恕は、いきなり4万人以上が蜂起した一揆(
幕府は宇都宮の洪水と大火、さらに島原大変でも復興費用を貸し付けたが、被害の大きさを考えるとあまりに少額で、無償援助もなかった。忠恕がいち早く島原大変の被災状況を報告したのは、親藩への手厚い援助を期待したためとみられるが、幕府の対応は冷たかった。
- 主要参考文献
- 伊藤和明『地震と噴火の日本史』(2002、岩波新書)
- 福田晴男「島原大変・肥後迷惑 自然は過去の習慣に忠実である」(『地名は警告する 日本の災害と地名』2013、冨山房インターナショナル所収)
- 「日本の歴史上最大の火山災害 島原大変」(2013、国土交通省九州地方整備局 雲仙復興事務所)
- 『熊本県の歴史』(1999、山川出版社)
- 都司嘉宣、日野貴之『寛政4年島原半島眉山の崩壊に伴う有明海津波の熊本県側における被害、および沿岸遡上高』(1993、東京大学地震研究所)