「懸賞生活」乗り越え、喜劇俳優の「自分だからこそできること」…1998年1月[あれから]<52>
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一番つらかったのは
外部と遮断された生活。自分の姿がお茶の間に流れ、20%超の高視聴率を連発しているなんて知らなかった。週刊誌に居場所がばれ、引っ越しを余儀なくされた時も、スタッフの「運気を変えるため」という言葉を信じた。
いつでもやめることはできたが、途中で投げ出すのは嫌だった。生きていくのに必死で、いつしか撮影していることも頭から消えていた。
一番つらかったのが、孤独に耐えることだった。話し相手は誰もいない。「死んだ方がましだ」と何度も思った。いきなり叫び、気付けばちゃぶ台をひっくり返していることもあった。
「もうちょっと頑張れば抜け出せる」。精神を保つため、独り言が増えた。日記も助けになった。〈書くことで、自分が救われたり、癒やされたりしてんのかな〉と記した。
懸賞生活が始まって11か月がたった98年12月、歓喜の瞬間が訪れた。当選総額が100万円を超えた。お祝いで渡航した韓国で、地獄が待っていた。告げられたのは企画の続行だった。
「絶対に無理」。番組プロデューサーの土屋敏男さん(68)と3時間、押し問答が続いた。最後は自分が折れるしかなかった。「土屋さんが悪魔に見えた」。日本への旅費約8万円が新たなゴールに設定された。
孤独な戦いは突如、終わりを告げる。99年3月、何の説明もないまま、アイマスクと大音量が流れるヘッドホンを着けられた。長時間移動し、目隠しを取ると小さな部屋にいた。続行を覚悟し、服を脱いで裸になった直後だった。
四方の壁が外側に倒れ始める。急いで座布団で前を隠した。「おめでとう」。1000人の観客から、歓声と拍手がやまない。目標達成を祝うサプライズ演出。頭の中は真っ白で、座り込んだまま動けなかった。スタッフと一緒に船に乗り、日本に帰国していたことは後で知った。
今では、あり得ない企画だった。土屋さんも「あの時代だからこそできたし、今なら視聴者に受け入れられないだろう」と語る。ゴールシーンは、11年続いた電波少年の中で、一番思い出に残っている。「演出家としては至福の時だった。驚異的な忍耐力を持つなすびでなければ、成功はなかった」と話す。
古里支援のため「僕が奇跡を」
大学に復学し、両親にわびた。テレビに引っ張りだこになったが、求められるのは、服を脱ぐことや「当選の舞」といった懸賞生活の再現。やりたいのは裸で笑いをとることではない。原点に戻り、喜劇俳優を目指そうと思った。
「不信感しかなかった」。バラエティーの神様とまで思っていた土屋さんと距離を置いた。舞台を中心に活動を始め、2002年には仲間と劇団「なす
11年3月、仕事で千葉県にいた時、激しい揺れに襲われた。東日本大震災だった。生まれ育った地は原発事故にも見舞われた。ボランティアで役者仲間と福島県いわき市を訪ねたのは、1か月半後。一変した景色を前に、「自分にできることなんてあるのか」とうちひしがれた。
ロケでお世話になった海辺の食堂は、津波で流されて跡形もない。店主の女性が暮らす避難所を訪ねた。「来てくれて、ありがとう」と抱きつかれ、「自分も笑顔や元気を生み出せる。一生かけて福島に関わろう」と思い直した。
ボランティアで何度も訪れ、風評被害
「登山の素人の僕が奇跡を成し遂げれば、原発事故からの再生や大震災からの復興という未知なる挑戦への力になるはずだと思った」
登山隊を率いる国際山岳ガイドの近藤謙司さん(62)に協力してもらい、ネパールや国内で登山経験を重ねた。エベレスト登頂に必要な700万円の半分は、借金して用意した。