[掛布雅之物語]<18>「清原を取りたい」監督が交代、消えた一塁コンバート計画
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入団間もない頃、コーチだった安藤
選手寮に帰れば、自室の天井に書いた丸い目印を目がけ、ベッドにあおむけになってスナップを利かせてボールをぶつけた。
守備でも球界を代表する名手となった掛布は、1985年、三塁手で6度目のダイヤモンドグラブ(現ゴールデン・グラブ)賞を獲得する。「全てが無駄じゃなかったと。何かを省いていたら、こんな野球人生を歩めなかったかもしれない」
だが、掛布にもコンバートの話はあった。84年、監督だった安藤に、こう相談されたという。「清原を取りたい。そうなれば、一塁へ回ってもいいやろう?」
85年のドラフト会議で、大阪・PL学園の4番を打つ清原和博を指名し、三塁手として育成するという考えが、球団にはあった。安藤は言った。「(守備の負担が少ない)一塁なら、お前の野球人生も長くなるやろう」。結局、監督が吉田義男に交代し、この話は立ち消えとなったが、掛布は実際にファーストミットも用意していた。
日本一になった翌86年、掛布を相次ぐ試練が襲った。4月の中日戦で左手に死球を受けて親指の付け根を骨折、全治1か月の診断を受け、連続試合出場が663で止まる。復帰後も右肩負傷などで調子は上がらず、出場は13年間で最も少ない67試合にとどまった。(敬称略、随時掲載)