初代ミスタータイガース・藤村富美男「代打、わし」で逆転サヨナラ満塁弾…阪神90周年
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プロ野球の阪神タイガースは今年12月10日、球団創設90周年を迎える。今日の隆盛の礎を築いた一人が、発足時から名を連ねた「初代ミスタータイガース」の藤村富美男だ。戦前、戦後を通じてチームを支えた藤村の物語から、90年の歴史をひもときたい。
その長尺バットは「物干し
長男の哲也(77)によると、知人にゴルフに誘われた際、クラブのように先端が重く、長いバットなら打球が飛ぶと考えた。兵庫県西宮市の自宅の鏡はホームベースと同じ幅。その前でスイングを磨き、グリップをガラス片で削った。
32歳で迎えた1949年は、このバットで46本塁打。球団史「阪神タイガース 昭和のあゆみ」にはシーズン前に神奈川県鎌倉市の寺院で「どうか、この藤村にホームランのタイトルを授けてください」と願をかけたとあり、前年に川上、青田昇(巨人)が作ったプロ野球記録の25本を更新した。
50年に放った191安打は、94年にイチロー(オリックス)に破られるまでプロ野球記録だった。55年には史上初の通算200本塁打に到達。強い遠心力の影響か、グリップエンドにかけていた左小指は現役引退後も曲がったままだった。
広島県出身。地元の呉港中(現呉港高)時代、34年夏の甲子園大会決勝で熊本工(熊本)を2―0で破った。投手で先発し、巨人で「打撃の神様」と呼ばれる川上から3三振を奪った。
藤村は法政大進学を希望したが、球団が父親らを説得し、入団が決まった。後に三塁手となるが、当初は投手も兼ねた。プロ野球が始まった36年、初の公式戦、金鯱戦で3―0と完封勝ちし、球団1勝目を挙げた。
ただ、世間の関心は低かった。37年、日曜日の巨人戦でも観客が4437人。プロ野球の歴史に詳しい国際日本文化研究センター所長の井上章一は「人気があったのは東京六大学。プロ野球の社会的評価は高くなかった」と指摘する。
藤村の成績は39年に途切れる。兵役に就いたためだ。戦争の激化は球界にも影を落とし、巨人の名投手・沢村栄治、二刀流の伝説的選手・阪神の景浦
43年に復帰したものの、プロ野球は45年に中断された。球団史によると、戦後、帰郷していた藤村のもとへ球団から電報が届く。「スグカエレ」。活動再開を告げる内容に、再び野球ができる幸せで全身が震えたという。「(優勝を除き)プロ野球人生の中で最高の喜び、感激」として、この瞬間を挙げている。
「ダイナマイト打線」(46~49年)と称された強力打線の中軸を担い、48年にプロ野球初のサイクル安打を記録。53年には2日連続で満塁本塁打を放った。監督兼任の56年、現役最後の224本目のアーチを代打逆転サヨナラ満塁本塁打で飾った。「代打、わし」からの一発に、ファンは沸いた。
主力の移籍が相次いだが、藤村は58年に引退するまで阪神一筋だった。晩年、「俺は、それでよかったんや」と口にしたといい、哲也は「タイガースのため、という信念が強かった」。藤村は阪神を愛し、その藤村をファンは愛した。
引退試合は59年3月2日の巨人戦で行われた。かつて空席が目立った甲子園には大勢の観客が駆けつけた。最後の打席は一塁ファウルフライ。手を抜かなかった巨人に、「同情で打たせてもらうのは、ごめんだ。これでいい」と感謝した。
この飛球を捕ったのは、藤村と同じ年に引退した川上だった。巨人には前年に長嶋茂雄、阪神には59年に村山実が入団し、新しい時代が始まろうとしていた。
藤村の背番号10は球団初の永久欠番となった。「ミスタータイガース」の名を受け継いだ掛布雅之は「藤村さんから始まる歴史がなければ、今がないということは絶対に忘れてはいけない」。草創期を支えた「初代」に敬意を表した。(敬称略、平野和彦)
ドカベン「岩鬼」のモデル?
ふじむら・ふみお 1916年に生まれ、球団創設の35年に入団。右投げ右打ちで、闘志あふれるプレーで人気を博し、水島新司の野球漫画「ドカベン」に登場する岩鬼正美のモデルとされる。通算記録は1694安打、224本塁打、1126打点、打率3割。投手では34勝を挙げている。74年に野球殿堂入りし、92年に死去した。阪神でプレーした弟の隆男(呉港中)をはじめ、長男の哲也(兵庫・育英)、次男の雅美(兵庫・三田学園)、孫の一仁、賢(ともに三重・海星)、光司(育英)も高校時代に甲子園の土を踏んでいる。
◆ 俳優 渡辺謙さん 65
阪神の前ではただの野球小僧
熱烈な阪神ファンの俳優、渡辺謙さん(65)が読売新聞の取材などに応じ、思いを語った。(聞き手・細田一歩)
新潟県出身。ひかれたのは阪神だった。
「小学校高学年の頃、後楽園球場で巨人との試合を見ました。江夏豊、田淵幸一の黄金バッテリー。こんなすごいチームがなんで優勝できないんだと思った。『巨人、大鵬、卵焼き』の時代。周りは巨人ファンで、自分の中の反骨心に触れたのかもしれない」
初の朝ドラ 自身も節目の1985年
阪神の躍進は自身にとっても特別だった。
「球団初の日本一になった1985年は初めて出演した朝ドラ(の「はね駒」)を撮影している最中。自分も節目の年だった。励みというより、一緒にガーと突き進んでいる感じがしましたね。自宅の14インチのテレビで優勝を見届け、泣いていました」
俳優という職業にあって、阪神を応援する時は素の「渡辺謙」に戻るという。
「ただの野球小僧として見ていますから。観戦中は飲み物だけ。何も食べない。米国にいても、朝方にインターネット配信で試合を見ています。阪神がない生活は考えられないね」
昨年は甲子園球場が開場100周年、今年は球団が創設90周年を迎える。
「伝統って重いものではなくて輝かしいもの。こんなファンは世界中探してもいない。選手もファンも誇りに思ってほしい。毎年優勝しろとか、無理な注文はしないので、ファンが喜ぶエンターテインメントを見続けさせてくれれば」
藤川球児監督のもとで2年ぶりの優勝がかかる。
「(視察した2月の春季キャンプで)監督は『力んでいきます』と言ったんですよ。自ら現役時代のように『火の玉』の雰囲気で行くなら、選手も行くぜってなるんじゃないかな。僕も若い子には力んでこいと思いますからね」