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2021-12-11

アントニオ猪木夫妻“新宿伊勢丹事件”の真相を告白…タイガー・ジェット・シンが語った“狂虎の深層”<3>【週刊プロレス】

アントニオ猪木vsタイガー・ジェット・シン

 リングサイドで観戦していたインド人が山本小鉄を襲撃、型破りのヒールとして日本マットにデビューしたタイガー・ジェット・シン。狂虎の名を全国にとどろかせたのが、ショッピング中のアントニオ猪木夫妻を襲った事件だった。日本プロレス史に残る出来事だけあって、その裏側はこれまで数多く報じられてきたが、本人の口から語られることはなかった。それこそが昭和のプロレスラーでもある。だが今回は、その禁を破った。当事者が語った“新宿伊勢丹事件”……。
     
――TVがついたとはいえ旗揚げ以来、経営的に苦しんでいました。あなたの参戦によって目玉カードができて業績が大きくアップ。あなたは救世主的な存在だったと思います。当時、心掛けていたことはなんですか?

シン ビジネスで大切なのは信頼関係だ。相手がリスペクトしてくれたなら、それ以上のリスペクトを返す。イノキは私が何をしたいかを理解してくれた。サーベル、イス、テーブル……そこにあるものは何でも使って襲いかかった。もちろん手加減なんてしなかった。それがタイガー・ジェット・シンのイメージを作り上げた。それによって日本人は私を恐れた。本気で殴りかかてくるファンもいた。もちろん殴り返してやったけどな。

――ヒールに徹したことで危険な目に遭ったとも聞いてます。

シン イエス。ある時、日本のマフィアが私に拳銃を突きつけたことがあった。だけど私は恐れなかった。「私はタイガー・ジェット・シンだ。拳銃など怖くない」と言ったら、それから彼らは私のことをリスペクトしてくれるようになった。

――あなたを恐れるようになった大きな要因として、“新宿伊勢丹事件”が挙げられます。

シン それは私の人生においても忘れられないことだ。シンジュクのショッピングセンター(伊勢丹)の前には多くの人がいた。その中にいたイノキのワイフ(倍賞美津子)が私の姿を見つけた。ほかの日本人が私を見るのとは違った視線を感じてのでそっちを見た。その時点では猪木のワイフということは知らなかった。しかし、私に向かって何か言っていたから向かっていったんだ。そしたらイノキが現れた。場所がどこであろうと、イノキがいれば闘うのが当然だ。「リングで大暴れしているあのタイガー・ジェット・シンが尻尾を巻いて逃げた」なんて言われると、大きなイメージダウンになるからな。

――いきなり街中で猪木vsシンが始まったわけですから大騒動になるのは避けられません。

シン 大勢の人が集まって来たし、その騒ぎを見ようとタクシーも停まって交通がマヒした。叫んでる者もいたな。警官が駆けつけてきたので、私はタクシーに飛び乗った。そして「京王プラザ(当時、新日本の外国人選手の定宿だった)まで行ってくれ」と言った。だけどドライバーは恐怖で固まってきて、車を発信させなかった。

――狭い車内にいきなり興奮状態のあなたが乗り込んできたら、恐怖で身動き取れなくなって当然でしょう。

シン ラッキーだったのは、そのドライバーは怖がってたけどホテルまで行ってくれたこと。もしあそこで警官につかまっていたら、その後、日本での私の姿はなかった。

――現行犯で逮捕されていたら、その後は入国も許されなかったでしょう。

シン もう一つラッキーだったのは、京王プラザが一流のホテルだったこと。私がそこに泊まっているのを嗅ぎつけて警官がやってきたが、ホテルマンは彼らを部屋に通すことはしなかった。ホテルは宿泊客のプライバシーを守らなければならない。さらに警官の姿を見たマネジャーが「部屋から出るな」と伝えてきた。知らずに私がロビーに降りていったら、つかまっていたかもしれない。そしてイノキが事件として届けなかったこともまたラッキーだった。

――ただ、本来なら大きなイメージダウンになってもおかしくない事件です。

シン ショッピングセンター前での事件はビッグニュースとして伝えられたが、それによって私の名前は広まった。しかも、それほどの事件を起こしたことで、それまで活躍していたヒールの連中、つまりアブドーラ・ザ・ブッチャーやザ・シークのイメージを上回った。私は何をするかわからないクレイジーな男として、日本のファンに知れ渡った。

(つづく)

橋爪哲也

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 いまでこそ「ヒール」という言葉は一般にも浸透しているが、日本プロレス史においてタイガー・ジェット・シンほどのヒールは後にも先にも存在しない。ファンだけでなくマスコミの目が届くところでは徹底して悪役を貫き、全盛時には日本人すべてが彼に恐怖を抱き、憎んだといってもいいほどの大暴れを繰り広げた。

 “新宿伊勢丹事件”をはじめとする事件の裏側や彼の人となりに関しては多くのメディアで取り上げられてきたが、本人の口から真相が語られたことはほとんどない。そんなシンの貴重なインタビューを週刊プロレスのバックナンバーから発掘。“狂虎の真実”とは――。※週刊プロレス2011年3月9日号(No.1567)掲載。


――まず、あなたの生まれ育った環境を聞かせてください。どんな家族構成でしたか?

シン 兄弟は6人。一番上に姉がいて、その下に4人の兄弟。一番下は妹だ。私は4番目の子供で、三男になる。

――インドは貧富の差が激しいと聞きますが、あなたの家庭は?

シン 父が会社を経営していたし、貧しいことはなかった。そのままインドにいてもいい暮らしができていただろう。

――幼少期はどんな子供でした?

シン 勉強もしたし、スポーツもした。レスリングは子供のころからしていた。だけどマットの上じゃなく、マッド(泥)の中でのレスリングだった。とにかくチャレンジすることが好きだったから、レスリングのほかにもサッカーやグラスホッケー、ハンティングなど、ほとんどが外でするスポーツだった。レスリングも屋外でしていた。

――インドでプロレスラーとしてデビューしたんですか?

シン ノー。プロレスラーになったのはカナダに来てからだ。

――カナダに移住したのはなぜ?

シン 国外でチャレンジしたかったというのが一番の理由だ。しかしアジアのほかの国はまだ発展してなかったし、アメリカはすでに多くの人が成功のチャンスをつかみに行っていた。カナダはアメリカと比べると若い国で、チャンスが残っていると思ったからだ。

――なるほど。ちなみにカナダに渡ったのはいつですか?

シン 1965年。カナダに到着した時、私のポケットには6ドルしかなかった。

――6ドル! 一日を過ごすにも困る金額ですよ!

シン だからすぐに稼ぐ必要があった。その後、フレッド・アトキンスのコーチを受けるようになったんだが、アトキンスの練習は厳しかった。スクワット何千回、プッシュアップ何百回……それを毎日続ける。私はアトキンスに5年間師事したが、これほど長く続いたレスラーはいなかったんじゃないか? ほとんどのレスラーは彼のもとを飛び出した。ジャイアント・ババもアトキンスのコーチを受けたと聞いたが、5年もいっしょに練習したわけじゃないだろ?
(つづく)

橋爪哲也

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