西城秀樹さん63歳で逝去後も人気衰えず…少年時代、廊下に立たされた同級生に「一緒に職員室に謝りに行ってやるけぇ」
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1969年生まれの記者は子どもの頃、西城秀樹さんの「激しい恋」の振り付けに目を奪われ、「傷だらけのローラ」「炎」の熱唱に魂をつかまれた。本名・
広島駅近くで育ち、同市東区の市立尾長小、市立二葉中へと進んだ。秀樹を「たっちん」と呼ぶ小、中の同級生小原潔さん(70)は「毎日どうやって友達を笑わせるか考えていた人気者」と話す。模型店のおっちゃんらの物まねはピカ一。笑い転げると何度もやってくれる。運動神経が抜群で、潔さんの妻和子さん(70)は小6の時、逆上がりを教わった。
中学時代は新しい洋楽が続々上陸し、共に音楽に没入した。「たっちんはロック、私はフォーク。学校の廊下で『今、何を練習しとるん?』と尋ね合った」と潔さん。中3の校内でのお別れ会は、後に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員となる数学教師・坪井直さん(2021年死去)が司会を務め、ドラム担当の秀樹がビートルズの「オー!ダーリン」を歌い始めると、生徒たちからどよめきが起きた。
潔さんは16歳の時以来、秀樹に会っていない。東京でデザイン会社を経営後に帰郷。60歳の時、母校近くで和子さんとお好み焼き店を開いた。秀樹が2度の脳
秀樹の少年時代を聞きに来たファンらに語る。「買い食いが先生にばれ、私が廊下で立たされた。たっちんはひとしきり笑って『一緒に職員室に謝りに行ってやるけぇ』と。芸能界で長く続けられたのも、そういう優しさがあったからでは」
2018年に63歳で逝ってからも秀樹の人気は衰えず、ファンに戻った〈ブーメラン組〉や新規も少なくない。30年以上支えたマネジャーでプロデューサーの
「とにかく歌がうまかったと、失って初めて気づいた人も多い。洋楽のリズムに日本語を乗せるうまさは努力のたまもの」と片方さん。広島は秀樹の音楽性、メッセージ性を下支えしたようだ。
中学時代、山口県岩国市の米軍基地でもバンドで歌っていた。英国のレッド・ツェッペリンが1971年、たっての希望で被爆者へのチャリティー公演を広島で開くと、秀樹も会場に駆けつけた。
中国などアジアを巡る教科書問題が起きた82年、ライブ先の香港で、現地メディアに問われた秀樹は「原爆が落とされた広島の出身だからこそ、平和への思いは強く、海を越えて愛の歌を歌っている」と訴え、拍手を受けたという。
病を得た後も、ステージに立とうと家族の支えでリハビリを続け、苦悩や葛藤を著書「ありのままに」につづった。「飾らず、隠さず、気どらず、そのままの自分でい続けることが一番かっこいい、と今のぼくは思っている」。秀樹の歌は、燃やし続けた一生一度の命そのもの。だから今も、人々の心をとらえて離さない。(西堂路綾子)