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2025-02-05

追悼・吉田義男…縦縞一筋70年! 巨人軍・馬場正平一軍初登板の第一打者。結果は…【週刊プロレス】

読売ジャイアンツ時代の馬場正平

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元阪神タイガース吉田義男が2月3日、脳梗塞のため亡くなった。

91歳。昭和3度のリーグ優勝(1962年、1964年、1985年)を選手、監督として平成、令和(2003年、2005年、2023年)3度のリーグ優勝は解説者としてすべて経験している。

1952年暮れ、立命館大学を中退してタイガース入団。初年度の1953年は遊撃手として38個のエラーを記録したが、松木謙二郎監督が根気よく起用して128試合に出場。その後、守備に磨きをかけ“今牛若丸”と称されるようになる。

誇りに思っている記録はシーズン192併殺守備機会。「まだ破られてないと思います。僕ひとりでやったわけやないですけど。それだけピポットマンだった白坂長栄さんの受け皿が良かったわけで。近代野球ではダブルプレーが取れるかどうかは大きいですからね。あんまり人は言わんけど、僕の自慢やと思います」

守備ばかりクローズアップされがちだが、1954年のシーズンには51個、1956年には50個の盗塁を決めタイトルを獲得。1964年のシーズンは6月まで首位打者を走る活躍で優勝に貢献した。

江夏豊が稲尾和久が持つシーズン最多奪三振記録(353)を塗り替えたゲーム(1968年9月18日)では、江夏のヒットでさよならのホームを踏むなど、タイガースにとって節目節目で活躍した隠れた名優でもある。

そんな吉田だが、プロレス界との接点がある。それは1957年8月25日、甲子園球場でおこなわれた読売ジャイアンツとの公式戦。一軍初登板となった馬場正平投手(のちのジャイアント馬場)の相手、それも第一打者として打席に立ったのだ。

「(阪神が)ボロ勝ちしてて、巨人の水原茂監督が8回に登板させたんですわ。2メートルを超える大きな男と、165cmの小柄な私。まあ、試合の大勢が決まってるので、ファンサービスだったんでしょうな。2階からやなくて、それこそ天井から投げてくるって感じで、球も速かった。2球で2-0(今でいう0ボール2ストライク)に追い込まれて。セカンド正面にいい当たりのゴロを打ったの覚えてる。その回、三者凡退やったんちゃうかな」と当時のことを述懐した。

長く「タイガース唯一の日本一監督」と紹介されてきたが、そのたびに「早くそう言われんようにしてください」と言い続けてきた。2023年、岡田彰布監督の下、2度目の日本一に輝いた時は、一番に祝福の電話を入れた。1985年のV戦士が率いたチームだっただけに、喜びもひとしおだっただろう。

タイガース入団以来、臨時コーチとして中日ドラゴンズに呼ばれたことこそあるものの、具体的な条件を提示されながらも正式なコーチ就任は拒否。1989年から1995年はフランスで野球の普及に努めたが、70年以上、縦縞一筋で通してきた一番の阪神ファンであった。(文中敬称略)

橋爪哲也

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週刊プロレスNo.2341 (2025年2月19日号/2月5日発売) | 週刊プロレス powered by BASE

今週号の表紙はスターダム後楽園大会で鈴季すずを破りワールド王座V1に成功した上谷沙弥です。昨夏にH.A.T.E.入りしてヒールターンした上谷はいま支持率急上昇中。試合リポートだけでなく、編集長が各団体のチャンピオンにインタビューする不定期連載「王者に問う」の初回ゲストにも登場します。巻末言では岡田太郎社長にスターダムの昨年総括と今年の目標を聞いています。元日の日本武道館大会でGHCヘビー級王座最速戴冠を果たした、いま注目のNOAHのOZAWAを特集して徹底解剖。本人インタビューや清宮海斗の証言、技解説など多角的に魅力に迫ります。NOAHは八王子大会の試合リポートもあり。新日本は大阪ビッグマッチへ加速。ザックvs後藤のIWGP前哨戦中心に仙台大会リポート。またいまが旬のゲイブ・キッドへインタビュー。新日本に対するこだわりを深く聞いています。今週号はほかにもインタビュー企画が充実。全日本の青柳兄弟、年明け早々大一番3連敗のSareee、マリーゴールドの新タッグ王者・高橋奈七永&山岡聖怜、GLEATの新G-REX王者・石田凱士ほか、注目の王者や選手をクローズアップ。そのほか馬場追善・後楽園、ドラゲー京都、GLEAT名古屋、大日本・新木場、FREEDOMS板橋、エボリューション新宿、ガンプロ新木場、2AW千葉など掲載。【注意】発送後の返品・返金は原則不可とさせていただきます。送料は無料ですが、第三種郵便での発送となります。約1週間でのお届けとなります。土日祝日の配送がありません。また、事前に購入されても発売日にお届けすることは、お約束できません。ご了承ください。

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2024-11-14

若手時代のジャイアント馬場のアメリカでのギャラは1試合600万円!【週刊プロレス】

1963年、日本プロレスのホープ時代の馬場

週刊プロレスでおなじみのプロレス評論家・流智美さんがジャイアント馬場の知られざる歴史を堀り起こす書籍『馬場戦記 第1巻 世界進出編』(ベースボール・マガジン社)が好評発売中だ。

ジャイアント馬場(当時、馬場正平)はデビューからわずか9カ月後の1961年7月、アメリカ武者修行に出発。日本プロレスの新人としては破格のスピードだった。9月18日にはエンターテインメントとスポーツの“殿堂”マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)に初登場。ニューヨーク地区を仕切る大プロモーターのビンス・マクマホン・シニアは、身長2m9cmで天才的レスリング・センスを誇る東洋人ヒールを「この男はトップスターになる」と判断し、その後もMSG大会に馬場を定期起用していく。
書籍『馬場戦記 第1巻 世界進出編』
マクマホンの見立てどおり、馬場はアメリカマットで大人気を博し、1964年2月17日には師匠の力道山も成し得なかった、日本人レスラー初の大偉業となる「MSGのメインイベント出場」を果たした。そこではWWWF世界ヘビー級王者に君臨する“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノに挑戦して惜敗。この1試合のギャラは3800ドル(当時の邦貨で約137万円。現在のお金に換算すると300~600万円程度)。これは当時のプロレスラーのワンナイトの稼ぎとしては全米ナンバーワン・レベルだったと思われる。日本のエースに定着する以前、キャリアわずか数年ながら、馬場は間違いなくアメリカのスーパースターだった。

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ジャイアント馬場が決起軍を強制解散「全然、決起していない」【週刊プロレス昔話】

私服姿の決起軍

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