<4>歓喜の街 復興を象徴
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1975年 カープ初優勝
躍動する選手たち、熱狂するファン、そして歓喜に沸く広島の街――。動画投稿サイト「ユーチューブ」に、「栄光の赤ヘル75」と題された映像がある。原子爆弾の惨禍から30年間、広島の人々が復興への心の支えにしてきた広島東洋カープが1975年、セ・リーグ初優勝を遂げる。その様子が克明に記録されている。
この年就任したジョー・ルーツ監督の発案でヘルメットを紺から赤に変え、チームの代名詞「赤ヘル」の呼称が始まったこと、ルーツ監督がわずか15試合で辞任し、古葉竹識監督に交代したことなどの紹介で始まる。
10月10日、広島市民球場でのヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)戦でマジック3が点灯。15日に後楽園球場での読売巨人軍戦でリーグ優勝を決め、20日の約30万人が集まった平和大通りでの優勝祝賀パレードまでが、約20分にまとめられている。
ファンは様々な優勝祈願をしている。「中でも出色」と紹介されているのは、街頭で白い布に赤いボタンを縫い、巨大な赤ヘルを描いた応援旗を作る「千人ボタン」。戦時中、出征する兵士の武運を祈った「千人針」を基にしたアイデアだ。
ほかにも、試合が雨天中止となっても傘をさして練習を祈るように見守るファンや、東京での優勝の瞬間を見るため「広島そごう(現・そごう広島店)」に設けられたテレビの前でしゃもじを持って応援する市民。優勝が決まると街のあちこちで祝い酒が振る舞われるなど、市民の表情や街の雰囲気が捉えられている。
映像を制作したのは、広島市西区横川町で開業医をしていた松原博臣さん(2003年に82歳で死去)。カープの選手寮が近かった縁でチームドクターになった。診療は無料で引き受けたという。
松原さんは、8ミリフィルムの愛好家でもあった。国内で大衆機が発売された翌年の58年、約20人の仲間とアマチュア映像作家集団「広島エイト倶楽部」を創立し、会長となった。広島の文化や原爆と平和をテーマに数々の映像作品を作り、国内外の賞に輝く傍ら、愛するカープを撮り続けた。
選手の打撃フォームを撮影し、自宅の編集機でスロー再生して見せるなど、技術の向上にも貢献。球団から絶大な信頼を得て、キャンプに同行して選手が入浴したり、新婚の妻に電話したりする様子まで“密着取材”が許された。
3代目会長の佐々木博光さん(89)(広島市安佐南区)によると、松原さんは医院の切り盛りを医師だった妻に任せっきりにし、ほぼ毎試合、市民球場のバックネット裏に陣取ってビデオを回していた。
メンバーで分担して、ベンチのサインワークやスタンドのファンの表情を撮影。100本単位のフィルムを米国に送り現像した。「病院が1軒建てられるくらいの金を映像に使った」と、同会で語り草となっている。
映像の中で、試合中の大乱闘を「いいことずくめの今年のカープにとって、たった一つの苦い出来事」と振り返るシーンが出てくる。審判の判定に不満をあらわにする相手の選手と、きびきびとフェアプレーに徹するカープの選手を対照的に描く場面もある。佐々木さんは「唯一の市民球団として、県民に恥じない振る舞いを心がける選手を誇りにしていたと思う」という。
50年の結成後、選手たちは、資金難から遠征時に列車の床に新聞紙を敷いて寝るなどのハンデに負けずに戦った。被爆から立ち上がった市民が自らの苦難を重ね、ようやく喜びを共有できた象徴的な年だったと言える。映像はこの言葉で締めくくられている。「赤ヘルは75年を、広島の人たちにとって忘れられない明るい年にしてくれた。あれから30年の、この年に」(池尻太一)