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「1本の矢はたやすく折れるが、3本束ねれば折りがたい」。一代で中国地方の大半を統べる戦国大名に成り上がった毛利元就(1497~1571年)が臨終の際、枕元に長男・隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景の3子を呼び寄せて結束を言い聞かせた――。世に知られる「三矢の
三矢の訓に詳しいヌマジ交通ミュージアム(広島市交通科学館)主任学芸員の玉置和弘さん(53)によると、元就が亡くなった当時、隆元はすでに死去し、元春は出陣中。立ち会えたのは隆景だけだったはずなのだ。
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では、三矢の訓はどこから生まれたのか。
江戸幕府の重臣・酒井家に伝わる「前橋旧蔵聞書」は、元就が死出の旅を前に多くの子らを集め、「たくさんの矢を束ねると折れない」と説いたとしている。隆元、元春の名はなく、隆景だけが登場する。矢は3本ではないが、三矢の訓の原型とも見て取れる。
明治期になると、修身の教科書にこの言い伝えが載るようになった。子どもたちや矢の数が集約されていき、昭和初期に「3人の子と3本の矢が登場する話」として三矢の訓が定着していったとみられる。
実際に、元就が3人の息子に強い絆を求めた史料も存在する。元就自身が1557年にしたためた「三子教訓状」と呼ばれる書状だ。長さ約3メートルに及ぶ巻紙に、3人に宛てた14か条にわたる教訓が示されている。
教訓状には「3人の仲が疎遠になったら、もう3人は滅亡するしかない」などと記され、兄弟が一致団結して毛利家をもり立てていくよう諭している。玉置さんは「一族の結束が重要だというのは、毛利家の家訓だった」と指摘する。
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史実とは違いがあっても、力を合わせることの大切さを訴えた元就の思いは「三矢の訓」に織り込まれ、現代に受け継がれている。
元就の本拠地だった安芸高田市の郡山城跡には、1956年に三矢の訓跡碑が完成し、顕彰されている。城跡の麓の市立吉田小も73年に創立100周年を記念し、校内に三本の矢をかたどった碑を設置した。
サッカー・J1のサンフレッチェ広島のチーム名は、日本語の「3」とイタリア語の「フレッチェ(矢)」に由来する。元就にあやかり、一致団結して勝利を目指している。