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牛40頭見捨てる決断 「牛さんは家族同然だった」
石碑に一言だけ彫られた「無念」の文字が、
電話で市役所や獣医師に報告し、獣医師からはこう言われた。
「無念です」
自分も同じ思いだった。牛たちにエサはやっていかなかった。エサをやると乳が出る。でもその乳をしぼってやることはできずに、乳房がはれて痛くなる。その方がかわいそうだと考えた。1週間くらいできっと戻れる。何頭かの子牛は生き延びるだろう。しかし見通しが甘かったことが、だんだんはっきりしてくる。
1か月ほどたち、親戚の結婚式に出るのに必要な礼服を取りに行くため、一時帰宅した。自宅と牛舎はすぐそばだ。牛舎からは牛の声がした。ああ、生きているのもいるな。礼服を取ると、牛舎を見ることもなく逃げるように戻った。牛に合わせる顔がなかった。
牛がどうなったか確認したのは、その年の6月のことだ。防護服を着て、役場の職員を案内するために自宅に入った。牛舎のシャッターを開けたら、真っ黒な物体があった。ギンバエがたかっていた。「これが自分が40年間やってきたことか」。柱は、飢えた牛たちによってかじられていた。涙も出なかった。
酪農の仕事は朝早くから夜遅くまでかかる。冬は夜明け前から働くため、自宅から牛舎に行くのに懐中電灯で足元を照らした。エサをあげて搾乳して、昼もエサをやり、夜も搾乳して、午後9時のニュースを見て1日が終わる。お産があると、夜中でも1時間おきに牛舎に様子を見に行く。今はもう牛はやめた。近くの牧場に手伝いに行ってトラクターに乗ると、昔に戻ったようでうれしいと言う。「牛さんは家族同然だったよ」
だからこそ、自分たちの手で餓死させるのはしのびなかった。「やってはいけないことをしてしまった。一番ひきょうなことをした」。半杭さんは柔和な笑顔で自分を責め続ける。
100年先にその思いを伝えないといけない。原発事故はこういうことになると孫の代に伝えないといけない。2016年9月、自宅敷地内に石碑を建てた。あのときの獣医師の言葉が浮かんだ。自分の気持ちそのものだった。
ではやはり原発には反対なのか。記者が問うと、半杭さんは首を横に振った。「酪農というのは、電気仕掛けなんですよ。搾乳もフンの処理も絞った牛乳を冷やすのも、全て電気がないと動かない。原発でも静電気でもいいから、電気は欲しい」。ちょっとおどけて言ってみせ、こう付け足した。「事故がなければそれでいい。あんな思いは二度としたくない」(山口優夢、随時掲載します)