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日本がアメリカの占領下にあった1949年、初代国鉄総裁・下山定則が47歳の若さで命を落とした「下山事件」。自殺か他殺かの結論さえ出ていない下山の死に、残された家族は何を感じていたのだろう。他殺とみていた東京地検の捜査書類とみられるガリ版刷り資料(足立区立郷土博物館所蔵)には「自殺ではない」とする 下山の妻の証言 が載っている。妻の言葉は、自殺説を掲げていた警視庁捜査一課の捜査報告書とされる「下山白書」にも載っているが、そこにはガリ版資料と全く違うことが書いてある。発言をきちんと記しているのは一体どちらか、二つの文書を読み比べてみたい。
GHQ中佐の押し掛けを「総裁は気にしていなかった」…ガリ版資料
妻の名は、「よし子」「芳子」など文献によって表記がまちまちだが、読売新聞に掲載された訃報には「下山よし」とある。下山事件から33年後の1982年9月14日に77歳で死去した。下山からみて実兄の妻の妹にあたる女性だ。「下山総裁の追憶」(下山定則氏記念事業会)という文献には、こう紹介されている。「香蘭高等女学校卒業の才媛である。芳子夫人が女学校に通われる頃は高木家(注・実家)は高輪に立派な邸宅を構えて裕福な生活をされており何不自由のない御身分であつた。十三年(注・大正)の春頃より下山氏と相識る仲となり十四年十二月婚約、昭和二年五月二十日東京会館に於て目出度華燭の典を挙げた」
さて、東京地検の捜査資料とみられる ガリ版資料(8)「自殺に非ずとする下山総裁夫人の供述」 を読んでみよう。機関車に体をれき断された下山の死を、妻が他殺と信じる根拠が挙げられた文書だ。▽夫はいい家柄の出である▽健康状態が良好だった▽家庭内で異常はみられなかった▽極度におびえている様子はなかった▽仕事上の失敗もない▽遺体に不審点がある――の6項目が並んでいる。
このうち、もっとも長い文章が載っているのは下山の健康状態だ。妻の供述によると、事件の1か月ほど前に測った下山の体重は十九貫八百匁(約74キロ)で、事件当日まで痩せた感じはなかった。睡眠剤を時々服用していたが、食欲は良好で、事件当日の朝もいつも通り食べた。ビタミン注射を打っていたが、これは家族が勧めたものだった。最近は家族で談笑しなくなったが、このほかに疲れを感じさせるものはなかった、としている。
下山は事件当時、連合国軍総司令部(GHQ)と日本政府から命を受け、10万人に及ぶ国鉄の人員整理、すなわち「リストラ」に取り組んでいた。その死を自殺とみる説は「人員整理問題で精神不調に陥っていた」ことを前提としている。下山の健康状態が妻の言葉通り「良好」だったのであれば、自殺説は前提から揺らいでくる。
「仕事上の失敗もない」という主張は、 ガリ版資料の原文 ではこうなっている。「仕事の上で失態を演じた様な事はなかったと思う。七月三日の午后十二時頃、C.T.Sのシャグノン中佐が一人で総裁邸へ来て此の重大時期(首切発令前の意味)に役所に幹部が一人も居ないのは何事かと難詰したそうであるが之は了解を得たので別に総裁は気にして居なかった」
妻の言う「CTS」とは、GHQの一部門「民間運輸局」の略称で、CTSの責任者がドン・シャグノン中佐だ。国鉄の大規模リストラについて、直接指図できる立場にあったシャグノン中佐が、下山事件2日前の真夜中に家まで押しかけてきたというのだから、かなりの難局ではあったはずだ。さまざまな文献にも載っている出来事で、自殺説をとる人々は下山の精神不調の一因に挙げる。だが、「了解を得たので別に総裁は気にして居なかった」と妻が話す通りであれば、自殺とは結びつかなくなる。