今とそっくり?猛暑、豪雨、台風に怯えたあの時代

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台風21号の影響で関西国際空港の連絡橋にタンカーが衝突
台風21号の影響で関西国際空港の連絡橋にタンカーが衝突

 2018年の夏、日本列島は常識外れの天候に 翻弄(ほんろう) され、「これまでに経験したことがない」というフレーズが繰り返された。早い梅雨明け、西日本豪雨、そして災害級の猛暑があって、9月初旬までに全国202地点で史上最高気温を観測した。8月には台風が9個も発生したかと思えば、「非常に強い勢力」の台風24号が列島を縦断し、25年ぶりに「非常に強い勢力」の台風21号が関西国際空港を水浸しにした。同じ月に「非常に強い」台風が二つも上陸するのは極めて異例だという。

 猛暑や台風の要因には地球の温暖化があげられている。国立環境研究所地球環境研究センターの江守正多・副センター長は「温暖化は台風のエネルギー源である水蒸気を増やすため、強い勢力で雨量が多い台風が増える」と解説する。

 名古屋大学の坪木和久教授の推定では、温暖化が進めば、今後、中心の気圧が850~860ヘクトパスカル、最大風速80~90メートルに達するスーパー台風が発生する可能性もあるという。過去にはいくつもの台風が日本で猛威をふるったが、インフラの整備や防災対策が進んで人的被害は減ってきている。だが、スーパー台風が増えれば、再び被害が拡大に向かう恐れもある。

温暖化進み「千年猛暑」到来か

 温暖化に伴う異常気象は、これまでにもあったのだろうか。二酸化炭素などの温室効果ガスが急増するのは産業革命以降だが、太陽の活動が活発で、地球規模で温暖化していた時代は過去にもあったとみられている。南極の厚い氷を切り出し、時代ごとに含まれる放射性炭素の量などを測定するなどして、過去の太陽活動の推移もある程度、分かってきた。

 地球規模の気候変動は、当然、日本にも影響したはずだ。古文書や日記には氷の張り具合、花の開花時期や農作物の作柄などの記述がある。宮中行事の観桜会は満開にあわせて行われ、開催日を追えば春の訪れが分かる。伐採された樹齢1000年を超える屋久杉の年輪や、8000年にわたって堆積してきた尾瀬ヶ原の泥に含まれる花粉の量などを分析し、記録と照らし合わせれば、日本が温暖化していた時期もおおまかに推定できるという。

 縄文時代以降の寒暖の傾向を示すと、図のようになる。時代をさかのぼるほど推定は難しいが、有史以来では奈良時代から鎌倉時代前期までは一時期を除いて暖かい時代が続いていた。世界的に8~13世紀は「中世温暖期」とされており、傾向はほぼ一致する。

 暖かい時期は西日本を中心に干ばつが起き、台風やゲリラ豪雨が増える。地球規模の気候変動に連動していれば極地の氷が減って海面が上がっていただろう。気象予報士の森田正光さんは、ここ数年の猛暑を1000年ぶりという意味で「千年猛暑」と呼んでいる。この時期の平均気温は、温暖化が進む今より高かったという説もある。確かに1000年前の平安中期の記録を見ると、今の気候と似ていると思わせる出来事がある。

 延長8年(930年)は日照りで干ばつが続き、宮中では雨乞いの儀式を計画した。内裏で儀式について会議が開かれることになったが、猛暑の中を天皇や貴族が集まっていたところに内裏に落雷があり、大納言の藤原清貫(867~930)ら5人が死亡する「清涼殿落雷事件」が起きた。

 今の暦で7月末の出来事というから、ゲリラ的に激しい雷雨がきたのだろう。清貫は大宰府に左遷された菅原道真(845~903)の動向を監視していたため、落雷は道真のたたりとされ、道真は天神(雷の神)として (まつ) られた。

紫式部の驚くべき気象観察力

 紫式部(生没年不詳)が、光源氏を主人公にした『源氏物語』を書き上げたのは長和元年(1012年)ごろとされている。当時、吹き荒れる暴風は「 野分(のわき) 」と呼ばれていたが、物語には「野分」の (じょう) がある。気象予報士の石井和子さんは『平安の気象予報士 紫式部』の中で、野分の記述は式部が体験した台風をもとに書かれているとみて、その台風がどんなものだったのかを推理している。

「野分」の挿絵(塚本哲三編『源氏物語巻2』国立国会図書館蔵)
「野分」の挿絵(塚本哲三編『源氏物語巻2』国立国会図書館蔵)

 急に吹き出した風で六条院・南御殿の庭に咲き誇っていた秋の花が散ったとあるから、時期は9月か10月。前日の昼間から吹き始めた風がだんだんと強くなり、一晩中もみぬいたとあり、典型的な「風台風」とみられる。源氏の息子、夕霧の祖母が「この年になるまで経験したことのないはげしい野分」と話し、「大木の枝が折れ、家々の瓦が飛び、離れの建築物が倒れそうだった」とあるから、台風の規模は大型。中心付近が通過した京都は、少なくとも風速25メートル以上の暴風域に入ったようだ。

 強風を受けて御殿の 屏風(びょうぶ) は片づけられ、目隠しがなくなって御殿は部屋の中まで丸見えだった。屋敷のそばを通りかかった夕霧は、中にいた紫の上を見てしまう。夕霧は源氏と (あおい) の上(すでに死去)の間にできた子だったが、源氏は自身が義母(藤壺)と関係した経験からか、紫の上を夕霧に一度も会わせなかった。案の定、紫の上を見た夕霧はその美貌が頭から離れず、一睡もできずに過ごす。外の風の音が聞こえる暗闇の中、眠れずにひとり 悶々(もんもん) と過ごす夕霧の姿が目に浮かぶようだ。

 石井さんは、「今年の野分は例年よりも荒々しく、たちまち空の色を変えて吹き出した」「日が暮れるにつれ、物も見えないように吹き荒れる風」「 丑寅(うしとら) (北東)の方より吹き () べる」などの記述から、「野分」のコースや規模は、昭和9年(1934年)に日本を襲った室戸台風によく似ていたとみている。その上で「台風の特徴や進路まで推測できるほどの科学的な描写は、現在の気象予報士顔負けだ」と、式部の気象センスと観察力に舌を巻いている。

真夏にも「十二単」の誤解

 ただ、四季折々の自然の描写については、『枕草子』を書いた清少納言(?~1025)の方が先輩だ。『枕草子』にも、猛暑の中、宮中でかき氷を食べた記述がある。夕霧が紫の上を見てしまったのは、当時の貴族の屋敷に壁がなく、風通しがいい (すだれ)()(ちょう) で仕切られていただけだったからだが、この「 寝殿造(しんでんづくり) 」も温暖化した気候の産物という説もある。

百人一首に描かれた紫式部(右)と清少納言(菱川師宣筆『小倉百人一首』、国立国会図書館蔵)
百人一首に描かれた紫式部(右)と清少納言(菱川師宣筆『小倉百人一首』、国立国会図書館蔵)

 貴族の衣装といえば「十二 (ひとえ) 」が目に浮かび、「暑いのになぜあんなに重ね着をするのか」という疑問が湧くかもしれないが、十二単は女性の正装の総称で、いつも十二枚の重ね着をしたわけではない。平安時代の絵画などに登場するのはむしろ薄着が多く、『源氏物語』にも、シースルーのような薄着をした娘がはしたないと怒られるくだりがある。

 ちなみに紫式部と清少納言は顔を合わせたことはないが、式部は清少納言について「得意顔して偉そうにしていた。利口ぶって漢字などを書き散らしていたけれど、たいしたことはない」(『紫式部日記』)と激しくライバル視している。どちらが優れているかはさておき、花鳥風月に込めた情感や優雅な描写を競いあったことが、優雅な宮廷女流文学が花開いたことは間違いない。それはまた、温暖な気候のたまものかもしれない。

平家滅亡にも気候が影響?

 平安時代末期に再び訪れた温暖期に繰り広げられた源平合戦にも「気候の変化が勝敗を分けた」というさまざまな仮説がある。

平清盛(『絵入豪傑列伝日本歴史下』国立国会図書館蔵)
平清盛(『絵入豪傑列伝日本歴史下』国立国会図書館蔵)

 このころ、西日本は養和の 飢饉(ききん) と呼ばれる干ばつに苦しんでいた。だが、緯度が高い東日本は干ばつより冷害による影響の方が大きく、源平合戦が始まった頃は東西で農業生産力に差がついていた。治承4年(1180年)の富士川の戦いでは、平氏軍が鳥の水音に驚いて敗走したとされるが、実際には東日本を拠点とする源氏軍と比べ、西日本から遠征してきた平氏軍の兵糧が乏しかったことが原因だった、との見方がある(荒川秀俊『お天気日本史』)。

 劣勢のさなか、平清盛(1118~81)が死去した熱病は、温暖な気候でしか流行しないマラリアだったという説が有力だ。寿永3年(1184年)の一の谷の戦いで、源義経(1159~89)率いる源氏軍は、背後の山から平氏軍を襲う。「 鵯越(ひよどりごえ) の逆落とし」と呼ばれる奇襲に不意を突かれた平氏軍は敗走するが、宇宙物理学者の桜井邦朋さんは、応戦態勢がとれなかったのは、当時の海岸線が狭かったためとみている。事実とすれば、平氏の急速な衰退には温暖気候が関係していたことになる。

稲村ケ崎海岸に黄金の太刀を投げ入れる義貞(『新田義貞一代記』国立国会図書館蔵)
稲村ケ崎海岸に黄金の太刀を投げ入れる義貞(『新田義貞一代記』国立国会図書館蔵)

 平氏を滅亡させた源氏によって鎌倉時代が始まるが、気候は鎌倉後期から寒冷化する。新田義貞(1301?~38)は正慶2年(1333年)、稲村ヶ崎の海中に黄金の太刀を投げ入れて祈願し、海岸線に道を開いて鎌倉に攻め入り、幕府は滅亡した。気象予報士の 田家(たんげ) 康さんは『気候で読み解く日本の歴史』のなかで、「海面水位が高かった時代に作られた鎌倉防衛のシステムが、海面水位の低下の中で機能しなくなっていたのではないか」と推測している。

異常気象が試す「政治の力量」

 異常気象に対する対応は、時の政治の力量を示す。田家さんは、鎌倉幕府の執権・北条泰時(1183~1242)が御成敗式目を制定したのは、寒冷化による日本最大の飢饉ともいわれる寛喜の飢饉に直面し、過酷な年貢収奪や不法行為を禁じるためだったとみる。一方で江戸時代の5代将軍徳川綱吉(1646~1709)は、元禄の飢饉のさなかに「生類 (あわれ) みの令」を出して肉食を禁じ、10万両近い金を「お犬様」の飼育に投じて庶民をいっそう苦しめた。

 国連の気候変動に関する政府間パネル(ICPP)は「地球温暖化がこのまま進めば2030年にも世界の平均気温は産業革命前より1.5度高くなる」とする特別報告書を公表した。異常気象が今後「異常」ではなくなれば、これからの日本の社会も、それを前提に変わらなければならない。亜熱帯の果樹への作付転換や鉄道の「計画運休」などはすでに始まっているが、防災に強いまちづくり、大規模災害からの復旧・復興支援、100万人単位での広域避難などは、国が主導しなければ進まない。政治の力量が試される。

余話 紫式部と藤原道長の関係は?

 紫式部は古くから左大臣の藤原道長(966~1028)との関係が詮索されてきた。道長といえば「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」の歌で知られる当時の最高権力者だが、貴族の来歴を記した『 尊卑(そんぴ)分脈(ぶんみゃく) 』の式部の項には「 御堂(みどう) 関白道長妾」という注記があり、二人は愛人関係にあったという説すらある。

確かに式部は道長の依頼で道長の長女・ 彰子(しょうし) (988~1074)に仕えている。道長は式部に紙や硯を贈って式部の執筆活動を支援し、物語の続きを書くよう促す手紙も出していたという。

 ただ、これには彰子を一条天皇(980~1011)の中宮(皇后)にするという別の狙いがあったようだ。彰子に中宮にふさわしい教養を身につけさせるため、道長は優秀な“家庭教師”を探していた。道長が源氏物語の執筆を支援したのも、続きを書けば、源氏物語を愛読していた天皇が物語の続きを読むため式部のもとを訪れ、彰子と接する機会が増えると考えたからではないか。

 もっとも、『紫式部日記』には、道長が式部の寝所の戸口をたたいたり、式部に言い寄ったりしたことも記されている。しかし、式部は言い寄られて「恐ろしかった」と記している。『尊卑分脈』の後世の加筆部分には誤りが多い。道長と式部に強いつながりがあったことは史実だが、あくまでビジネスライクな関係だったとみた方がよさそうだ。

主要参考文献
田家康『気候で読み解く日本の歴史』(2013、日本経済新聞出版社)
石井和子『平安の気象予報士 紫式部』(2002、講談社+α新書)
山本武夫『気候の語る日本の歴史』(1978、そしえて文庫)
荒川秀俊『お天気日本史』(1988、河出文庫)
桜井邦朋『日本列島SOS 太陽黒点消滅が招く異常気象』(2015、小学館新書)


プロフィル
丸山 淳一( まるやま・じゅんいち
 読売新聞調査研究本部総務。経済部、論説委員、経済部長、熊本県民テレビ報道局長、BS日テレ「深層NEWS」キャスター、読売新聞編集委員などを経て2020年6月より現職。経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災と熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生で大河ドラマ「国盗り物語」で高橋英樹さん演じる織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場巡りや歴史書を読みあさり続けている。

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