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駐日ジョージア大使のティムラズ・レジャバさん(35)のX(旧ツイッター)のフォロワー数は、なんと26万人超。
「私が生まれたのはジョージアの首都トビリシですが、当時はまだソビエト連邦(ソ連)の一部でした。日本に来たのは、1991年にソ連が崩壊してジョージアが独立した直後。生物学者だった父が広島大学で研究をすることになり、家族と一緒に4歳で日本を訪れました。最初に暮らしたのは、大学があった広島県東広島市。だから野球は今でもカープファンです。
小学校低学年まで広島で生活した後はアメリカやジョージアを転々としました。小学5年生のときに父の勤める研究機関があった茨城県つくば市に移り住み、そこから日本生活が長くなりました。
日本でもアメリカでも、周囲にジョージア人はほとんどいませんでした。言語は早いうちに習得できましたが、子どもながらになんとなく『自分は外国人なんだ』という感覚が常にあって、どこかその国の人に遠慮してしまう気持ちがありました。でも、だからこそ自分から積極的に前に出なければいけないとも思っていました」
言葉や外見の違う日本人の子どもたちと仲良くなる上で、大きな役割を果たしたのがスポーツだった。
「幸い当時から体は大きかったので、いろんなスポーツに挑戦しました。小学生の頃は主にサッカーやバスケをやっていましたが、ハンドボールとの出会いが大きな転機になりました。小学6年生のとき、友人に誘われてハンドボールに触ってみたら、全然うまく投げることができなかったんです。それが悔しくて、上手にボールを操れるようになりたいと思うようになりました。ただ、進学したつくば市立手代木中学校にはハンドボール部がありませんでした。そこで、友だちと一緒に先生に直談判して、部活をつくってもらったんです。
ほとんど経験者もおらず、部員もギリギリの人数だったので、最初は試合に負けてばかり。ユニホームもなく、体操服で試合に出たのを覚えています。それでも夢中で練習に打ち込みました。筑波大学のハンドボール部の選手にコーチをお願いし、3年生の時には地区予選を勝ち抜いて、県の決勝トーナメントに出場できました」
そのハンドボール部は現在、全国有数の強豪になっているそうだ。
「卒業後、ハンドボール部はどんどん力を付け、全国大会で2度も準優勝しました。後輩たちを誇りに思いますし、あのとき新しい部活をつくってよかったと思えています。
私自身、高校でもハンドボールを続け、一時ジョージアに戻ったときには19歳以下の国代表に選ばれたこともありました。ゼロから始めたハンドボールで成績を残せたことは、その後の人生で自信につながりました。そして何より、いまでも連絡を取り合うチームメートができたことが幸せだったと思っています」
(つづく。次回は「ジョージア留学」編)