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明治から現代に至る「言葉」の歴史
国立国語研究所の朝日祥之・准教授が12月6日、大手町アカデミアと人間文化研究機構による特別講座で、「『ハワイの日本語』の多様性が伝えるもの 日系人社会150年の言語生活史」と題して講演しました。ハワイ語や英語など様々な言語が入り混じった「ハワイの日本語」の特徴と、それをもたらした移民や戦争などの歴史について、豊富な実例を紹介しながら分かりやすく解説し、講演後には同研究所の岩崎拓也特任助教がナビゲーターを務め、トークセッションが行われました。
広島・山口弁がハワイでの共通語?
「ハワイの日本語」と聞いて、みなさん、どのような事をお考えでしょうか。ハワイに観光や仕事で行かれたり、移住してみようと思ったり、親戚が日系の方だったり、いろんな方がいらっしゃると想像します。明治期からハワイに渡った人たちが、現地で使ってきた日本語を広く「ハワイの日本語」と呼び、その多様性を具体的な例とともにお示しして、それがどういう事を意味するのか、一緒に考えていけたらと思います。明治元年から150年ちょっと経ちます。明治から現代に至るまでの言葉を中心とした生活の歴史ということで話をさせていただきます。
比嘉正範先生の論文「ハワイの日本語の社会言語学的研究」(1974年)では、その特徴として、「ハワイに移民した日本人の約半数が中国地方出身者でありました。しかも中国地方出身者が先着者であったため、当然のように中国方言がハワイの日系社会の共通語となってしまったようです。ハワイでは、中国方言よりも『広島・山口弁』という呼び名の方が実感が出ます。ハワイ社会の一員として広島・山口弁を共通語として話すようになりました。ハワイの日本語について、敬語や丁寧語、それから女性語が目立って欠けていることが一般的に言われています」と指摘されています。これだけだと、広島弁っぽく話しているのかと思うのですが、実際にどんなものか。2010、11年ごろにハワイでオーラル・ヒストリーのプロジェクトが行われ、その資料が現存していることが判明しました。そこで、この10年間、人間文化研究機構のプロジェクトとして、資料を収集してきました。その一つが、ハワイ大学のCLEARというセンターが収集したデジタルアーカイブの「写真花嫁」と呼ばれる沖縄県出身の方のインタビューです。
動画を見たハワイの若い世代に話を聞いたところ、「おばあちゃんの日本語だ」と言ってくれた人もいます。まさに一世の人たちが使うハワイの日本語の特徴をとらえていると思います。沖縄県出身の方がそのような日本語を話すわけです。もう一つは、ハワイのKANI放送局の日本語放送(1958年5月収録)で、最も古い戦後の日本語放送の録音だと思います。
こちらを聞くと、「写真花嫁」の方と違い、ずいぶん丁寧で、「くださいませ」という女性的な文末詞も使っています。比嘉先生が指摘した敬語の不使用などの特徴は、必ずしもそうとは限らないわけです。ハワイの日本語社会で、どういう風に日本語が使われてきたのかを考える時、ただ文献で調べるだけでなく、もっと広い目で見た日本語の姿があることが想像できるし、その事を言わなければならないと思いました。
※インタビュー動画と日本語放送の音声は、人間文化研究機構のYouTube公式チャンネルで公開されている本講座の動画で視聴できます。動画へは こちら から
なぜ「この日本語」なのかを理解するには、日本人がいつ、どこからやってきたか、人の移動の歴史に関する説明が必要です。そして、どういう環境で生活してきたのか。おそらく、それぞれの方が過ごした環境や背景が違うのではないか。そして、いろんな言葉の中の変化があったと思います。そのことを考える上で、日本人学校や日本語の授業、教材、日本語を使った生活を考えたいと思います。そして、ハワイの現在の状況をとらえるのに必要な概念として、「ピジン」「ローカル」「ニホンゴ(現代のハワイにおける日本語の位置づけ)」などを考えていきたいと思います。
最初の移住者「元年者」
歴史に関して、まず話題にしなければならないのは、いわゆる「
元年者はオアフ島を始め、マウイ島、カウアイ島、ラナイ島に行き、厳しい環境下で果敢に仕事をしました。契約終了後は、お金を稼いで日本に帰る、アメリカ本土に渡る、ハワイに残るという3つのグループに分かれました。ハワイに残った人たちはハワイの人たちと結婚し、ハワイ語が流ちょうになる。日本から使節団から来る時などに通訳も務めました。日本語も使いますが、ハワイ語を身につけて生活しようとしたわけです。
移民本格化と「写真花嫁」、日本語学校
日本とハワイ王国の間で移民条約が締結された1885年から、移民が本格化しました。明治政府の認可を得た「官約移民」が約3万人、それにとらわれない「私約移民」が18万人と言われます。長期居住を決めた人は結婚して所帯を構えることを考えます。当時の移民の多くは男性で、パートナーを探すため、「写真花嫁(ピクチャー・ブライド)」と言われる人たちが登場しました。これは映画やNHKの番組になったりもしました。写真を介したお見合い結婚で、入籍をした後、ご主人の男性が奥さんの女性を呼び寄せる形で、ハワイに渡りました。ハワイを含む米国西海岸への「写真結婚婦人」の呼び寄せ証明書発給数を見ると、ハワイに関しては約7000人が渡っています。ハワイ移民の統計を見ると、広島県・山口県の移住者が一番多く、熊本県、沖縄県、福岡県、新潟県、福島県と続きます。広島・山口が主要なグループを作っていたことが想像できますが、忘れてならないのは新潟・福島出身者です。彼らが使っていた当時の方言は、広島・山口の方言とはかなり開きがあったと言われます。いわゆるズーズー弁の話者が広島弁・山口弁を習得することは簡単ではなかったと思います。
当時のプランテーションで働く人たちは、どのような言葉を使っていたのでしょうか。全く見ず知らずの土地で仕事に従事したら、一緒に働く人と言葉が通じない。それが2、3年続くわけです。そうすると、いろんな事が起こる。ハワイのプランテーションでは、それがかなり集中的に起きたと言ってもおかしくありません。その事を物語るいくつかの例を紹介したいと思います。一つは、プランテーションで歌った労働歌として知られる「ホレホレ節」。ホレホレはハワイ語でサトウキビの皮を「
ハワイ ハワイと 来てみりゃ地獄
ボースは悪魔で ルナは鬼
カネはカチケン ワヒネはハッパイコウ
夫婦仲良く 共稼ぎ
条約切れるし 未練は残る
ダンブロウのワヒネにゃ 気が残る
日本人が日本語として歌う歌詞に「ルナ」「ワヒネ」「ハッパイコウ」などのハワイ語や「ボース」「ダンブロウ」といった英語の単語が入っています。
言語について、もう少し詳しく見てみます。例えば、生ゴミは「buta kaukau」、ゴミ箱は「buta kaukau can」。butaは日本語、kaukauはハワイ語、canは英語です。「hanabata」は鼻水の意味ですが、「bata」は英語です。私が好きなのは、暑いを意味する「hottsui/hotsui」です。「hot」と「暑い」がくっついています。文章でも、「issho ni wai wai shinasai」は、一緒にワイワイ騒ぐわけではない。「wai wai」はハワイ語でお風呂で、「一緒にお風呂に入りなさい」という意味だそうです。このように多くの言語が入り混じった言語が現地で使われたということになります。
最初の日本語学校は1896年、牧師によって設立されました。当時の日本語学校では、日本の国定教科書がそのまま使われました。ハワイが米国の準州になった後、日系人の子供たちはハワイのパブリックスクールに通い、放課後に日本語学校に通ったと言われます。その背景には、父母がサトウキビ畑の労働者で、小さな子供の面倒を見てくれる所が必要だったという事情もあったと言われます。当時の日本語の教科書を見ると、日本語で十分な読み書きができるように、様々な文体が混在しています。教科書への生徒の書き込みを見ると、「白い」を「しlo」とルビを振ったり、「ある日」を「luひ」と書いたり、漢字の読みをローマ字で書いたりもしています。
戦中・戦後のハワイ
戦中の米国では、日本は敵国ですから、西海岸では日系人の強制収容がなされました。一般にハワイでの強制収容はなかったと言われてきましたが、ここ数年、ハワイの日本文化センターでの展示を見ても、収容自体はあったと言われています。ハワイに渡った人を1世として、その世代を親に持つ2世が大きくなり、米軍に忠誠を尽くして戦地に赴いたり、情報機関で活躍したりします。比嘉太郎と呼ばれる2世はハワイで生まれて、沖縄で学齢期を過ごした「帰米世代」です。彼らは日本で教育を受け、日本語能力も高い。通訳兵として捕虜たちへの尋問も行いました。彼はハワイの第100連隊の兵士としてイタリアに行き、負傷して戻った後、全米の強制収容所で2世たちに米軍への参画を呼び掛けたり、慰問したり、沖縄戦で多くの島民を助けたりしたという方です。
戦後のハワイについて、まず取り上げなければならないのが日本の復興支援、救援です。特に沖縄へは様々な物資が送られました。戦後、ハワイは米国の50番目の州となり、米国化が進みます。日本語を使っていた人が英語にシフトしていく。日本人というより、日系人(Americans of Japanese Ancestry)が主要なグループになります。しかし、日本語教育自体は今日まで継続しています。戦後のハワイと言うと観光業ですが、現地のスタッフが必要です。その中で日本人の存在を忘れてはなりません。終戦期に日本に滞在した連合軍の兵士たちと結婚して米国に戻った「戦争花嫁」が、ハワイに渡ったケースもありました。このように日本語の話者が日本語の情報を必要とするというニーズがあり、「ハワイ報知」という新聞が今日まで発行されています。日系のスーパーマーケットに行くと売っています。
米国本土から離れた「ローカル」としてのアイデンティティがハワイにはあります。本土との、ある種の差別化であり、ハワイを取り巻く様々な民族が行き交う環境から生まれたアイデンティティとも言えます。彼らを支えてきた「ピジン」と呼ばれる、いろんな人が集まって使うその場限りの言語が発達して、使用する範囲が広がり、子どもたちにも広がる。そういう変化を遂げていきます。現代でも、日本語を起源とするピジンの一つ「Breakfast Bento」という言葉が使われています。日本との関係は相対的に希薄になっていますが、これには継承語としての日本語の役割が関わっています。
岩崎拓也・国立国語研究所特任助教とのトークセッション
岩崎 「ハワイの日本語」という事を今回、初めて知りました。なぜ、「敬語や丁寧語、女性語が目立って欠けている」のでしょうか。
朝日 講演で紹介した「写真花嫁」の方の話し方を聞いていただくと分かると思いますが、おそらく、語尾に「じゃのう」とかをつける時に「です・ます」をつけると動詞の活用も変えなければいけない。「です・ます」と「じゃのう」が一緒になるのが難しい。他方で、当時の文献を見ると、特にハワイに住んでいる日本人の多くはプランテーションで他の民族と接触することなく、非常に限られた範囲で生活していたので、英語へのシフトがなかなか進まなかった。敬語を使う必要性がなかったということも想像されます。労働条件が厳しい環境下では、作業が大変なので言葉遣いが荒くなると思いますし、上品な言葉遣いをする必要性がなかったのかもしれません。
岩崎 当時の日本人移民と、ハワイに住んでいた人々との交流は実際、どのようなものだったのでしょうか。また、「コードスイッチング」という言葉の切り替えをどのように行っていたのでしょうか、ハワイに以前から住んでいた人たちも、このようなピジンを使うようになったのですか。
朝日 コードスイッチングの例としては、「ごはんですよ」を意味する「kaukau bai」の「kaukau」はハワイ語の「食べる」で、「bai」は九州の「ばい」です。文の途中で英語を話していた人が急に日本語になるとか、その反対もあります。これはハワイでも他国の移民2世で主に見られる現象です。日本人の元年者とハワイ人の交流は当然あったと思いますが、米国人や中国人との交流もあり、それぞれにとっての共通言語としてのピジンが出来たと言われます。ピジン・ハワイアンという、英語ではないピジンがあったと言われます。英語の力が強くなり、英語のピジンになっていったという流れがあります。
岩崎 日本語学校の教科書を見ると、ミーティングが「ミーテン」と書かれたり、手書きのルビにローマ字が使われていたりします。実際の教授は当時、どのように行われていたのでしょうか。
朝日 ハワイの日本語教育史について多くの研究がありますが、教会に日本語学校を開設したり、子供たちを預かる場所としての学校の機能がありました。また、多くの人がハワイで所帯を持ち、長く暮らそうと思ってはいますが、他方で骨をどこで埋めるかという問題があり、子供たちには日本人としての教育を受けさせたいという思いが強かった。基本的には日本の学校と同じような授業にしたいということで、様々な改変はなされましたが、当時の日本の教科書の影響を受けています。手書きの学級文集などを見ると、実は私たちの字体とあまり変わらない。教授自体は言語の違いはあったかもしれませんが、やっていた事は大きく変わってはいなかったのではないかというのが私の見立てです。先生方の苦労は時代を問わないのかもしれません。
講師・ナビゲータープロフィル
朝日 祥之氏(あさひ・よしゆき)
国立国語研究所 研究系 言語変異研究領域 准教授 専門は社会言語学、日本語学。主要単著は、『サハリンに残された日本語樺太方言』(明治書院、2012年)、『ニュータウン言葉の形成過程に関する社会言語学的研究』(ひつじ書房、2008年)。主要共編著は、『新版社会言語学図集』(共編著、ひつじ書房、2021年)、『アメリカとハワイ日系社会の歴史と言語文化』(共編著、東京堂出版、2015年)。
岩崎 拓也氏(いわさき・たくや)
人間文化研究機構 人文知コミュニケーター、国立国語研究所 研究系 日本語教育研究領域 特任助教 熊本県出身。一橋大学大学院言語社会研究科言語社会専攻修士課程博士後期課程修了。博士(学術)。専門は句読法をはじめとする表記論。代表的な論文は「接続詞の直後の読点をどう指導すべきか」『データ科学×日本語教育』(ひつじ書房2021)、「記号の使用実態とその問題点 発注者と受注者をつなぐためのカッコの活用」『ビジネス文書の応用言語学的研究 : クラウドソーシングを用いたビジネス日本語の多角的分析』(ひつじ書房2020)。