読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋と、この時期にはたくさんの楽しみがありますが、秋といえば新しいテレビドラマが始まる季節でもあります。テレビの前にいる私たちを笑わせ、泣かせてくれるテレビドラマはどのように発展してきたのでしょう? 今回の「Trace」では、あまたの名テレビドラマから、その移り変わりに迫っていきたいと思います。
日本でテレビの本放送が始まったのは1953(昭和28)年。しかし、日本初のテレビドラマは、そこからさかのぼること13年前の1940(昭和15)年にすでに制作されていました。テレビ技術がまだ研究段階だった同年4月13日に、NHKが実験放送した「夕餉前(ゆうげまえ)」という約12分間のホームドラマです。
現代のドラマと大きく異なるのがその制作環境。当時使用されていたカメラは感度が非常に低いアイコノスコープと呼ばれるもので、強力な照明を集中して当てなければ撮影できず、スタッフはもちろん、出演者も髪の毛が焦げるほどの高温に悩まされていたのだそう……。また、ビデオ録画の技術もなかったため、いまでは考えられませんが“ライブ”でドラマが放送されていたんです!
ビデオテープが初めて用いられたドラマは、本放送が始まって5年後の1958(昭和33)年にKRテレビ(現TBS)で放送されたフランキー堺主演、橋本忍脚本の「私は貝になりたい」。全編約1時間30分のうち、前半がビデオ、後半が生放送という変則的な構成でしたが、戦争の持つ恐怖と残酷さを描き、のちにリメイク作品もつくられる不朽の名作となるのです。
撮影技術が進歩した近年でも、生放送を演出に取り入れるドラマがあります。1996(平成8)年に木村拓哉と山口智子の共演で大ヒットした「ロングバケーション」(フジテレビ)の最終回では、ラストシーンをロンドンから生中継。また、2008(平成20)年から翌年にかけて放送された「ママさんバレーでつかまえて」(NHK)では、最終回をすべて生放送したことで話題を呼びました。やり直しが利かないライブの緊張感は、視聴者をテレビに惹き付ける絶好の演出なのかもしれませんね。
スタジオから機材を持ち出してロケ撮影したり、連続ドラマにスポンサーがついたり……現在では常識の話でも、テレビ草創期にはさまざまな制約がありました。それらを初めて成し遂げたのが、KRテレビ初の連続アクションドラマ「日真名氏飛び出す」です。
1955(昭和30)年4月、KRテレビの開局とほぼ同時に始まった作品は、当時はタブーとされていたロケを実施。連続ドラマで初めてレギュラーかつ1社提供のスポンサー(三共製薬)契約を結び、出演者が劇中に同社の栄養ドリンクを飲む“生CM”を行ったり、「電気紙芝居」と揶揄されて映画スターの起用が難しかった時代に、東宝の俳優だった久松保夫を主役の探偵に起用してテレビスターに育て上げるなど、エピソードに事欠かない画期的なドラマでした。1962(昭和37)年7月まで全380回も続いた長寿番組で、最高視聴率は71%と驚きの記録も持っているんです!
1959(昭和34)年の皇太子(現・天皇陛下)ご成婚を機に一般家庭にテレビが普及し、1960年代初頭には“日本人の生活リズム”ともなるNHKの朝の連続テレビ小説(朝ドラ)、そして大河ドラマがスタートします。
1961(昭和36)年に始まった朝ドラ第1作「娘と私」は、文豪・獅子文六の自伝的小説を原作に、評判だったラジオドラマを映像化したもの。当時は朝8時40分から9時までの20分、毎週月曜から金曜の放送で、2作目の「あしたの風」から現在と同じように15分、月曜から土曜の放送に定着しました。朝の8時台という、比較的忙しい時間帯に連続ドラマが放送された前例はありませんでしたが、戦後に毎朝ラジオ小説が朗読されていたことや、朝刊の連載小説を意識して、朝の時間帯に編成されたという話も。
1963(昭和38)年には、大河ドラマの原型となる時代劇「花の生涯」もスタート。9か月間という長期放送、そして映画・演劇界のスターを起用した豪華な演出が話題を呼び、翌年の「赤穂浪士」からは毎年1月から始まる大河ドラマとして定着します。「赤穂浪士」は最高視聴率53%と、大河ドラマ史上最高の記録を残し、テレビは時代劇ブームに。各局が「これぞ!」という時代劇を制作するため、俳優の奪い合いも起きていたようです……。
1960年代には、いまは消えてしまった昼ドラも誕生しました。昼ドラの元祖といわれているのが、1960(昭和35)年にフジテレビで始まった「日日の背信」です。家庭がある男と夫に先立たれた女の愛欲を描いたドラマは、ラブシーンも登場する刺激の強い演出で、電化製品の浸透や育児からの解放で余暇ができた主婦たちをとりこに! 30%近い視聴率で、主婦向けの料理番組や教養番組が多かった昼の番組編成を大きく変えるきっかけとなったそう。
ファミリードラマはテレビ草創期からつくられてきたテレビドラマの主流ですが、それが多様化するのが7190年代。高度成長期が過ぎ、オイルショック以降の経済停滞期を反映するかのように、家庭内のさまざまな問題を描く“辛口ホームドラマ”が登場します。
1970(昭和45)年から1975(昭和50)年にかけてTBSで放送された「ありがとう」シリーズは、水前寺清子や石坂浩二らを起用し、明るく温かな家庭像を描くファミリードラマの決定版。しかし、1976(昭和51)年に始まった橋田壽賀子脚本「となりの芝生」(NHK)は、そうしたドラマへのアンチテーゼのように嫁と姑の確執を辛辣に描き、「みじめすぎて見ていられない」「家の中までおかしくなった」といった投書や電話が殺到したのだそう! また、実際に起こった水害を題材に平凡な家庭が崩壊する様を描いた山田太一脚本「岸辺のアルバム」(TBS/1977〈昭和52〉年)も、家族とは何か、親子の関係はどうあるべきかといった普遍的な難問に取り組む “衝撃のホームドラマ”として大きな影響を与え、日本のホームドラマの金字塔となりました。
熱血新任教師が根性で逆境を乗り越える1960年代の“青春シリーズ”を経て、1970年代には「熱中時代」(日本テレビ)、「3年B組金八先生」(TBS)などの学園ドラマもヒット。特に武田鉄矢主演、小山内美江子原作・脚本の「3年B組金八先生」シリーズは、校内暴力や少年非行、中学生の妊娠・出産など教育現場や家庭が抱える問題を真正面から取り上げ、裏番組だった刑事ドラマの傑作「太陽にほえろ!」を視聴率でしのぐほどの反響を呼びました。ちなみに、“金八”という名前はドラマの放送時間が“金曜8時”だったことにちなんでつけられたってご存じでしたか?
価値観が多様化した1980年代には、落ちこぼれと呼ばれた若者たちの等身大の青春を描いた「ふぞろいの林檎たち」(TBS)をはじめ、「金曜日の妻たちへ」(同)、「男女7人夏物語」(同)など、自分に合ったキャラクターに感情移入できる“群像劇”が次々と制作されます。なかでも、結婚適齢期の男女7人の恋物語を描いた「男女7人夏物語」は、のちに社会現象となるトレンディドラマの元祖として語り継がれる作品です。
1986(昭和61)年にスタートし、翌年には続編もつくられた同作は、お笑い芸人の明石家さんまや片岡鶴太郎、芸能リポーターの小川みどりを起用するユニークなキャスティング、そして登場人物が住む場所や劇中で使われるインテリア、小物が流行に敏感な若者を刺激し、娯楽の多様化でテレビ離れが進んでいた彼らをブラウン管の前に呼び戻すことに成功しました。
その後、トレンディドラマはバブル好景気の時流に乗り、若者が憧れる職業から、住まい、ファッション、そして夜の遊びまで、最先端のライフスタイルを提示する“流行発信源”に。特にトレンディドラマの常連だった浅野温子と浅野ゆう子の“W浅野”は、ファッションリーダーとして若い女性から絶大な支持を集めます。
1980年代は、日本のテレビドラマでおなじみの「1クール=約3か月」という通例が定着した時代でもあります。それまでのドラマは4月と10月の番組改編期に応じて半年間単位の放送が多かったのですが、トレンディドラマの台頭によって俳優の争奪戦が激しくなり、スケジュールを長期間確保できなくなったことがドラマの放送期間にも影響を与えたのだそう。
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