2024.05.19

時代考証が長徳の変を解説! 道長最大の政敵・伊周が自滅した理由

古記録で読む紫式部と藤原道長の生涯10

これが信頼できる唯一の史料である。『小右記』の写本は正月後半は残っておらず、『権記』はこの年は五月までの記事を欠いており、『御堂関白記』はこの年はまったく記録されていない。

「無念さから天を仰ぐ」はいつ作られたか

この為時の越前守任命については、『続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)』や『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』『古事談(こじだん)』『今鏡(いまかがみ)』『十訓抄(じっきんしょう)』に有名な説話が見える。

淡路守に任じられた為時が嘆いて作ったという、「苦学の寒夜は紅涙(こうるい)(悲嘆の涙)が袖(そで)(襟〈えり〉とも)を霑(うるお)し、除目の春の朝(あした)は(天を仰いで)蒼天(そうてん)が眼(まなこ)にある」という詩を見た一条が食事も摂らず夜の御帳で涕泣(ていきゅう)していた。それを見た道長が、乳母子(めのとご)でもある越前守に任じられた源国盛に辞表(じひょう)を書かせ、為時を越前守に任じたというものである。越前(えちぜん)国は最上格の大国(たいこく)で、生産力が高く、京都からも近い熟国(じゅくこく)として、受領を希望する官人が多かったのである。

この除目の直物において二人の任国が交換されたのは史実であるが、実際にはこのような事情で国替えが行なわれたわけはない。

前年九月に来著(らいちゃく)して交易(こうえき)を求めていた朱仁聡(しゅじんそう)・林庭幹(りんていかん)ら宋(そう)国人七十余人(『権記』『日本紀略』)との折衝にあたらせるために、漢詩文に堪能な為時を越前守に任じたものであろう。一条が詩文を好んだということや、文人(ぶんじん)を出世させるという一条「聖代(せいだい)」観から作られた説話であろう。国替えを嘆いた国盛がそのまま死んでしまった(『続本朝往生伝』)というのも、まったく根拠のない話である。

為時がこの詩を作ったのが本当のことであるとしたら、いったいどの時点でこれを作ったのであろうか。私が長年、疑問に思っていたのは、除目の結果を知った後にふたたび申文を出すのであろうかという点であった。また、漢詩に疎い私であるが、どうもこの文言は、形式から考えて、漢詩の一節には思えないのである。

「いつも除目の翌朝に、無念さから天を仰ぐ」という意味から考えると、むしろ除目の前に作ったものであろう。今回、時代考証を務めていて、考証会議に諮る台本の原案を作る過程で、リサーチャーの方との「際限ない」メールのやりとりのなかで、突然にこれまでの疑問が解けたような気がした。

もしかしたらこれは漢詩ではなく、淡路守を申請した際の申文の一節だったのではないか(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。それならば、何とかすべてが説明が付く。辛くて苦しいことばかりの時代考証であるが、時には嬉しいこともあるものだと、その時には感謝したものである。

なお、ドラマはあくまでもフィクションで、史実に紫式部、というか「まひろ」をからませてくるかもしれないが、どのように描かれるのか、楽しみにしていたい。