さらに四月一日には、伊周が臣下の行なってはならない太元帥法(たいげんのほう)を修して道長を呪詛していたことが奏上された(『日本紀略(にほんきりゃく)』『覚禅鈔(かくぜんしょう)』)。もちろん、その真偽は明らかではない。
伊周と隆家については、四月二十四日に行なわれた除目(じもく)において、それぞれ大宰権帥(だざいのごんのそち)と出雲権守(いずものごんのかみ)に降すという決定が下された。
配流宣命に載せられた罪名は、「花山法皇を射た事、女院(にょういん)(詮子)を呪詛した事、私に太元帥法を行なった事」であった(『小右記』)。「花山法皇を射た事」とはいっても、「法皇の御在所(ございしょ)を射奉った」(『日本紀略』)とあるように、闘乱の過程で花山の坐していた輿(こし)に矢が放たれたという事態が起こったことを指し、花山院自身を狙ったわけではない。ともあれ、こうして道長は、最大の政敵を自然と退けることができたのである(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
中宮定子の懐妊
ところで、藤原定子が一条の第一子である脩子を出産したのは長徳二年十二月十六日であり、逆算すると、その懐妊(かいにん)はこの年の四月頃となる。実は定子は三月から四月二十四日にかけて、再び内裏に参入していたのである。それは伊周・隆家が失脚の危機に瀕していた時期であり、定子は一条に両者の赦免を嘆願していたのであろう。皮肉なことに、その時に最初の子を宿したことになる(倉本一宏『一条天皇』)。
なぜ藤原為時が越前の受領に任じられたのか
さて、私は学部生のころから、どうして無官で六位の為時がいきなり越前という大国の受領に任じられたのか、不思議でならなかった。
長徳二年(九九六)正月二十五日に行なわれた、つまり道長が執筆(しゅひつ)(除目の上卿〈しょうけい〉)を務めた最初の除目において、為時は実に十年ぶりに官を得た。この年の除目は大間書(おおまがき)という任命者の名簿が残っている。そこには、越前守(えちぜんのかみ)に「従四位上源朝臣国盛(くにもり)」、淡路守(あわじのかみ)に「従五位下藤原朝臣為時」という名が明記されている。
為時は、この年正月六日に行なわれた叙位(じょい)で従五位下に叙爵(じょしゃく)されていたのであろう。叙爵は誰か有力者の推挙による年爵(ねんしゃく)によるのが一般的であるが、為時を推挙してくれる有力者がいるとは思えず、そこに道長の名が推測される。
また、通常、受領(ずりょう)の任官は申文(もうしぶみ)を提出して、そのなかから公卿によって三、四人が選ばれ、天皇(幼少の場合は摂政)によって最終決定される。為時も当然、申文を提出したはずであるが、十年間も無官で五位に叙されたばかりの為時としては、下国(げこく)の淡路守くらいが適当だと判断したのであろう。
ところが三日後の二十八日、直物(なおしもの)と呼ばれる除目の訂正が行なわれ、国盛の越前守を停め、為時を越前守に任じるという措置が執られた。『日本紀略』は、「右大臣(道長)が内裏に参って、にわかに越前守国盛を停め、淡路守為時をこれに任じた」と記している。