2024.05.19

時代考証が長徳の変を解説! 道長最大の政敵・伊周が自滅した理由

古記録で読む紫式部と藤原道長の生涯10

これは、道長が漢文が苦手だったことに原因があるものと思われる。名門の出身だったために大学に入って学ぶこともなく、また若年時に三ヵ月弱、蔵人を経験した以外は弁官や蔵人などの実務官人を経験することもなく、おまけに陣定の定文を執筆する参議を経ることなく、いきなり権中納言に上ったために、漢文に習熟する機会がなかったのである。『御堂関白記』のはじめの頃の漢文は、何だか話し言葉をそのまま漢字で表記したような漢文である。

最初は単語を並べただけの記事

さて、長徳四年から自筆本と古写本が残っている『御堂関白記』であるが、それ以前の長徳元年五月十一日、すなわち道長が内覧宣旨を受けて政権の座に就いた時点から、『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』と呼ばれる七種の抄出本が、これも陽明文庫に存在する。長徳元年の記事については、『御堂御記抄』第一種しか現存せず、貴重な史料となっている。

長徳元年については、「文殿記(ふどのき)」と呼ばれる日記を抄出(しょうしゅつ)したものとする考えもある。「文殿記」が道長自身が具注暦(ぐちゅうれき)以外の料紙(りょうし)に記した日記なのか、家司などの側近が記録した日記かは不明である。

長徳元年六月五日(御記抄)(『藤原道長「御堂関白記」を読む』講談社学術文庫より)

十世紀前半からは朝廷が廷臣に暦を賜う頒暦(はんれき)が行なわれなくなったため、道長は暦博士や天文博士、陰陽師に料紙を渡して、間明(まあ)き二行がある特注の具注暦を造らせたと言われている。

これは前年の十一月一日に完成させるのであるが、道長の政権獲得前である正暦五年(九九四)に具注暦を注文することはなかったであろう(以上、倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』)。長徳元年五月からの『御堂御記抄』の記事は、道長が具注暦ではない料紙に記録したものであると考えたい。なお、その記事は、あたかも記事の目録のような、単語を並べただけの漢文とも呼べないようなものである。

長徳元年は『御堂御記抄』の十七条のみ残り、その後はまた日記を記録しなくなったのか、『御堂関白記』は長徳四年七月の四条まで記録していない。その後はまた記録しなくなり、翌長保(ちょうほう)元年(九九九)二月の藤原彰子(しょうし)の着裳(ちゃくも)の儀から再開している。この年は九十七条を記録し、長保二年(一〇〇〇)は五月まで彰子立后の記事をはじめとして八十三条を記録した後、また長い中断となる。

そして四年後の寛弘(かんこう)元年(一〇〇四)からは継続的に書き続けている。道長はすでに三十九歳になっていた。この年には二月に嫡男の頼通が春日祭勅使となっていて、それが日記再開の契機となったのであろう。

このように、他の古記録とはまったく異なる始まり方をした『御堂関白記』であるが、それでもだんだんと漢文にも習熟していっているのは、道長の努力の成果であろう。