時代考証が長徳の変を解説! 道長最大の政敵・伊周が自滅した理由
古記録で読む紫式部と藤原道長の生涯10連載の第一回はこちら
日記を始めたのが遅かった道長
大河ドラマ「光る君へ」19話では、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』の書き始めに関わるシーンがあった。ここで藤原道長の『御堂関白記』がいつから書き始められたのか考えてみよう。
現在、近衞(このえ)家の陽明文庫(ようめいぶんこ)に残されている『御堂関白記』は、道長自筆本が長徳(ちょうとく)四年(九九八)後半から寛仁(かんにん)四年(一〇二〇)前半に至る十四巻、孫の師実(もろざね)の代に書写された古写本が長徳四年後半から治安(じあん)元年(一〇二一)に至る十二巻である。
通常、日記を記録し始めるのは、かなり若い時であることが多い。たとえば藤原実資(さねすけ)の『小右記(しょうゆうき)』は、二十一歳で右少将であった貞元(じょうげん)二年(九七七)、藤原行成(ゆきなり)の『権記(ごんき)』は、二十歳で左兵衛権佐であった正暦(しょうりゃく)二年(九九一)の任大臣の儀から始まっている。両方とも、さらに前から記録していた可能性もある。
一方の道長は、自筆本が残っている長徳四年だと三十三歳で内覧兼左大臣、日記を記録し始めた可能性の高い長徳元年(九九五)でも三十歳で内覧兼右大臣と、ずいぶんと年齢を重ねて、しかも政権の座についてから、日記を記録し始めている。
道長の父祖でいうと、父の兼家(かねいえ)は日記を記録した形跡がないが、祖父の師輔(もろすけ)の記録した『九暦(きゅうれき)』は二十三歳で右兵衛佐であった延長(えんちょう)八年(九三〇)から、曾祖父の忠平(ただひら)の記録した『貞信公記(ていしんこうき)』は二十八歳で参議であった延喜(えんぎ)七年(九〇七)から、日記を記録し始めている。
ちなみに実資の養父であった実頼(さねより)が記した『清慎公記(せいしんこうき)』はすべて逸文(いつぶん)であるが、十七歳で阿波権守に過ぎなかった延喜十六年(九一六)の記事から残っている。道長の記録開始時期がきわめて遅いことをご了解いただけよう。