近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
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官立・名古屋医科大学と「東大閥人事」: 『愛知県精神病院史』 その4 <新シリーズ・小林靖彦資料 81>

前回は北林貞道が、官立に移管した名古屋医科大学の教授に任官されず、いわば「不遇」のうちに大学を去った話であった。
一方、北林の後任として東京府立松沢病院から赴任した杉田直樹にとっても、大学教授としては「不遇」なスタートだった。

このあたりの状況を、山由可里氏の論文「杉田直樹の名古屋医科大学教授就任」(『名古屋大学史紀要』 第6号、1998年)を参照してきわめて大雑把にまとめると:

県立から官立への移管にともない、文部省から再任辞令が交付されなかったのは、愛知医学校卒業生で愛知医学専門学校以来奉職していた北林貞道らであった。
新たに任命された教授に東大出身者が多く、「東大閥人事」が行われたとして、藤井学長排斥運動など学内の「人事紛争」へと発展した。
名古屋でのゴタゴタなどまったく知らない杉田直樹は、新設名古屋医科大学への教授就任要請を受け、松沢病院に辞表を提出。
その後、ゴタゴタ事情を知ったものの、もう、名古屋に行くしか道がない。
だが、面倒なことが起きる。
すでにリタイアしていたものの、学界に絶大な影響力をもつ呉秀三は、かつて自らが主宰する東大精神病学教室の医員だったことがある北林の人事について、「予は北林氏の就任を希望す、よろしく頼む」と、名古屋医科大学の藤井学長に打電したのである(その後、藤井学長が上京し、呉秀三に会って、杉田教授就任の了解を得たという)。
1931年5月20日、文部省から正式に辞令を受けた杉田だったが、名古屋での杉田教授就任阻止を唱える一団との交渉は難航。
名古屋医科大学の精神科教室にはじめて入ったのが、同年6月30日の正午、午後には同大学でのはじめての講義を行った。
だが、精神科の主任教授室は北林が使用しつづけていた。

と、ここまでは上記論文のほんの一部。
とても全部は紹介できない。
おもしろいので一読をお勧めしたい。
ともかく、北林と杉田の両者にとって、おもしろくない名古屋時代がしばらくつづいたようである。

さて、肝心の小林靖彦の記述は以下の通り。

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 東京府松沢病院副院長・杉田直樹博士は、紛争の最中、昭和6年5月20日、名古屋医科大学教授に任ぜられ、着任された。

 昭和7年4月、第31回日本神経学会総会が、北林先生会長の下に名古屋で開催、仝年12月、愛知県立精神病院が開設され、児玉昌博士が初代院長に就任した。

 昭和8年4月、京都で開かれた第32回日本神経学会総会に於て、杉田教授は、「精神乖離症(注:いまでいう統合失調症)の病因論―主として身体的、生物学的側面に就て」なる宿題報告を担当された。

 この宿題報告は、精神分裂面の病因を間脳の障碍に求めたもので、分裂病者の体液病理学的研究が、その中心課題であり、この研究は、先生の晩年まで継続されました。 



(つづく)

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