尊厳への道

      沖縄県知事選挙開票結果(9月30日)
       玉城デニー 394,768(得票率55%)
       佐喜眞 淳 315,621(得票率44%)

      接戦でしたが、沖縄の有権者の意志を尊重しなければならないでしょう。負けた佐喜氏も、44%の得票率があり、支持した方々への配慮も必要です。勝っても負けても、同じ国土に住んでいるのですから、互いを思いやる気持ちも忘れてはならないでしょう。まず隣人と仲良くしなければ、解決できる問題も解決できません。政府には、憲法改正を含めた防衛問題の議論を早急に進めていただきたいというのが国民の意志です。
      以前は、公明党は改革のエンジンというふれこみで、ハト派とタカ派の中間で真のコンサバティブであるかのような印象を与えていましたが、あれも単なるキャッチに過ぎなかったのでしょうか。人気取りとまでいかなくても、ただの思いつきのような時流に乗ったアピールの軽薄さは、支持者の姿と酷似しているようです。
      「民主主義の精髄には宗教的要素がある」として、保身第一の聖職者を非難したホイットマンは、さらに続けてこう言った。「多くの教会や宗派など、また私の知っている気味悪い亡霊たちが、宗教を侵害している」(「民主主義の展望」講談社)
      また、池田先生は教条主義の宗門を想定して、ホイットマンの言葉を紹介しています。
      「自覚した魂が、さまざまな教会から完全に離脱した時こそ、真に〈宗教〉と立ち向かうことができる」(「創立者の語らい」Ⅳ)
      かつて宗門問題で苦しんだことを忘れ、創価教条主義が亡霊のように闊歩している。沖縄創価を分裂状態にするような支援活動は、民主主義の厳粛な公平性を侵害しています。信仰とは自由であること。善良な会員をアゴで指図する姿は、魔性の醜さを表わしています。
      少しは反省したのか分かりませんが、「オール沖縄」完全決着と扇動したビラが(10月21日に投票が行われる那覇市長選挙)配布されました。しかし、1日の夕方、訂正する文書が配布され、沖縄の地元のみで対応する旨の徹底があり、F報告は行わないというお知らせがありました。思い通りに動かない会員がいることを学んだのでしょう。創価サポーターの佐藤優氏に言わせれば、そんな輩は、提婆達多のような反逆分子だそうです。もしかしたら、わたしもその分子の一人なのかしら。
      宗教の奴隷になってはならない。受動的な姿勢、多数派に同調する依存の傾向性、そのような怠慢の命を克服する運動こそ、信仰活動のパートナーシップであり、創造的な人間主義ではないでしょうか。政治に動員することによって社会貢献している、あるいは社会改革しているという錯覚は、巧妙に計算され尽くし、反発する前にどこかの誰かの野心に操られて説得されているのですよ。

      武力の行使は、決して宗教と無縁ではありません。平和運動に大きな主眼をおいている創価の対外的な活動は、反戦平和と題目のように自然と口から出てきますが、その反戦平和の具体的なイメージや戦略的な配置の姿が思い浮かべられません。日蓮の激しかった布教過程のなかでは、防御のための刀剣の準備があったものと思います。現在に敷衍して言えば、抑止力ということになるでしょう。抑止力というかぎり、ある程度の兵力と武器の準備が必要です。
      『涅槃経に云く・天台云く・章安云く・妙楽云く法華経守護の為の弓箭兵杖は仏法の定れる法なり、例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し』(「行敏訴状御会通」)
      教団と護法のための武器の保持を認め、安全保障のための準備を容認していますが、これには当時の日蓮が置かれた立場も考慮しなければならないでしょう。
      『彼(良観)の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて言く日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏を火に入れ水に流す汝等が大怨敵なりと云云、頚を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり』(「同上」)
      このような死者数を数えた迫害を受ければ、自己防衛を真剣に考えなければなりません。抑止力とは無用な争いをできるだけ避けることなのです。仏教教団と兵力とは、意外と密接な関係があり、戦国時代にいたるまで僧兵が活躍しましたが、これも広い意味での自己防衛の形です。
      日本の防衛の中心である自衛隊は、憲法違反であるというのが定説です。自衛隊の存在を可能にしているのは、あくまでも政治的判断に委ねられているわけですので、いざというときの不安定さは常につきまといます。平和が武力によって担保されている時代は、不幸な時代と言わなければなりませんが、科学技術の進歩は、核という最終兵器を神のまえに捧げ、新たな信仰を作りあげました。世界はデンジャラスなシステムとして完成し、滅亡に怯えています。
      もしも、戦争になり、他国が核ミサイルで先制攻撃するとしたら、沖縄にまず照準をあわせるでしょう。なにしろ、島のあちこちに基地があるのですから、躊躇することはありません。返還前は、核も持ち込まれることもあったでしょう。防衛の要所として、沖縄への関心度は高まるばかりですが、そのぶんそこに住む人々にとっては、安全が犠牲になるということです。最近、横田基地周辺で、オスプレイ配備の危険性のニュースが注目されました。沖縄では毎日起きているトラブルです。本土では過去に、そのような基地問題を放置しておくことができずに、政治的に強制移転し、沖縄に押しつけました。沖縄の県民は、日本の国籍を持ち、公平にその恩恵を享受している国民なのでしょうか。
      1996年の第5回環太平洋シンポジウムメッセージのなかで、
      『いうまでもなく、科学技術の発展、なかんずく情報通信や交通網の拡充は、国家や共同体間の壁を急速に取り払いつつあります。
      しかしながら、その一方で、いわゆる「文明の衝突」の危機が増幅していることも、残念ながら事実であります。
      ますます相互依存を深める「地球隣人社会」を、いかにして、「摩擦」ではなく「触発」へ、「対立」ではなく「調和」へ、「破壊」ではなく「建設」の方向へ導きゆくか。
      ここに「生命の尊厳」を基調とした、新たな「地球市民」の倫理が要請される所以があります』

      対立と分断、それを生む創価と公明党の政治決戦なるものは、真に中道思想を反映しているのでしょうか。勝つことばかり強調し、まるでファイターのように傷つき、戦う相手のノックダウンを奪うまで、執念深く諦めることはない。池田思想の人間主義とは、理想から逸脱すると恐ろしく偏狭です。理念は生かされることなく対立を煽り、現場においては冷たい空論に過ぎない。「破壊」ではなく「建設」へと、そのような言葉は沖縄の人々にはどのように響くのだろうか。人間関係と信仰の理想を破壊している。対立し分断する原因を作っている創価の支援活動を、わたしは憂い嘆く者です。
      理想へのチャレンジは、思想の実現の過程で、注意深く慎重に行動しなければならないと思います。同じメッセージで「漸進性」を主張しているように、仏教の精神である調和の重要性を、地域社会に適合し、地域性を十分に生かしたうえで、対立に対抗する精神としてもう一度考えていただきたい。問題があっても、すぐには変わらないもどかしさはありますが、民主主義とは手間がかかる制度であり、緩やかにしか改革は進みません。漸進性こそ真の保守のものですが、その根底には懐疑主義的な人間観があります。だからこそ理性的不完全さを前提にし、信念を曲げないという宗教性が必要なのです。良識は経験知ですが、個別の意見に耳を傾けること。
      地域の複雑な事情を無視し、本部方針をおしつけるやり方からは、対立と分断が生まれるのは当たり前。苦しみに寄り添うことがない人間の本性が表れたと、わたしは理解しております。また、宗教的動機からの政治という現実改革は、純粋に不純を混ぜ合わせるようなものです。不純を濾過する力がない者が指揮すると、悲惨な結果に終わる。会員も不幸になります。

      ◇◇◇

      人権教育ウェブサイト
      が開設されました(9・21の聖教報道)
      また、「核兵器なき世界への連帯」展がモンゴル・ウランバートルと渋谷で開催されました。
      「7色に輝く女性展」は創価女性会館で開催され、先月で終了しました。ほとんど、先生のスピーチに登場する女性です。セクシャル・ハラスメントについての意識が低い創価内での問題は、そもそも創価の第一婦人として尊敬を集めている香峯子奥さまの古風な言動に起因していると思います。
      全国婦人部長のうえに位置しリスペクトを受けていると思われていながら、役職はなく、役職に付随しているインフルエンスもありません。また、会合等のご指導やご意見が紹介されることはほとんどありません。夫にささやく力はあるのでしょうが、社会に開かれた視点を持ち、女性の立場から宗教へのアプローチや問題意識があるのでしょうか、尊敬に適う発言があるのも当然と思います。奥さまの本名は「カネ」と言いますが、香峯子と改名したのも、戸籍上の公式のものなのか分かりませんが、先生も改名しており、体面を飾る性格は、夫婦で似るものなのですね。その良妻賢母の美徳は、慎ましやかで従順で、自分から何かを提案し制度やしきたりや習慣をかえることはありません。
      現状肯定の行き着く先に、やがてレリジャス・ハラスメントへと発展し過大な負担と献身を強いられること。およそ人材の欠乏は、組織の人間関係や教義への共感性の欠落から生まれますが、リーダーの力不足が影響し、何でも宿命だと指導する宿命ハラスメントや、問題解決の唯一の方法は題目しかないという題目ハラスメントの定型的解答は新鮮さが失われています。つまり凡庸な仏法理解の手垢にまみれた表現を聞かなければならないときは、失望と悲観と落胆とため息があるだけ。

      このようなビデオ制作には、それ相当の資金を投入していると思われますが、財務の真心が活かされていることを祈るばかりです。人権という言葉も意味も学習することがない国や地域があることに、ただ驚きますが、もっと悲惨な境遇にある子どもや女性たちが、きっといるのでしょう。
      尊厳への道は、終わりがない果てしない物語です。奉仕し、従事している人々の忍耐強さには、深い敬意を覚えます。世界は不幸せに満ちています。

      A Path to Dignity: The Power of Human Rights Education
      (画面上の字幕のアイコンをクリックすると日本語訳が見れます)



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      ♡Comment

      天パ。 | URL | 2018.10.06 18:57
      今は認めてはいけないと思います。
      私の大好きな日蓮聖人様の時代は、
      武力=護法の役割がある。
      人間は鎌倉時代より
      知識は豊富に成った。
      それが、
      善知識なのか?
      悪知識なのかは、、、。分かりません。

      少なくとも、
      語る言葉は人の心を揺さぶりますね。

      インドの女の子の幸せを祈らずには、
      居られ無いのが人情であり、。

      感傷に浸る前に何が自分に出来るのか?考えます。
      アンナ | URL | 2018.10.06 21:20 | Edit
      天パさま、コメントありがとうございます。
      自分にできる範囲で努力することは、とても大事ですね。

      大聖人の身延の草庵での御生活は慎ましくといった次元を越えて、貧しさと厳しい環境のなかで毎日が生きる戦いだったのではないかと思います。そんな身延でも、きっと命を狙われたことでしょう。令法久住のために、また未来を見据えて、兵力といった教団としての武力ではなく、命を護るための備えとして、刀剣を脇においていたと思われます。とても危険な時代でありました。
      法華経に説かれる不軽菩薩は、モデルがあったと確信しておりますが、生涯が迫害の連続だったと推測します。命に及ぶ危険からは逃げ、ときには防御したと思われますが、決して素手で防御したわけではないと思います。法滅に対する危機感は、法華経に通低するもので、それは救済という使命感と表裏をなすものです。大聖人は権力者による他宗の僧侶の処罰も要求しましたが、正法が滅することの重大さを第一に考えられていたからでしょう。法華経が流布する過程は、恐ろしいほどの混乱と争いがあると思いますが、尊厳への道も同じような困難な道です。
      今年のノーベル平和賞授賞に女性の人権侵害に焦点をあてられたことに、とても感動しました。このような活動は資金でショートすることが多くありますので、資金援助の意味合いもあるのでしょう。名誉のためや自己満足のためだけに、豊富な有り余るお金に執着している創価に、名声が集まらないことを祈るばかりです。
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