グローバル・ウオッチの題名は、「ウチナーの心で育む 世界の"モデル地域"」
何のモデル地域なのだろうと、読んでみると、「沖縄は世界で最初の広宣流布のモデル地域」という池田先生の言葉が紹介されておりました。「島チャビ(離島苦)」と言われる島特有の不便さのなかで、彼女はひたむきに頑張っているようです。このような純粋な一途さは、信仰者の特徴をよく表しているようです。
「広宣流布のモデル地域」という言葉は本当なのだろうか。そのモデル地域で、なぜいつまでも解決できずに、基地問題があり、悩まし続けているのだろうか。
毎日新聞社から出ている『大道を歩む~私の人生記録』シリーズ4巻は、Amazon で中古本が1円という安さです。誰も買う人がいないだろうと予想して投げ売りしているものでしょう。ゴミとして処分してもお金が掛かるし、まさか0円というわけにもいかず本屋さんを悩ます最悪の本。きっと、会員の本棚には、こんな本がどっと横たわっているのではないでしょうか。
第3巻には、1992年の中東の旅が綴られており、エジプト・ムバラク大統領と親しく会見した様子が語られておりますので、おそらく、再版されることはないと思います。もともと売れそうもないのですから、無理ですね。
この誰も読まないエッセーの第2巻のなかに、「世界のウチナーンチュ」と題して、沖縄のことが詳しく書かれておりました。1988年、沖縄訪問に際してのエッセーです。
『太平洋戦争で唯一の地上戦の戦場となり、“鉄の暴風”が山河の形まで変えた地である。
過酷な琉球支配の歴史も見逃せない。
最も苦しんだところが最も幸せにならなければならない――。そのために、どんな努力でも払うのが、仏法指導者の役目と信じる。
私は、いつもそんな思いで訪れるのだが、沖縄には悲惨や悲嘆を吹き払う明るさが、人にも自然にもあり、心が洗われる。
沖縄には、文化的な懐の深さがある。
すべてを包み込む、母の温かさがある。
15世紀以来、琉球国・中山王は中国皇帝によって任命される形だった。これを冊封(さくほう/さつぽう)といい、首里王府が中国・明の使節である冊封使 (さくほうし/さつぽうし)を迎えて行なわれた。
そのころの重要なキーワードは"迎恩(げいおん)"であるという。大事な使節を迎える際に、この言葉が使われた。"迎える恩"というところに、沖縄の心があるように思う。
そして、武力を以てせず、歌舞音曲(かぶおんぎょく)という文化の力を以て、海を越えやって来た数百人にのぼる冊封使をもてなしたのである。
復元された首里城の正殿に向かって左、北殿はかつて冊封使の接待に使われた建物である。
王府の役人の床の間には、刀ならぬサンシンという沖縄独特の三味線が飾られていた。
いわば、"文化立国"なのである。
"迎恩"は、その後、広く庶民の間に、人々を迎える際の礼節として受け止められていった。こうした心豊かな伝統が沖縄文化を育み、沖縄精神の一つとなって今日まで受け継がれてきた。
さすが"守礼の邦(くに)"である。沖縄を訪ねた人が感じる、なんともいえない温かさの所以が、ここにあろうか。
沖縄の人々の心根の良さ、優しさは折り紙付きである。
沖縄の人がよく口にする「チムグルサン」という言葉がある。
チム=肝・心が、グルサン=苦しいという意味である。可哀想などといった一方的な、また高みから見た言葉ではない。
憐憫の情ではなく、同じ目線に立ち、苦しみを共有する「同苦の心」である。思いやりにあふれた社会が、沖縄なのである』
『ウチナーというのは「沖縄」のことで、ウチナーンチュとは「沖縄の人」。日本を「ヤマト」といい、ヤマトンチュといえば「日本の人」。
もっともこの区別も、差別するためではなく、ウチナーンチュが広く人々のために働こうといった、自分たちを奮い立たせるニュアンスである。
それは、牧口(常三郎・創価学会初代会長)先生が、日本の偏狭な精神風土として弾劾してやまなかった閉鎖的な島国根性ではない。沖縄は島国ではなく、まさしく海洋の国として、心を大きく外へと開いた地なのであろう。
そんなウチナーンチュが海外の地に移住した時に見せる、環境への適応力、困難に対する強靭さや、助け合いの精神などは、沖縄社会のありようと無縁ではないようである。
世界の各地で活躍する、沖縄から移住した人々、つまり"世界のウチナーンチュ"は、いろいろな文化の多様性を享受しながら、一方で沖縄文化の良さを失っ ていない。
文化の差異がもたらす豊かさを知り、だからこそ自分たちの沖縄の文化を大事にして生きるのである。
各地で歌い続けられ踊り継がれた島唄、そしてカチャーシーの踊り――。
カチャーシーは、ブラジルのサンバのように、またたく間に、人と人を結ぶ。
人生の四季折々に歌われ、国境・民族を超えて喜びの輪を広げている。
南米をはじめ各地で、ウチナーンチュは同胞のみならず、その国の誰に対しても、困っているならば、ウチナーグチ(沖縄の言葉)で、サンシンをつまびきながら島唄を歌って励ました。手を取って立ち上がり、ともに歌った。
言葉は通じなくても、真心が通じた。それは自国の文化の押しつけではなく、自国の文化による人類への貢献といえよう。
自分の持っている文化的伝統を捨てることなく、しかも他者のためにつかう――。この「自他共の幸福」を願う特性が、ウチナーンチュには備わっている。
それが出自を忘れることなく、しかも世界各地に溶け込むことを可能にしたと見たい。
先の大戦では、実に県民の4分の1が犠牲になった。戦後の瓦礫の中から沖縄の陶磁器のかけらや、焼け焦げた紅型(びんがた:沖縄で発達した模様染め)の切れ端を拾い集め、バラックの粗末な小屋に展示した。連日、押すな押すなの盛況だった。
人々は生き抜くために、自身の依って立つ文化的アイデンティティー(自己同一性)を必死に求めた。それは同時に、世界への貢献の心を求めたのであった。
沖縄の料理といえば、有名なチャンプルーがある。
いろんな身近な素材を一緒に炒める。ベースが素麺であったり、豆腐であったり、ゴーヤというニガウリであったりする。
しかも家庭の、母の味だ。いろんな素材を混ぜ合わせ、それぞれの味を生かしながら一つの料理にする。
沖縄の文化のチャンプルーには、ヤマトもあり、中国もある。韓・朝鮮半島もある。アメリカもラテンアメリカも、ヨーロッパもある。
それらがウチナーと渾然一体のハーモニーを奏でる。
"チャンプルーの心"の根底には、他者を持て成してやまない、他者の喜びを我が喜びとし、他者の苦しみに同苦するウチナーの心があろう。それは 若夏(うりずん)の太陽のようにまぶしい』
そして、南米で活躍する会員の姿を紹介し、海外移住の逞しい沖縄人の先駆者でもある、"県移民の父"と尊敬される当山久三氏の功績を描いて、世界に通用する沖縄の文化的国際性を強調する。
『沖縄の先人たちは、サバニという小さな舟で海に勇敢に漕ぎ出して、黒潮に乗って、ジャワ、スマトラまで、縦横に駆け、いち早く交易圏をつくり出してきた人々である。
15世紀末の大航海時代に進出したポルトガルやスペインによって、この大交易時代は終わるが、ウチナーンチュにとって、海はゆく手を阻む"壁"ではなく、未知の世界を開いてくれる"道"であり続けた。
ニライ・カナイ――。幸せは海の向こうからやってくるとする思考も、外を恐れない心を育んだのであろう。
歴史的に見て、沖縄の海外移住は"県移民の父"といわれる当山久三(とうやま・きゅうぞう)にさかのぼる。
明治政府は、沖縄において江戸時代の旧慣を温存した。
琉球王府と薩摩藩の支配にあえぐ人々の暮らしは、形こそ変われ、そのまま残った。世界に類例を見ない悪法とされた"人頭税"もそのまま残った。
地租改正がなされたのは、本土に遅れること36年。衆議院議員選挙も長く行なわれなかった。
沖縄の人々は、意見を言う機会さえ奪われ続けたのである。
不況の波は 容赦なく襲い、米はもちろん、食べるイモさえなく、人々は、慎重に調理しなければ命にかかわるソテツで飢えをしのいだ。世に言う"ソテツ地獄"である。
当山は、自由民権運動に挫折した後、沖縄の窮状を救う現実的な方途として、移住に情熱を燃やし、今から百年前の1899年に、自身の出身地である金武 (きん)村をはじめとする26人を、最初の移住団としてハワイへ向かわせている。
自らも4年後には、第2回の移住者を率いてハワイへ渡航。現状を視察している。
彼はその心意気を、こう詠んでいる。
「いざ行かん 我らの家は 五大州(=5大陸)
誠(まこと)一つの 金武世界石(きんせかいいし)」
なんと気宇壮大な歌であろうか。
事実、沖縄からの移住者は、五大州を家として誠一つで働きに働いた。
今日の世界での活躍の礎石は、百年前につくられたのである。
第2回の移住で、金武村からハワイへ渡航した人を祖父に持つ沖縄の友によると、サトウキビを刈り取り肩に掛けて運ぶ重労働で、祖父の右耳は真下へ完全に折れ曲がっていたという。それほど懸命に働いた。
沖縄には、古来"ユイマール"という助け合いの形態がある。ユイ=結び、マール=回る、である。つまりサトウキビの収穫時や田植え時などの農繁期に、地縁・血縁でグループをつくり、順番に農家を回って共同作業をした。
こうした労働交換の伝統が、世界各地へ移住した後も、県人会を通して受け継がれていった。海外の灼熱の大地に鍬をふるいながら助け合い、苦しみを共有す ることで乗り越えていったのである。
もちろん単なる形式ではなく、助け合いの精神の大切さを、沖縄の人々は体で知っていた。
台風がよく来た。自然の猛威の前に、ひとたまりもなく畑はやられる。嵐が去ると、牙を剥いていた海は やがて凪となり、静かな豊饒(かりゆし)の海が眼前に広がり、海の幸をもたらしてくれる。
じっと耐え、助け合っていけば、いつか乗り越えていける――。この楽観主義に立たなければ、明日を迎えられなかった。決して絶望しない強さ。それが沖縄の人にはあった。
今や移住百年で、ウチナーンチュはブラジルで日系人の約1割を占める8万人――。ペルーでは日系人の半数をはるかに超える4万5千人。アルゼンチンでは約3万の日系人の7割が、沖縄出身である。
移住先で過酷な試練をはねのけたウチナーンチュの"一人立つ強さ"は、絶望的とも見える困難を乗り越え、各地で勤勉と努力の実証の華を咲かせていった。 ウチナーンチュには、何よりも"人間としての強さ"がある。
特別な後ろ盾や地位がなくとも、一人ひとりが、原体験から平和の尊さを妥協なく叫び続ける。
戦前、沖縄の小学校では沖縄の方言を使うことを禁じられ、もし使うのを見つけられると、罰として首に「方言札」を掛けられた。
自らを蔑視させられた忌まわしい過去――。この経験から、人権の擁護には己を賭して立ち上がる。誰を頼るのでもない。いわれなき差別を本然的に許さない……。
この地で仏法流布が着実なのは、一人ひとりの自立の基盤をより強め、一人立つ心を涵養する仏法の精神が、強き"ウチナーの心"と響き合うからであろうか。
一時的な流行や権威・権力の介入を嫌い、草の根の動きを見定め、良いものは良いと認める、沖縄人の平等で鋭い眼力からであろう。
もちろん、その陰に、我が沖縄の同志たちの尊き献身があることは言うまでもない。
――5年ぶりの沖縄訪問で、私は語りに語った。
法華経には、三変土田の原理が説かれる。
国土の宿命は、人によって転換される。
まさしく立正安国論に仰せのごとく「国は法に依つて 昌(さか)え法は人に依つて貴し」である。
また、「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候」である。
郷土の発展は、そこに住む一人ひとりの向上と活躍による。社会と国土の繁栄の根本道である妙法で自身を磨き、日本一、世界一の理想郷を築いてほしい ――と。
海外貿易が盛んなりし頃、首里城正殿(せいでん)に掛けられた巨鐘(きょしょう)には「万国の津梁(しんりょう)となし、異産(いさん)至宝 十方刹(せつ)に充満せり」と刻まれている。
国際交流がもたらした至宝は、文化の差異を認め合い、多様性の中に豊かさを見い出して"世界市民"として生きる"沖縄の心"に他ならない。
沖縄こそ万国の津梁・懸け橋となり、世界へ優れた文化・英和意識を"発信"しゆく大いなる使命を持っている。
ウチナーンチュが、いよいよ真価を発揮する舞台こそ、21世紀である』
池田先生の沖縄の知識は相当のものですが、内部アンチと悪口や陰口を言われているわたしが言えば、アンチの方々から、代作なんだからなどと批判されてしまうのでしょうか。「小説・人間革命」には、自己プロバガンダの部分が多いと感じますが、師弟不二を強調するわりには、弟子の心配りや思いやりに不満を感じていらっしゃるのかもしれません。ともかく、エッセーは優れております。
大河ドラマの「西郷どん(SEGODON)」の前半のハイライトでは、愛加那との出会いや別れの他、風俗や文化、サトウキビ産業や薩摩藩との従属的関係に、大変興味が刺激されました。実際は、奄美大島を統治する琉球王につながる家系らしく、貧しい農家という印象ではないらしい。西郷隆盛が生きていれば、琉球も違う歴史をたどっていたかもしれない。
人頭税は過酷な支配の象徴のような税制で、20世紀初頭まで残っていたと言われております。
沖縄の一部に独立を主張する根強い勢力がおられますが、沖縄の歴史を知れば無理もないと思えてきます。強圧的な迫害を受けて、生きる場所を求めることで移民も盛んに行われたのでしょう。
悲惨な歴史の頂点を極めたのは、第二次大戦のアメリカ軍上陸の戦場となった沖縄であったことを、わたしたちはよく理解する必要があるでしょう。科学的で合理的な技術で制御された、物量を投じて発展した大量生産の時代は、大量殺戮の時代でもあるのです。それ以上に、生命尊重の思想が風化し、その脈々としたエネルギーを失う時代でもあるのですね。
戦後の沖縄において、政治が果たした役割はきわめて悲観的で部分的です。防衛という大義の影で、犠牲を強いられてきた沖縄県民の姿です。漸進的な変革を望む宗教指導者は、理念を語り、提案ばかりして会員を誘導し、結局は政治的権力で強行する無責任さです。
公明支持者のなかで、基地問題への対応で、意見が割れ対立しているということをお聞きしました。そもそも宗教組織であって、政治組織ではないのですから、意見が割れても不思議ではありません。むしろ、いろんな意見があって健全です。信仰組織にまで対立が持ち込まれることに、創価は不寛容な組織に変容しつつあることが窺うことができるでしょう。政党など、どこを支持してもよいと思いますが、過去に、戸田、池田先生がそうご指導されてきたのではないでしょうか。
「核も基地もない平和で豊かな沖縄」
そう書いたのは「人間革命」ですが、沖縄の人々の願望を適切に表しているでしょう。池田先生は、御本尊についても会員を欺きましたが、基地問題についても、沖縄の人々にも顔向けできないような都合のよいことを言い続けてきたのではないでしょうか。公明党を使って、さらなる苦痛を与えようとしています。悲しいことですが、創価を滅ぼす因を作っているように思われる。今では会員の前から姿を消して大文豪気どりでいるのに、ノーベルメダルは贈られましたが、ノーベル賞はとれなくて残念でしたね。
「新・人間革命」について、2001年の12巻終了時点で、次のように思いを語っております。
『大デュマの大著で知られる「モンテ・クリスト伯」は、もとは新聞の連載小説で、たまたま一日でも休むと、パリ市民はもちろん、フランス全土が陰鬱な気分に陥ったという。作家冥利に尽きるというものである。
「戦争と平和」のトルストイは、大作の完成に五年をかけた。
「レ・ミゼラブル」のユゴーは、初稿を執筆後、十二年の中断があったが、再び執筆を開始して、二年で出版している。これら大作家は、八十歳を超えても、なお生き生きとしてペンを執った。ゲーテしかりである』(大道を歩む・第三巻:平和への叙事詩「新・人間革命」)
文字通り、大作家と大作品をならべて、おだやかに対照しているところが、誇大妄想的な自己顕示があるでしょう。こういった文章は「人間革命」のなかでも随所にみられますが、不自然さがないばかりか、繰り返されると説得力があります。
別の個所では、真実を書き綴りゆくとして、次のように語っております。
『「新・人間革命」には、いかなる名誉も求めず、いかなる報酬も望まず、ただただ仏法広宣に、力強く気高く生き抜いた地涌の群像が描かれていく。後世の人々が、この民衆の軌跡のなかから、未来の指標を引き出していかれんことを願いつつ、私は筆を執り始めた』
『第二次世界大戦の悲劇に塗炭の苦しみを味わいながら、冷戦が激化し、いっこうに戦火が止むことがない世界には、人間の業火が燃えさかっていた。出口を見いだせない人類の苦悶を真っ正面から見つめ、一つの回答を示そうとしたのが、この主題であった』
会員の皆さまは、名誉も報酬も求めていませんが、リーダーはどうなのでしょうか。階級が上がるたびに欲深くなるようです。中国共産党と同じです。昨今は終活が流行しているようですので、あの世に持っていかれない余計なものは整理したほうがよいかもしれませんね。死に勝る主題はありませんし、生の総括としての人間主義も正念場を迎えます。【生と死の永遠の激闘】壮大な構想と壮大な着想と壮大な物語に圧倒されます。
◇◇◇
この記事の目的である『いくさやならんどー』のなかから、一人の体験を紹介します。どれほどの真実が表現されているのか、血の涙という言葉がありますが、苦しみの極限に衝撃を受け、その数奇な運命に絶望感だけがあふれます。
「平和への願いをこめて」という全20巻シリーズのなかの一冊・『いくさやならんどー』は、婦人部の総力が結集された反戦出版です。84年の出版ですが、婦人部平和委員会が編纂した貴重な証言集であり、その後の反戦・反核展や国連軍縮キャンペーン、平和講演会へと発展していくアクティビティーの自信と信用となり、社会参加へのベースとなりました。
『「母の遺言」:T・O(47歳)
沖縄戦終焉の地・島尻で、私は両親を失いました。姉と私と弟は、不思議にもあの激戦の最中、バタバタ死んでいく人達の中から生きのびることが出来たのです。
飛行機の爆音と共に「助けてくれ!」と叫んだ母の声。避難先の東風村(こちんだむら)の壕の前で無惨にも母は両足を付根からもぎ取られていました。母に泣きすがる私達。父も瀕死の母を前に、なす術もありませんでした。
「父ちゃんがいるからなんにも心配はないよ、三人で力を合わせて生きて行きなさい。母ちゃんがこれからいうことをよく聞きなさい。意地チリヨー(勇気を持て)、誠(マクトウ)シヨー(誠実であれ)、人(チユ)ヌ手(テイ)ヤカインナヨー(他人に依頼心を持つな)」
母はそういい終わると息を引き取りました。父も間もなく艦砲射撃で脇腹をえぐり取られ死去しました。
終戦後、収容所から住みなれた地へ返された私達は、両親が残してくれた僅かばかりの畑を耕して野菜などを作りました。午前五時に起き、学校へ行く前に十二キロ離れた市場へ売りに行きます。毎日の生活は厳しく世間の冷たさもいやというほど味わいましたが、多くの方の親切に支えられたことは生涯忘れません。「意地チリヨー、誠シヨー、人ヌ手ヤカインナヨー」苦しかった日々に私達姉弟を勇気づけ励ましてくれたのは、母のあの言葉です』
長大な小説を描く人よりも、意識も遠のくなかでの必死の言葉の真実と、愛情、慈悲深さに心が動かされます。現在の沖縄の諸々の問題を見透かしているかのように励ます姿は、子を思う親の心情というだけでなく、人間の生き方の指針を、命と引き換えに伝えているようです。
ウチナーンチュには、その子どもたちも孫たちも、その悲しい歴史を刻んだ島も、かつて真紅に染まった海も、灼熱の砲弾の炎におおわれた空も視界も、唯一のものを失い続ける世界の中心で、どこよりも誰よりも、平和で争いがなく、今まで以上に幸せでありますように、それがわたしの願いです。
Rebirth - Two Steps From Hell
P.S.
東南アジアとの交易を主とした平和な独立国・琉球王国が日本の属国となったのは1609年(慶長14年)薩摩藩島津軍の進攻に陥落してからです。平和と礼節を第一義とする琉球では、国内の武器を全て捨ててからすでに百年余が経っており、近代兵器の鉄砲を武器として攻めこんだ島津軍の前からは敗走以外なかったのです。
慶長の役以後、薩摩の属国としての地位を余儀なくされた琉球には、搾取に搾取が加えられ、島民は疲弊し、波涛の彼方にその名をとどろかせた勇姿は、昔日の面影もなく、日中両国の間にあって、機嫌をうかがいながらの悲しい二百七十年の歳月の中で、自主独立の精神は次第に失われていったように思います。
明治12年の琉球処分は薩摩藩の圧政からの救いであり、奴隷解放であったともいわれますが、廃藩置県によって生まれた沖縄は、また「軍事上の要衝」という名目で悲惨の一歩をふみ出すのです。
今大戦では、沖縄は日本本土の防波堤となって、国内唯一の地上戦の戦場となり、多くの尊い生命が失われました。
沖縄本島に上陸した米軍の兵員は、総勢54万8千余人といわれます。当時の沖縄の人口が45、6万人。それを上まわる米軍に対し、日本軍は陸・海軍9万、これに沖縄現地で召集された防衛隊員と県下の中学生たちで組織された鉄血勤皇隊あわせて2万人の合計11万人で、約五倍近い米軍と90日間にわたり、激しい攻防を続けました。激戦の結末は、11万余の日本兵(防衛隊を含む)の死に加えて、沖縄住民は総人口の三分の一に当たる15万余の死者を出し、史上類例のない修羅場を現出したのです。
しかも沖縄住民にとって敵は米軍だけではありませんでした。「沖縄の住民を守るために来た」と公言してはばからなかった友軍(日本軍)が、住民に対して残虐の限りをつくしたのです。
また沖縄の未来を背負って立ったであろうはずの若い学徒達が、学業半ば、十代の若さでにわか仕込みの訓練を受けただけで戦場へ送られたのも悲惨な事実です。女子学生は"ひめゆり部隊"の名で陸軍野戦病院へ看護婦として従軍。その健気な姿は映画にもなって、万人の涙を誘いましたが、現実の沖縄戦は、とても映画などでは描ききれない、極限の地獄絵図だったといわざるをえません。結局、学徒達の戦死者は、男子学生、1780人中、死者890人、女子学生581人中、死者334人となりました。
しかも戦争で受けた被害は決してそれだけにはとどまりません。国宝に指定されていたという建造物を含め、二十余りのかけがえのない文化財が一つ残らず破壊され尽くしました。一木一草にいたるまで灰と化した沖縄はまた、その後においても26年間という長い異民族の支配下に喘ぐ屈辱の歴史をくり返すことになるのです。
戦争によって最も苦しむのはいったい誰でしょうか。戦場の兵士達も辛いかもしれません。しかし、それにも増して、夫や息子を戦地に送り出し、幼い子供達を守っていかねばならなかった女性の嘆きと苦しみに過ぎるものはないといえないでしょうか。
この悲嘆の思いは戦時中の日本全国のどの女性達にとっても同じだったに違いありません。しかし、前線と銃後の区別さえなかった沖縄女性にとって、その悲惨な状況は、今なお語るに狂おしいと黙する人さえいます。
しかし一切を焼きつくされた廃墟に立った時、一番強かったのもまた女性でした。家族の命をつなぐため、戦後の沖縄を体を張って逞しく生き抜いてきた女性達の生きざまは、この沖縄の美しい海や空に、二度と"鉄の暴風"が吹き荒れる日がこないことを、訴え続けているように思えてなりません。
東南アジアとの交易を主とした平和な独立国・琉球王国が日本の属国となったのは1609年(慶長14年)薩摩藩島津軍の進攻に陥落してからです。平和と礼節を第一義とする琉球では、国内の武器を全て捨ててからすでに百年余が経っており、近代兵器の鉄砲を武器として攻めこんだ島津軍の前からは敗走以外なかったのです。
慶長の役以後、薩摩の属国としての地位を余儀なくされた琉球には、搾取に搾取が加えられ、島民は疲弊し、波涛の彼方にその名をとどろかせた勇姿は、昔日の面影もなく、日中両国の間にあって、機嫌をうかがいながらの悲しい二百七十年の歳月の中で、自主独立の精神は次第に失われていったように思います。
明治12年の琉球処分は薩摩藩の圧政からの救いであり、奴隷解放であったともいわれますが、廃藩置県によって生まれた沖縄は、また「軍事上の要衝」という名目で悲惨の一歩をふみ出すのです。
今大戦では、沖縄は日本本土の防波堤となって、国内唯一の地上戦の戦場となり、多くの尊い生命が失われました。
沖縄本島に上陸した米軍の兵員は、総勢54万8千余人といわれます。当時の沖縄の人口が45、6万人。それを上まわる米軍に対し、日本軍は陸・海軍9万、これに沖縄現地で召集された防衛隊員と県下の中学生たちで組織された鉄血勤皇隊あわせて2万人の合計11万人で、約五倍近い米軍と90日間にわたり、激しい攻防を続けました。激戦の結末は、11万余の日本兵(防衛隊を含む)の死に加えて、沖縄住民は総人口の三分の一に当たる15万余の死者を出し、史上類例のない修羅場を現出したのです。
しかも沖縄住民にとって敵は米軍だけではありませんでした。「沖縄の住民を守るために来た」と公言してはばからなかった友軍(日本軍)が、住民に対して残虐の限りをつくしたのです。
また沖縄の未来を背負って立ったであろうはずの若い学徒達が、学業半ば、十代の若さでにわか仕込みの訓練を受けただけで戦場へ送られたのも悲惨な事実です。女子学生は"ひめゆり部隊"の名で陸軍野戦病院へ看護婦として従軍。その健気な姿は映画にもなって、万人の涙を誘いましたが、現実の沖縄戦は、とても映画などでは描ききれない、極限の地獄絵図だったといわざるをえません。結局、学徒達の戦死者は、男子学生、1780人中、死者890人、女子学生581人中、死者334人となりました。
しかも戦争で受けた被害は決してそれだけにはとどまりません。国宝に指定されていたという建造物を含め、二十余りのかけがえのない文化財が一つ残らず破壊され尽くしました。一木一草にいたるまで灰と化した沖縄はまた、その後においても26年間という長い異民族の支配下に喘ぐ屈辱の歴史をくり返すことになるのです。
戦争によって最も苦しむのはいったい誰でしょうか。戦場の兵士達も辛いかもしれません。しかし、それにも増して、夫や息子を戦地に送り出し、幼い子供達を守っていかねばならなかった女性の嘆きと苦しみに過ぎるものはないといえないでしょうか。
この悲嘆の思いは戦時中の日本全国のどの女性達にとっても同じだったに違いありません。しかし、前線と銃後の区別さえなかった沖縄女性にとって、その悲惨な状況は、今なお語るに狂おしいと黙する人さえいます。
しかし一切を焼きつくされた廃墟に立った時、一番強かったのもまた女性でした。家族の命をつなぐため、戦後の沖縄を体を張って逞しく生き抜いてきた女性達の生きざまは、この沖縄の美しい海や空に、二度と"鉄の暴風"が吹き荒れる日がこないことを、訴え続けているように思えてなりません。