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小早川秀秋の関ケ原での優柔不断、その後の乱行は、すべて病気のせいだった!?

2017年06月16日 公開

若林利光(脳神経外科医)

関ケ原でまともな采配を振ることができたか

肝硬変は1、2ヶ月くらいの短期間でなるものではない。秀秋の場合も、曲直瀬玄朔の診察を受けるかなり前から、つまり関ヶ原の戦いのかなり前から肝硬変になっていたと考えられる。肝硬変に合併した肝性脳症による異常行動や性格変化なども、関ヶ原の戦いのかなり前からあったと考えるのが妥当だ。

つまり、これが重要なのだが、秀秋は関ヶ原の戦いの時には、すでに肝性脳症のために判断能力が低下していたと考えられるのだ。また、関ヶ原の戦い後、肝硬変がさらに悪化し、それにより死亡した可能性が高い。また、亡くなるまでに、肝性脳症による精神障害のために種々の異常行動があったことは十分考えられる。

精神に異常を来すもう一つの可能性は、脚気によるウェルニッケ脳症だ。ビタミンB1不足が脚気を引き起こすのだが、大酒は白米の偏食と並んで脚気の主要原因だ。欧米人の脚気のほとんどはアルコール依存症が原因だ。脚気による脳の障害、つまりウェルニッケ脳症でも幻覚、錯乱、認知障害、怒り発作などが見られる。秀秋も大酒のために脚気になって、ウェルニッケ脳症を発症した可能性もあるが、脚気の場合は歩行障害をともなうことが多く、動悸、息切れ、呼吸困難、胸痛などの脚気心の症状が見られることが多い。最後は衝心脚気による心不全で死亡する。曲直瀬玄朔の診療記録がなければ、秀秋脚気説も成り立つ可能性が十分あるが、玄朔の記述から見て、秀秋の症状は肝硬変で決まりだ。

秀秋は慶長の役では総大将となったが、帰国後、軽率な振る舞いをとがめられ、筑前33万石から越前北庄12万石に大幅に減封された。石田三成の讒言のためといわれている。

これにより秀秋に、三成憎しの感情が生まれた。関ヶ原の戦いの2年前だ。間もなくして秀吉が亡くなると、秀秋の所領を回復してくれたのが徳川家康であった。家康に多大な恩義ができたのだ。反三成、親家康の感情、そして精神に悪影響を及ぼす肝硬変による肝性脳症の進行とともに、秀秋は関ヶ原の戦いを迎えたのである。

つまり、関ヶ原の戦い当日、秀秋の寝返りの時期が遅れに遅れたのは、肝性脳症による判断力低下による可能性が高い。そうだとすれば、そもそも秀秋にまともな采配を振ることができたのか、はなはだ疑問となってくる。心神耗弱のような状態だった可能性もあるからだ。そう考えると、実際に秀秋が大谷吉継軍への突撃の命令を下したのかということにまで疑問が湧いてくる。それはともかく、松尾山の秀秋に肝性脳症による判断力の低下、決断力の鈍化があったことは間違いないだろう。

※本記事は、若林利光著『戦国武将の病が歴史を動かした』(PHP新書)より、その一部を抜粋編集したものです。

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