輸送問題は何とかクリアでも
外国人対応には四苦八苦した
中央・総武線は1964年10月までに10両編成最短2分30秒間隔という、現在と同じ輸送力にまで増強され、夕方の通勤・通学ラッシュに1日最大10万人の国立競技場観客数が加わっても対応できる態勢を確保した。
特に混雑の集中が懸念された、国立競技場最寄りの信濃町、千駄ヶ谷の両駅については、通常のホームとは別に臨時ホームを増設し、御茶ノ水方面から到着する観客は信濃町、新宿方面から到着する観客は千駄ヶ谷駅で下車さて利用を分散させた。
営団地下鉄銀座線も大会期間中、17時から18時まで外苑前駅の発着列車を2分間隔で運行し、輸送力を平日は通常の25%増、休日では50%増とした。思い切った輸送力増強により、懸念されたほどの混雑や混乱は起こらず、オリンピック輸送を乗り切った。
しかし、1964年大会時に鉄道事業者が抱えた難題は意外なところにあった。それは不慣れな旅行者、とりわけ外国人旅行者の案内である。
駅の混雑や混乱を抑制するためには、旅行者の鉄道利用をできるだけサポートする必要があり、特に訪日外国人旅行者に対する外国語案内が不可欠であった。
1964年の訪日外国人旅行者数は35万人で、うちオリンピックの観客は4万人であった。今年2018年の訪日外国人旅行者は3000万人を突破することが確実視されており、2020年に4000万人を目指している現状と比較すれば、わずか100分の1の規模である。
それでも4万人の旅行者が東京に集まってくるということは、当時としては相当なインパクトがあっただろう。なにしろ日米を結ぶ太平洋航路にジェット旅客機が就航したのが1959年。日本人の海外渡航自由化は、1964年4月に解禁されたばかり、というような時代である。