太陽の仏法 4

      人間って、ときには悪的要素が必要なのではないかと考えたりしますが、善良でばかりいることはあまり面白い人生ではないのじゃないかと、法律うんぬんとかの問題ではなくて、ワルのポテンシャルがときには現状打破のエネルギーになるかもしれないと、このうえなく純情なわたしは、時々考えるときもあるんですよ。もちろん悪を容認しているわけではありません。世のなか複雑すぎて、擦り切れるように気持ちも萎えていきます。持続性に課題ありですね。毎日は容赦なく続いていくわけですから、自己エンジンのメンテナンスも欠かさずに、向上への意欲をフォローアップしていきたい。
      決まったエクササイズはしていませんが、柔軟体操とベッドでヨガ的集中姿勢の堅持で、気持ちを整理するのがデイリー・ルーティン。つまり、心身ともにリフレッシュして、次の戦いに備えようとの善き心掛け。ハッピーラインはまだまだ遠い!

      異常な暑さが続き、日本列島全体が大きなフライパンのうえで熱せられているようです。死者も増えているこの殺人的暑さは、総罰のせいで、魔神が神社で暴れている結果なのでしょうか。この異常気象は世界的で、各地で被害をもたらしているようです。地球が灼熱地獄と化していますが、気象庁も警告を発するぐらいなら、創価に頼んで、神仏の加護を祈ってください。
      また、総罰を主張することで、オカルトまがいの超自然の力を畏怖するイメージが思い起こされます。このようなスピリチュアルで霊的な神秘性は、理性的な論理を大切にする宗教が、もっとも嫌悪する現象です。創価の一部の人間の主張は、宗教の非科学性を強調しており残念でなりません。いつまでたっても宗教の害毒から抜け切れず、組織の醜い低俗性に反映されます。
      会員の師である池田先生は、ずっと科学的であり、理性的ですが、弟子は不勉強のうえオカルト好きに加え、非人間的な断定を下して平気。仮面を被っているような冷酷さです。その冷酷さに追い打ちをかけるように、台風まで上陸してきました。もしかしたら、大御本尊に唾をかけた創価が、不吉な魔になっているのではないでしょうね。

      産業革命以来、科学技術の発達と経済のグローバル化は、人類にその恩恵をもたらしました。その反面、温暖化という人類に壊滅的な結果が想定される気候変動の脅威も増加しました。
      第43回(2018年1月26日)SGI提言で
      『SDGsでは、貧困や飢餓や教育をはじめ17分野にわたる目標が掲げられていますが、この中で近年、国際協力の枠組みづくりが進んできたのは、気候変動の分野です。
      昨年11月、地球温暖化を防止するためのパリ協定に、唯一の未参加国だったシリアが批准しました。脱退の意向を示しているアメリカの今後の動向が課題として残るものの、世界のすべての国が温室効果ガスの削減に共同して取り組む体制が整ったのです近年、異常気象が各地で相次いでいますが、その脅威と無縁であり続けることができる場所は、地球上のどこにもありません。
      干ばつと洪水による被害や海面上昇の影響などで住み慣れた場所を追われる「気候変動難民」の数も増加しています。温暖化に歯止めがかからなければ、最悪の場合、2050年までに10億人が移住を強いられるとの予測もあります。  
      パリ協定は、そうした深刻な脅威から多くの人々の生活と尊厳を守る命綱となるだけでなく、将来の世代のために持続可能な社会を築く土台となるものです。  
      発効から4年以内(2020年11月まで)は、どの国も脱退できない仕組みとなっており、アメリカがこのままパリ協定の枠組みにとどまって、各国と共に目標の達成に向けて行動することが強く望まれます』

      解決に向けて努力する、世界の科学技術者や政治家や人道的活動家などをあざ笑うかのような、魔神のせいだの、日天のせいだと考える会員が未だにいることが驚きです。師は各国の誠実な協調と問題意識の共有を訴えていますが、弟子は諸天が怒っているせいだと、まるで狂信者のようです。末法の因習深い終末思想は命深く染みついています。いったい創価の宗教教育はいかなるものなのでしょうか。賢明な会員を育てるために役立っているのでしょうか。


      ◇◇◇


      太陽の仏法」という比喩は、池田先生がスピーチや文章によく用いる表現です。万人に平等に恩恵を贈る優れた妙法を顕し、日蓮の御名前にも通じてイメージしやすい言葉です。悩める人に希望を与え、信じることの崇高さで、社会全体の変革をも可能にする妙法は、公平でフェアな中道思想です。人間は平等であることで、本来具わっている生きる強さを発揮できるようです。ポジティヴな自分自身を発見し、また自分以外の不安や苦痛に対して、同苦する思いやりや慈悲心を、積極的に涵養する人間的大きさにも通じます。あらゆるものが「太陽」という万人が認める喜びに凝縮することでしょう。太陽の光は、万物を育むと同時に、自分の胸のなかにも輝いている命のきらめきです。また太陽は御本尊そのものであり、信仰の根本です。


      平成3年12月15日
      川崎文化音楽祭/広宣の舞台で戦う人は皆美しい
      『血脈の本義について、少々述べておきたい。
      日有上人は、「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其ノ筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、(中略)高祖已来の信心を違へざる時は我レ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此ノ信心が違ふ時は我レ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念々中の所作皆是レ三途の業因と」(「化儀抄」富要一巻)
      (信といい、血脈といい、法水ということは、同じことなのである。信心が動かなければ、その筋目は違うことはないのである。筋目が違わなければ、血脈・法水は違わない(正しい)のである。(中略)大聖人以来の信心を違えない時は、われらの色心は妙法蓮華経の色心である。この信心が違う時は、われらの色心は凡夫の色心なのであり、凡夫であるゆえに、即身成仏の血脈ではないのである。一人が一日に八億四千の念々を起こす。その念々の所作が皆、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の原因となるのである)とお示しになっている。
      つまり、「信心」と「血脈」と「法水」とは"同じこと"であると――。むずかしいことは何もない。信心が動揺することなく、「正しい信心」を貫くところに、血脈が誤りなく流れるのである。
      大聖人以来の信心を少しも違えずに実践する時に、われわれの色心は、仏の血脈が流れる妙法の当体となって、その身そのままで成仏できる、と。反対に、大聖人の仰せに背き、信心が狂った場合には、すべての行為が三悪道に堕する悪業になるのである』
      『さらに、この御文について、日亨上人の註解を参照しておきたい。
      「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・撹乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし」(「有師化儀抄註解」富要一巻)
      要するに「正しき信心」をつらぬきゆく時、御本仏日蓮大聖人から信徒の生命へと法水が流れ通う。それを信心の「血脈相承」というのである、と。(中略)
      ご指南は明快である。大聖人、日興上人以来の信心・実践を少しも踏みあやまたない時に、われら凡夫の色心が妙法の当体となるのである。
      反対に、仏意に背いて邪信、迷信となった場合には、血脈の流れる通路がふさがってしまうため、血脈を継ぐ「資格」が「消滅」して、堕地獄の道をたどることになる。破仏法の人間は、だれであれ、事実のうえで、即身成仏の血脈を受ける資格を喪失しているのである。
      仏法の根本は、どこまでも「信」である。地位でも、権威でもない。「信心」の二字にこそ、御本仏からの血脈は通い、生き生きと脈打つのである。
      もしも信心を失い、信心が狂った場合には、立場が高いほど、むしろ厳しく「法」によって裁かれることは間違いない。「信心の血脈が切れる」などと脅しているほうが、じつは血脈が切れているのである。絶対にだまされてはならない。
      創価学会の「信心」は何ひとつ変わっていない。動いていない。変わったのは宗門のほうである。大聖人以来の成仏の血脈は、私どもに脈々と流れていることをいよいよ確信し、悪僧たちを見おろしながら、朗らかに、堂々と、前進してまいりたい』


      日亨上人は別の文章で、「薄信」「臆病」の信心で法難を招かないような門下は、「非日蓮的」であり、大聖人の御本意から遠い卑怯者であり、門下でもない、と厳しく断言されている。正本堂、大客殿をはじめ信徒の真心をことごとく裏切った宗門は、日蓮の正統を名のっていても、大聖人の門下ではありません。
      上記の長い引用は、血脈について、あるいは法水について、当然と考えていることを当然のように、スピーチされたものです。信仰であるかぎり、僧であれ在家であれ、信に重きを置き、信が中心にあるのは、誰が考えても当たり前のこと。その信の流れに堰を作り、石をならべて障害を作り、素直で直情的、ありのままの信を遮断するように、人為的にせき止めているのは、僧がもったいぶった儀式中心の形式主義者であるからです。いかにも苦労しているポーズを装い、何も言わない御本尊すら騙そうとしている。
      日蓮が信徒に寄せるかぎりない優しさと、激しい革命精神を持った僧は、宗門のシステムのなかでは育たないでしょう。師が秀れていれば弟子も秀れているとはかぎらない。師が凡庸であれば弟子は凡庸であること、ほとんど不可避です。絶えざる向上の源泉として御本尊と信仰を保つこと、少しでも日蓮の御心境を考え、そこから学ぼうするなら、教義に対しいい加減な姿勢では、正しい信仰者とは言えないでしょう。
      池田先生は、「創価の信心は何ひとつ変わっていない」とスピーチされています。大御本尊に対し、御本仏に対し、動揺することなく、変化することなく、信仰に対する態度は、今までどおりにこれからも、変わらないと言っているのですよ。このようなメッセージを、過去のものとする会員の便利な言い訳は、教義について、ほとんど何も考えていない証拠でもありますが、池田先生も自分の言動に責任を持たないいい加減さの証拠でもあります。真面目な会員を偽っている。
      「動いていない、変わったのは宗門のほうである」池田先生のご指導を無にする弟子が、動揺したあとで、師弟不二を主張するのですから、もはや何をか言わんやです。自分の矛盾する過去の言動を恥ずかしく思わない厚かましさに、創価の根本的な問題があります。はたして血脈が流れているのか、大いに疑問ですが、大御本尊への信受を否定したところから、創価の迷走は始まりました。道理に適わない信仰は、瞬く間に不幸とともに邪宗に転落します。そのように三代の永遠の指導者が、永遠に変わらないと確信を込めながら、ご指導されてきたのではありませんか。
      血脈について、これ以上のことは言うべきことを知りません。血脈とは、正しい御本尊への強情な信仰ということなのです。それ以外に血脈はありませんが、御本尊とは、一閻浮提総与の大御本尊より他にありません。


      平成3年12月23日
      荒川・立川文化音楽祭/広宣の聖火を偉大な庶民の都から
      寺院での御授戒の経緯について詳細を述べたあと
      『戸田先生は昭和二十九年(1954年)七月の本部幹部会で、その実態の一端を述べておられる。
      「地方に、一軒の正宗の寺があった。学会の地方折伏の趣旨を話したが、『勝手にやりなさい』となんら助けてくれない。しかたがないので、(聖教)新聞とチラシをもって、一軒一軒まわった」と。
      ほとんどの僧侶は、学会の折伏・弘教の活動に対して無理解であり、むしろ批判的でさえあった。その後、学会による折伏・弘教の進展とともに、全国の寺院でも御授戒が行われるようになっていった。
      同じ牧口門下生の柏原参議会副議長は「なかには、やり方をよく知らない僧侶もいて、学会の幹部が教えてあげたこともある」と述べている。
      また、"謗法払い"も、学会が厳格に実践し、定着させた。総本山内の謗法払いまで、学会の力でやったのである。
      「宗門がどんなに威張っても、全部、学会が教えてやったんじゃないか」と、牧口門下生は皆、語っていた。
      これが、正宗で「御授戒」が行われるようになった経緯である。信仰の"けじめ"の意義で御授戒の儀式は行われていたのである。本来、その形式自体が絶対に必要というものではなかった。
      大聖人の仏法の「受持即持戒」という本義からいうならば、御本尊を受持した時、または、最初に御本尊への信を起こした発心の時が、末法の戒を受けた時といえるのではないだろうか。
      さらにいえば、本来、戒とは"授けられる"ものというよりも、自身の決意で主体的に"持(たも)つ"ことに眼目がある。発心を持続することが、戒を持つことになるのである』

      宗門のだらしなさは、僧の傲慢に起因しています。信への傲慢さであり、行の傲慢さであり、学への傲慢さです。修行者としての必要な堅実さを放棄し、始めから終わりまでのトータル的な過程での傲慢さです。信徒の健気さをバカにし、あってはならない信仰の慣れから安易に結果を予想して、妙法の功徳を矮小化し卑下するものです。キャラクターに不釣り合いな権威や権力を手にすると、なにを勘違いするのか、尊大さだけが身に付くようです。僧は不必要であるけれど、出家としての純粋さを維持できるなら、求道者として尊敬を集めるなら、広布のリーダーとして認められるでしょう。
      まず、在家の供養を当てにしないで自給自足を心掛けるべきです。シンプルで、ストイックな生活にこそ、求道者の真実があります。信仰態度は生活態度に反映されます。出家者の真剣さに、在家は心打たれることでしょう。
      御授戒の由来を語っておりますが、化儀として定まったものがなかったのかもしれません。あったとしても一般的でなかったために、僧自身も知らなかったということでしょうか。
      宗門は勤行ひとつとっても、五座三座を主張しますが、時代にそぐわないことは明白です。そもそも勤行は儀式形式の最たるものです。個人的な意見ですが、勤行は個人の裁量に任すべきです。主要な勤めは唱題です。より簡易な修行方法にこそ妙法の醍醐味があり、大乗の精神があるでしょう。
      化儀は妙法の本質ですが、十分な理由のもとで変化することもあるでしょう。日有上人は、化儀抄で御指南されておりますが、偏狭に解釈すべきではありません。
      『貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか』
      差別なく同等であるとご指南されておりますが、「上下の節」「其の位」「礼儀」とも言われております。僧俗の組織上における互いの役割としての「上下」であり、その理解と尊敬は、御本尊崇敬への気持ちから発揮されます。一般的、社会的「上下」であり、宗門にのみ通用するような「上下」ではありません。人間としての礼節としての「上下」です。法は常識外にあるのではありません。法が尊貴であるがゆえに、その法の実行者への賛美と尊重であり、「人の振る舞い」の表れです。広布はそれぞれがその役割を果たすことが必要であり、労苦への菩薩としての礼節です。御本仏が願い望んだ理想の組織は、平等な理念と尊敬が溢れている組織です。
      「礼」は仏法の真髄にも通じています。他者の存在に礼を持って敬意を払うこと。異なる他者、文化を尊重することは、平和的共存の基本です。日蓮は、立正安国とともに、社会の安寧を求めました。その社会の基本原則は他者への懐疑ではなく、他者を尊重する行為への信頼です。
      妙法が世界宗教へと飛躍するためには不平等思想は禁忌のなかに禁忌です。そのような社会習慣と差別意識を克服するための妙法ですが、宗門の古臭さは、伝統を重んじるあまり、法の柔軟性を放棄、順応性もありません。宗門の僧が、イスラム圏やキリスト教地域で、弘教する姿を想像できません。日蓮は日本から世界へと流布する世界宗教を望んだのであり、各分野で活躍する在家の実行力が問われる時代であることを、宗門の石頭も知るべきです。僧の無力さは自覚なき無力さです。無惨としか言いようがありません。早い話、大御本尊と三大秘法が不変ならば、他は臨機応変に変化しても一向にかまいません。円教(法華経)の大いなる肯定主義は、妙法的ヒューマニズムということ。他者の理念と信条への尊厳と肯定こそ、世界平和へのキーワードです。

      『大御本尊は「一閻浮提総与」であられる。全民衆の幸福のための御本尊であられる。その大御本尊が書写された、会館や皆さまのご家庭の御本尊も、御本尊としての御力に、何の違いもない。
      また、仮に御本尊を拝せない場合も、強盛な信心の唱題は、大御本尊に必ず通じていく。妙法は全宇宙に遍き大法なのである』

      妙法の信仰者としてこれ以上の何を付け加えることがありましょうか。このために受持したのであり、無二の信心を貫くことを誓ったのです。わたしはその信念を変えることはありません。創価の、池田先生の身勝手さに左右されることはありません。


      平成3年12月26日
      沼津文化会館を初訪問/学会の「宗教革命」の正しさ確信
      『正本堂が完成する前、本門戒壇の大御本尊が御安置されていたのは奉安殿である。これは、学会によって建立寄進された最初の建造物であった。
      昭和三十年(1955年)十一月二十三日、奉安殿落慶の折、戸田先生は、挨拶のなかで、こう語られている。
      「学会は、日蓮大聖人の時代に還れ、大聖人の弟子檀那に還れというのが、私の主張であり、信念であります」(「戸田城聖全集」第四巻)と。
      学会は「日蓮大聖人の弟子」である――これが大御本尊の御前での、戸田先生の宣言である。
      奉安殿ができる以前、大御本尊の御開扉は御宝蔵で行われ、お目通りできる人数も限られていた。奉安殿への大御本尊のお出まし――それは、学会の前進とともに大聖人の仏法が、いよいよ広宣流布へと向かう一大転機であったといえよう。
      日昇上人は、奉安殿の落慶にさいして、次のようにお述べである。
      「今亦ここに戒旦本尊奉安殿を建立寄進し以て本宗究竟の帰趨たる本門戒旦本尊をして永久に安穏ならしむ其の功大なる」(戸田先生への賞状)と。
      すなわち日昇上人は、学会によって、本門戒壇の大御本尊が、永久に安穏となられゆくことを心から喜ばれた。そして、仏法上「その功は大きい」と、心からたたえられたのである。
      また、日淳上人(当時、重役)も、奉安殿を御覧になり、「戒壇の大御本尊が御宝蔵から宝輦(宝で飾られた輿)にお乗りになってお出ましになった」と喜ばれた。
      さらに、日達上人(当時、庶務部長)は、落慶式の閉会の辞の中で、奉安殿建設に協力した寄付者名簿(百数十冊に及ぶ)を指されながら、「これ(名簿)は(大御本尊御安置の)須彌台に向って正面の右側が庫になってをりますから、この中に秘蔵致し、この奉安殿と共に永久に保管されます」と、学会員一人一人の真心に応えて述べられた。
      私どもの真心の「真実」は消えない。広布の歴史に永遠である。その福徳も永遠にちがいない』

      貧しかった多くの会員の真心……自分の家より大御本尊のお住まいを……が、結局どうなったのか。永久に保管されると約束しても、僧の憎しみの対象になり、破壊されたのではないでしょうか。創価も一貫性に問題がありますが、宗門はそれ以上に本末究竟等していない。日蓮の継承者とはとても思えません。仏教という井戸のなかで生息してきた蛙の一種で、仏法即世法と説きながら世間知らずという奇怪な有様です。

      『大御本尊は「一閻浮提総与」の御本尊であられる。全世界の民衆のために与えられた御本尊であられる。
      ゆえに「全世界への道」を開きに開いていくことが、大御本尊を真に奉じゆく実践となる。現実に「道」が開かれてこそ、大御本尊と世界の民衆が結ばれる。日蓮大聖人の「一閻浮提総与」との御心を実現しゆくことになる。
      この「世界への道」を開いたのは創価学会である。
      「道を開く」と、ひと口に言っても、なみたいていの苦労ではない。歴史的に仏教と無縁の国もあれば、敵視している地域もある。文字通り、命がけで開いてきたのである』

      情けないほど臆病な僧が、敵視している国々に、これから弘教していくのでしょうか。700年の間、日本から出ることがなかった御本尊も、創価の名もなき人々の篤実な行動と使命によって、少しでも開かれてきましたが、宗門は、創価を破門してから27年、敵視している地域に、その一歩となる牙城を築くことができたのでしょうか。御本仏もなぜ、後世をこのような憐れな人々に託さなければならないのか、その御真意が計りしれません。
      上記のスピーチは、ブーメランのように、全部自分に返ってきます。信徒を大御本尊から引き離した宗門も、その罪から逃れることはできません。正しくても栄えることはありません。民衆仏法であることを忘れています。池田先生も、創価の皆さまも、日蓮大聖人の時代に還れと叫ばれた、戸田先生の御精神を思い出すべきです。大御本尊を離れて信仰の本道はないでしょう。


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      ♡Comment

      天パ | URL | 2018.07.28 23:44
      いつも貴女ブログは楽しみに拝見してます。
      有難うございます♪

      今回の記事は95%激しく同意。

      残りの5%は違意。
      なのですが、
      結局は自分にブーメランと成りますし、
      他人様のブログに難癖付ける輩を良しと
      しないので。ザワごとは慎みたく存じます。

      大聖人様への純真な信心を貫きたく。
      大御本尊さまと私の間には1mmたりとも
      隙間なく。

      それより、何より、macska様の事が気になる次第。

      駄文連文コメント御許し願います。
      アンナ | URL | 2018.07.29 10:45 | Edit
      天パさま、コメントありがとうございます。

      饒舌で社交的な天パさま、批判されても動揺しない人生を歩んでください。わたしも批判にさらされたこと、何度かあります。基本的に無視することにしておりますが、我慢ならずに返って、倍する批判をすることもあります。経験上、このようなSNS上での応答は、決してよい結果を生むとはかぎりません。それよりも、自分の意見を主張することに主眼をおいております。
      また、誰と交友しようと個人の自由であり、その自由の範囲は宗教にも及ぶことは言うまでもありません。思想・宗教の自由は信仰の基本的なことです。残念なことに、わたしは創価とも、宗門とも、仲良くできないようです。でも、ひとりになっても、少しも心配しておりません。

      macska さまは、何度かコメントの交換をしていただきましたが、それ以上のことは何も知りません。コメントから人物像を勝手に推測すると、一般的な真面目な会員の姿よりありません。自分で考え、疑問に感じることをそのままにしない、信仰者としての当然の見識をお持ちです。その他大勢とひとまとめにされるような無個性の会員に足りないところは、立派な頭脳を持っていながら、その頭脳を使わないということでしょうか。
      仕事に問題を抱えていらっしゃるようですが、誰の一身上にもあるトラブルと理解しています。問題のない人生はありません。安易に、早急に、信仰にその責任を求めないように祈るばかりです。雄々しく乗り越えていかれることでしょう。

      実は、中、高校生のころ、猫を飼っておりました。捨て子だったのですが、運命的に出会い、親に大泣きして無理やり承諾させ、飼うことができました。可愛過ぎたため、猫と人間が一体となるような錯覚に陥ることもありました。わたしの前世はきっと猫だったに違いないと確信しました。
      猫が人間の言葉を話したら、きっとお互い理解が深まるだろうと、幼児に教えるように、言葉を教えたのですが、まったく無理だったようです。そのかわり、わたしが猫語を理解するようになり、鳴き声と顔の表情でおおよその感情を推測できるようになりました。その猫も、大学進学でお別れし、その後何度か家出しましたが、あるとき交通事故で亡くなりました。でも、家族に可愛がられた猫人生だった思います。

      今は、飼える環境でないのですが、その後、心を奪われる猫に出会っておりません。相性はやはり、個性にあるような気がします。
      今になってよく考えてみれば、ルカは気が強く、潔癖な気性だったように思えます。わたしにとても似ていたと思うようになりました (=^・^=)
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