メンバーの当該議題に対する知識の深さや経験のようなものも議論の質に大いに関係する。メンバーの一人だけが飛び抜けていると、周りとの関係において討議が深まらない。こういう状況下においては、優秀な人の方がかえってフラストレーションをため、よくない雰囲気を作ってしまう。

 グループの議論の結果は一人ひとりが出す結果の平均値よりもましだが、もっとも優れた人が出すものには劣るという認知科学の研究(*)がある。どんなに優秀な人がいても、グループ討議では一人あたりの発言時間はだいたい各人均等に割り当てられるものであり、優秀な人の意見がその場の意見をリードしたり、その人以外の人を説得したりするために使われることは少ない。結果、結論や討議の質はメンバーの平均値に引きずられるのである。

(*)『合議の知を求めて』(亀田達也著、共立出版株式会社)

それでもグループ討議をやめない
企業採用担当のその心とは

 このように、将来の働き手になってくれる人を「選び出す」ための採用の場で、生ぬるい議論ごっこが課され、そのために本来、学問に充てられるべき貴重な時間がその準備のために割かれ、空虚な三文芝居の上手下手が評価されているのだ。このことにいったい何の意味があるのだろう。
 
 企業は議論の中身などどうでもよいと言うかもしれない。集団における立ち居振る舞いを見ることで、自分たちの組織風土に合うかどうかを見抜くことができる。そして一緒に働くイメージがわくかどうかを見るということなのだろう。それはとても重要だとは思うが、できれば別の方法でチェックしてほしい。

 とにかく、就活でのグループ討議は、正しく導かれれば深く考えることができたかもしれない新人に悪い思考のクセを付ける。低いレベルのゴール設定と予定調和で満足する社員、そして組織を生む。それははっきり目に見える形でなくても、サブリミナルにじわじわと効いてくる。

 最終選考に近い段階で、限られた人数の人が、時間をかけて本格的にしっかりと考え討議するところを選考に使うというのはありだろうが、見知らぬ人の出合い頭の討議ごっこを選考に使うのはそろそろ止めた方が良いと私は思う。

 企業の採用担当者、人事関係の方には、グループ討議を選考に使う功罪について、一度じっくり「グループ討議」する機会を設けていただくことを提案したい。

(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山進、構成/ライター 奥田由意)