仕事に育児に追われていた私の友人は、子育てがひと段落して自分の時間が持てるようになったと言いはじめた時期を境に、急激に政治的発言が偏りはじめた。いわく「朝日新聞は虚偽報道ばかりの反日左翼なんだね」。暇になると、ネットで動画番組を見て社会情勢を勉強しているのだという。聞くと、極右・排外主義の言説を垂れ流し、頻繁に街頭デモを呼び掛けているチャンネルだった。こっそり彼女のフェイスブックを覗くと、そこには旭日旗をアイコンにした「友達」が大勢並んでいた。
 人はなぜネトウヨになるのか。
「ネトウヨだった過去」を告白してくれた、ある男性へのインタビューをお届けする。

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 内田大輔さん(仮名)は、1987年生まれの31歳。子供の頃は、転勤族の父親とともに全国を転々とし、数年前から東京都内のベッドタウンに一人暮らしをしながら、設備管理会社で働く。

当時13歳で出会って開眼した『戦争論』(小林よしのり著/幻冬舎)の話から、きちんと整理して話してくださる内田さん(31歳)。


「今思えば、僕はなんてことをしてたんだって頭を抱えますよ」
 内田さんは、終始穏やかで、理知的な印象の青年だ。時折はにかみ笑いを見せ、自身を謙遜しながら淡々と体験を語ってくれた。内田さんが政治思想に目覚めたのは、中学生の時に学校の図書館で出会った一冊の漫画だった。

小林よしのりさんの『戦争論』(幻冬舎・1998)です。2000年頃ですね。当時13歳、学校の図書館でたまたま見つけて読んで、これはすごい! と思ったんです。本当のことを知ってしまった、と。中学生なりに人生観が変わってしまうほどの衝撃でしたから、7、8回は繰り返して読みました」

『戦争論』は、左翼リベラルによる“自虐史観”一色に染まっていた言論空間に放たれ、センセーショナルな議論を巻き起こした一冊だ。「過去の戦争にはやむを得ないところがあった」と発言しただけで大臣の首が飛ぶような時代、小林氏は戦地に赴いた自身の祖父たちが、まるで凶悪な人殺しであるかのように罵られていた風潮を強烈に批判、大東亜戦争肯定論を展開し、世代を超えたベストセラーを記録した。

「ところが僕には読解力が欠けていたんですね。小林よしのりさんが言いたかったことは、戦前の日本人はこういう正義を掲げて戦ったんだよという事実、そこから戦後の自分たちのふるまい、『個』と『公』について考えようということだったと思うのですが、当時の僕は、あまりに単純な誤読をしてしまっていたんです。つまり『昔の日本人スゴイ! 日本人であることはスゴイ! だから自分はスゴイ!』と。ユーチューバーのKAZUYAさんみたいな状態ですね」

内田さんの愛読書の数々。「わしズム 創刊vol.1」(2002年5月刊)は初刷です

 内田さんの学校は左派系の勢力が強く、『戦争論』に書かれているようなことを口にすることすらためらわれる状態だった。授業では、日本人が戦争でいかに悪いことをしてきたのかを教え込まれる。この中で、「まるで目覚めたような感覚」になった内田少年は、“日本人スゴイ、僕スゴイ!”の思考状態のまま、中学・高校時代を通して“布教活動”に高じるようになる。

「まずは、両親はじめ、周りの友達に『戦争論』の内容を吹聴してまわりました。これが歴史の真実なんだぞ! って。父親は、もちろんそんな僕の様子を快く思っていませんでしたね。日本の過去の戦争がどうのこうの、中国が韓国がなんていう話を人にしてまわるのはやめなさいと叱られました。
 高校に入ると、今度は先生に布教をはじめました。僕の通っていた高校は、組合が力を掌握しているような左翼リベラル色の強い学校で、授業ももちろん左寄り。それで、『戦争論』のページをコピーして日本史の先生に突きつけて、『先生見てください。これが歴史の真実なんですよ!』って説得しようとしたんです。
 でも、先生の立場からすれば、そんなもの持って来られても困っちゃうじゃないですか。先生は、あくまでも仕事で教えているのであって、別に生徒を洗脳したいとか、そういう気持ちはなかったわけです。教科書にそう書いてあるから、そう教えるという感覚ですね。その先生は『とりあえず、受け取っておくよ』という対応でした」

 日本史の先生に流された内田少年、諦めることなく、世界史の先生に立ち向かう。

「世界史の先生からは、夏休みに映画『ラストエンペラー』を見て感想文を書きなさいという宿題が出たんですよ。ところがあの映画には、途中、日本人が悪く描かれるシーンがあるんですよね。それで、その部分をクローズアップして『これは違う。史実ではない!』とボロクソに書いて。末尾には『参考文献:ゴーマニズム宣言』と書き添えました。
 案の定、先生からは、君は視野が狭すぎる、『ゴー宣』だけを見てこの世のすべてをわかったような気持ちになっていると言われました。もっと広い視野、たくさん勉強して経験をして、幅広い感性を持てるような人間になりなさいと。この先生は、頭から否定するわけではなく、一応ちゃんと答えてはくれていたんですよね」

 今思い出すと本当に頭を抱えてしまいますよと、頬を赤らめる内田さん。携帯電話が普及すると、学校外での“課外布教活動”に熱を入れるようになった。

「親から持たせてもらった携帯電話のおかげで、メールを使って友人たちと連絡が取れるようになったんです。で、『SAPIO』(小学館)で新しい『ゴー宣』を読むたびに、『新しい歴史の真実は……』とその内容を送りつけたりして。
 当時の時代背景として、まず保守派の言論人たちが世の中にまったく無視されているという情勢があったんですよね。その後、安倍晋三や麻生太郎が登場して、櫻井よしこ、渡部昇一なんかが出てきて、だんだん空気が変わって、やっとみんなが話を聞いてくれる、よしりん先生がテレビにも出て、本も売れるということになって……『新しい歴史教科書をつくる会』が立ち上がり、やっと日本が変わるんだ! そんな機運で盛り上がっていたわけです。
 その盛り上がりのなかで、僕はあいかわらず『戦争論』を誤読したまま、ただ『スゴイ、スゴイ』と熱に浮かされていた感じでした。今思えば、中二病だったのかもしれません」

内田さんは、この小林よしのり氏の写真(「わしズム vol.2」裏表紙)を、学校の写生の宿題のモチーフにしたという

 自虐史観の影響を強く受けた従来の教科書と一線を画し、新たな歴史教科書をつくるという目的で、1997年、西尾幹二氏が初代会長となって立ち上げられた「新しい歴史教科書をつくる会」。ところが、内田さんら熱心な支持者らの全幅の信頼と期待をよそに、つくる会では内紛がつづく。2002年には、小林よしのり氏がアフガン・イラク戦争についてアメリカの態度を批判。小林氏と西部邁氏が親米派らと対立して、決裂、脱退することになる。

「『あれ? よしりん先生、変だな』と思ったことが二回あるんですよ。ずっと『ゴー宣』は読み続けていたのですが、どう捉えていいのかわからなくなったんです。
 一回目がイラク戦争です。よしりん先生が『これは侵略だ。おかしい』とアメリカを批判するのを見て、えっ、なにを言ってるんだろうって。たしかに、アメリカとくっついていけば、逆に安心だよなんて言う人が出てきて、自分たちの祖先はかつてアメリカと戦って、日本の理想を掲げて、正義があって戦ったはずなのに、そんなことを言うのは変だなとは感じていたのですが……なにしろ『つくる会』への信仰心のようなものがあったので、すぐに処理できないんですね」

 おかしいなと感じながらも、内田さんは当時の保守論壇人のスターたちから直接学びを得たいという目的で、進学先の大学を選ぶ。

「志方俊之さん、栗本慎一郎さんの授業を受けるために、帝京大学に入学したんです。後に、潮匡人さんも帝京短期大学の准教授でいらっしゃって、すごい、『わしズム』に出ている人達と話せるぞ、これはもう教えを請わねばと思って。すぐに講義を全部とりました。いつも一番前の席に座って、かなり熱心に聞いた学生でしたよ。
 大学卒業後は、自衛隊を受験して、二士に合格したんです。二士というのは一番下の階級の任期制隊員ですね。ところが、当然のことですけど、自衛隊は、愛国心があるとか、熱意とか憧れだけでは通用しない世界なんですよ。それよりも、体力と機動力。動けなければ使えないわけですから。一か月半ぐらいで逃げ出してしまいました」

 熱に浮かされたままだった青年が、自衛隊に入り、はじめて“現場”を体験したのだ。そして訪れたのが、2011年3月11日だった。

「よしりん先生、なに言ってるんだろうと思った二回目、それが脱原発なんですよね。でも僕はずっと『ゴー宣』を読み続けて、この頃には、もうほとんど『つくる会』への信仰心からは抜けていたように思います」

 小林氏は『脱原発論』(小学館・2012)で、原発事故によって故郷を失った人々を取材し、国土消失、国家存亡の危機と捉えるとともに、自然エネルギーの研究開発を紹介、経済成長のためにも脱原発しかないと強力に主張。紋切型思考のネトウヨからは「左翼に転向した」などとなじられた。

 しかし内田さんは、引っ掛かりを持ちながらも“読解”することにつとめた。

「『国防論』(小学館・2011)のなかで、自由の味に慣れ切って逃げ出す奴がいると書かれているページがあるのですが、自衛隊から逃げ出した僕は、それを見てもう結構傷つくというか……。まさに自分のことを言い当てられているような気がして、ちょっと普通の気持ちでは見られませんでした」

 普通の気持ちでは見られなくとも、自分の痛い部分にも目を向け、受け止めなければならないと考える真面目さ、素直さが、内田さんの語り口からは伝わった。

 こうした変化が内田さんには徐々に訪れていたとはいえ、原発事故から2年ほど遡った2009年には、政権交代が起きている。当時のネトウヨたちは、民主党政権への抵抗と猛バッシングをさぞや盛大に繰り広げていたのだろう――と思いきや、内田さん周辺では、意外なことに民主党へのシンパシーがその頃あったという。

「安倍、福田、麻生と一年で終わっちゃって、もうネトウヨというものが、ダメなんじゃないか、こんなのダサいんじゃないかという空気ができていたんです。2ちゃんねるでご高説をぶっても馬鹿にされてしまうような雰囲気でしたね。『安倍・麻生のザマを見ろ、時代はもう民主党政権で、鳩山が総理になるんだよ』ってみんなが言っているわけです」

 当時のネトウヨたちは、決して熱烈な民主党支持ではなかった。しかし、古いものから新しいものへの変化を察知して、あっさりと鞍替えする者たちが現れ、それが新しい空気を作り上げていった。

「これもまた、高揚している状態だったんでしょうね。もう安倍・麻生なんて古いぜ、待ちわびた政権交代がついに目の当たりにできるんだぞ、みたいな。新型iPhoneの発表前夜みたいなものですよ。祭りです。正直、僕もイラク戦争をきっかけに気持ちが抜けていたところもあったので、民主党政権には好意的でした。ネットでは反鳩山の人達が、『鳩山は人類最低の政治家だ!』ぐらいの勢いで叩いていますけど、僕はそんなに悪い印象がないんです」

 新型iPhone発表前夜の祭り。古い高揚感から、新しい高揚感へと流されていくネトウヨたちは、「ブームに乗れ」、「勝ち馬に乗れ」という心理に支配された、ネット上で最もミーハーな人々なのかもしれない。

 ネトウヨでも安倍信者ではなかった当時の内田さんは、この頃にはもう安倍晋三に対しては見切りをつけていたという。

「安倍晋三は、小沢一郎と議論すると絶対に勝てないんですよ。知識も度胸もないからすぐにやり込められる。当時の安倍は50代ぐらい。一方の小沢は、脂の乗り切った年代ですし、くぐってきた修羅場の数も全然違いますから、論戦なんかしたところで勝ち目がないんですね。それを見ていると、ああ~この人ではちょっと無理なんじゃないかなと思ってしまいました。
 そういう醜態を見せられたのもあって、当時はもう、2ちゃんねるで偉そうなことを言ってるネトウヨなんてダサい、という空気がどんどん広がっていきました。こうしてネトウヨは一度沈んで……そして、今、再浮上してワーッと炸裂しているように思います

 一度沈み、再浮上したネトウヨ。冷静さを取り戻し、完全に見切りをつけた内田さんだが、なんと今度は少年時代の逆転現象が襲い掛かる。

「実はいま父親が……ひどいネトウヨになってしまって」


※次回は衝撃の展開!!「僕はネトウヨを卒業したのに、父がネトウヨになった」をお届けします。6月26日(火)公開予定です。

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