先週金曜日(11月25日)、PhD Defense(日本で言うところの最終口頭審査)に合格し、博士号(Ph.D in Computer Science)を取得することが出来ました!
←バンザイ~、バンザイ~、バンザイ~!!
←おめでとうー(祝)
学位論文のタイトルは「建築と都市における人の移動(モビリティ)分析」。都市や人々の活動に関するビックデータとその分析が、建築デザインやアーバン・プランニング(都市計画)にどのような影響を与えるのか(もしくは与えないのか)という問い(Research Question)について、「人の移動(モビリティ)」という観点から検討しました。この博士論文は3本の独立したジャーナル・ペーパー(査読付き論文)から成り立っています:
1.ルーブル美術館来館者研究(Environment and Planning B)
2.バルセロナ旧市街地における買い周り行動分析(Applied Geography)
3.クレジットカード情報を用いたバルセロナ市における人々の買い周り行動分析(Environment and Planning B)
3本ともこの分野における最高峰の国際ジャーナルに採択された論文です(つまりはカンファレンス・ペーパーではありません)。さらに博士論文の章立てとしては含まれてないけど、業績としては下記の2本の論文も国際ジャーナルに採択されました:
4. ルーブル美術館の来館者密度指標の開発(IEEE Pervasive Computing)
5. 携帯電話の電波を用いた新しいトラッキング手法(IEEE Communications)
博士論文提出条件として、上に示した5本のジャーナル論文の他に、欧州委員会とのコラボレーションを通したスマートシティ分野における欧州プロジェクトへの貢献、スマートシティという文脈における日本の自治体(神戸市役所など)や日本企業とバルセロナ市役所との関係強化への貢献、MITとバルセロナ関連機関との関係強化への貢献等、僕がこの5年間で関わってきた全ての活動が評価された上で、博士論文提出が認められました。そしてその提出した博士論文が内部委員会の審議に掛けられ、「最終口頭審査を受ける資格あり」と評価された上で、国内外から集められた専門家3人の前で最終口頭審査(PhD Defense)を乗り切ることによって博士号が授与されるに至ったんですね。
←PhD defense(最終口頭審査)って、てっきり形式的なものだとばかり思ってたら、「これでもか!」っていうくらい突っ込まれて、結構きわどかった(汗)。
当初思い描いていたよりも、長く苦しい道のりだったけど、僕の人生に大きな実りをもたらしてくれた5年間だったと思います。なにものにも代え難い体験、そんな経験をさせてくれた5年間でした。
今日から、Dr. cruasanです。
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↓↓↓「なぜ建築家である僕がコンピュタ・サイエンスで博士号を取ったのか?」、「海外の博士号とは一体どんな意味があるのか?」を書いてたらすごく長くなってしまったので、興味のある人達の為に下記に記しておきました:
僕が海外で博士号を取得しようと思った理由、建築学部ではなくコンピュータ・サイエンス学部で博士号を取得しようと思った理由、、、それはいまから約10年前、バルセロナで目撃してしまった衝撃的な風景がもとになっています。
あれは忘れもしない、バルセロナ都市生態学庁で働き始めて2週間くらい経った日のことでした。まだ右も左も分からない新米の僕が、初めてミーティングの席に呼ばれ、地元の専門家達を巻き込んだ議論に参加する機会を得た時のことです。
そのプロジェクトは22@BCNの歩行者空間化の計画(いまではジャン・ヌーベルのアグバル・タワーやポンペウ・ファブラ大学などが立ち並ぶエリアの基本計画を作ったのは僕達だったりします(地中海ブログ:22@地域が生み出すシナジー:バルセロナ情報局(Institut Municipal d'Informatica (IMI))、バルセロナ・メディア財団(Fundacio Barcelona Media)とポンペウ・ファブラ大学(Universitat Pompeu Fabra)の新校舎))を話し合う場だったのですが、そこに集まった面々を見てビックリ!なんと、そこに集まっていたのは、物理学者や統計学者、生態学者や心理学者といった人達であって、その中に建築家は僕しかいなかったんですね(驚)。「都市空間に関するミーティングなんだから、参加者はみんな建築家だろう」と高を括っていた僕に、先ずは最初の先制パンチ!そしてミーティングが始まると、更に驚くべき光景が展開され始めました。
先ず最初に口火を切ったのは、僕の目の前に座っていた物理学者のJさん。22@BCNエリアに散りばめられたセンサーから集めた大気汚染のデータを持ち出しながら、「バルセロナのこのエリアの汚染濃度はEU基準値の遥か上をいっています、、、」とか話し始めたのですが、正直、「え、センサーってなに?」って感じでした(笑)。
←いまでこそ大気汚染を測るセンサーなんて珍しくもなんともないのですが、10年前にはそんなの聞いたこともありませんでしたから。。。更に追い討ちをかける様にコンピュータ・サイエンティストのBさんが、「皆さん見てください、これはこの地区を構成している全てのお店の位置情報と、それに関する分析結果です」とか言って、これまた全く目にしたことも無いヒートマップ(当時はその地図がなんと言うのかすら知らなかった)を持ち出してくる始末。そうこうしている内に、物理学者であり交通シミュレーションの世界的権威、ジャウマさんが「このエリアのシミュレーションをしてみたんだけど、、、」みたいな感じで、これまた全く見たこともない交通シミュレーションを見せ始めた。。。(実はジャウマさんとお会いしたのは、このミーティングが初めてでした(地中海ブログ:スマートシティとオープンデータ:データ活用によるまちづくりのイノベーション(横浜)シンポジウム大成功!))。
「都市のことを良く知っている都市の専門家=建築家」だと思い込んでいた僕の目の前で、全く知らない風景が展開し、見たこともないデータを用いて、見たこともない分析をしている人たちが存在する。。。膨大な定量データを巧みに操り、それらを実証データとして活用することによって、「データを用いたまちづくり」を実践している人たち。。。
凄かったです。本当に新鮮な驚きでした。なによりショックだったのが、彼らが言っていることに、「建築家とはまた違った説得力がある、、、」ということだったんですね。
だからこそ、僕は心の中でこう思ってしまったのです:
「これはダメだ、、、絶対にまずい、、、このままではアーバン・プランニングや「まちづくり」といった舞台における建築家の役割、建築家の存在意義が無くなってしまう、、、」
……都市は建築家の主戦場です。その主戦場から建築家が撤退せざるを得ない、そんな日が近い将来来ざるを得ないことを、この時のミーティングはハッキリと示していました。そして10年後の現在、それが現実のものとなってしまっていることを、我々は様々な場所で目にしているはずです。
例えば現在ヨーロッパで大問題を引き起こしているAirBNB(日本でいうところの民泊)が良い例かもしれません。僕の視点からいうと、これは都市に関する問題であり、建築家こそが率先して対処すべき問題だと思うんですね。
しかしですね、AirBNBの問題を建築家が扱おうとすると、直ぐに大きな壁にぶち当たります。建築家が提案する政策提言というのは現状分析に基づいています。その現状分析が正確であればあるほど、それに基づいたシナリオはより説得力を増す訳なのですが、逆に言えば、現状分析が曖昧であったり、全く出来ない様な場合、建築家が描く未来はそれこそ「絵に描いた餅」に終わってしまうんですね。そしてAirBNBに関する限り、建築家は往々にして現状分析をすることが非常に困難な状況へと追い詰められてしまうのです。
何故か?
何故ならAirBNBの現状を知る為には、対象都市(例えばバルセロナ市)においてどれくらいの部屋がAirBNBとして貸し出されているのか、どれくらいの需要があり、どれくらいの人たちが何日くらい何処に泊まっているのかなど、ウェブからデータを拾ってくる必要があるのですが、コードが書けない建築家はそれらの情報をウェブから集めることすら叶いません。仮に運良くそれらのデータを拾ってこれたとしても、それらのデータをどうやって分析し、どう可視化したら良いのか、途方にくれるのがオチだと思います。
この様に書くと、「じゃあ、そういう側面はコンピュータ・サイエンス学部の専門家達とコラボすれば良いじゃないか!」と言い出す人がいるかもしれませんし、それはそれで一つの解決方法だとは思います。が、しかし、、、「データ分析の外注」は建築家の創造力・想像力を殺す行為だと僕は思っています。データ分析というのは、生データを自分の手で触りながら整理していく中で、「あー、このデータはこういう傾向があるんだな」とか、「あー、こういうパターンがありそうだ」とか段々と分かってくるものなんですね。それらの過程を一気に通り越して、結果だけ見せてもらっていては絶対に見えてこないものがあると、僕は経験から学びました。
つまりは、都市に関するビックデータが優勢になりつつある我々の社会では、建築や都市計画の知識を有しながらも自分でコードが書けて、適切な分析が出来る人材、その様なプロフェッションが確実に必要になってくるのです。
10年前のあの日、ビーチの真ん前のオフィスで一人思った建築家の将来像、「これからはデータの時代であり、建築家といえどもデータが扱えなければやっていけない時代がやってくる」、、、そう思った時に、それらビックデータを適切に扱い、建築や都市に役立てる専門家になる為には一体どうしたら良いのだろうか?
←これが、建築家である僕が、コンピュータ・サイエンス学部で博士課程を始めようと思った直接のキッカケとなりました。
僕が海外で博士号を取得しようと思った理由はもう一つあります。それは海外ではPh.Dホルダー(博士号取得者)は非常に尊敬され、社会的地位が高いということに起因します。欧米において社会を引率するエリート層というのは、往々にしてPh.Dホルダーであり、博士号を持っていることがその層に属する為の必要条件(十分条件ではない)、もしくはパスだったりするんですね。
はっきり言います。「ヨーロッパにおいて博士号を取ることが出来る人」というのは非常に特殊な人に限られ、この学位は「普通の人が取る学位」とは差別化されています。それがヨーロッパ社会一般に通底している認識です。
この様に書くと、右を見ても左を見ても中流階級の中で生きている日本の皆さんには、「え、なにその階級社会?おかしくない?」とか思われるかもしれません。しかしですね、ヨーロッパ社会というのは基本的に階層社会であり、一部のエリートが残りの平民を導いていくという認識の元に組織されている社会なのです。だから最近日本で良く言われている「格差社会」なんて、ヨーロッパから見たら、結構カワイイものだったりします。
こういう状況に身を置いていると、日本における博士号取得者の地位の低さは世界的に見ても「異常」です。よく「日本の常識、世界の非常識」と言われるのですが、博士号に関してはまさにそれがピッタリと当てはまります。
←が、しかし、「日本の常識」が世界の常識に合わないが為に、常に日本が間違っている、劣っている、、、ということでは決してありません。ただ、博士号に関しては、明らかに日本の常識は世界の非常識だと思います。
ではその違いは何処から来るのか?
それは欧米においては、何の為に博士号を取得するのか、博士号取得者は社会的にどのような地位が与えられるのかなど、博士号とその取得者に対する「社会の覚悟」が、階層社会というコンセプトを通して歴史的に形成されているということが挙げられます。例えば上述したように、ヨーロッパにおいては博士号取得者は社会を統率していくエリートとしての役割を社会が用意してくれていますし、逆にアメリカでは市場主義とでもいうような階層、つまりは博士号取得者が起業してCEOになったりと、大学教授になる以外の道が数多く用意されていたりします。
←ちなみにドイツのメルケル首相が博士号を持っていることや、ヨーロッパの多くの国会議員が博士号取得者であるということ、バルセロナ市役所など自治体職員の幹部の多くも博士号を持っていたりするということも知っておいて損はありません。
←こういう認識を広めていくと、日本の自治体の方々が大好きな「表敬訪問」がいかに馬鹿らしい行為なのか、いかに海外の自治体職員に迷惑がられているかということが良く分かるかと思います。
←海外の自治体職員の幹部はPhDホルダーとして専門職に長年付いている人達なので(日本のようにコロコロ部署を移動したりはしない)、例えば、温暖化問題に対して横浜市役所が何をやっているのか、どんな政策を今まで取ってきて、そこにどれくらい投資をしているのか?また、これから何処へ向かっていこうとしていて、世界的に見た時の横浜市役所の強みは一体なんなのか?という基本情報なんてのは、当たり前の様に熟知している訳ですよ。
←そんな人達に向かって、付け焼刃的な情報を集め、自身の市役所のやってきたことをなぞるだけ、、、というのは時間の無駄でしかありません。
←もっと言っちゃうと、「名刺交換だけして帰る」とか、「名刺交換さえすれば交渉が終わった」といった態度は、海外の自治体職員をこの上なくバカにしている行為なので、今後絶対に止めて欲しいですね。
(あー、話しが脱線してしまった、、、) そんな中、日本はどうかというと、博士号取得者に「一体何を期待しているのか」、「社会は彼らをどう受け入れるのか」等の準備が全く出来ていないにもかかわらず、政策レベルで博士号を増やす、、、という大変不思議な状況になっているように思います。多分、博士号の数=その国の先進性を表す、、、みたいな勘違いをしているのではないでしょうか?
このような両社会一般に浸透しているPhDホルダーの社会的な意味・地位が日本とヨーロッパでは大きくかけ離れている為、欧米における博士号授与の審査と、そこに至るまでの過程は相当厳しいものとなっている、、、という訳なのです。
ちなみに僕は(上に書いたけどもう一度強調しますが)、博士号をもらう為に、査読付きの国際ジャーナル論文5本が必要でした。しかもその分野において「世界的なインパクトを引き起こすことが必須」みたいな(笑)。
←日夜論文執筆に躍起になっている研究者の皆さんなら、ジャーナル論文5本というのがいかに大変な業績であるかが分かってもらえるかと思います。