田端 紙媒体と違ってウェブサイトのニュースは、公開後も“てにをは(助詞)”を修正したり、見出しをちょっと変えたり、あるいは記事を入れ替えたりする臨機応変な対応は可能ですからね。そうなると、校了という明確な区切りがある、従来の紙メディアの編集作業とは生活リズムが全然違ってきます。
新谷 締め切りがない世界に打って出るっていうことですからね。しかも、誌面上の活字をそのままデジタル上で読ませれば、それだけでデジタルに進出したことになるわけではありません。コンテンツの中身そのものを、デジタルファーストで発想することが不可欠になってきます。週刊文春でもこの7月から新たにデジタル班を立ち上げ、まずは動画に力を入れています。
田端 ただ、LINE NEWSに限った話ではなく、ネット上でのあらゆる配信に共通することですが、公開した瞬間から報道内容の方向性をなかなか簡単には変えられない点に関しては、功罪の両面があるとは思いますけどね。一度、オモテに出したら、直しが効かないという紙メディアならではの緊張感は、たとえネットメディアでも尊重されるべき価値観ではあると思います。
新谷 当然ながら、コンテンツそのものが良質であることは、デジタル上のビジネスにおいても成功のための大前提となってくると思います。けれど、現実にはそれだけでは不十分。なのに、良質であればいいというところで止まってしまっているメディアも多いような気がしますね。まずは良質のコンテンツを作ることが大前提で、それをいかに面白そうに見せるのかがデジタル上では問われてくると思います。
田端 それから、届け方とかタイミングとかも重要になってきますよね。
新谷 おっしゃるとおりで、届け方が大事。デジタル上では特にコンテンツを美しく魅力的に見せて、幅広く拡散させて、最終的にマネタイズ(収益化)するという3段構造になってくると思います。そういったところまで見据えて進出しなければ、そう簡単には攻略できないというのが実感です。
ネット上で読者も巻き込むのが
デジタルにおけるジャーナリズム
田端 僕はどちらかと言えば、新聞よりも雑誌が好きなんです。ネットが全盛の時代になってきても、やっぱり雑誌が一番面白いと感じます。それから、いまだにテレビよりもラジオのほうに魅力を感じます。なぜなら、個人のキャラが前面に出ているからです。ラジオにはパーソナリティ、雑誌には編集長のカラーが色濃くにじみ出ます。
新谷 確かに、そういった側面はありますね。
田端 ネット上のソーシャルメディアも実質的に1人で仕切っていますから、良きにつけ悪しきにつけ、必ず責任編集みたいな感じになります。
ところが、新聞は主筆とか編集局長とかが存在していても、組織性が強くて匿名記事が圧倒的に多い。別にそのことを批判するつもりではなく、あくまで僕の好き嫌いとして、好感や愛着を持てないという話です。結局、メディアにおいて重要なのはフォーマットではなく、人間が作っているコンテンツですし、それは誰がどういう思いで作っているのか?という部分ですよね。もっとも、コンテンツという言葉自体はどこか軽くて違和感を覚えますけど。ITやネット、通信業界側からみた言葉ですよね、コンテンツって。
新谷 便宜上使ってはいるものの、私もあまり好きな言葉ではありません。
田端 パイプの中を右から左へと水が流れていくように軽いものではなく、それこそ1冊の本、1本の映画といった作品、IT業界風に言えば、1つのコンテンツができあがるまでには、編集者や監督や、関わる人々のある種の産みの苦しみがあると思います。その部分を端折った言葉に感じるんですよね、コンテンツって。
何人かの編集者にお目にかかって痛感しましたが、どなたも仕事のやり方が非常に濃密ですね。結局、1つの記事、1冊の本を作るのは人間と人間との共同作業で、お互いにみっちり向き合った信頼関係や葛藤がないと成り立たない気がします。仲違いすることがあったとしても、向き合う覚悟がないと良質なものは作れません。従来の紙メディアでも、良い編集者は、形式的にはサラリーマンかもしれませんが、組織ではなく1人の人間として作家や、取材対象者や読者と向き合ってきたはずです。
ネット系のメディアに最も欠けているのは、そういった覚悟ですね。もちろん、正面から向き合うのはしんどいことですが、表面的に、ビジネスライクに事を進めすぎて、それが原因で8割ぐらいがコケているというのが実情でしょうね。