http://mosudayo.sblo.jp/article/182544506.html
寄せられたネガティブなコメントに心を病んで、創作活動や発表をやめてしまう創作者というのは、それなりにいます。そんな創作者の方に必ずと言っていいほど寄せられるコメントの中に「あなたにはアンチの何百倍の数のファンがいる。少数のアンチに気を取られてファンをないがしろにしてはいけない」と言ったものがあります。間違った話ではないでしょうし、それを創作者に伝えようとしたことは尊い意思によるものだと思います。しかし、その言葉はおそらくその創作者がほしいと思っているものではないとも思います。100のいいねがあったとして、それで1のよくないねがなかったことになるわけではありません。人の感情は、単純な足し算や引き算でどうにかなるものではないのです。もちろん、100いいねがあれば1のよくないねを消せる人もいると思います。それはとても素晴らしい才能だと思います。悪意を受け流すのは、ある種の技術を要する話なので、できない人もいるのです。残念な話ですが。
それと似たような話として、Twitterでは時折「創作者はこころが弱い生き物なので、日頃から褒めなければやめてしまう。日頃から褒めよう!(大雑把な要約)」みたいな主旨の文言を見ます。これも間違っては居ないのですが、ポジティブなコメントだけで創作者はやっていけるかというと、決してそうではありません。
『ネガティブなコメントなんて無視すればいい』というのもまたよく聞く話なんですが、プレイヤーや読者のリアクションぐらいしか寄る辺のない無償活動の創作者に対しては、それはよほど精神の筋肉を鍛えていないと難しい話ですし、『精神の筋肉を鍛えろ! さもなくば死ね!』というのはちょっとマチズモに寄りすぎですね。できる人はすごい。
別にポジティブなコメントはまったくの無価値、と言いたいわけではありません。むしろ重要なものだと思います。
また、ネガティブなコメントが創作を辞めるもっとも大きい原因かというと、必ずしもそうも言えません。金にもならない創作を、きちんと形にしていく、というのはとても大変な労苦を要します。生きるためには多くの場合時間を費やして労働しなければいけないからです。たとえネガティブなコメントがなかったとしても、よほど好きでなければやってられません。ネガティブなコメントというのは、単に辞めるきっかけにすぎないのではないか、というのが私見です。
有償頒布という形態を取ることによって、これらの問題が完全に解決される、とは言わずとも、ある程度は緩和されると思います。100のいいねで1のよくないねを消せない人でも、6万円があれば1のよくないねを防御できる、という人は結構いるのではないかと思います。私もそうです。『どうして私は一文にもならないことに精を出しているんだ?』という虚無感も、ある程度は軽減できるでしょう。形にならない賛辞と、形として存在する現金では、持つ意味合いがかなり違うのです。どちらが良いのか、というのを論じたいわけではなく、向き不向きや相性、そういった話です。
フリーゲームファンを名乗る人が居ます。その理由は様々でしょうが、『商業や有償頒布ではできない奔放な表現が楽しめる』というのをよく目にします。これは全くの幻想だと私は思っています。最近アニメ化された『ポプテピピック』を見てその確信は深いものとなりました。あれもああ見えて市場を気にしている? そうかもしれません。ただ、フリーゲームでさえ、金銭や人のしがらみからは完全に逃れられないと感じています。むしろフリーゲームこそ、フリーゲームコミュニティのしがらみに囚われやすい、という側面もあるのではないでしょうか。
無償のゲームと、無償ではないゲームは、何の違いもありません。少なくとも私は、有償頒布ゲームを作るときは、無償ゲームのときと何か違うものを作ったつもりはありません。
どうしても多大な制作コストがかかりがちなゲームを、あえて無償で頒布する、ということは、とても偉大な行為だと思います。意識して居ない方もいるかもしれませんが、困難な話です。困難故に、続けられない人も多く居ます。『フリーゲームが好き』と公言する方は、一切の悪気はないのでしょうが、無償でゲームを頒布し続けることができなかった製作者に対し冷淡なものがあるのではないか、と思わざるを得ません。どうして単に『ゲームが好き』ではダメなのでしょうか。本当に、フリーゲームでしか得られない体験があるのでしょうか?
言いがかりや被害妄想と言われれば、そうかもしれません。私は様々な有償作品が『金を取るのはおこがましい出来』などと罵倒されるのを見てきました。罵倒にしてもあんまりではないかと思います。何かコンテンツを消費するとき、その出来にかかわらず対価を支払うのは、ごく当然の話だというのに。そしてその手の罵倒に、『フリーゲーム』が殴り棒として使われるのも、何度も見ました。
繰り返し予防線を張るのですが、私は別にフリーゲーム滅びろ、などと思っているわけではありません(昔そんなことを物の弾みでどこかで言ったような気もしましたが)。ただ私は、あまりフリーゲームという形態に呪われたり、過剰に神格化したりするのは、作者にとってもユーザーにとってもよくないよなあ、と考えています。もう少し金を取ることに双方カジュアルになれてもいいんじゃないか、と思います。一番のデメリットとして、お金を取るとプレイヤーが減っちゃうんですけど、プレイヤーが減るのは、実はそんなに悪いことばかりじゃないんですよ。
天使心母は、いろいろ考えた末に、無償頒布と言う形にすることにしました。これには色々理由があるのですが、天使心母はフリーゲームと呼ばれるゲームに対するリスペクトが多く含まれているんですが、最大のリスペクトは何かというと、やはり無償で頒布することだろうと考えたからです。
それはそれとしてお金は欲しいので、天使心母補遺はぜひ買ってくださいね。
あと、THEKIさんが素敵なレビューを書いてくれました。読んでね。