現代の常識は過去の非常識。そして未来の非常識かもしれない。
栄養学は19世紀末に大きな知的転換があった。
当時は「病気は何か有毒なものがあるために起きるのであって、何か良いものが無いためではない」という時代であり菌や毒素といった悪者探しに熱中していた時代である。
パスツールとコッホの発見から出発した病気の「病原菌論」が医学の全文野を支配したことも部分的には原因であり、上記の原理を生み出した。
また、ヒトに必要な栄養はタンパク質、糖質、脂肪の「食事の三大栄養素」であるとするリービッヒおよびドイツの後継者の考えが根底にあった。
最初に疑問を提出したのはペレイラだったろう。(※1804-1853 ロンドン病院の外科医)『食物と栄養』ではリービッヒのドグマに疑問を持ち種々の食物を摂ることが絶対的に必要であることや、野菜と果物を摂らなければならないということを含む栄養理論を公表した。
しかし19世紀半ばは、三大栄養素とエネルギー必要量のほかに命を保つのに別の栄養素賀必要であるという事実は、ドイツ生理学者たちにより無視された。
壊血病がミカン科または他の種類の新鮮な果物や野菜によって予防または治癒できることは19世紀中頃までにわかっていた。(現代栄養学ではビタミンCの不足が原因とされる)しかしある種の解毒剤がこの中に含まれているのでではなく健康に必要な成分が含まれているからだということは予想外のことであった。このような結論に達する知的転換は19世紀末になって初めて得られた。
(栄養学の歴史 ウォルター・グラットザー著 水上茂樹訳 講談社 参照、一部抜粋)
その後、現代に至るまではビタミンやミネラル、食物繊維など多くの必須栄養素が見出され逆に正義の味方探しの時代となっている。
そのため多くの人々の中に「栄養素」や「身体に良いもの」とにかく入れようと意識が浸透している。
19世紀の栄養素を軽視した悪者探しも、現代の正義の味方の探しと過剰な取り入れも、どちらも極端である。
では東洋医学、食養生ではどうか。
全体を観るというのが基本なので、もちろん摂り込むのも大事だが排泄も含めトータルで考える。
入れることに偏った現代では、いかに余計なものを出すかというのが重要と考える。患者を診ていて感じるのは情報過多が原因で心を煩わせ、食物が過剰で排泄できずに体内に停滞して病んでいる人が多い。
そろそろ知的転換として「いかに余計なものを出すか」という考えになっていいころではないだろうか。
例えば「癌」
19世紀的には何かしらの癌の原因となる悪者が身体に侵入したからだと考えるのか。
20世紀は何かしら足りないものがあるので、ビタミンやミネラル、酵素などなどあらゆる栄養素を補給しようと考える。
これからは、癌は身体のゴミ溜め的な役割として生み出したありがたい装置と位置づけとして、これ以上余計なものを入れない。そしてヒト全体として排泄する力を引き出すことを研究される時代になるのだろうか。
過去、カロリー以外にも必須栄養素があるという現在の当たり前が
当時の権威であるリービッヒからプルーナに至るドイツ生理学者たちにより無視されたように、現代でも、「腸造血論」(千島・森下学説)などが無視されている。
しかし、情報革命が起き、Web上で情報が拡散する現代では、権威がどうあれ「知的転換」は既に起きているといってもいい。
ただし情報格差の時代でもあるため、一部の人々のなかでの知的転換ではあるが。
もう、ダイエットでもそうだがカロリーに振り回されたり、菌やウイルスを敵視したりする19世紀的な考えは卒業しよう。
もう、栄養を補給するなど、健康法をプラスすることも十分にしてきたはずである。
腹八分でよく噛んで食べるといった誰もが知っているが情報の山に埋もれてしまっている食養生の基本をただ実践するだけの方がよい。
今、している余計なことをいかに手放すという
知的転換こそが健康への近道である。