安達90有余年の歴史で、著名な活躍や実績を残した同窓生が数多くいます。しかし、それぞれの場所で着実に歩み続けている、皆さんが知らない同窓生も、 また数多くいます。
 このページは、そんな凛として頑張っている同窓生を、皆さんに紹介していきたいと思います。

第13回 二本松市 鈴木(旧姓:久野)綾香(くのあやか)さん (平成18年卒) スポーツクラブ『ドリーム』公認スポーツ指導員

(2016年8月4日取材)

《プロフィール》

 同窓生の皆さん、ご存知だろうか?創立93年目、30,001人の卒業生を輩出している安達の歴史の中で、オリンピック選手が一人だけいることを…。 2008年に開催された北京オリンピックでカヌーカヤックフォア500mの決勝に進出して、見事6位に入賞した鈴木(旧姓:久野)綾香(くのあやか)さん…その人だ。
 現在は、地元東和町に開いたスポーツクラブ『ドリーム』の公認スポーツ指導員として、健康増進やスポーツ選手の基礎トレーニングなど住民や後進のサポートに活躍している。
 今回の「同窓生は今」は、結婚して妻、母親そしてスポーツ指導員として活躍する元カヌー日本代表の今にスポットライトを当てる。 彼女の人柄が分かる当時の記事をプロフィールとして掲載する。


負けん気で夢の五輪出場 カヌー女子の久野

 カヌー・フラットウオーター女子の久野綾香(くのあやか・久野製作所)は、先の北京五輪アジア最終予選のカヤックフォア500メートルで夢に描いた五輪出場を決めた。 20歳が四つ目のイスを勝ち取ったのは、予選直前の代表強化合宿だった。「最後の最後まであきらめなかった。自分の力を信じた」と負けん気を見せた。 167センチ63キロの恵まれた体格を生かして力強く艇を走らせる。福島・安達高2年で全国高校選手権カヤックシングル500メートル、 3年で日本選手権同千メートルを制した。
 複数の大学から誘いを受けたが「大学はカヌーが終わってからでも行ける。五輪に行くために後悔したくなかった」と競技に専念する道を選択した。 練習拠点の阿武隈川でパドルをこぎ、筋力トレーニングと持久走を日課とした。高校までの自称「ポッチャリ体形」は体脂肪率で8%減少。 体幹を鍛え、横揺れの少ないこぎ方が可能となった。
 艇に初めて乗ったのは小学3年。兄皓生(ひろき)さんが義足でできる競技として始める時に、母よし子さんに付き添うように頼まれた。 だが夏は陽光にさらされ、冬はぬれた髪の毛が凍る。中学卒業時に競技をやめると言った。 おまえには将来性がある、と懸命に引き留めたのが皓生さん。その目は確かだった。「兄が足を失った代わりに五輪が久野家にやって来たと思う」と感慨深げに話した。
 もう一つ、五輪切符への原動力があった。サッカー韓国代表のMF朴智星(パク・チソン)だ。努力と負けじ魂で素質を磨き、世界で活躍する姿に感銘を受け、 ハングルでファンレターを出したほど。「3通送って返事はないし…。五輪で会えれば」と言って顔を赤らめた。《共同通信社・北京五輪特集から》


Q:どんな生徒でしたか?

勉強は大嫌いでした。安達高校に進学した理由はカヌー部があったからなんですけど、カヌーをやっていなかったら高校にも行けないぐらい勉強が嫌いで、 頭を使うことも嫌いで…。
 高校生活を無事に送れたのもカヌーがあったからこそです(笑)。高校時代の海外遠征は楽しかったですね。日本代表で海外に行くと大変なんですが、 高校ではカヌーだけでなくいろいろ視野を広げさせるようなことも体験させてくれるんですね。他国の選手と交流したりカヌー以外のことで楽しいことが多かったです(笑)。

Q:ではカヌーとの出会いは?

兄も安達高校なんですが、生まれて間もなく足が悪くて義足になったんです。それでもスポーツ好きの兄はソフトボールとかもやっていたんですが、 どうしても走るハンデがありました。そんな時、福島国体もありましたから、当時の小学校の校長先生から義足でもできるスポーツがあるぞということを聞いて、 兄がカヌーをやり始めたんですね。母が兄一人で行かせるのはかわいそうだからということで、小3の私も付き添いで行くようになったんです。

それで私もカヌーをやるようになったんですが、最初はちっとも楽しくなくて何でこんなのやんなきゃいけないんだという気持ちでした(笑)。 マイナー競技だったんでダサいスポーツだと思っていたんですね。バレーボールとかソフトボールの方がテレビに映るしカッコいいと思っていました。 中学校に入っても、マイナー競技だからすぐ全国大会に行けるんでしょみたいに思われていて、本当にカッコ悪いスポーツだと思っていたんですよ。

中学校2年の時に出会った指導者が厳しい人だったんですけど、自分も練習頑張れるようになって全国中体連のカヌー4人乗りで優勝したんですね。 その時にカヌーはカッコいいと思えるようになって、カヌーへの印象も変わっていきました。中3で一人乗りで優勝して、 そこからは胸を張ってカヌーやってますって堂々と言えるようになったんです(笑)。自分が日本一だと思えてから自信が持てるようになりました。

ところが中学校3年で安達高校へ推薦入学が決まっていたころ、実は私サッカー観戦が大好きなんですよ。少しカヌーに燃え尽きて、 高校でサッカー部のマネージャーやろうかなとか気持ちが揺れた時期があって、その時に兄がカヌーやりなよってアドバイスしてくれてカヌー続けられたんです(笑)。 兄の存在は大きかったですね。 《だから北京オリンピックの前に、掲載した記事にあった韓国のサッカー選手にファンレター3通書いたのかぁ。これで腑に落ちました(笑)…Web編集委員》

Q:安達を卒業してからは?

卒業してすぐにナショナルチームに入ったんですね。チームには既にオリンピックに出場している先輩がいたりして、大人と子供ぐらいの実力差を感じました。 世界で闘ってもトップレベルの凄い先輩が2人いて、高校3年の時に全日本選手権で優勝したんですけど、それにはその先輩方が出場していなくて、 レースも悪天候で運よく優勝できたんですが、チームで一緒に練習すると漕力が全然違ってとんでもなく離されるんですね。

卒業前からナショナルチームの練習に参加して、主に石川県小松市の木場潟カヌー競技場《上画像》で缶詰め状態で練習していたんですが、 私が一番若いので食事の準備や洗濯も私の仕事で、本当に死にそうな位大変だったんですね。練習についていくだけで一苦労なのに身体は痛いし手は豆だらけ血だらけで…。 一回寝たら起きられないんです。目が覚めると朝なんだか夜なんだか分らなくなるんです。慣れるまでに半年かかりましたね。《上右画像:死ぬ思いで練習に励んだ合宿所》

高校2年の時にアテネオリンピックがあったんですよ。それを見て私も出たいなと思って、ロンドンオリンピックに向けて8年間の計画を立てたんですね。 ところが他の先輩は全員北京オリンピックが目標で、私だけ目標が違うからついていけないのかなと思って、北京までは2年しかなかったんですが、 私も北京に出るぞと気持ちを切り替えたら、不思議と厳しい練習についていけるようになったんです。記録会をやっても勝てるようになって、 厳しい練習も楽しく感じられましたね(笑)。今になって思うと、日本代表になれる可能性1%に懸けて、がむしゃらに頑張っていたあの時が一番楽しかったですね。

《綾香さんはこの厳しい練習と激しい北京オリンピック代表争いに勝ち残り、2008年北京オリンピックカヌーカヤックフォア500m日本代表として、 北京オリンピックに出場。見事決勝に進出し6位入賞を果たしました。その経緯を画像で紹介します。…Web編集委員》

《代表を決めたレースと北京オリンピックカヌーカヤックフォア500m日本代表》
《北京オリンピックカヌー出場選手壮行会》
《北京オリンピックカヌーカヤックフォア500mのレース 見事6位入賞》
《首相官邸での入賞記念品贈呈 日本カヌー連盟会長の福田首相と》

Q:カヌーを引退してからは?

子供も好きだったので24~5歳で結婚するって決めていました。そうでないと婚期を逃すんじゃないかと…(笑)。カヌーやっている人の中で生活していたので、 一般の普通の男の子はヒョロヒョロに見えて頼りない感じで興味無かったですね。そんなことを考えてる時に2歳年上の主人と巡り会って、 主人もロンドンオリンピックを目指していたので、ロンドン終わるまでは結婚はしないということで、私が25歳の時に結婚しました。 ロンドンオリンピックの後、今度はリオデジャネイロを目指すということで、2人でオーストラリアに住んでトレーニングしていました。 そのうち長女ができて向こうの病院で診てもらっていたんですが、何言っているのかさっぱりわからなくて、妊娠6ヶ月で私だけ実家に帰ってきて、 しばらくは主人とは離れ離れの生活が続きましたね。

Q:オリンピック選手の子育てはどんな感じですか?

子供は3歳と1歳の女の子2人ですけど、学年では年子なんですね。とっても可愛いです。将来はどんなスポーツでも良いからやって欲しいですね。 ただやるからには中途半端なことでなくて、オリンピックを目指すとかしっかりやって欲しいと思っています。

私はやるからには一番目指してやる性格なんですが、主人は優しいので…。でもやっぱり一番を目指して欲しいですね(笑)。 だからなのか前は「ママ、ママ」だったんですが、今は「パパ、パパ」ですね。主人の練習を見せられる時には連れて行ってるので、 最近はカヌー乗りたいなんて言うんですよ。猪苗代辺りで乗せてみようかななんて思っているんです(笑)。 《親子でオリンピック選手になれるか今から楽しみですね(笑)…Web編集委員》

Q:開業したスポーツクラブのPRを

このジムを作った一つの理由は、自分の子どもにスポーツをやらせたいという思いがあります。当然カヌーやスポーツをやっている地域の子どもたちも、 出来ればより高みを目指して頑張ってもらいたいと思っています。地域の皆さんの健康増進にもサポートできればうれしいですね。

《こんな綾香さんの思いから今年7月にスポーツクラブ『ドリーム』を東和に開きました。是非同窓生の皆さんも興味がある方は体験してみてください。 トップレベルの選手が使用している最新マシンが揃っています。小さいお子さんが体を動かせるスペースもばっちりですよ。 そして公認スポーツ指導員の綾香さんがしっかりサポートしてくれます。えっ、人に勧める前にお前が行って痩せろ!ですと。トホホ、仰せの通りです。…Web編集委員》

【お問い合わせは スポーツクラブ「ドリーム」 電話 0243-24-1650まで】

Q:綾香さんにとって安達高校とは?

安達高校に行っていなかったら、カヌーで海外に行ったりオリンピックに出たいとか考えなかったと思います。安達でカヌーをやっていなかったら、 今の私は存在しなかったと思います。今の私を作った原点が安達だったかもしれません。

《インタビュー雑感》
 この若さで決してぶれない凛とした強さが漂う。普通の人には想像も体験もできない舞台でしのぎを削り、北京五輪日本代表として世界で6位まで上り詰めた。 2015年ワールドカップで6位に入賞したご主人の鈴木康大さんは、リオ五輪出場を目指したが、目標を果たせず引退した。2020年、東京オリンピックが決まった。 綾香さんは子供に父親がオリンピックで闘っている姿を見せたいと思った。鈴木さんが所属する(株)久野製作所の社長で綾香さんのお父さん、久野浩二さんも背中を押した。 鈴木さんは東京オリンピックで闘うという覚悟を決め、カヌーに復帰した。綾香さんの願いが叶ったのである。
 私の記憶では安達が全国を制したのは団体の庭球部、やり投げの山田(塚原)由美子(昭和51年卒)、カヌー女子の鈴木(久野)綾香・中野友貴(平成22年卒)、 カヌー男子の宮田悠佑(平成22年卒)だけである。このうち塚原と久野の女性2人が東和の女性だ。宮田も含めれば東和からは3人の日本一が出ている。 東和とは一体なんという地域なのだろう。女傑(?)を輩出する何かがある場所なのか?もしかすると親子でオリンピック選手も夢ではなさそうである。
(2016年9月3日掲載)

 綾香さん、お忙しい中取材にご協力をいただき感謝しています。鈴木一家の夢が実現しますよう応援しています。

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第14回 二本松市 塩田 英勝 (昭和57年卒)さん 二本松市観光課課長

(2016年8月4日取材)

《プロフィール》
 二本松市は観光に力を注いでいる。東日本大震災以降、観光客も減少し、まだ震災以前までの回復を見せていない。 また様々な風評も復興への足かせとなっている。そんな状況の中、多くのイベントを企画し奮闘している同窓生がいる。 今回は二本松市役所観光課長 塩田さんの郷土愛と仕事ぶりを紹介する。

Q:どんな生徒でしたか?

あの…、不良の高校生でした(笑)。自分では、高校は比較的おとなし目でいたと思っていたんですが、先輩たちからはそう見えていなかったらしく、 2年生や3年生の教室に呼ばれて…。サッカー部だったので、先輩にこいつはサッカー部だからということで、随分助けてもらいました(笑)。 生意気そうな奴は、先輩からお呼ばれする、そういう時代でした。

やっぱり3年間続けたサッカーの部活動が一番印象に残っていて、自分たちの代だけ3年間女子マネージャーがいなかったんです。 顧問の先生が「お前らには女子はいらない。」って女子マネージャー全員辞めさせたんです。後で聞いた話ですが、入学してからずっと県の上位に入っていて、 俺たち3年の時に、顧問は全国出場を狙っていたんで、余計な迷い!?を無くしたかったみたいです(笑)。恩師がもう亡くなってしまいましたので、 その真偽は分りませんけど…。

中学校でやっていたサッカーは、高校ではやるつもり無かったんですが、別な高校に進学した中学校の仲間が、俺もやるから塩田もやれって言うことで、 安達でサッカー部に入部したんですね。ところが入学して6月のインターハイに行ったら、俺に勧めた友達が、もう既にサッカー部辞めていて(笑)、 ぶざけんなよ!!と思っていたんですが、やっぱり、今思うとサッカーが面白かったから3年間続けたんですね。

あとは、学校から「休んでいいよ。しばらく休みなさい。」って言われたことですかね(笑)。 もう時効ですが、タバコ吸ったんですね。高校3年の冬に私の家でクリスマスパーティーやったんですが、その時に喫煙と飲酒しまして(笑)。 近所に先生が住んでいたので、それでばれたのか、誰かがタレこんだかわからないんですが、私の家に集まっていたので、いつの間にか主犯にされまして(笑)。 自宅で反省しろっていうことで、無期謹慎5~6日だったですかね…。自宅謹慎で反省なんかしないですよね(笑)。それが悪かったのか、 反省文書いたんですけど、反省してないってことで、書き直しさせられました(笑)。

Q:卒業後は?

すぐに二本松市役所に入りました。高卒で入った同期が当時5人いて、後にも先にも無いことですが、全員安達高校卒業だったんです。 もう社会人だということで、自分も含めてその内の3人で結構飲み歩いていました。そしたら、よっぽどひどかったんですかね? 今年入った新人職員が飲んで騒いでるって、当時の市長に直接苦情が来まして…。市長に呼び出されてやりすぎるなって注意受けました(笑)。 …今から40年近く前には、あんまり世の中がギスギスしていなくて、のどかな時代でしたね。未成年でも社会に出たら大人扱いをされていましたから、 もちろんルールを破るにしても、適度な自制心のある若者が多かったです。だからある程度の事は許容されていた時代だったように思います。 懐かしき良き時代でした。《Web編集委員》

《卒業後はラグビーをやったとのことでその頃の若かりし画像》

Q:社会人になってからはどんなことを感じました?

社会人になったと強く感じたのが、最初に配属になったのが農政課でしたが、会計検査があって、仕事も良く分らないのに毎日夜遅くまで残業が続いたんですね。 親からは市役所がこんなに毎日遅くまで仕事するわけがないと言われて、遊んでいると思われたらしく、険悪なムードになりました。そのことはよく覚えています。

あとは、都市計画課にいた時に「まちづくりプロジェクト」駅周辺の大規模開発を手掛けた時には、いろいろ折衝したり大変だったんですが、 結局住民の方の反対で白紙になった時には、ガックリきたことを覚えています。そこの現地事務所にこのプロジェクトの立ち上げから頓挫するまで7年間携わりました。 本当に大変な仕事でした。

Q:現在の観光課でのご苦労は?

観光課に移動してきたのが、2011年5月、震災の年なんですよ。定期異動ができずに1カ月遅れの人事異動だったんですね。 震災の年の4月に菊人形会場の人形歌舞伎を見せる第3会場が火災で焼失しまして、地震も来て火事で霞ヶ城も落城したか!なんて軽口を叩いていたら、 1か月後に観光課に異動ですからね(笑)。その状況からの観光課なので、こんな時に観光なんかできんのかと思いながらの仕事でした。 その年も『菊人形』は開催することになりましたから、予算も無いし何も準備できない状態でした。ただ料金は無料にするということだけ決まっていましたから…。

《あだたら山開き・東和の旗まつり》

だから何にもないところから新たにスタートする感じでした。最初の観光課の仕事が5月のあだたら山の山開きでした。 震災前からやっていた定期的なイベントは、規模は縮小したりして震災の年でもすべてやったんですね。 その他に新たなイベントとして、風評被害を払拭するイベントもやりましたから、忙しかったですね。実際にはこんな状況なのに観光なんかできるのかとか、 放射線は大丈夫なのかとか、除染はしているのかとか他県の人から苦情や問い合わせもたくさんありました。 菊人形会場に線量計を持ってきて計測したり、その状況をツイッターとかフェイスブックに上げられたりしました。 YOUチューブになんかも映像結構上がっていましたね。

こんな問い合わせは市役所だけでなく旅館にも多くありました。旅館は避難者を受け入れていましたから、静けさを求めてきた観光客からは、騒々しいので こんな避難者と一緒に泊まれるか!という苦情もあったようです。

《岩代の紋付まつり・東和あばれ山車》

こんな感じの雰囲気の中で、菊人形を無料で開催したら、物凄く観光客が菊人形に来たんです。有料でやっていた時の3倍ぐらい来たんですね。 17万人ぐらい。だから駐車場足りなくなって、路上駐車もしましたし、二本松インターから菊人形会場まで車が数珠繋ぎに渋滞したのも久しぶりでした。 無料の2年間は本当に多くの観光客が来ましたね。

震災から3年目に有料に戻したら、観光客も例年並みに戻りました(笑)。放射線とかなんだとかいろいろ言っていた割に、結局は料金かい!と思いましたね(笑)。 予想では無料でも大した人は来ねべと思っていたところに、バッタバッタ観光客が来たので、どうしたらいいかわがんねっていうのが正直なところでしたね(笑)。 あの2年間は凄かったです。観光物産館や出店の方たちからは、毎年無料でやって欲しいなんて言われました(笑)。

《菊人形・ちようちん祭り》

その後は、デステネーションキャンペーンで観光客の誘致をやりましたが、それまで二本松は過去のキャンペーンはあまり積極的ではなかったんですが、 私が観光課長になった時だったので、各団体にお願いして積極的に推進しました。特に『お祭り三昧大集合』では東和や岩代の山車、 そして二本松ちようちん祭りの山車7台すべてが箕輪門に集めたことは良かったと思います。大変なイベントだったですが、面白かったですね(笑)。 もう一回やれって言われたら、もうたくさんですって断りますけど(笑)。

観光課で良かったと思ったのは、『菊むすめ』を首相官邸に連れて行ったときですね。安倍首相と直接会えましたから。でも訪問した時は、 たまたま女性閣僚2人が辞任した時で、マスコミが押しかけていて、次の閣僚かと思われたのかバシャバシャ写真撮られて…。 全国放送のニュースにも「…のあと二本松菊人形の菊むすめの訪問を受けました。」なんて、こんな日に何しに来た?みたいな報道があったりで、 面白かったです(笑)。

今は、海外からの、具体的には今年9月には台湾から約200名の観光客が二本松に来ます。これは新しい取り組みで、 市役所的でない観光課は次から次に新しいイベントが出てきますが、自分には合っていて面白いですね。異動した部署で必ず新イベントがあり、 仲間からはイベント屋って呼ばれています(笑)。

Q:これからの目標は?

地元に就職したのは、ちょうちん祭りをやりたかったからなんですが、自分の結婚式の時に、夢は祭りの現役時は会長をやって、引退したら事務長をやって、 最後は町内会長をやることですって宣言したので、前の2つは達成していますから、最後の町内会長ですかね(笑)。

Q:塩田さんにとって安達高校とは?

安達はこの町にある高校で、二本松に生まれた自分にとっては、身近に達高出身の人がたくさんいましたから、身近に感じる学校だったんですが、 今は福島や郡山の学校に行く人が増えてきて、周りにも達高出身者が減って、身近でない存在になりつつあるのは少しさびしいです。 でも、いろんなところから安達にきている人に、二本松の良さを知ってもらって、就職したり住んだりしてもらえたらいいなぁと思っています。

《インタビュー雑感》
 今の観光課が自分には合っていると笑う。1つイベントを企画し実行する。大変なエネルギーが必要になることは想像に難くない。 そんなに大変ならと…と思うのだが、結局この男はやってしまうのである。そして、もう一回やったらとか、毎年やったらと言うと、 いやぁ、もうたくさんですとニヤニヤする。きっと毎年でもやるとなったら、やってしまう男なのである。それは塩田さんの持っている遊び心ではないだろうか。 高校時代も不良で、学校休んだらと指導されましたと自ら語り、市役所でもほとんどの部署を回って新規事業などを手掛けた。 この様々な体験を通して培った、圧倒的な経験値に裏打ちされた遊び心なのである。 大変だけど楽しんでやるぞという気持ちが、話しているうちによく伝わった。二本松市役所のイベント屋、いや二本松のイベント屋に期待せずにはいられない。
(2016年10月25日掲載)

塩田さん、お忙しい中、取材にご協力をいただきありがとうございます。二本松市の今後を楽しみにしています。

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第15回 県警交通機動隊 白バイ特練員四銃士 渡辺・根本・本名・菅野

(2016年12月1日取材)
《上画像:左から渡辺大輔さん、本名明さん、菅野佑基さん、根本正誠さん》

《プロフィール》
 今回の『同窓生は今』は福島県警交通機動隊の白バイ特練チームを取材した。渡辺大輔(平成16年3月卒)さん、本名(ほんな)明(平成20年3月卒)さん、 菅野佑基(ゆうき・平成21年3月卒)さん、根本正誠(まさすみ・平成23年3月卒)さんの白バイ四銃士だ。本名さんと根本さんは、 今年開催された『第47回全国白バイ安全運転競技会』に出場し、根本さんは種目別優勝、個人総合3位の好成績をあげたことは、 県警まゆみ会の同窓生の盛り上がりとともに、既に県警まゆみ会のWebページで紹介した。
 白バイ特練員とは、白バイ特別訓練員の略称で、通常の取締業務は行わず、白バイの運転技術を向上させ、交通機動隊員の安全や生命を守るべく、 日々10時間以上の猛訓練に励む交通機動隊員を指す。全国大会出場の経験もある最年長の渡辺さんは、コーチとして若手特練員の技術指導に励んでいる。 その熱心な指導に応え、根本さんは今年好成績を残し、一緒に出場した本名さんは、来年の競技会で、根本さんの成績以上の結果を目指す。 そして菅野さんは、2人に続くべく来年の競技会出場を目指し猛訓練の毎日である。
 第15回目の『同窓生は今』は、安達の絆で結ばれ、『まゆみの精神』で日々の猛訓練に励む、福島県警交通機動隊の若き白バイ隊員を紹介する。

Q:どんな生徒でしたか?

渡辺さん:「高校時代は、3年間野球をやりに行っていました。だから授業の方は…(笑)。ただ野球部の監督に出会って、野球を通して人間形成していただいて、 今の仕事にもつながる部分が高校で気付けたんじゃないのかなと思っています。」

根本さん:「私は高校時代、前に出て喋ったりするようなことは無かったので…。野球部でしたから、何かあると怒られたりして鍛えられたので、 忍耐力も培われて、今の仕事でいろいろあっても苦にならないのは、高校時代の部活があったからだと思っています。」

本名さん:「どんな生徒か振り返りますと、学校の普段の生活は大人しく過ごしていたと思います。中学はあまり勉強しなかったんですが、 高校に入った時から警察官になりたいと思っていましたから、部活が野球部で、毎日少しづつでも勉強するのは体力的に難しかったので、 テスト前は頑張って勉強した覚えがあります。やっぱり野球中心の生活で、野球の技術以外の事、あいさつの仕方だったり、人との接し方、 目上の人との話し方など厳しく指導されてきましたので、社会人になってからも、そうしたマナーにそれほど困らずにいられるなと思っています(笑)。」

菅野さん:「部活は陸上部で朝練とかありましたが、高校生活は楽しんで送れたと思います。文化祭や球技大会などでは目立ってやっていた方だと思います。 陸上部の練習も、野球部と比べて遅くまでやったりしませんでしたから、帰りに仲間と遊んでたりしましたので、楽しかったですね。 ただ高校駅伝予選や福島駅伝まであるので、3年の11月ぐらいまで部活は続けていましたね。3年の時には福島駅伝にも出させていただきました。」

Q:なぜ警察官になろうと思ったのですか?

渡辺さん:「高校時代は将来の夢は特に無くて、とりあえず大学に行っちゃったんですが、大学で漠然と公務員が良いかなと思って、 公務員講座なんかを受けていたんですね。高校時代も含めて、決して成績は良くはなかったですから(笑)、公務員は無理だろうという思いがあったんですね。 でも人生1回しかないから、ちょっと頑張ってみようかなと一念発起して、警察官試験1本に絞って勉強頑張ったんですね。そして警察官に採用してもらいました。 あっ、そういえば思い出したんですが、自分の結婚式で使う写真を整理していた時に、小さいころ白バイに載せてもらった写真があったんですね。 その時の白バイに乗りたいと思う気持ちが頭のどこかにあったのかもしれません(笑)。」

根本さん:「私も高校時代は進路のことは何も頭になくて、2年頃までは専門学校に行って何かの資格でも取ろうかなと思っていました。 特に救急救命士なんかが良いなとは思っていたんですが、3年の夏が終わって本当に進路どうするかとなった時に、 まずは安達広域消防を受けてみてはということになりまして、母親が願書を取りに行ってくれたんですが、その時に警察官の方から警察官募集の要項を貰ったようで(笑)、 その書類見ていたら、警察官も良いなと思いました。安達広域は募集2人で厳しいなと感じていましたから、採用人数が多い警察官と思って(笑)、警察官を受けました。 要綱に白バイ隊員が載っていて、カッコいいなと憧れをもったことも警察官を目指した理由の一つですね。そして採用されて、今、白バイ隊員になっています。」

本名さん:「いつごろからか覚えていませんが、白バイ隊員になりたいという思いがあって(笑)、高校に入った時から警察官と思っていました。中学校の時に、 将来の夢はと聞かれて白バイ隊員になりたいと言っていましたから…。本宮の洋菓子店が実家なんですが、福島駅伝のコース沿いにあって、 小さいころから旗を持って応援していた時に、白バイカッコいいと思っていたんだと思います。一昨年、実家の前を白バイ先導しまして、 夢をかなえられて嬉しかったですね。高校では成績も少し良かったので、大学へ行ってから警察官でもいいんじゃないかと思って、進学して見聞を広めて、 それから警察官になりました。」

菅野さん:「私は、父親が市役所に勤めていましたので、小さいころから公務員が良いなと思っていました。中学では消防が良いなと思っていまして、 高校に入ったら、陸上部は自衛隊に行く先輩が多かったので、自分も自衛隊と考えていたんですが、親に反対されまして、 とりあえず大学に行きながら考えてみろということで進学しました。公務員はずっと目指していましたから、1年の時から公務員講座を受講していまして、 実際に採用試験を受けたのは、市役所と警察官だったんですが、警察官が第一志望でした。小さいころから刑事ドラマとか見ていて、カッコいいと思っていましたから、 警察官はやっぱり憧れでしたね。最初は白バイに憧れるというよりは、警察官に憧れを抱いていたんですが、大学4年の時に採用内定をもらって、 警察学校のオープンキャンパスに行った時に、白バイのデモンストレーションを見て、あっ、カッコいいなと凄く思ったんですね。警察官になる時には、 バイクの免許を取らなければならないんですが、白バイ隊員になることを考えて、最初から大型自動二輪免許を取って警察官になりました。 そこから白バイ隊員を希望して、今、白バイに乗っています(笑)。」

Q:憧れの警察官になってからの現実とのギャップは…?

渡辺さん:「白バイ特練員になる前には、郡山の白バイ隊に配属になって、通常取締活動をやりましたが、私個人の予想としましては、 颯爽と走り抜けて、違反者を検挙してという毎日を想像していたんですが(笑)、実際にはなかなかそういうわけにはいかず、 簡単に運転手の方が違反を認めてくれるわけでもなく…。そして、白バイは、ちょっとしたミスでも命にかかわる事にもつながるので、 先輩からは少しのミスで毎日怒鳴られていたんですね。今考えると、命を無くさないように心配してくれたんだなと分るんですけど、大変でしたね。 白バイ隊員を3年やって、特練員にと声を掛けられたんですが、休みもないし大変だなと思いながら、誰でもできることではないので、 やっぱり人生1回だけという思いと、高校野球みたくもう一回一生懸命にやれるかなという思いで、特練員を受けて今になっています。

根本さん:「私も白河の方で通常取締りをしていたんですが、やっぱり、1人で白バイ乗って、1人で違反切符切って、1人で活動すると思っていたんですね。 取締りの知識も経験もなく、行けば何とかなるだろうという感じで、楽に考えていたんですけど、交通法規に関する言葉や喋り方が思うようにいかなくて、 指導してくれる上司に毎日怒鳴られるのが当たり前、そういう1年間を過ごしました。その上司も特練員で全国大会に出場した経験があって、 お前もやってみたらどうだと勧められて、タイミングよく空きもあって特練員になりました。高校野球では全国1位になれなかったんですけど、 白バイでは可能性あるぞと励まされ、今年の全国競技会で良い成績を収めることができました(笑)。」

本名さん:「私は白バイをどこで見かけてもカッコいいなあ、白バイ隊員になりたいなといつも思っていましたが、いざ白バイ隊員になってみると、 個人個人の運転能力とか執行力とかに責任を持って、毎日行動しなければならないことを実感しました。交番勤務だと2人で行動するのが基本なんですが、 白バイ隊員は1人で行動するのが基本なので、誰にも聞けませんし、ミスで命に係わったりするその責任の重さを感じましたね。それと、 高校時代野球部で苦しいことを乗り越えてきたので、特練員の辛さは乗り越えられるだろうと思っていたんですけど、やってみると、仕事ですので、 良い成績を収めなければならないという重みを背負って、訓練するのは大変だなと現在思っています。」

菅野さん:「仕事でのギャップですか(笑)。警察学校を卒業して交番勤務になるんですが、基本的には2人で行動することが原則なんですが、 白バイは1人なので、精神的にとても疲れます。周りから見られているというプレッシャーもあって、仕事が終わってからの疲労度は凄くありますね。」

Q:警察官になって良かったこと、楽しいことは?

渡辺さん:「交通機動隊は、年齢が近い同僚が集まっていますので、まとまりが良くて、誰かが困っていると助け合ったりして、 チームワークがとても良いと思います。皆バイク好きで、夢も似ているところがあって、そんなところで団結するのかなと思います。」

根本さん:「交通機動隊に入って、こうして高校の先輩と一緒に訓練させてもらって、また部活も一緒だった先輩で、一緒にやったことはないですが、 どこかしらではつながることが多くて、何となく親近感がわくというんでしょうか…、苦しい訓練も楽しくやれています。」

本名さん:「楽しいことですか(笑)。楽しいなっていうよりは、やりがいがあるなっていう感じで、毎日過ごしています。後はオフの時は、 バイクが好きなので、バイクの話で盛り上がったり、整備の仕方だったりで、共通の趣味の話ができるのは楽しいですね。」

菅野さん:「訓練をやっていて楽しいと思うことは、できなかった技ができるようになったりとか、うまくできなかったことがうまくできたりした時は楽しいです。 白バイ隊員になって、イベントとかによく行くんですが、子供たちがたくさん白バイに集まってきた時は、警察官になって良かったなと思います(笑)。」

Q:今後の夢は何ですか?

渡辺さん:「ちょっとカッコいいかもしれないですが(笑)、安達高校の後輩が特練員で入って来て、ワンランク上の技術を教えたわけですが、 またこの後輩たちが、そのまた後輩に白バイ技術をどんどん伝えていってもらって、更にレベルアップした福島県警交通機動隊にしていってもらいたいなと思います。 悪質な違反者も増えてきていますので、白バイ隊員の殉職率も高くなってきているんですが、事故を回避できるだけの技術を身に付けてもらいたいですね。」

根本さん:「結婚したいというのも一つありますが、仕事面では1つレベルアップした自分にしたいですね。技術面ではなく、 仕事上の知識や対話能力とかを分厚くしていきたいなと思っています。」

本名さん:「今年根本さんが好成績を残しましたので、来年の大会に向けて個人としてのレベルアップとチームとしてのレベルを上げて、 全国大会団体優勝を果たして、優勝旗を福島に持って帰りたいという夢があります。私生活では、最近子供が生まれたんですけど、転勤の多い職業ですので、 バイク整備のできるガレージ付き持家を建てたいですね(笑)。」

菅野さん:「自分の目標としましては、一緒に特練員になった同僚と切磋琢磨しながら、お互いにレベルアップして来年の大会に出場したいですね。 どちらかは出場できると思いますが、できれば自分が出れるよう頑張りたいと思っています。そして本名さんがお話した通り、私個人も努力して、 全国優勝を目指したいです。個人的には1月に家族が初めて増えますので、家族を幸せにしていきたいなと思っています。」

Q:あなたにとって安達高校とは?

渡辺さん:「小学校でソフトボール、中学校から野球を始めまして、高校では甲子園という夢を持っていましたので、野球の強豪校に進学したいと思っていたんです。 中学の校長に地元高校で野球をやったらと勧められて、安達に入ったんですが、監督を信じて、安達が何十年かぶりの県大会ベスト4まで進むことができて、 夢に近づけたと思っています。安達で出会った先生や友人が、自分をいろいろ成長させてくれた学校でしたね。」

根本さん:「安達は今ある自分の原点ですね。安達に行かなかったら、今の特練員をやっている自分は存在しなかったと思います。安達に行ったからこそ、 進路や部活があって、警察官になって、自分がここにいると思っています。」

本名さん:「中学の自分と高校からの自分を比べますと、高校は現実的に物事を考えて行くことができる場だったのかなと思います。 部活をやるにしても、勉強するにしても警察官になるために頑張るんだという明確な目標がありましたし、社会人に向けて具体的に何かをやり始めたのが、 安達だったなと思います。」

菅野さん:「安達はスポーツ推薦で入学したんですが、もし推薦で落ちていたら、別の高校を受験することになっていました。成績が今一だったので…。 だから入学当初も成績は振るわなかったんですが、入学した仲間と競い合うことで、成績も上がってきて大学へ行くこともできました。 安達で出会った仲間が良かったと思いますし、そうした出会いがあったから、今の自分があると思います。この出会いの場が安達でした。」

《インタビュー雑感》
 今回の取材は初の試みで4人の同窓生を紹介した。白バイ走行訓練も見せてくれるということで、ときめきながらの福島県警交通機動隊訪問だ。 警視である吉田交通機動隊隊長が、現在の交通機動隊の安達高校卒業者リストを作成してくれていた。今回紹介した4人の他に交通機動隊には、 郡山分駐隊の本多貴洋(平成12年卒)さん、白河分駐隊の菅野貴弘(平成19年卒)さん、いわき分駐隊の齋藤聡浩(平成19年卒)さんも活躍していると聞いた。 県警まゆみ会が盛会な理由がここにあると思う。それぞれの配属先で同窓生が頑張っているのだ。白河分駐隊の菅野、いわき分駐隊の齋藤、そして紹介した4人とは、 彼らの在学時に私自身も同じ時間を共有した。当時から皆、人として真面目で誠実だった。そして再会した4人の人柄は少しも変わっていなかった。 仕事への熱意、真面目さ、真摯な姿勢が、インタビューにも訓練にもよく表れていたと感じる。この同窓生たちが安心できる生活を提供してくれていると思うと、 福島に住むものとして、ホッとする気持ちになる。
 それにしても、やっぱり白バイ姿はワクワクして凄くカッコ良かったなぁ。年甲斐もなく大型自動二輪免許にチャレンジしたくなったが、 この話を周りに打ち明けた瞬間に猛烈な反対にあうだろうことは、容易に想像できる。それどころか、口の悪い友人は、医者に行って、 頭の中を診てもらってこいなどと言いかねない。仕方ない。今度、交通機動隊のイベントがあったら、彼らに無理にでもお願いして、 絶対に白バイに乗せてもらお~っと(笑)。
(2016年12月10日掲載)

吉田隊長、職員の皆様、お忙しい中、大変お世話になりました。白バイ特練チームの渡辺さん、根本さん、本名さん、菅野さん、 取材にご協力をいただきありがとうございました。これからも事故に細心の注意を払いご活躍ください。そして目指せ、全国制覇!!

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