上から目線の「本を読む本」を10倍楽しく読む方法
もはや読書論の古典とまであがめたてまつられている「本を読む本」。
これを、なるべく楽しく読む方法をご紹介…というのも、手にしたかたならご存知だろうが、スーパー上から目線に辟易すること間違いないから。そして、もったいぶった言い回しで結局それかよ…とツッコミを入れるだろうから。
しかし、だからといって無用な本ではない。新入生から読み巧者まで、得るものは必ずあるはずで、説教臭さえ気にしないのであれば極めて意義深い一冊だとオススメできる。ここでは、本書にふれながら、わたしの「本を読みかた」について思うところを書く。誰かのヒントになればこれ幸い。
■ 決まった読みかたなんて、ない
完成された本の読みかたなんて、存在しない。十人いれば十通り、百冊あれば百通りの読みかたがある。本書の著者アドラーをはじめ、識者(?)たちが「本はこう読め」と押し付けるたびに、ゲンナリしているし、その轍を踏まないよう注意しているつもり。
ただ、「うまい読みかた」というのは存在する。
では、「うまい読みかた」とは何ぞや?
これに答えるためには、まず、その本を読む「目的」を明らかにしなければならない。目的とは、「なぜその本を読むのか?」に対する具体的な返答だ。知識を得るためであれ、楽しみが目的であれ、必ず「○○したい」という返答になる。たとえば、「日本人のしつけは衰退してるって、ホント?」や、あるいは「江戸川乱歩のような短編を、読みたい」になる。
そうした「目的」にあった本が選ばれ、選ばれた本に沿った「読みかた」が存在する。「日本人のしつけ」が目的であれば、そうした事実や主張を探しながら読むことになるだろうし、「乱歩のような短編」なら、静かな暗い部屋で、好きなノットで読みたいもの。「○○についての知識を得る」や「△△のテーマを概観する」といった具体的な目的があって、それに適った読み方が、「うまい読みかた」。
よく使われる宣伝文句に、「ためになる本」とか「役に立つ本」がある。だが、なんの「ためになる」のか、あるいは、どんな「役に立つ」なのだろうか?これを意識せずに読んでいる限り、いつまでたっても雑学に毛が生えた程度でしかない。もちろん「読書に成果を求めない」といったスタンスもありだが、能動的に読むなら、まず「目的」が必要だ。
「本を読む本」で紹介されている読みかたは、知識を得ることが「目的」の場合に役に立つ。あるいは、特定のテーマを追いかけるときの「うまい読みかた」が記されている。
■ 分析読書とシントピカル読書
本書のキモは第二部「分析読書」と第四部「シントピカル読書に尽きる。入門編の第一部は心得みたいなものだし、第三部「文学の読みかた」は著者の意向で大幅に割愛されている。ここでは、「分析読書」と「シントピカル読書」についてまとめてみる。
分析読書とは、一冊の書物から深い理解を得るための読みかたのこと。テーマを把握し、内容を解釈し、著者のいわんとしていることを充分に理解したうえで、批評する。要するに、「流し読み」「拾い読み」ではない、ふだんのあなたがやっている読みかたのこと。
いまふうに言うならば、" So What ? "を連発して、トピックセンテンスを抜きだす。そこからイシューツリーを再構成して、論証の誤りや脆弱なところを衝いたり、前提そのものを疑ったりする読みかたになる。ロジカルシンキング本に親しんでいる方なら手馴れたものだろうが、1940年代に自分の言葉で書いたアドラーはえらいと思う。
そして、シントピカル読書とは、特定のテーマについて複数の書物を横断的に読むやりかたのこと。当然、ある本を読むと、そこから別の本へ派生して…が延々とくりかえされることになる。
おもしろいことに、著者アドラーは、「何を読むか」と「どんなテーマか」は相互に影響しあうという。準備の段階でできあがった読書リストを消化していくうちに、リストの順位が変動したり、想定外の本がランクインしてきたりするわけだ。
これもみなさんご存知のやりかただろう。巻末の「参考文献」をたよりに幅をひろげたり、amazonの「この本を買った人は…」をチェックすることでもできる。あるいは、図書館のレファレンスサービスを利用するのはどうだろう?テーマと目的を具体的に述べ、いままで読んできた本をならべると、次に読む資料のリストを示してくれる。複数の図書館にかけもちで相談すると効果的。「日本人のしつけは衰退してるって、ホント?」や、「乱歩みたいな短編」を問い合わせてもいい。質問と回答事例は、[レファレンス協同データベース]が参考になる。
いずれにせよ、最初の「目的」さえブレなければ、分析読書もシントピカル読書もハズさないはずだ。本書を立ち読みできるなら、p.172 に分析読書のまとめ、p.244 にシントピカル読書のまとめがある。ここだけ読んで、ピンときたら読む価値はあると思っていい。
■ 「本を読む本」を批評する
分析読書の一環として、本を正しく批評しなさいという。著者の根拠と論理から、論証の完全性を疑う方法が紹介されている。
たしかに批評を心づもりして読むことで、本から得られる「目的」は大きくなる。そして、本書で解説される「反論を解消する」や「判断保留の重要性」などは、かなり役立つだろう。
しかし、その余勢を駆ってマキャベリ批評でボロを出す。著者は、「君主論」の次の箇所を、明らかな誤りだと断定している。
古いと新しいとを問わず、すべての国家の基礎は良き法にある。国家の武力が十分でないところには良き法はあり得ない。よって武装国家は法治国家の条件である。この部分について、著者アドラーは、こう批評する。
だが、よき法は十分な警察力に依存するという事実からは、警察力が十分であれば法は必然的に良きものとなる結論は導き出されない。この議論は、最初の仮定が果たして妥当かどうか疑わしいのに、それを棚上げした議論である。これは「不合理な推論」の例である。(゚Д゚)ハァ?
マキャベリは「武力は法治の必要条件」と述べているのであって、「武力は法治の十分条件」とは言っていない。アドラーは、マキャベリが出していない「警察力が十分であれば法は必然的に良きものとなる結論」をもってきて、「君主論」を批判している。これは、中公文庫版の「君主論」(p.68)も参照すると、よく見えてくる。
ところで、昔からの君主国も複合国も、また新しい君主国も、すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである。よい武力をもたぬところに、よい法律のありうるはずがなく、よい武力があって、はじめてよい法律がありうるものである。マキャベリは、武力の必要性を訴えているものの、武力さえあればよい法律があるとは述べていない。
もしもマキャベリが、「武力さえあれば法治OK」と言っているのなら、アドラーが指摘する、その妥当性を示す根拠が必要になる。しかし、マキャベリ自身、「武力さえあれば」と思っていないから、本一冊になってる。武力だけではままならぬから、権謀術数や人身掌握の術を述べている。
つまり、アドラーは誤読か意図的か不明だが、マキャベリの主張を歪めたうえで、そいつを批評している。このように、書き手が言ってもいないことをでっちあげて、そいつを論破することで批判したつもりになる詭弁術を、「わら人形論法」(Straw man)という。
さらに、この箇所は、軍隊の種類と傭兵軍について検証する章で、マキャベリは歴史的事実から信頼に足る軍隊の種類を論考し、最終的には「自国軍」こそが頼りになるという結論を引き出している。法治と武力の話ですらなく、カンケーないところに噛み付いて「不合理な推論」とレッテルを貼るのは、言いがかりにひとしい。
つまり、マキャベリの主張のねじ曲げと、的はずれな批判の両方をしている意味で、アドラーは「君主論」を『分析読書』していないのではないかと。著者は哲学のセンセーだったらしいが、ロゴスはいのちだろうに。
あるいは、この「本を読む本」自体を分析的に読んでもらうことを期待して、こんな罠を仕掛けたのだろうか。批判読書を勧めておいて、自分が批判されるような「穴」を設けておくなんて、粋なはからいをするものだ。分析読書しなかったら、この「穴」に気づかないからね。
本書を「必読の書」ともてはやすのもいいが、まず隗よりスタート。ひととおり読んだら、本書そのものを俎上に載せてみるのもいい。
■ 「本を読む本」に致命的に足りないもの
これまで、教養書や啓蒙書から知識を得るための「著者の読みかた」を紹介してきた。
では、小説などのフィクションを読むための「読書法」はあるのだろうか?――これが第三部「文学の読みかた」になる。ここは著者の意向により大幅に割愛されているものの、小説に対する著者の態度があからさまにミエミエで笑ってしまう。そして、本を読むうえで、いちばんだいじな心得が書いていないことに気づく。
「本を読む本」では、小説を読むための心得として、非常に多くのものを要求する。面白かっただけではダメで、どこがどう面白かったのかキチンと説明できなくてはならないと。だから、審美せよ、鑑賞せよ、味わえ、学べ、追体験せよ、統一性を把握せよ、解釈せよとやかましい。なのに、もっとも大切なところが抜けている。
著者のスタンスに欠けているもの、それは、「その本を楽しんで読む」に尽きる。面白がって読む、同化して読む、面白いとこだけ読む、読まない、つまみ読み、ナナメ読み、音読、黙読、味読、好きに読めばいいんだよ、小説は。
著者アドラーは、読書を、高級な何かのように勘違いしているようだ。知識や教養を摂取するのに躍起になって、肝心の読書のよろこびを放棄している。知識欲を満足させる「たのしみ」ではない。あるいは、小難しい思想にくすぐられた自尊心の「よろこび」ではない。純粋に、単純に、本そのものをおもしろがって読む――そうした読みかたを、忘れてしまっているのではないかと。
これはアドラーだけを批判できない。わたし自身、多かれ少なかれ、そうした姿勢を持っているのだから。知識が得られる、考え方を学ぶ、知的生産ができる――読書になんらかの報酬を求めている限り、どっこいどっこい。もちろん読書から利益を引き出そうとする姿勢は大切だが、「本を読む」ってそれだけだったっけ?
忘れられた読みかたを思い出すために、「読者の権利10カ条」が役に立つだろう。これは、「ペナック先生の愉快な読書法」で紹介されており、ちいさい子をもつ親にとって、かなり身につまされるに違いない。
「わが子を読書好きにしたい」という親の願いの裏側には、「見返りを求める読書」が隠れている。この、見返りを求める読書こそが、本を読む喜びを失わせているという。読書の幸福を伝えるために、読者は次の10カ条の権利があるという。
1. 読まない権利
2. 飛ばし読みする権利
3. 最期まで読まない権利
4. 読み返す権利
5. 手当たりしだいに何でも読む権利
6. ボヴァリズムの権利(小説と現実を混同する権利)
7. どこで読んでもいい権利
8. あちこち拾い読みする権利
9. 声を出して読む権利
10. 黙っている権利
「読む」ためには「読まない」選択肢が必要なんだ。「本を読む本」の真逆を追求する、「見返りを求めない読書」のおかげで、ほんとうの喜びを味わえる。この10カ条で「本を読む本」を照らすと、もっと立体的な読書をすることができるだろう。つまり、目的に適ったスタイルを保ちつつ、楽しんで読めるのだ。
そういえば、わが子は「かいけつゾロリ あついぜ!ラーメンたいけつ」を何十回も読んでいる。通読もするし、好きなとこだけ拾い読みするし、声に出して読むし、身振りで示しながら読むし、わたしに音読させたり、イシシとノシシで交代して読んだり、いろいろな「読む」バリエーションを思いつく。
とにかく読めること、読むことそのものを、じつに楽しそうに、「読んで」いる。彼の、自由な読書スタイルを見ながら、教えられる思いをしている。字を教えたのはわたしだが、好きに読むやり方は、彼に思い出させてもらった。
人生は短い、合わないなら読まなくていい。大事だと思ったところだけつまみ読みすればいい。つまらなければ途中で放り出してもいいし、好きなところは好きなだけ読み返せばいい。濫読上等。小説と現実を混同したくなるではないか。分析的な読書も、シントピカルなテーマ追求もアリだが、なによりも目が見えているうちに、溺れるように読みたいね。
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コメント
本ブログは有用だと感じていましたが、少なくとも本エントリに関しては最低。
最近量産されている軽佻浮薄な「読書本」の数々に毒されてるのではないだろうか?
確かに本書に関して、現代的な視点から見ればツッコミどころはあるだろうが、それは枝葉にすぎない。
勝間和代女史をはじめ、最近数多く垂れ流されている無価値な読書本・啓蒙書の多くが、本書の知見の基盤に依っている部分もあることは明らか。にも関わらず、それを敢えて脇に置き、ツッコミどころだけをあげつらう姿勢には呆れる。
これを「上から目線」と言う卑屈な思考こそ改めるべきだろう。読書本という領域において、本書が果たした役割は大きい。
いるんですよね、こういう教養派をあえて否定してみせて(それも稚拙な論理で)、自分の存在価値を高めようとする人。某弾氏とかぶって見える。
投稿: わきわき | 2008.12.28 00:37
本書が書かれた時代や背景にも触れず、
ただひたすら独善的視点で悪い評価を与える姿勢は
書評ブロガーとして不見識・不公正・不誠実・不勉強。評価すべき点はひとつもない。
自らの言説の影響力の大きさをわきまえ、自らの無能さが引き起こす被害を、しっかりと見極められたし。
投稿: わきわき | 2008.12.28 01:21
>>わきわきさん
おっ
ツッコミありがとうございます。
> 読書本という領域において、本書が果たした役割は大きい
この点については、確かにその通りだと思います。読書本の古典級だと、ショウペンハウエルが浮かびますが、本書もじゅうぶん古典となるまで価値を持ち続けるでしょう。どんな読み巧者でも得るものが必ずありますから。
この点について同意したうえで、納得できないのが、わきわきさんのコレ↓
> ツッコミどころはあるだろうが、それは枝葉にすぎない
と、
> 教養派をあえて否定してみせて(それも稚拙な論理で)
です。
これは、「■ 本を読む本を批評する」でわたしが展開した批評(ツッコミ?)についての批判だと受け取りました。そして、納得できないポイントは、以下の二点においてです。
一点目は、「本の批評」について。
その本をきちんと読んだとするために、著者は批評が重要だと説いています(10章 本を正しく批評する)。そして、その証左として、マキャベリ批判をしています。すなわち、著者自身が「君主論」をきちんと読んだ証拠としての批判だと読み取りました。したがって、アドラーの批判は「枝葉にすぎない」とは考えられません。
二点目は、「アドラー批判の論理」です。
わたしの批判の論旨は、「アドラーはマキャベリ批判において、"わら人形論法"の詭弁術を行っている」です。これは、「稚拙な論理」だとは考えていません。むしろ、じゅうぶん「わら人形論法」していますよ、といえます。このエントリので述べた内容と一緒ですが、「わら人形」の理由を二つ挙げます。
「わら人形」の理由一つ目は、アドラーの読解「武力は法治の"必要十分"条件」です。マキャベリの主張は、エントリ内で示したように、「武力は法治の"必要"条件」です。マキャベリは、いくら良い法律があったとしても、そいつを守らせるべき「武力」がなければダメだと述べています。アドラーは、そいつを拡張して、「武力さえあれば法律はよくなる」と読み取った上で、これを批判しています。つまり、マキャベリが述べていない主張を捻出して批判しているため、詭弁「わら人形」に合致します。
「わら人形」の理由二つ目は、アドラーの批判箇所「不合理な推論」です。アドラーは、「君主論」の12章「軍隊の種類と傭兵軍について」のイントロダクションの部分を批判しています。ところが、マキャベリが述べたいのは、この12章と、その次の13章「外国援軍、混成軍、自国軍について」で展開している、ひとつの主張です。
それは、「自分の武力こそ信ずるに足る」という主張です。つまり、自分の武力をそなえていなければ、いかなる君主国といえども安泰ではない。ひとたび逆境となると、自信をもって国を守る力がないため、なにごとも運命まかせになる、といっています。つまり、法律云々ではなく、武力の形態についての論旨なのです。
上記に至るまでの歴史的事実の真偽や、論理的整合性に対して批判するのなら、まだしもアドラーのいう「批評」になるでしょう。しかし、その前段について噛み付いているため、わたしには、アドラーこそ「枝葉にすぎない」としか見えませんでした。12~13章で展開している趣旨と外れた部分の発言を膨らませ、それに批判をしているため、「わら人形」と考えました。
ちなみに、詭弁術「わら人形」論法は、以下の定義に従って使っています。
wikipedia:ストローマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
以上、このエントリと同じ論旨ですが、この二点において、アドラーの読みは「おかしい」と考えています。そして、まさにこの批判について、わきわきさんが、
> 不見識・不公正・不誠実・不勉強。評価すべき点はひとつもない
と述べているのであれば、どうかその理由を教えてください。わきわきさんが批判されていることは分かるのですが、どのような根拠により批判されているのか、よく読みとることができません。不見識・不公正・不誠実・不勉強なわたしに、ぜひ、ご教授賜れば幸甚です…
…とまぁ、マジレスした次第ですが、最初のわたしの認識、つまりわきわきさんがツッコミ入れた部分をまるっきり取り違えていたならば、話はぜんぜん違ってきますね。その可能性も含め、「ちがうよ」という部分を指摘していただければ、このエントリを書いた甲斐があるというもの。
投稿: Dain | 2008.12.28 09:36
ナイスクレーム処理。といって荒れたらごめんなさいね。
いやはや良い対処ですね。残念な事に僕はあなたを論拠立てて評価してあげられませんがw
投稿: yusa | 2009.03.27 11:34
こんにちは^^はじめまして。1ヶ月ほど前にこのブログを見つけて、楽しく拝見しております。
実は今日このトピックで強く同感したことがありました。
私は院生で、文学とは関係ない研究をしております。しかし、本が大好きなので、いろいろ読み、友人が文学研究(平安時代文学の研究者とイギリス文学の研究者(ロレンスかな?))者がいます。
私が、「光源氏の話は、女をちぎっては投げちぎっては投げだよねーーー笑」と、思ったことを口に出したんです。すると彼女は「あぁ・・・そういう風に読んじゃうとだめなんだよ。本当はね・・・」なんていう風に話されたんです。
ロレンス研究者も私が「チャタレイ夫人は読んだことないけど、エロいらしいね(笑)」なんていうと猛烈に批判されるんです(笑)
そうなってくるとなんだか悲しい気分になってしまいました
時代背景をきちんと踏まえた上で読むとまた違うのでしょうが、基本的に、本は楽しく読むのが一番だと強く感じました。
彼女たちが「一般的にはそう読まれちゃうけど、でも○○な視点を持って読むとすごく面白いんだよね」って言うと良かったんでしょうけど・・・
だって、これが正解って言う読み方はないと私も強く感じるんですよ。
ま、ようは言い方なんでしょうね(笑)
投稿: ミミ | 2010.07.09 19:27
>>ミミさん
コメントありがとうございます、同感なところと、同感だったところがあります。
「本は楽しく読むのが一番」なのが基本であることは、激しく同意です。「○○だからダメ」な態度は、とても狭い読み方で残念だと思っています。
その一方で、「正解」というか王道的な読み方は確かにあります。これを「正解」と形容するからややこしくなるのですが、極端な例として「源氏はエイリアン譚だ」といった電波的読み方を持ち出せば想像がつくかもしれません。
我流でよいとは思いますが、ある程度深く読める(と自覚できる)ようになったら、その道の達人の批評を読むと、目ウロコだと思います。
投稿: Dain | 2010.07.11 23:19
初めまして。
「本を読む本」を読んだけど、なんだか難しくって、頭に入らなかったです。
でも、こちらの書評を読んだら、とっても面白かったです。
面白く読めればいい、というところは大賛成です。
投稿: ひよこ | 2012.04.10 18:09
>>ひよこさん
コメントありがとうございます。
この「本を読む本」が想定している「本」は、けっこうグレードの高い、いわゆる名著になります(しかも、小説は除きます)。なので、大上段に振りかぶっているところが難しく見えるかもしれません。
投稿: Dain | 2012.04.12 23:51