社会学部長 荻野 昌弘
社会学部は、2010年に創設50周年を迎え、新たな第一歩を踏み出しました。50年間、数多くの社会学士を生んだ社会学部棟は、今年の三月でその役目を終え、2014年には、新校舎が完成します。
50年間社会学部を支えた校舎の入り口には、「真理はあなたがたを自由にする」ということば刻まれていました。これは、聖書のヨハネ伝の一節です。キリスト教では「真理」とは神のことです。ご存知の通り、関西学院大学は、キリスト教主義に基づく大学で、このことばが校舎に刻まれていることは不思議なことではないでしょう。しかし、このことばとほぼ同じ意味の「真理がわれらを自由にする」ということばが、国立国会図書館に刻まれています。つまり、ヨハネ伝のことばは、より広がりがあることばなのです。
実は、社会学という学問にとっても、この一節は大きな意味を持っています。
社会学では、社会に見えないかたちで張り巡らされているさまざまなルールを明らかにし、その意味を捉えようとします。それが、社会学の大きな目的のひとつだといってもいいでしょう。ルールなしで、人間が社会を営んでいくことはできません。ルールに基づいて制度が作られ、そのなかで人々は生活しています。
一方で、社会には、わたしたちがふだんあまり気づかないルールもあります。たとえば、ゴフマンという社会学者が「儀礼的無関心」ということをいっています。通勤電車のような公共の場所では、むやみに隣り合わせたひとに話しかけることはしません。ひとと目が合うとすぐに視線をそらして、特別の関心がないかのように装います。つまり、儀礼的に無関心を装うのです。
わたしたちは、このように、日常生活のなかで、無意識のうちにさまざまなルールにしたがっています。このふだん気がつかないルールを知ることは、わたしたちが生活し、そして人生を送るうえで大変意義深いことです。わたしたちが気づかないままに囚われているさまざななルールを知ることによって、私たちは、より自由になることができるからです。マタイ伝では、「真理はあなたがたを自由にする」のすぐあとに、「罪の奴隷」ということばが出てきます。これは「人間中心、自己中心」をとがめることばですが、社会学に結びつけて考えれば、人間がつくり出したさまざまなルールに盲目的にしたがうだけでは「ルールの奴隷」になってしまい、自由になれないと考えることができると思います。
逆に、自分が知らぬ間に何らかのルール、そして制度に囚われていたことに気づき、自分自身を客観的に眺めることで、実は自分には、さまざまな選択肢があること、つまり自由があることがわかると思います。
私は、社会学部で、四年間、積極的に社会学を学ぶことで、より自由になってもらいたいと願っています。私は、社会学を学ぶとスカッとすると学生によく言います。真理に近づけば近づくほど自由になり、そしてスカッとした気分で、毎日を送ることができるのです。そして、人生のさまざまな岐路に立ったとき、自分の人生にとっても、よりよい選択ができるようになるはずです。自由になるための場所、それが社会学部です。