≪ キワニスは楽しい・・・今月の対談 ≫
(会員の対談)
平成19年6月で、終了しました。
長らくのご愛顧ありがとうございました。
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○19年6月: 吉江 誠 会員 VS 星 利樹 会員
(司会・編集:福武 正廣 会員)
左: 星 会員 右:吉江 会員
「ドール作りへの情熱」
キワニスドールの意義
福武)本日の対談のテーマが「キワニスドール」ということで、会員の中でも積極的に取り組まれているお二方からいろいろドール作りを中心としたお話をお伺いしたいと思います。まず、ドール作りとの関わりからお尋ねします。
星)私は所謂会社人間でした。最近第一線を離れ、時間が比較的自由になりました。これまで奉仕活動と行っても、以前関係した奉仕団体で、寄付を中心とした奉仕活動を経験したのですが、どうもしっくり来なかった。寄付をしてもそれがどのように役に立っているのか今ひとつ良く見えなかったですね。それが、キワニスクラブに入って、クラブのテーマが「世界の子供の為に」ということで、非常にはっきりしていた。中でも、キワニスドールという具体的なものがあり、病院に入院している子供たちにドールをあげ、大変喜ばれている事実を知りました。そしてなかなか需要に製作が追いつかないと知り、それでは少しでもお役に立てばと思い取り組んだのが、のめり込む事になったきっかけです。かれこれ家内と一緒に数百体は作ったでしょうか。これが周囲に関心を持たなかった私自身の罪滅ぼしになれば良いなと思っています。
吉江)私が東京キワニスクラブに入ったのは、平成2年です。その頃は、まだキワニスドールは有りませんでした。また、入会したのは良いのですが、入会当初仕事が忙しく、例会になかなか出席できず、積極的には奉仕活動はできませんでした。そうこうしているうちに2001年にキワニスドール運動がミキさん(前KI会長ブライアン氏夫人)によって提唱され、日本のキワニスでも、特に、木全さん始め女性会員やキワニアンのパートナーのサポートを得て積極的に取り組み始め私も及ばずながら私なりにできる奉仕活動として力を入れてきました。
星会員がおっしゃったようにドールを沢山作り、多くのドールを寄付する事は、大変重要なことだと思うのです。自分としては、現実にドールを作る作業に多くの方に参加してもらうことも重要だと考えています。即ち、会員、会員の家族だけではなく、出来るだけ若い人たちにもドールを作ってもらいたいのです。学生さんに限って言うと、今までにいろいろな形で明治学院大学、淑徳短期大学、ICU、田園調布学園などで学生さんたちにドール作りに参加してもらいました。若い人たち一人一人が子供たちのことを思い、手を動かして作って行く事が大切なことだと考えています。500体、600体作る事はもちろん大切ですが、一方で多くの人たちに関わってもらうことも目指して行きたいと思います。
私は、来年度(07―08年度)の東京キワニスクラブの会長候補になっていますが、もし選ばれたら、'なにも、歯を食いしばってやるだけが奉仕ではなく、にこにこしながらやるのも奉仕活動ではないか'と皆さんに呼びかけたいと思っています。このキワニスドール作りはキワニス本来の奉仕の目的に合致して、しかもニコニコしながら会員各位が出来る範囲で参加できるという点で、大変素晴らしいプロジェクトだと思っています。
キワニスドールの普及活動
福武)確かに、キワニスの会員やその周辺の方々により、すばらしい活動がされている訳ですが、実際他の有力な奉仕団体と比べどうしても知名度が低いような気がするのですが。なにか広報活動をされているのですか?
星)昨年の金沢での小児学会を皮切りに、甲府、そして今週金曜日(4月20日)には京都の小児科学会にも行ってもっと広くその良さを知ってもらうように、キワニスクラブとキワニスドールを宣伝してきます。最初のうちは、我々もおっかなびっくりで、うろうろしていたのですが、そのうち小児科のお医者さんと話していると、そういうものを求めていたんだ、とか、大変良いものだからもっと話を聞きたい、などという声を聞いて、これなんだなと確信できました。それからはもっと前へ出て、サンプルをお渡しし、関心を引くようにしました。
最初は、先生方もキワニスクラブも知らなければ、初めてドールを見るものですから、説明を要しましたが、分かって頂くと、一ついくらですかと聞かれたり、無償というのは裏に何かあるのでは、という懸念を抱かれたりもしましたが、丁寧に説明して意義を理解して頂きました。2回目の甲府では、先方より寄って来られ、話を聞いたよとか、説明を聞きたいとおっしゃる先生もいらっしゃいました。ここしばらくは、このような一種の啓蒙活動を続けて行く事は重要だと思っています。
吉江)キワニスクラブをPRするという件ですが、確かにマスコミという手段を使うのが最も効果的だとは思います。ただ、良い面だけでなく、悪い面も有る訳で、そんな活動をしているところなら、寄付を依頼してくるところも無用に多くなるのではと危惧しています。
また、日本での最初のクラブである東京クラブ設立の経緯から、当初は非常にステイタスを重視した関係で、メンバーも多々益々弁ずという訳ではなかったと承知しています。キワニスというものを、もっと志の有る方に情報発信して行く事が大切な事だと思っています。
現在は、キワニスドールについてのDVDをつくり、キワニスの活動も特にドール作りが良い材料になり、徐々にマスコミに報道されて来ていますね。
星)サラーマンを終わって、さてボランティア活動をしようと思っても、簡単には見つけられないし、例え有ったとしても、スムーズに入って行けるかというとそうでもない。しかし、キワニスクラブなどに入っていると、そういう活動にスーっと入って行ける。そういうところが私にとっては、キワニスクラブのすばらしいところだと思います。 今後さらにこのキワニスドール活動はもっと広がって行くと思いますよ。
キワニスクラブの奉仕活動
福武)我々現役で働いている人間は、クラブに属してはいるものの、どうしても毎回例会に出席したり、積極的にボランティア活動に注力するという事が難しいです。今お話を伺ったように、クラブの方々が一生懸命活動されているのを拝見すると、どうしても気が引けて、クラブから足が遠のいてしまうのですが…。
吉江)私も入会して17年ですが、皆勤タブはまだ10年です。最初の7年はあまり出席出来ませんでした。やはり、現役として仕事を持っているとダメですよね。現役で多忙なときには、特に拘束感を持たずに、出来る範囲で出席し、時間的余裕ができたら活発に参加するということで良いのではないでしょうか。現役の方々にはあまりキワニスの仕事を押し付ける事は避けて、今我々がやっているボランティアの匂いをかいで頂くだけでもいいかなと思っています。
ドールに戻りますが、もう一つ良いのは、ドール作りを家内と一緒にやっていると、2人の間の会話が増えますね。共通の仕事ですから。また、女性の立場から、例えばファミリーデイの始まる前に、来られた方々にドール作りの体験をしてもらいつつ、理解を深めてもらう機会を作ったらとか、いろいろ発案が出てきます。
星)それはいいですね、一度やってみたらいかがでしょうか。しかも、ドール作りは共同作業だし、そこにいらっしゃる人達と分業することになります。お子さんや他のご家族との交流の機会になるのではないでしょうか。ただ、綿詰めの際に、人形の首のところが綿が少ないとクネクネして、そこが少し最初は難しいかもしれませんね。均等に綿を入れて行かないと上手にいきません。仕上げだけは、ベテランの方に手伝って頂いたが良いか知れません。
吉江)キワニスに於いて、キワニスドール作りが一種の通奏低音のようなものになっていると非常にいいなあと思いますね。作り方を工夫して、こんな風に作れないかなあ、こんな場所で作れないかなあ、こんな人たちと一緒に作れないかな、こんな利用ができないかな、などとキワニアンが常に考えてくれると良いですね。
横浜クラブなどは、例会前に会員皆でキワニスドールを作る時間を作り、クラブをあげて協力している。そんな例もある訳ですから、とりあえず背伸びをせず身の丈に有った活動をして行きたいと思います。キワニスドール作りであれ、なんであれ、キワニスには「世界の子供たちの為に」という大前提があるわけですから、我々の活動は糸を辿って行くと、そこに繋がって行くものであるべきだと思います。その点、キワニスドールというのは、一番良い社会奉仕への入り口ではないでしょうか。
福武)キワニスクラブはドール作りだけでなく、最近子供たちをDV(ドメスティックバイオレンス)から守る「シェルター」を支援していますね。
吉江)そうです。YCPO(Young children priority one)の一環として、我々はその施設を支援する為に、さしあたって家庭で使わなくなった品を活用してもらうべく寄付したわけです。確かに差し上げるのはお金が一番良いのかもしれませんが、しかしこれまで大事に使って来たものを寄贈する事が、寄付の本来の姿じゃないかと思います。ものを大事にするということも我々の活動の基本の一つになっているわけですから。
星)先日のカリオンへの寄付も本当に良かったですね。毛布や布団などカバーを取り替えたり、洗ったりしなければなりませんでしたが、お役に立ったのではないかと思います。例えば、着るものなんかは難しいと思うのですが、不要なものを整理して、ストックしておく事も将来の為に良いのではないでしょうか。
吉江)先日ASPACの総会時にマニラの地方の高校を訪問した際に、JICA経由だったと思うのですが、日本より寄贈されたパソコンを沢山見かけました。なにも我々がまねをして、また競合する必要もないわけで、却って政府機関では出来ないような事を探して、やって行く事が必要でしょうね。キワニスが援助した小学校の図書館を訪れたときに感じたのですが、子供用の英語の本がまだ足りないと思いました。ですから、われわれの仲間で、お子さんのあるいはお孫さんがお使いになって、もう要らない英語の本を先方に送るなどという事も意義有る奉仕活動ではないでしょうか。要は何でもお金を出して、これが奉仕だというようなことにはしたくないですよね。
キワニスをもっと楽しもう
福武)キワニスクラブへのご意見、ご感想など。
星)そうですね、クラブの会員の年齢層が少し高いのではないか、という気がします。確かに、高年齢層は時間がありますから、出席率も自ずから高くなります。しかし、たとえ、出席はなかなか出来なくても、若い人がもっと入ってもらえるといいですね。しかも、たまに出席して、たまたま周りがあまり知らない人たちで、しかも前の方のテーブルだとどうしても気後れしてしまうのではないでしょうか。なにか、その辺を考えて、若い人達が気後れしないで出席できる工夫を考えてはいかがでしょうか。
吉江)確かに、存じ上げない方々が周りにいらっしゃると話の切り出しようがなく、もじもじしますよね。でも、キワニスには出席の義務はないのだから、若い段階からキワニスに入り次第になれていって頂ければ良いと思います。
星)キワニスの良いところは、官公庁出身の方が多くいらっしゃいますし、その辺が他の奉仕団体と大きく違うところです。お話や経験の幅が違いますから。
吉江)私はよく言うのですが、仕事を辞めたらキワニスが社会の窓になる、と。仕事をしている時は、もちろん会社が自分と社会との接点になるわけですが、勤めを辞めたらキワニスに参加して、社会との窓を作っておく事がよいと思います。
この間も、或る会員の方から、今度常勤の役員を退いたので、これからはちゃんと出席しますとおっしゃって頂いたのですが、それを聞いて大変嬉しかった。あっ、こういう入り方が理想的だなあと思いました。
福武)キワニスドールからは離れますが、キワニス会員同士の親睦・交流の一環として最近囲碁の会などが盛んだと伺いましたが。
吉江)そうですね、初心者の方からベテランまで沢山の方が参加されています。ただ、囲碁やゴルフなど昔の会社や職場仲間との付き合いが続いていて、皆さんそれに参加されている方も多いのではないでしょうか。先日星さんにも申し上げたのですが、あの六本木男声合唱団のようなものを、キワニスでも出来ないかとおもっています。
星)ゼロからでも参加できるようなものがいいですね。合唱を昔からされている方も多いようですので、ご指導を仰げば可能性はあるのではないでしょうか。迫会員もグリークラブでしたし、今回のボニージャックスのご紹介もそうですからね。
福武)最後になにか一言。
吉江)このクラブは、実に様々なバックグラウンドを持った人たちが集まって、一つの目的のもとに集まっているのだと思うのです。私自身、まだまだこの年になってもいろいろ学んで行こうと思っていますので、キワニスクラブを通じていろいろ経験させてもらい、会員の皆さんから沢山学ばせてもらおうと思っています。会員の皆さんにも、いろいろな局面で様々な役割を担って頂きたいと思います。
星)私などは入会してまだ3年ですが、吉江副会長などと話が出来ることなど思いも寄りませんでした。感想と言われてもすぐには出ませんが、ただ一言、キワニスクラブに入って本当によかったなあと思っています。
福武)本日は長時間どうもありがとうございました。
吉江 誠 平成2年5月入会。平成8〜9年国際委員長 9から11年副会長 11〜13年青少年教育委員長 13〜15年KファミリーPT長 15〜19年副会長 現職 竃澤組顧問。 略歴 昭和32年神戸銀行入行 62年太陽神戸銀行取締役大阪支店長 平成元年取締役資金証券部長 3年専務取締役 6年さくら証券副社長 10年京阪神興業会長 11年より現職。埼玉県出身。
星 利樹 平成16年5月入会。現職 東電環境エンジニアリング褐レ問。 略歴 平成4〜6年東京電力椛ス摩支店調布支社長 6〜10年横浜火力発電所長 10〜13年東電環境エンジニアリング叶齧ア取締役 13年6月〜17年6月社長 17年6月顧問。東京都出身 。

○19年5月: 福武 正廣 会員 VS 笹 節子 会員
(司会・編集:青木 秀臣 会員)
左: 青木会員 中央:笹 会員 右:福武会員
「映画の楽しみ方」
私の映画の原点
青木)青木でございます。福武さん、笹さん、よろしくお願いいたします。今日は映画の話題ということでお二人にいろいろとお話を伺いたいと思っていますが、まず映画というものについて、福武さんはご自分の人生の中でどういう捉え方をされていますか?難しい質問かな?
福武)最初からすごい質問が来た(笑)。 私は54(歳)ですが、昔映画を見るという行為は、いい服を着て親と観に行くというような感じですね。そういう印象がずっと思い出にありまして、心沸き立つという感じでした。やはり昭和30年代初頭という事で外国の映画ですね。いわゆる名作を親が好きだったので、よく連れて行ってもらいました。あまりわけが解らなかったのですが、ともかく皆がシーンとして、終わったら拍手しまして、凄く良かったなという気持ちがありました。小学校高学年で大阪へ引越をしましたら、映画館がいっぱいありまして、大作を観ましたがやはりその‥映画ってすごいなと感動しました。自分にとっては知らない世界を垣間見ることが出来る、意外な手段だという気がいたします。
笹)私は目の前で人間が動くのを観るのが一番好きなんです。ダンスでもオペラでもミュージカルでも。しかし、前売り券を買わなきゃいけない・・・。ところが、いま、二時間あるとしたら、映画なら映画館に行ってパッと観られます。また、小説も好きなんですが、小説の実写版として映画をみていることもありました。ところが、だんだん、映画は映画として、やはり舞台にはない良さがあると解ってきました。
私が二十代の頃は、「イージー・ライダー」とか、「俺たちに明日はない」のような映画がヒットしてました。その当時、一番好きだったのは「天井桟敷の人々」。けれど自分の人生と共に好きな映画も変わってきて・・・、今でしたら「フラガール」と「ドリームガールズ」が今年のベスト2なのですが、両方ともアカデミー賞を獲りましたね。
映画って、純粋に娯楽で楽しいですし、自分の生き方に通じるものを確認したりもできます。時間がある時にすぐ行けて、見て良かった、お金払って感動した、という感じですね。だからホラーは嫌いで、楽しいもの、感動するものが良いですね。
青木)「フラガール」と「ドリームガールズ」偶然にその両方ともガールズですね。題名が良かったのかな?「スウィングガールズ」もあったし‥。
印象深い映画
青木)最近ご覧になって印象に残った映画はありましたか?
福武)最近あまり大きな映画館で観なくて、銀座の裏のシネスイッチとか渋谷のスペイン坂にある20人しか入らない所へよく行くんです。イランの映画、インドの映画とか色々やってましてですね、そういうのを観ていると、こういう生活をしているのねというように・・・成程なぁと解ります。イランとかインドとか世界が我々と全く違っていて、良く知らない生活であるけれども、全く我々と同じような感情、動機で行動し、自分たちと違わないんだと解ります。
青木)私が一番、最初に感動した映画と言えば「ビルマの竪琴」ですね。
福武)やはり白黒の?やっぱり!
青木)あれは竹山道雄という人の作品で、大人の童話だと言われていますけど、すごくリアリティーがあって未だにやはり忘れられない作品です。今回ね「硫黄島からの手紙」という、戦争の映画が来るんだけど、やはり凄く良く出来た作品です。
福武)おっしゃる通りですね。
青木)どちらかというと日本の映画と外国の映画とどちらがお好きですか?
笹)前は絶対外国映画だったのですけど、ここ数年は邦画にも好きな映画が増えました。「Shall We ダンス? 」とか、「ピンポン」とか、「オールウエイズ」とか。
青木)良く出来ていますよね! 福武さんはどちらかというとさっきおしゃっていた通り、洋画の大作が多いですか?
福武)そうですね。私の入った会社は商社だったので、どうしても英語を勉強しなければいけない、いずれ海外赴任するという時の為にやっぱり英語が喋れないといけないと思いまして。英語に慣れろということで、アメリカの映画などを観ていました。
そうこうしている内に、モーツアルトの「アマデウス」という映画に出会いまして、あれは途中に流れていた曲も綺麗ですし、英語も割とはっきりしていたので10回以上観ました。ビデオも買ってきて、繰り返し、繰り返し観て。全く最初聞き取れなかったんですけど、段々段々、あぁ、多分これはこういう事だなという風に科白が解るようになりました。英語の学習テープじゃないですけど、そういうことがありました。
青木)よく言いますよね、英語の勉強には、映画を観ると良いと。ちょっと話が古くて申し訳ないんですが、僕の場合もすごい印象に残っている映画ってたくさんあるんですよね。例えばそのウォルト・ディズニーのアニメーション映画「白雪姫」「バンビ」から始まって、「ファンタジア」まで、強烈な印象を覚えました。特に「ファンタジア」はクラシック音楽がディズニー作品で印象付けられた感がありますね。
ヒューマン映画とCG映画
青木)最近のハリウッド映画を観てるとCGを駆使した映画が多いですね。映画もまた違った方向に来ているじゃないですか。ハリウッドの昔の俳優さんたちが話していますが「映画って言うのは、ヒューマンな物を作っていくのが映画だったんだけど、今は、全てコンピューター技術で作る、そういうのはハリウッドの映画ではない」。古い人が言う事なのかも知れないけれども、でもそう言われてみると、すごく最近そういうのを感じるんですけど、どうですか?
笹)どういうCG・・・例えば最近でしたら?
青木)「マトリックス」とか。
笹)あぁ、まぁね、でも最近売れ出した「幸せのちから」、めちゃくちゃヒューマンですよ。
青木)ヒューマンですよね。だけど傾向としてはね、すごくお金をかけて作って世界に配信し、収入を得るというのが多いじゃないですか。ルーカスとか、スピルバーグとかね。
笹)福武さんもおっしゃったとおり、イラクの映画とか、例えばモンゴルの「天空の・・・」なんでしたっけ、あれ出演しているのは素人の家族ですね。ああいう素朴なドキュメンタリータッチのものもいいですね。
福武)ドキュメンタリー映画とあまり変わらないような感じでね。
青木)だけどアカデミー賞などを見ていると、やはり傾向としては、例えば「タイタニック」みたいのが賞を獲るとか。結構スケールが大きくなってきてますよ。今度の「ドリームガールズ」は、ちょっと別な意味で違いましたけど。
笹)「フラガール」もかなりマイナーな、小さな会社の作品みたいです。
人生を変えた映画
青木)こういう懐かしい思いと、まぁ自分で司会しておいてこんな事いうのは変ですが「グレン・ミラー物語」っていう映画が自分にとって人生を変えられちゃったみたいなのです。この映画が存在しなかったら、やはりちょっと自分の人生は別な方向に行ったんではないかなと思う位凄い。映画観ましたか?
笹)なんか観たような気がしますが、そこまで覚えていないですね。
福武)楽団指揮者かなんかですか?
青木)そうです。
福武)あの先程おっしゃった「ビルマの竪琴」ですか、ビルマのお坊さんの格好をした主人公がなんか・・・
青木)あれは安井昌二と言う俳優、水島上等兵の役で、最後にオウムを肩に乗せて、ハープを持って‥。
福武)去っていくシーンが印象的ですね。
青木)あの映画も、自分の仲間が戦死して、誰も彼らの骨を拾わず、皆日本へ帰ってしまう、自分だけは絶対帰る事は出来ない、そしてそういう人たちを葬ってお坊さんになって、すごく感動的でしたね。
笹)3年位前に見た「アメリ」も感動いたしました。
福武)フランス映画ですね。
笹)お節介にならないように、小さな親切を周りにいっぱいして、人を幸せな気分にするっていう日常の積み重ねに、感動したし、そうだな、と映画によって学びました。
青木)感動する事によって何かそれが自分の人生に反映されるというのは、やはりありますよね。
笹)「ボルケーノ」という火山の溶岩が流れ出るアメリカ映画で、消防士の人が自分を犠牲にして人を救う。アメリカ映画に自己犠牲がでて、びっくりしました。人を救う、という精神に打たれました。
福武)最近の流行でお涙頂戴というか、「世界の中心で、愛をさけぶ」などを見ていると泣かざるをえないような。僕の一つの基準として、見終わってタイトルが流れてきて、ああっ良かったなぁ思うとなかなか席を立つ人が居ないし、みんなボーっとして、ああすごく良かったなぁという感じがする映画って僕もいいなって。でも見終わって、ぱっと見たら皆がすぐ立ち上がって帰るっていうのは、あっ、前評判が良かったがたいした事なかったのだなって一つの基準としているのです。
映画館は不思議な空間
青木)映画館っていう雰囲気が不思議ですよね。さぁ始まりますよ、と段々暗くなっていって、その一つの世界の中に入ってしまうとね。ところが同じ映画でも、最近はテレビで再放送しているじゃないですか。やはり全然印象は違いますよね。
福武)全然違いますよね、その通りです。
笹)DVD派と映画館派に分かれますよね、私は絶対映画館派ですよ。
青木)だけど、逆に言うと今がそういう手軽に映画を家でも観られる時代というのは、また別の意味で新しい形なのかもしれないと。
福武)そうですね。
青木)最近は、飛行機の中でも映画が観られるようになったじゃないですか。特にまだ一般上映される前に観られる。
笹)いや、ほんとにいいですね。
どんな映画にも価値がある
青木)馬鹿馬鹿しいって思いつつも楽しい映画ってあるじゃないですか。「寅さん」観てもね、「釣りバカ」にしても観たいと思うもの。だから観ますよ。
笹)観ますね。(笑) 楽しいし、元気になる。
福武)昔海外赴任でイギリスにしばらく駐在していた事がありました。やはりその当時は日本の映画は外国では上映していませんで、まぁビデオはあったのかと思うんですが、その正月の休みにアムステルダムのホテルオークラで、そこでお雑煮が食べられるので日本人が集まるのです。そこで「寅さん」を上映していて、日本人がこうびっしり何百人も一緒に観ている訳です。ああ、そうだ、これ日本だな、柴又だよと。
笹)いいですね
青木)映画を作る人、監督さん、プロデューサーも自分が言いたい事を映画で表現していきたい人が結構多いですよね。だから、娯楽映画でもそういうものがどっかに何かあるんですよ。チャーリー・チャップリンはすばらしかったな。彼のシリーズっていうのは・・・
福武)はいはい、すばらしいですね。チャップリンと言えば私あのDVD初めて買ったんですけど、「チャップリンの独裁者」。
青木)「チャップリンの独裁者」ね。
福武)一番最後のあのスピーチを僕、暗記しようと思って。
青木)よくああいうのを作ったなと思いますよ、あの時代でね。
福武)そうですね。
青木)「モダン・タイムス」。あれもすごく社会を皮肉った映画でしたけど。今まさにそういう時代になっているわけだから。
映画も変わる
青木)映画も変るんでしょうね、CGを使う傾向になったけど、デジタルっていうのはきっと瞬間は流行るかもしれないけど、今またアナログ寄りに戻ったのかも知れない・・・。
笹)行き過ぎちゃって。
福武)そうそうー
青木)そうですね。最近は映画館行って観るというよりも、時間も無い。だからテレビの番組表見てはセットして、大容量ハードディスクですから。あれでどんどん録ります。それを観てますね。
青木)はい、大画面で(笑)
福武)はぁー、そうかぁー
青木)いや、小さい画面でも近づいてみれば大画面になります。(笑)
笹)いい事聞きました。
福武)そうですねー
青木)いや日本の映画が最近本当にすごいんですよ。どういう理由なのかなって僕も色々考えたら、やはりプロダクション制作になってきたんですね。昔は大手映画会社が俳優さんを抱えて作っていたんだけど、今は本当に自分が作りたいものを、俳優さんも特に有名な俳優さんでなくても作品作りができて、中身がある作品が続々出来てるんですよね。
福武)そういうのをプロデューサーシステムっていうんですか?
青木)そうだと思います。
笹)監督になりたい人はいっぱいいますけど、ただお金がなくてやれない‥。
福武)インターネット映画ってパソコンで観るんですか。
青木)そうです。まあ確かにね、すごい時代になってますよ。
笹)本当ですね。若い子なんか携帯でアニメ見てますもんね。
福武)え!?
笹)携帯で動くんですよ。えっなにやってんの?って思います。
映画は時代の考証人
青木)物語に関係なく風景でも時代、そのバックグラウンドはその時代が出ていますね。そして映画はあまり筋が面白くなかったら背景を観ています。
福武)なるほど。確かに我々の学生時代のあたりを映してる映画があったとして、観ていると、走ってる乗用車とか風景とかがものすごく古臭くてですね、ついこないだの事の様に思っていたんだけど、こんな昔の自動車走っててかっこ悪いなーって、私はあんな時代の学生だったんだみたいな。なんか隔世の感ですよ。
青木)いやそうですよ。例えば小津安二郎の作品なんか観ていると、本当に暗〜い‥。だけどそれは嘘じゃないわけだから、それはやはりロケをして・・・。 話は尽きないですがこの辺で映画のお話を終わりたいと思います。
私のキワニス活動
笹)私が入会したのは木全ミツさんという大先輩の紹介です。実際はほとんど活動していません。年一回ファミリーデーに行く位なんです。案内は色々いただきますが、靖国のお掃除も朝早くて、ごめんなさい行けませーんと断っています。私、カンボジアの孤児の里親なのですが、年2?3万円で一人生活できる。一年に一回ぐらい写真と手紙が届きます。そんな風に時間がとれなくても出来そうな事があったら活動したいと思っています。
福武)私は何もしていないので申し訳ないのですが、昔別の奉仕団体に入っていたのですが、例会行ってご飯食べて話しを聞いてそれで終わり。時々みんなで集まって宴会して。奉仕団体なんだから、何かしろよって思っていました。一回だけ地域の掃除をしたり、ベンチを寄付したり、これはちょっと違うんじゃないかなって思っていました。キワニスも私自身の手ごたえっていうか、具体的な活動目標を見出せないでいます。もちろん靖国清掃とか時々行きますけど、まあそれももちろんそれはそれでいいんですけど、もっと手ごたえが欲しいです。災害募金でお金を出す、例会に行って話しを聞くだけでなく、こんな良い事やってるんだよって言えるものが欲しいですね。私も偉い方に入会を勧められたので、自らやってみようよっていうのがなくてすみません。
オブザーバー)福武さんご自身が発案してやられたらよろしいのでは?
福武)ええそうですね。
青木)絶対何かをしなきゃいけないっていう事と、それからやはりこの会に参加する事によって人の輪が拡がるっていうのもすごくいい事ですね。
福武)いいですねー
青木)僕は間違ってキワニス・ゴルフ大会で優勝したものだから、いろいろな方から誘われて、また来週水曜日にプレーするんですよ。
福武)優勝されたんですよね。
青木)ええ、あれ以来しょっちゅう誘われてね。でも参加するといろいろ面白い事が起きるんですよ。
時間もきましたので、今日はありがとうございました。
福武 正廣 平成15年3月28日入会。現職 太平洋印刷椛纒\取締役社長。 略歴 昭52丸紅葛ニ務調査課入社 59丸紅英国会社出向 60現 太平洋印刷鞄社 現在に至る。 京都府出身。
笹 節子 平成16年4月20日入会。現職 鰍スちばな出版代表取締役副社長。
略歴 出版社に入る前は心理カウンセラーとして教育相談や精神科の病院に勤務。予備校で3年間、英語の教師の経験も。山形県出身


○19年4月: 栗山 勁 会員 VS 後藤敬三 会員
(司会・編集:甲斐和典 会員)
左: 後藤会員 中央:栗山会員 右:甲斐会員
「写真、ホームページ、そして旅行」
キワニスとのきっかけ
後藤 :本日は、お忙しいところを対談させていただくことになり、誠に有難うございます。今日の対談のテーマは「写真」でございまして、私もかれこれ半世紀近く、シャッターを押し続けているので、大変楽しみにしてまいりました。早速、本日のテーマにはいってまいりたいと存じますが、その前に、キワニスへの関わりというところからお話いただけますでしょうか。
栗山 :何だか相当長い間、キワニスの会員であるような顔をしていますが、実は、会員となって丸3年たったばかりなのです(笑)。前の会社に移った時、先輩からキワニスに入るよう誘われまして、社会への奉仕にも関心があったので、メンバーに加えさせて頂きました。入ってみますと、子供たちのために、自分でできるところからやっていくというところが私にピッタリという感じでした。それで、例会も殆ど優先的に出席しましたし、行事となると参加して風景写真を撮り、キワニスのホームページに掲載するという風に、気がつけば、「I ? キワニス」となっていました。ですから経歴が浅いのに事務局長に推されたというのも、このように出席率が極めて良かったからかなとも思います。
写真とのかかわり
後藤 :有難うございます。それでは本題の写真との関わりについては如何でしょうか。
栗山 :写真との付き合いは、高校時代に写真部に入ってからということになります。写真部といっても私ともう1人の2名だけだったのですが、その彼が写真屋の息子だったものですから、現像の仕方など、いろいろと教えてもらいました。当時は学校にカメラを持ち込んで写真を撮ることは禁止されていたのですが、写真部だけは例外で許されていました。ですから、文化祭や体育祭ともなりますと、我々は、あちこちから歓迎されまして、女性だけのクラスにも写真を撮ってあげたりして、大変楽しい思い出です。高校を卒業した後も写真撮影は続けてきたわけですが、デジカメを使ってホームページを作るようになってから、写真との関わりもずい分変わってきました。
というのも、ホームページに写真を載せると、全国から多くの人が見てくれますし、なかにはメールをくれる人もいます。実は、読売新聞から、私の山寺の写真を掲載したいという申し入れを受けたことがあります。
これは、新聞社が作製する新聞回収袋に風景写真をプリントするのですが、その題材として私の写真を掲載したいというのです。名誉なことなので了解しまして、掲載料はいらないから出来上がった実物を送ってくれといったら、新聞社からドサッと新聞回収袋が送られてきましたよ(笑)。その他にも、教科書など私の写真を使わせてもらいたいという話が二,三ありました。
後藤 :ホームページにつきましては、私も拝見しましたが、大変充実して、アクセス数も多く、驚いております。これについては、後ほど改めてお話をお聞きしたいと思います。写真の大先輩にお目にかかることになると思い、実は今日は、昔から使っているカメラを持ってまいりました。先日、お電話させていただいたときに、これまでミノルタさんとのお仕事もなさっていたと伺いましたので、同社製の'Good Old ハイマチック'と日本の銀塩カメラの最後の輝きともいえるTC−1です。私は銀塩カメラを使うことが多いのですが、ハイマチックの自動露出の正確なことに舌をまきました。それから、これはミノルタさんといっしょになったコニカさんから出されたフルサイズとハーフサイズの切り替えができる一眼レフカメラです。いかがでしょう。
栗山 :これは懐かしいですねえ。ちょっと写真に撮らせてください(撮影)
栗山 :後藤さんとしては、自分で撮ったなかで会心の写真とか苦労して撮った写真をあげるとすれば、どんな作品ですか。展覧会に出展されたりするのですか。
後藤 :まだまだ、会心の作品と呼べる写真もなく、仲間内で合評をする程度で、道まだ遠しというところです。
栗山 :苦労したといえば、私は一時、富士山シリーズを撮ろうと思い立ちまして、そのために朝の富士であるとか雪の富士であるとか、絵になりそうなテーマをいろいろ考えてみたのですが、調べれば調べるほど、富士山にはマニアがそれこそいっぱいいて、立派な写真もきりがないということが判ってきました。どうしても地元の人にはかなわないなというところがありまして、例えば雪の富士山を撮りたいとしても、まず、そのタイミングに現地にいなければならないし、さらには、大雪で車も通らないということになれば、車はどこに止めて、どんなルートで目当ての撮影場所に行くとか、いろんなハードルがでてきて、結局、地元にどっぷりと浸かってないと、到底、会心の写真なんて撮れないですね。そんなこんなで、これは最初の思惑とは程遠いなと、引越ししないと勝てないなとも思ったりしました(笑)。
自分で撮った写真が縁で、日本のいろんな方と知り合いになれるというのは、ホームページ作りの励みになっています。
ホームページは手作りで
後藤 :ご自身のホームページだけでなく、キワニスのホームページのお世話もいただいているそうで、積極的なご活躍に敬意を表します。申し上げたように、「クリさんのホームページ」を早速に拝見してみましたところ、アクセス数が百万近くに上っており、びっくり致しました。会員の皆様も是非、「クリさんのホームページ」をご覧いただきたいと思います。ホームページは、いつごろ、どんなきっかけでおはじめになったのですか?
「クリさんのホームページ」アドレス:http://www.asahi-net.or.jp/~UD3T-KRYM/002-mokuji/p002.htm
栗山 :学生時代に周囲にラジオ(製作)をいじる先輩がいたりして、手作りにはもともと興味がありました。パソコン(PC)が出回り始めた頃、コンピュータ関係のコボル言語やC言語というものがあり、これをマスターしてみようかと思っていたやさきに、HTML言語がでてきました。これをマスターすればホームページができるというので、HTMLを独学で学びまして、手作りでホームページを立ち上げました。80年代の後半にロンドン勤務時代にPCの扱いを覚え、90年に帰国してからPCを買いました。PCの能力が8ビットから16ビットに変わるころで、当時はインターネットが本格化する前、ようやく日本にブラウザが登場してきた頃です。
後藤 :「クリさんのホームページ」のなかで私の個人的なお勧めは、桜を撮ったページです。今年は桜も早く咲きそうなので、教えていただいた場所のひとつかふたつでも見てみたいと思っております。それと、京都のお祭りの写真、私も京都に住んでいた後輩なので、大変懐かしく拝見いたしました。キワニスではいつも京都からご招待いただいておりますが、今年こそはと思いながら、果たせずに参りましたが、今年こそはと思っております。京都にいらっしゃったときの思い出などを、お聞かせいただけますか。
栗山 :私のホームページには桜やお祭りの写真も、自分で撮影したものが殆どです。桜やお祭りは格好のテーマですから、いろいろ本を買っては見ていますが、これもきりがないという感じですね。京都のお祭りの思い出というと、やはり学生時代を京都で過ごしていますから、葵祭り、時代祭りにエキストラでアルバイトしたことです。当時は、大学の体育会系、文科系いずれのクラブでも、お祭りとなると資金稼ぎに参加していたものです。祭りの出発前に御所に集合しますと、いろんな飾り物とか持ち物が置いてあって、そこにクラブごとにずらっと並ぶわけですが、体育会系は大変です。というのも、体育会の連中は力があるだろうということで引っ張ったり、重いものを持たされたりするのですね(笑)。その点、文科系のクラブは楽でした。私は文科系の能学部にいましたから、重いものを持たされたり、引っ張ったりすることはなかったですね。これで、体育会系、文科系どちらも手当ては一緒だったのですから(笑)。
後藤 :たくさんのご旅行をご夫婦で楽しまれておられまして、羨ましく思い、家内には見せられないなとの思いがフト心をよぎったりして・・・。冗談はさておき、月並みな質問ですが、これまでいらっしゃったところで、特に印象の強いところはどちらでしょうか。というのも、ホームページには、ご旅行についてのジンクスについてお書きになっているところがあって、これには驚きました。これまでのご旅行のお話に加えて、お差し支えなければ、つぎの旅行のご予定をうかがってみたくなっております。
旅行:私の不思議なジンクス
栗山 :ホームページの「私の不思議なジンクス」というコーナーで書いていることですね。ジンクスという言葉は、日本では良いことにも、悪いことにも使っていますが、私のジンクスは、すべて不吉なことに繋がっています。これは、後々から振り返って、気づいたことなのですが、どうも私たち夫婦でプライベートの旅行をしますと、その直後、でなくとも大体1カ月以内に、旅行したところで大事件が起こっているんですね。95年1月に阪神大震災が起こりましたが、私たちは、その前日まで神戸を旅行していました。01年の9.11テロや、04年のスペインでの列車爆破事件もそうでした。そんな事で、私の行動をチェックしないと/私より先に行かないと,旅行にいけないという人もいます(笑)。事件というのでなくても、種子島に行った時に、宇宙センターでは1週間後にロケットの打ち上げの予定でしたが、「飛ばないよ!」と大きい声で言って妻に叱られて、帰ってきたら本当に打ち上げ失敗でした(笑)。ということで、今度は4月にインドへ行くことにしています。
後藤 :海外のご勤務もたくさんの経験がおありで、いずれも対日関係のいいところ、いい時期に勤務されたと思っておりましたが、短期のご旅行では、こんなめぐり合わせも経験されたのかとホームページを拝見して思ったしだいです。穏やかで、旅行が楽しめる世の中になって欲しいと私も心から思っております。これからも、楽しいご旅行をお続けになられるようにお祈りいたしております。
(対談を終わって)
後藤 :私も長いこと親しんできた写真の大先輩、かつ大学の大先輩で、大変楽しくお話をさせていただきました。お元気で諸方面の活動を続けられているお話を伺い、前回の安原様の対談のときにも初心に帰らねばと思いましたが、今回もその意を強く致しました。安原様は私の仕事の大先輩、栗山様は写真と学生時代の先輩と、初心に戻る先がどんどん巻き戻されていき、大変若返ってまいりました。
栗山 勁(くりやま つよし)平成15年8月29日入会。現職 大阪証券金融(株)取締役。
略歴 昭和41年神戸銀行入行 平成9年 さくら銀行常務取締役、平成12年 さくら投信投資顧問(株)社長 平成15年さくらカード(株)会長
後藤敬三(ごとう けいぞう)平成16年4月20日入会。現職 日本貨物鉄道(株)常勤監査役。
略歴 昭和48年大蔵省入省 平成12年大蔵省大臣官房審議官 平成13年国税不服審判所次長 平成14年放送大学学園理事、平成17年より現職。

後藤会員持参のカメラ

○19年3月: 塩谷隆英 会員 vs 山口知子 会員
司会編集:熊平美香 会員
左:山口会員 中央:塩谷会員 右:熊平会員
「オペラと私」
オペラとの出会い
塩谷)私が始めてオペラと出会ったのは中学2年の時です。1955年にイタリアオペラが初めて来日し、それをNHKテレビで放映したのを友達の家で見せてもらいました。ウィルヘルム・ロイブナー指揮の『アイーダ』を見て、すっかりオペラのとりこになりました。高等学校では合唱部に属し、オペラとは程遠い生活でしたが、音楽の先生が熱心な方で授業でオペラのレコードを聞かせてくれました。「魔弾の射手」や「タンホイザー」、「椿姫」等が印象に残っています。大学では本格派の男声合唱団に所属し、オペラの名曲「巡礼の合唱」、「水夫の合唱」等に取り組みましたが、本物を見る機会はありませんでした。
山口)私は高校生の時、習っていたピアノの先生のご主人がテノール歌手で藤原歌劇団でリゴレットに出演されたのを義理で見に行ったのが最初です。その後仕事が忙しく、だいぶ間が空きますが、NYに留学した時(リンカーンセンターが設立されて間もなく、40年くらい前の1967-8年)すっかりオペラのとりこになり、メトロポリタンオペラを1週間に1、2回は見に行きました。当時日本では切符を取るのも大変ですし、経済的・時間的余裕がなく、超一流のものも来ないのでNY滞在は貴重な機会でありました。
メトロポリタンオペラとマダム・バタフライ
塩谷)私も、山口さんと同じく初めて本物に触れたのは1979年-83年のニューヨーク勤務の時です。79年の10月に渡米しましたので、オペラシーズンは既に始まっていて、いい席は取れずシナリオを取り寄せて勉強しました。翌80ー81年のシーズンに備え、メトロポリタンオペラの会員になり、妻の分と合わせてシーズンチケットを購入しました。二度目に見た「魔笛」の舞台背景が忘れられません。劇場の正面の壁画と同じシャガールの背景でびっくりしました。メトロポリタンは82、83年の2年間も引き続き会員になり、2階バルコニーの最前列でオペラを楽しみました。当時はプラシド・ドミンゴやパバロッティの最盛期でした。数えてみると合計36回メットに通いました。最後のメットは83年2月の「ラ・ボエーム」でしたが、大雪のため劇場に行くことができず、残念に思いマネジャーに手紙を書きました。「私は、3シーズン、メットファミリーとしてオペラを楽しみ、それ相応の寄付もしてきましたが、最後に大雪になり、今回の公演を見損なってしまいました。このまま日本に帰るのは残念なので、『スノーチェック(悪天候のための順延券)』のようなものはないでしょうか?」
すると、直ちにマネジャーから連絡があり、「マダム・バタフライ」の券が4枚も送られてきました。会員を「マス」として扱わない態度にすっかり感心し、それからは出張でニューヨークに行くたびにメットに行っています。但し、マダム・バタフライは日本人がやらないと駄目ですね。着物の着方が全くなっていません。
山口)それについては面白い話があります。ドイツの研究所に赴任していた時にカーセルという小さな町でマダム・バタフライのオペラをやることになりましたが、なんともトンチンカンな日本文化の演出でお笑いとしか見えませんでした。
塩谷)ウズベキスタンのタシュケントでも見ましたが、着物の着付けなど技術協力すべきですね。少なくとも蝶々夫人は日本人がやるべきだと思います。しかし、世界的オペラのなかで日本のものがマダム・バタフライだけとは淋しいですね。
山口)それでもよくぞ日本に一度も来たことがないプッチーニが題材として取り上げてくれたものだと思います。プッチーニが資料だけであれだけのものを残してくれたのは素晴らしいことです。
オペラの魅力
熊平)先ほどから色々な話をお聞かせいただいていますが、一言で言ってオペラの魅力とは何でしょうか?
山口)総合芸術であるという点です。あれほどのすばらしい完成された芸術は他に類がありません。歌舞伎、4大演劇、シンフォニーも良いですが、五感を通してあれほど楽しませてくれる芸術は他にはありません。あれは西欧人が残してくれた人類遺産だと思います。
塩谷)歌舞伎と言えば、メトロポリタンでオペラを見ている時に歌舞伎をちゃんと見ようと思い、日本に帰って歌舞伎を見直して、歌舞伎もいいなと思うようになりました。最近では日本のオペラも上手になりましたが、どうしてもオペラは西洋のものなので、歌舞伎の域には達しませんね。
山口)確かに日本人は技術は持っていますが、オペラの声量を奏でる肉体を持っていないと思います。
熊平)歌舞伎とは違うとおっしゃられた部分をもう少し詳しく伺って宜しいですか?
山口)まず三大オペラハウスをはじめとしてどのオペラ劇場も素晴らしく、観客も総合芸術の重要構成員になっています。伝統的なオペラハウスの特別な公演は旅行客として(ラフな格好で)入場すると恥ずかしい思いをします。ウイーンやザルツブルグの祝祭大劇場の公演などでは聴衆として失格だなという思いをしたこともあります。聴衆と舞台が一体となっているのが歌舞伎とオペラとの共通点です。最もこの頃はジーンズで歌舞伎を見に行く人もいるようですが・・・。
塩谷)NYの場合は結構ラフな格好で見に行く人もいますが、ガラ公演の時はまったく違いますね。ガラの時はタキシードとドレスで出かけます。チケットも非常に高いです。オープニングは$500でした。
山口)みな寄付金がすごい。
塩谷)そのビジネスがとても上手です。寄付する側をいい気分にさせるような寄付者への演出とか特別室が用意されています。
山口『経済活動で成功した人が社会活動で奉仕する』という奉仕精神がアメリカでは非常に盛んです。そのような活動にアメリカのオペラは支えられてきています。
塩谷)お金のかけ方はアメリカとヨーロッパでは大分違いますね。ヨーロッパでは国がお金を出しますが、アメリカは国費ではなく個人の寄付で賄っています。私は芸術の振興は個人の寄付で行うべきだと思うので、日本もヨーロッパ型ではなく、アメリカ型にすべきだと思います。そのためには寄付税制を変えないといけません。アメリカでは税金で払うか寄付で払うか選択できるような税制になっています。例えばチケットを買って行けなくなり、無駄にしたとしても申告すれば、所得控除されることになっています。オペラのチケットもせいぜい$60ぐらいでした。
熊平)山口さんはフランス、ドイツ、NYと色々なところでオペラをご覧になっていらっしゃいますね。
山口)共同研究の仕事で滞在していたので、一挙両得という感じです。ベローナの夏の野外劇場等も素晴らしいです。・・・アイーダも舞台でやるのではなく、エジプトのピラミッドの傍の野外劇場でやるのも雰囲気に合っています。
オペラが素晴らしいのはアメリカとイタリアですね。最近のフランス、ドイツ、イギリスのオペラは演出がモダンでつまらないです。イギリスはプライドは高いですが、EUの通貨のユーロにも入っていないし・・・始まったのか終わったのか解らないようなブリテンのオペラなど、やはり芸術的に優れているのはラテン系の国ですね。しかし、ソヴィエトのゲルギエフのオペラも独特の力強さがあり、メトロポリタンでも毎年やっているようです。
塩谷)一度シドニーのオペラハウスで真夏の夜の夢をみましたが、イギリスのブリテン作曲の音楽であまりよくなかったです。
山口)シドニーのオペラハウス自体、外観は素晴らしいですが、演出は物足りないですね。
塩谷)演出の話が出ましたが、オペラは演出によってずいぶん変わります。最近背広を着てワーグナーの劇をやったりするのは好きになれません。この間、新国立劇場でベートーベンのフィデリオをやりましたが、フィナーレには失望しました。フィデリオというのは夫婦愛の物語という側面があることは確かですが、それを集団結婚式という形で表した演出には失望しました。来なければ良かったと思いました。同じフィデリオでもメトロポリタンで見たのは実に素晴らしかったです。フィデリオのもう一つのテーマである、『圧政からの開放-―市民社会の到来』が実に良く表現されていて素晴らしかった。この間のは、そのテーマが演出家によってまったく消されてしまったのが実に残念です。
最後に一つだけお話したいことがあります。12月1日にハイドンの「月の世界」というのを北とぴあ(東京都北区)で見ましたが、実に素晴らしかったです。ハイドンがこんなに素晴らしいオペラを作っているとは知らなかったです。これを見て、モーツアルトはハイドンの延長線上にあることがよくわかりました。モーツアルトは決して突然変異ではなかったわけです。身近な地方自治体主催でも企画アドバイザーに人を得れば素晴らしいものが見られるのですね。
キワニスでの奉仕活動
熊平)キワニスについて少し伺えますか?
塩谷)2月に入会したきりで例会にはあまり出ていません。一度靖国清掃に行きましたが他には誰も来ていなくてがっかりしました。
山口)一人で奉仕するというのもそれはそれで良いではないですか。私も熱心にお誘いを受けて入会し、まだ3年目です。現職なものですから、例会の金曜日なら参加できるかと思い、参加させていただきましたが、キワニスのとりこになりました。色々な分野で活躍している(特に数少ない女性会員)を目のあたりにして、自分とは別世界の方々の話を聞き、こんな世界があるのかと目が見開かれるような気持ちで参加しております。開かれた奉仕活動を皆で楽しくやりつつ、社会の勉強をしながら自分も成長して行けることが嬉しく、今のところ皆勤賞です。どんな方のお話からも学ぶところがあり、奉仕活動もできることからやろうと思っています。金曜日の例会以外、年に一回の全国大会とアジア大会にもお誘いを受けて参加し、色々な国の方とご一緒して、奉仕活動も地域や国によっていろいろな参加の仕方があることを知りました。できる限り週末の時間は有効に使おうと思っていますので、キワニスの活動は私の中で大きな位置を占めています(拍手)。
熊平)貴重なお話を有難うございました。
山口知子:平成16年3月2日入会。 現職 医療法人わかさ会南八街病院副院長。略歴 1962〜3年横須賀米国海軍病院インターン終了、1963〜2000年東京女子医科大学生化学教室(神経生化学)。東京都出身。
塩谷隆英:平成18年2月21日入会。略歴 1995-97年国土庁計画・調整局長、97-98年経済企画庁調整局長、98-99年経済企画事務次官、2000-06年総合研究開発機構(NIRA)理事長。神奈川県出身。

○19年2月: 一瀬智司 会員 VS 川上寿棋 会員
左: 川上会員 中央:一瀬会員 右:今西会員
「俳句と私」
俳句との出会い
今西)本日は俳句についてのお話やエピソードをお聞きいたします、よろしくお願いいたします。
一瀬)私が俳句に出会ういきさつをお話しますと、実は昭和60年頃から毎年夏に長野県にあります野尻湖という湖の近所で、昔は柏原という呼び名でありました信濃町に滞在することが多くありました。その地が小林一茶の出生の地という事もあり、また近隣にも俳句を楽しんでおられる方がおられ、それに大都会にいるよりは詩情も沸くということで少しずつ俳句に興味をもったわけです。その後63年、国際基督教大学を定年になり専修大学に移りましたが、そこは宮城県の石巻というところなのですが、そこには松尾芭蕉の立ち寄ったひなび山というところがありまして、そういう縁で俳句を少し嗜む様になった次第です。趣味として俳句を楽しませていただいています。
川上)私は東京諷詠会に参加しておりますが、ここは俳人後藤夜半の御子息で後藤比奈夫先生主宰の諷詠の支部といったとこでしょうか。句会というのは、結構面白いところがありまして、まず句の題で予め作って会場に行きますと、その季節折々の果物などが展示されて、それを見て句を作り、そのほうが良かったりして、一ヶ月考えたのは何の為とか。その中でお互いに自分の好きな句を選んで行くわけですが、優秀な句はより多くの人が選んでくれるという形となるわけです、だめな句は誰も選んでくれない、誰が作ったか分からないようにして選ぶのですから、これはつらいです(笑)。
その後、その句会のリーダーの選がありまして、最後に郵送で主宰の比奈夫先生の選を受けるという形です。
俳句界の裏話
川上)俳句の社会ではどんなに優秀でも、自分の弟子を持たないとやっていけないわけで、それで水原秋桜子、飯田蛇笏、後藤夜半等優秀な方は独立されてご自分の句会を作っていったわけです。
一瀬)俳句界というのは、茶道や華道と同様に家元とか、流派とかがあってかなり日本的なものと感じていますが、どうですか?
川上)俳句界でも基本的に大切なのは、知識とか技能ではなく人間性かも知れません。好かれなければお弟子さんも集まらず、句会は成立してゆかないですね。
それと俳句を作っていて恐ろしいのは、「いい句を作ってやるぞ」という気持ちで作ったものは誰も選んでくれない(笑)、やはりやさしい気持ちで、季節、人を肯定的に暖かく歌うのが大切だと思います、歳をとったことを歌うのもあまり歓迎されない、老いを歌っても何かほっとするものを歌うことが大切だと思います。人を揶揄、人を否定すると駄目です。
川上)私が俳句を詠むようになったきっかけは、高濱虚子との出会いです。俳句は五七五、季語を入れないといけないというルールがあったのですが、虚子はこれを破ろうとした「自由律」俳句と闘ったのです。このとき虚子は「春風や闘志いだきて丘に立つ」という句を詠んでいます。また俳句は微分みたいなとこがあって、時間、空間、人の行動等を極限まで細分化すると新しいものが見つかることがあります。
外国人も理解できる俳句
一瀬)なるほど、そうゆう楽しみもあるのかと、実は今日フランス人のマルソンという人が書かれた小林一茶の本を持ってきております、この本では、俳句は非常に国際的であるということが書かれています。
「負けるな一茶ここにあり」は海外に開かれた要素があると理解されたようです。著者のマルソンという人は、実は彼はまだ40歳位でまだ若いのですが俳句にはそのように海外で通ずる面もあるように思います。
川上)「金亀子擲つ闇の深さかな」という句があります、これは闇の深さという空間。また「大空に羽子の白妙とどまれり」という句は一瞬の時間を切り取ったものです。
「我が汗の流るる音の聞こゆなり」というあり得ないことを言って人を納得させるのも、俳句の面白いところじゃないでしょうか。
今西)この句はまさにすばらしい、会社の会議を思い出しました(笑)。
川上)現在は季語と季節がずれてきて、生活も変わってきています、例えば甘酒は何時の季語と思われますか? 実は8月の季語なんです。甘酒は暑気払いの材料だったのです、暑いときは熱いいものを飲んで暑さを紛らわすという事だったのです。それから特定のものを指す季語もあります、花は桜、踊りは盆踊りを指します。
一瀬)都会の騒がしさからのがれたとき「夏草や岩に染み入るせみの声」、「せみの声岐路にさえぎる夏木立」、そういった俳句を詠むことで、自然の姿を感じています、私の場合これを趣味といえるのかどうか・・・・ゴルフで疲れた体を癒すのにも使っています。今まで読んだ俳句もあったけど、どこへしまったやら・・・
川上)私も旅行に行ったときなどいろいろ詠んでいて、それを月に一回提出するのです
あるとき、つくしを題材に句を詠むことになったので「肴には苦いつくしの二三本」と読みましたら皆リズム感のいい句だと選んでくれた、しかし先生はこの句のどこがいいのか?と・・・先生は酒のまなかった(笑)
キワニスと私
川上)今年のキワニスの出席点数は、実は私は追試合格なんです。滑り込みで靖国神社にキワニスの活動で行きました、みんなとは一緒にできなかったが日曜日に一人で清掃をしていたら、なんだか原点に返って死んでいった人たちに清水を飲ませるために、慰霊の泉の水あるという事に気がつきました。その水が濁っていて、気がついたら一生懸命に掃除していた、俳句も同じで邪心をすてる事が大切と思いますそのとき、何句かできました。掃除中にたくさんの葉っぱが落ちてきてそれを掃除するのに、若い女性が助けてくれた、人のためにやっている事でこちらも癒された経験があります。
また、以前秋田の西馬音内(にしもない)の盆踊りがキワニスの仙台大会で披露されまして、その翌年に西馬音内に行きました、はでな囃子で女性が踊るのが静かで、男衆が撒いた砂を草履が軋らせるだけ。いたく感動しまして「砂撒いて亡者踊りに音を足す」という句を作る事ができました。
一瀬)私はH6年にキワニスに入会して10年ですが、俳句でそれを表現いたしたいと思います。
「キワニスはなんの事かと人の問い」アメリカのインディアンのことばで助け合いとか社会奉仕やっていると毎回説明するわけですが、やはり「キワニスは社会貢献ひとの為」といったことではないでしょうか。
一瀬智司:平成7年1月13日入会。現職 (社)国際都市コミュニケーションセンター前会長代行 経済学博士。略歴 昭和23年−28年会計検査院、28年−38年埼玉大学助教授、38年−39年ハーバード大学経営大学院研究員、38年−63年国際基督教大学教授、名誉教授、平成元年−10年石巻専修大学教授、名誉教授。千葉県出身。
川上寿棋:平成16年10月1日入会。現職 潟hワンゴ顧問。略歴 昭和39年川越商事梶A45年潟jチイ(潟}イカル)、平成10年潟hワンゴ、11年潟Rンポジット、17年現職。大阪府出身。

○19年1月:前田 豊 会員 VS 松本 一紀 会員
左:山口会員 中:前田会員 右:松本会員
テーマ: 「歌舞伎の楽しみ方」
歌舞伎鑑賞が趣味になるきっかけ
山口)平成19年度の対談は、趣味をテーマに会員に語っていただくという趣旨です。お正月ですので「歌舞伎の楽しみ方」を取り上げて、お二人の会員の方にご登場いただきました。実は、本日のゲストの松本さんと前田さんのお二人と司会の山口の三人は、平成16年の入会であり、キワニアンとして3年目を迎えたところです。その感想については後ほど語っていただくということで、まず本日のテーマに入らせていただきます。歌舞伎を趣味にされたきっかけからお二人にお話いただきたいと思います。
前田)私の小学生時代に、母親が歌舞伎好きだったんです。「お母さんどこへゆくの?」と聞くと、「歌舞伎よ」というので「お母さん僕もつれていってよ」と頼んで、初めて観た歌舞伎が「勧進帳」でした。言葉はよく解らないんですが、最後に弁慶が六方を踏んで花道を引き上げていくシーンがとても格好良く、それ以来ファンになりました。戦前、小学校4年のころだと思います。
山口)随分長い趣味の経歴をおもちですが、今でも歌舞伎を毎月ご覧になっておられますか?
前田)いいえ、毎月観たいと思っておりますが、今は公演を通しで観るというよりは、3つか4つの演目のうちどれか一つ選んで一幕見で楽しんでおります。
松本)私の場合、歌舞伎観賞の経歴は短く、家内がよく歌舞伎を観ておりまして、正確にいうと5年前に家内に誘われて新橋演舞場で初めて観たのですが、そのときは全く印象に残りませんでした。その後、2年ほど過ぎた平成15年1月に、転職を機会に趣味の領域を広げようと考えまして、自分からはじめて歌舞伎座に行って以降、ここ2、3年は、特別会員として優先的に座席の確保が出来ることもあって、ほとんど毎月桟敷席での観賞が続いております。それ以来、理解力はともかくとして、熱中度合いからは趣味の一つに入るのかなと思っております。中村福助(成駒屋)の後援会に入っております関係で、切符が手に入り易いこともあります。
山口)趣味として非常に長い経歴をお持ちの前田さんと、最近熱烈なファンになられた松本さんとは対照的で、歌舞伎の楽しみ方もはっきり違っていて大変興味深く伺いました。趣味を持つきっかけはいろいろあるかと思いますが、歌舞伎に限らず、その他の趣味に関するお話も含めていかがですか?
歌舞伎から相撲や尺八に繋がる
前田)私の場合、歌舞伎は母に、また相撲は父につれられてゆき、ファンとなりました関係で、歌舞伎の相撲物「一本刀土俵入り」とか「双蝶々曲輪(くるわ)日記」などは必ず観ております。相撲は学校さぼって観に行ったりしました。相撲では武蔵山のファンでした。終戦後は、新橋演舞場に歌舞伎の好きな友人と一緒に見に行き、3階席の階段に「坊やそこにすわっていいよ」などといわれて良い思いもしました。その後国立劇場ができましたが、椅子席が断然いいですね。国立劇場で今年は、10月11月12月と通し狂言の忠臣蔵を観ます。10月はすでに観まして、11月は坂田藤十郎の関西歌舞伎ですし、12月は討ち入りです。10月は役者のせりふと演技だけで、鳴り物のない忠臣蔵にこれまでにない感動を覚えました。
山口)歌舞伎に限らず松本さんは尺八、俳句 スキーなど趣味を広くお持ちですが、現在もそれぞれの分野は現役でおられますか?
松本)はい、それに最近、スキューバー・ダイビングのライセンスも5月に取得しました。先週、沖縄の慶良間で潜って来たばかりです。
山口)実に多趣味で、それぞれを極めておられ、そのエネルギーには感心いたします。
松本)歌舞伎を観るようになってから気がついたのですが、経簾音楽(御簾の中)の奏者として、私の尺八の師匠である宗家の先生方が出演されています。私自身、尺八を習い始めて15年になりますが、まだまだです。
山口)前田さんの歌舞伎のごひいきは?
前田)私はたまたま京都に2年ほど転勤でおりました関係で、12月の南座に誘われて行って、最初はちょっと抵抗があったのですが、関西歌舞伎が贔屓になりました。坂田藤十郎が同年齢でもありますし。おまけに関西歌舞伎は華やかなんですよ、芸者衆が観客席に陣取り、この日は祇園とか、この日は先斗町とかになるんです。あの華やかさが好きですね。
松本)私のひいきは成駒屋ですが、どちらかというと、踊りのほうが好きで、やはり玉三郎です。その華やかさに最初本当に感激しました。最近の「二人娘道成寺」で、玉三郎と菊之助の競演を見たのですが、さすがにしなやかさでは若い菊之助にかないませんですね。「舟弁慶」の中での玉三郎の能の仕舞い、人形振りは特にすばらしく、印象に残っています。
3人はキワニアン同期生
山口)こういう機会でもなければ、歌舞伎のお話などする機会はなかったと思います。趣味の話はつきませんが、この辺でキワニスの話に移りたいと思います。キワニアン3年目のわれわれ同期生として、キワニスへの入会のきっかけについてお話ください。
前田)ロータリーは毎週例会があり、メイクアップが大変だと思っていたところに、たまたま、木村太郎さんから熱心に誘われ、隔週の例会であることや40周年の入会費割引期間のキャンペーン中でもあり、女性会員もいるということで入会いたしました。
山口)松本さんはたくさんキワニス・ドールを作っておられますが、そのきっかけは?
松本)たまたま、ボランティア委員会のドールを作る会に出た際に100個作ると宣言してしまい、家内と作ったのが始まりでした。それ以来100個が目標になっています。
山口)ドール作りなど奥様に協力を要請することも難しく、夫唱婦随はままならぬ現実ですが、松本さんの場合は、趣味と奉仕活動を奥様と手を携えて実行されていて、羨ましいと感心いたしました。前田さんはキワニスの活動でどんなところに楽しみや意義を感じておられますか?
前田)私はいろんな人との出会いが楽しみです。あの人来るかなこの人来るかな、と例会で今日は誰に会えるか楽しみにしております。ドール作りは苦手ですが、卓話は多岐に渉って,いろいろな世界の方の話がきけます。火曜会には2、3回出ましたが、うなぎの寝床のような席で、ごく傍の人としか話せませんし、最近は参加者も多く交流はなかなか難しいと思いました。
山口)松本さんは、去年も皆勤で今年も皆勤だそうで、キワニアンとしてもまた趣味同様、これからも大きな力を発揮されていくことでしょう。
前田)凄いですね。
松本)靖国のお掃除などで、足りない出席数を補えます。慰霊の泉を午前と午後一日に2回清掃する奉仕活動も可能です。
キワニスは国際奉仕団体
山口)キワニスは国際的奉仕団体ですから、日本大会、アジア大会、米国大会と年に3回の対外的交流の機会がありますので、是非、東京の例会のみならず、ご夫妻で参加され、交流を深められることをお勧めします。来年3月のASPAC大会はマニラで開催されますが、青野厚子会員がマニラを案内してくださるとのことで、私は今年の3月の高雄での会に引き続いてですが、参加を楽しみにしていますが、ご夫妻でご一緒にいかがですか?
前田)そうなんですか。
松本)高雄の話はよく伺いました。
山口)今年の高雄の大会では、日本からの参加者みんなで盆踊りを踊って盛りあがりました。楽しいですよ。是非ASPACでの日本代表のかくし芸として、中田一男会員の南京玉簾の芸などのお披露目に、松本さんの尺八の伴奏をお願いしたいですね。
編集後記 山口
本日はなかなか趣味としては敷居の高い歌舞伎というテーマで、短い時間にもかかわらずお二人の対照的な楽しみ方のお話を伺うことができました。趣味の世界もいろいろで、だからこそ自由なダイバーシティー(Diversity:多様性)というところでしょうか。また、お正月にキワニスが歌舞伎鑑賞会を斡旋してくれるのですが、今日の対談のお二人は、それぞれご自分で手配しておられるとのこと。キワニスの鑑賞会は、むしろ日ごろあまり歌舞伎に縁のない方へのお誘いかな?という印象をうけました。
前田豊(まえだ ゆたか) 平16年7月30日入会。現職 アデコ褐レ問。略歴 昭和32年日本銀行入行、57年京都支店長、 61年発券局長、(社)公社債引受協会常務理事 平成6年日本銀行監事 8年三井生命(相)顧問 14年アデコキャリアスタッフ梶i現アデコ梶j顧問)。東京都出身。
松本一紀(まつもと かずのり) 平16年7月30日入会。現職 東京発電且謦役社長。略歴 昭和39年東京電力鞄社、平成8年本店監査役業務部長、11年東京南支店長、12年理事東京南支店長、13年東新ビルディング叶齧ア取締役、15年より現職。長野県出身。

○18年12月: 井上幸彦 会員 VS 川畑正大 会員
左:井上会員 中:青野会員 右:川畑会員
テーマ: 「キワニスと社会奉仕活動」
私の社会奉仕活動
青野)社会奉仕をどのようにお考えなのか、またどのような活動されているのでしょうか。
川畑)私は、社会奉仕という意識を特別に持ったことがないですね。ものの考え方として、自分の仕事であるハイテクを通じて社会に役立ちたいという考えを持っています。ハイテクで金儲けだけをするというのではなく、人間社会の向上に役に立ちたいのです。大げさに言えば人生全体が社会奉仕活動であると考えています。キワニスに行って奉仕活動をするというのではなく、日常が奉仕活動だと思っています。
井上)私の場合は、前職が警察の仕事でしたが、現在(財)日本盲導犬協会の理事長として、視覚障害者の社会参加を促進し自立を促す仕事をしております。そういう社会奉仕活動に関わりを持つことができて本当に良かったと思っています。まったくのボランティアです。やはり警察の先輩仲間たちから「井上さん、善い仕事をしているね」と言ってくれていますし、本当にやりがいのある仕事をやらしていただいていると、こんな感じを持っております。
川畑)私は、目の悪い人のための技術を一生懸命考えているのですよ。アメリカの話ですが、目がよく見えない方、全盲ではないのだけどテレビを見てもよく分からない方、そういう人が1千万人くらいいらっしゃるんですね。アメリカの3大社会問題は、癌とAIDSと視覚障害と言われています。そういう人たちをどうやって救うかということを、大学研究者のあいだでも話題になりまして、私もいろいろ研究しました。目の悪い方というのは、たいてい網膜はちゃんとしている人が多いけど、レンズ系がだめな場合が多いのです。網膜は正常なのに、光が入ってきても像を結ばないんですね。ぼおっとしか見えない。レンズの焦点が合わないのです。メガネをかけても何をしても直らない。それをどうするかというと、専門的な話になりますが、レーザーを使います。レーザーというのは散乱しない光ですから、網膜に投射して像を作ります。ちょうどテレビのブラウン管に後ろから描いているのと同じ方法です。目の見えない方にやってあげましたら、非常によく見えると感激されました。これは大勢の方のためになると思うので、現在一生懸命に研究しています。これで儲けようとは考えていなくて、多くの方に役にたてるようのなりたいと思っています。仕事の領域とは別に、日本でもアメリカでも非行に走る子どもが多いので、勉強の喜びを子どもに与えたいと思っています。「もっとも気高き喜びは学習の歓喜である」ということをスローガンにして、子どもに勉強することは素晴らしいことだと宣伝するクラブをアメリカに作ろうとしています。これを日本でもできないかと考えています。
盲導犬の教育から学ぶこと
青野)井上さんは警察のお仕事をされていましたので、子どもが事件に巻き込まれるのを見てこられたと思います。そのあたりをお聞かせください。
井上)いろいろな事件を見ていると、親の、家庭の教育、学校教育も同じですが、特に家庭教育のゆえに子どもたちが思わぬ方向にいっているというのが、今非常に強く現れているような気がしています。
川畑)勉強というのは楽しいことばかりでない。我慢することも必要ですね。これを子どもに伝えなければならないことだと思っています。レオナルドダビンチの言葉で「理解することはいかに楽しいか」というのがあります。解らなかったことが分かったときの楽しさを、どうやって子どもに教えるかということだと思います。マスメディアでも「簡単に一言で、どうしてこうなったかを言ってください」と言いますね。多くのことは、簡単に一言で説明できませんよ。それは全部間違った情報になると思っています。
井上)盲導犬の教育では、生後2ヶ月でパピーウォーカーさんに預ける。そこで10ヶ月共同生活をして、1歳になったところで協会に戻り訓練に入ります。言ってみれば犬の社会科教育をやるのです。家庭というのはいろいろな構成です。子どももいればお年寄りもいる、そういうところで育てて人間に慣れ親しませます。家庭科教育、社会科教育の手順を経ていくということが大事で、人間の子どもにも同じだと思います。今残念に思うのは、乳幼児の虐待が増えていることで、これは動物にも劣る行為です。犬にしても動物は子どもを大事に育てています。それは親力がなくなってきているからだと思います。この原因の一つは戦後教育だと思います。今の若い親はみんな戦後世代ですが、教育の端的な現れである自己中心になり、みんなのためにとか奉仕とかその辺が手抜きされてきたんですね。家庭の中でもそうですね。それが今現れた許すべからざる乳幼児虐待ですね、これだけは絶対許せないです。
自立する子供を作る
川畑)ボーイスカウトの世界大会で、日本の子どもは過保護でしようがないと聞きました。虫がいると言ってテントで眠ることができない。飯を作れというと、なんで自分が作らないといけないの。そういう生活の中にいるものだから、とても困った状態になっています。
井上)これらは教育なんですね。家庭における教育です。幼児であれば保育園や幼稚園での教育も。それが物事を判断できない段階で、勝手な行動をするのを、個性の尊重と言っている。これが違うと思います。皆と一緒に生活すると自ずから規律を教えたり注意しないといけないけど、注意すると、親が「うちの子供は個性を尊重する」と言ったりする。これが今悪くなっている原因だと思います。
川畑)僕の息子を15歳くらいから、アメリカの全寮制の学校に入れたのですが、しっかりと自立出来るようになりました。厳しい規律があって、朝の6時に起きて、ベッド整頓やら飯の支度をしたり、失敗するとどこかを掃除しなければならない。そういう生活で人間が変わりました。
井上)盲導犬は、仕事中はおしっこをしない訓練をしています。ハーネスを着けている間は我慢しています。それができないと盲導犬失格なのです。訓練でそこまで高めていかないといけない。人間も訓練で耐えることを学ぶ必要がありますね。これは親の責任、学校の責任ですね。親が子どもに注意できない。これでは子供が耐えることを学ぶことができませんね。そうなると子どもが自立できないですよ。最終的には「自立」ですから。
青野)自立していないと、本人が一番苦労するのですが。
日米の奉仕活動の違い
青野)川畑さんはアメリカ生活が長いのですが、奉仕活動に日米の違いはありますか。
川畑)アメリカの友人が奉仕の考えをもっているのを偉いなあと思っていました。アメリカはご存知のようにものすごい格差社会ですから、アッパークラスなどは奉仕の精神が大変高い。寄附をするということなどは日常的です。
井上)日本もある面では同じ傾向が出てきたと思います。お金を出せる人は社会に役立ちたいと、私がやっている協会にも、ひところにくらべて寄附してくれたり募金してくれる方が増えました。テレビ番組「盲導犬クイール」や補助犬法の成立・施行などの後押しもあり、自分はまだ十分でないけどもこれだけは協力できるといういうような社会になりました。お金で協力できない人は労働奉仕でというように、そういうものが芽生え始めてきた気がしています。それを子どもたちの段階からやっていくことが大事です。なにか公に奉仕する、社会に奉仕するということによって、自分中心でなく公、社会というものを意識した子どもに育っていってくれるのではと思っています。今度、静岡県の富士宮に新しい訓練所ができるのですが、週末に子どもに来てもらって、訓練を見てもらったり、盲導犬がどんなに社会に貢献しているかを知ってもらう計画を立てています。
自由な雰囲気の中で楽しく社会奉仕が出来るクラブ
青野)最後に、入会のきっかけとキワニスのここが良い思われているところを。
川畑)入会は赤澤さんに勧められて入りました。当時はスノビッシュなクラブである程度のステータスがないと入会できませんでした。前々からクラブの存在は知っていましたが「まだ資格がないと」言われ続けていたのが、許可されて、「認められたのかな」と思いました。
井上)千葉県警本部長は千葉キワニスクラブに自動的に入会していました。退官後、先輩の大堀さんからお誘いを受けて東京キワニスクラブに入りました。入会というより復帰なんですね。他からもお誘いを受けたのですが、キワニスの雰囲気を知っていましたので、すぐに入会しました。
川畑)入会していろいろな方にお目にかかれました。また、会員がいろいろな社会奉仕活動をされていますね。時間がないので、キワニス活動がなかなかできないのでじくじたる思いがあります。
井上)キワニスの良い点は、出席回数をとやかく言わないことですね。義務的に考えなくて良いことです。特に火曜会の自由さはよそでは見受けられないことです。いろいろな方と知り合うチャンスがある会ですね。
川畑)まさに同感です。キワニスはステータスも高いですし、楽しいクラブでなおかつ奉仕活動が盛んで素晴しいと思います。
川畑 正大(かわはた まさひろ) 昭和63年入会。現職 南カリフォルニア大学教授, Visualant社取締役、The Branded Asset Management Group LLC (NY) パートナー等。略歴 東京大学講師 米国IBM開発研究所専任研究員等歴任 東京都出身
井上 幸彦(いのうえ ゆきひこ)平成9年入会。現職(財)日本盲導犬協会理事長 略歴 昭和37年警察庁入庁 昭和50年-53年在伊大使館(一等書記官) 昭和63年-平成元年警視庁警備部長 平成元年-3年千葉県警察本部長 平成3年-6年警察庁官房長 警務局長 次長 平成6年9月警視総監 平成8年12月退官 平成14年9月東京ガス且謦役退任。山梨県出身。

○18年11月: 徳川恒孝 会員 VS 稲田 徹 会員
司会・編集:小野洋一郎 会員
左:小野会員 中央:徳川会員 右:稲田会員
テーマ:秋の日光・特別拝観にあたって
キワニスに入会されたきっかけは・・・
小野)今月は6日に計画している日光二社一寺の特別参拝を前にして徳川会員と稲田会員に対談をお願いしました。よろしくお願いいたします。
まずキワニスクラブへ入会されたきっかけをお話いただけますか?
稲田)2年前に中学校の同級生の木村輝久さんから「今なら入会金が安いからお得ですよ」と誘われました。ホームページを見た会社の仲間からも「いいんじゃない!」と言われ入会しました。
入ってからはドールづくりの会に参加してきました。といっても私自身は不器用で綿を50グラムに仕分けることぐらいしか貢献できませんが・・・。また靖国神社の参拝と清掃も生活の新しい句読点になってきました。入会後「誰か勧誘して」と言われ、その犠牲者として徳川さんが捕まったという次第です。(笑)
徳川)私は自分から強く望んだのではなく、稲田さんの誘い方が上手で「キワニスで話をしてくれないか」と頼まれ、話が終わると「もう会員にしておいたからね!」という具合なんです。また木村太郎さんが若いころ日本銀行から3年間日本郵船に出向され、同じ課でお酒もたくさん飲んだし、ぎゅっとこの二人から引っ張られて入会してしまいました。でもまだ現役なので出席率も良くなく、ドール作りにも参加できませんが、もう少しするとちゃんと活動できるようになると思います。もうひとつ稲田さんに頭が上がらないのは、二人いっしょに牢屋に入った時に稲田さんは一歩先に入った先輩なのです。
牢屋に入ったふたり?
小野)え!牢屋に入ったんですか?
稲田)徳川さんと私は日本郵船で約30年間、定期船の仕事をしてきましたが、ある時リビアへ送ったコンテナが戻ってこないので、当時中東駐在の私と本社の担当課長の徳川さんと二人で港へ捜しに行ったのです。その時リビアの官憲にスパイ容疑で捕まりました。その日は生憎金曜日で休みの日でしたが、相手は気を遣ってくれて英語の話せる係官を捜してくれました。すると、英語の得意な徳川さんは急に元気が出てきたんですよ。(笑)
徳川)その港は軍事施設もあり、いきなり後ろから機関銃を突きつけられました。
稲田)その官憲は「この二人は塀を乗り越えて中に入ろうとしていた」って言うんですよ。 石の部屋で天窓が1つと石のベッド。鉄の扉がガチャンと閉まった時には、何とも侘しい思いでしたね。
徳川)半日くらいで解放されたのはラッキーでした。
稲田)普通なら白骨になって発見されてもおかしくなかった。(笑)
小野)思いがけない体験をされたお二人ですが、共通の趣味などありますか?
稲田)これが全然ないんです。私は子供のころ竹馬とめんこで育ったせいかパソコンなどメカは全くだめ。そこへいくと都会育ちの徳川さんはメカには滅法強くパソコンも得意。うらやましい。強いて共通点といえばゴルフが下手なことぐらい。
5月の日光特別参拝は心を洗われる感動だった
小野)5月26日には徳川さんのお計らいで日光の東照宮、二荒山神社、輪王寺を特別参拝させていただきました。稲田さんも参加されましたが、ご感想を。
稲田)大猷院の家光公の廟は、いつもは非公開ですが特別にお参りさせていただきました。そこはうっそうとした木々と苔むした石段でまさに神域。心洗われる思いで感動しました。また、修復をしている建物がありましたが、塗り替えでは漆で厚みを出したり、文化財なので材木などを残しながら大変な作業をしていることが良くわかりました。
徳川)あの地域には国宝級の建物が40棟位あり、それを順番に修復しています。だから、いつもどこかの建物が修復中であり、一巡するとまた最初の建物の修復に戻るという感じです。宮大工が不足しているので、ほかの地域に行かれないように修復を継続して行っています。
稲田)修復をするにあたってのご苦労は・・・・
徳川)職人の確保のほかに漆と木材の問題があります。漆は最近質が悪くなり、東照宮では山を買って漆の木を植えたこともあります。しかし、うまくいきませんでした。今は中国から質の良い漆を選んで使っています。もう1つは、太い木材が少なくなっていることです。最近、神橋を架け替えましたが、100年後にはあれだけの修復をするための太い木がないのが悩みです。
稲田)陽明門を修復するとなると大変でしょうね。
徳川)そうですね。陽明門といえば今回のようにあんなにゆっくりと見たのは生まれて初めてですよ。私は毎年5月17日の例大祭では装束をつけて行列で、すーっとお参りするだけですので、あんなに繁々とあっち見たりこっち見たりしたのは、小学校の修学旅行以来かな?(笑)この日は雨も降らず新緑もきれいでしたが、今回は紅葉が見頃だと思いますよ。
徳川記念財団を設立した経緯
稲田)3年前に徳川記念財団を設立されましたが、どんな経緯で作られたのですか?
徳川)徳川宗家の伝来品は尾張家、水戸家と違って幕末維新、戦災、戦後の混乱期に一部は散逸しました。しかし1ヶ所にまとまって今日まで継承されている品も少なくありません。これらは徳川家により維持、管理されてきましたが、家康江戸入府以来420年余の時が流れ、これらの歴史的な品々は国民的文化遺産であり、歴史的資産として国民のために長くしっかり保存し公開すべきものと考え、財団を設立しました。
稲田)財団の設立といっても大変なんでしょう?
徳川)一つ一つの品に名称をつけ、大きさや誰のものか調べないと文化庁は宝物として認めてくれないし、財団も設立できないので、この調査に約10年かかりました。
財団運営は難しい
稲田)このようにしっかり保存され公開していただくと我々にとっても大変ありがたいことです。でもきちっと保管することは大変なんでしょうね。
徳川)文化庁はできるだけ公開してくださいと言います。しかし、公開すると品質が劣化してしまいます。例えば明治以来蔵に入っていて開けたこともなかった打掛は、すばらしい金の刺繍がしてありますが、公開するとすぐ色あせてしまいます。このため照明を暗くしたり、展示期間を短くしたりしています。このように文化財保護というのは大変矛盾に満ちているんです。
稲田)お金もかかりますよね。
徳川)来年はアメリカに植民地ができて400年。「1607年の世界」というイベントをするので家康公の画像を貸して欲しいという要望があります。大切なものなので、複製を作るとなると250万円位かかってしまいます。財団は基金によらず、1口1万円の賛助会員(約600人)で運営しているので大変です。
稲田)キワニスの会員も賛助会員となって協力したいですね。この財団は文化活動でも大変貢献されているのですよ。例えば、日本近世に関する顕著な研究業績のあった人に対して、毎年2人位1人100万円の徳川賞を、若手研究者の優れた日本近世研究にも数人選んで1人50万円の徳川奨励賞を授与しています。日本文化を広げるために大変貢献されています。
徳川)最近アメリカでは日本のことを研究する人が少なくなってきているので、徳川プライズを設けてくれないかという要望もきていますが、慎重に検討しています。
徳川家の血筋は芸術家?
稲田)徳川家の血筋は、図画や書が上手でプロ級です。3代家光公の鷹の図や15代慶喜公の書はずば抜けていますね。
徳川)先祖は3歳から字を書くようになり、7歳で一幅のような大きな字がかけるようになったと聞いています。江戸時代は子供が無事に成長するのが5割。7歳まで育つとほぼ大丈夫です。だから七五三があり、お宮参りをするのです。
稲田)江戸東京博物館ですごいと思ったのは皇女和宮の書です。抜群の美しさです。宮中や幕臣の子弟は大変に教養があったのだと思います。18代の徳川さんの絵はプロ級ですし、書も三方原古戦場の石碑に見事な揮筆が刻まれています。
徳川)昔は油絵を描いていましたが、今は水彩のスケッチで、旅行先でのスケッチは本当に楽しいですね。
稲田)ギリシャのアクロポリスにいっしょに行った時、かいてもらったスケッチ、あれ柱が1本足りなかったですよ。(笑)
徳川)そんなことありましたっけ!? 時間が少し足りなかったのかもしれませんね。(笑)
所蔵品の保存・展示には細心の注意が必要
徳川)財団の所蔵品は久能山東照宮博物館と輪王寺宝物殿で常設展示していますが、いつかは常設館を建てたいですね。でも財団を維持していくプレッシャーはあります。
稲田)上野の東京国立博物館などで保管してくれないのですか?
徳川)委託しても完璧に保管してくれると思ったら大間違い。自治体も全部維持するだけの予算もなく、埃だらけになっているケースも多いのが実態です。学者の研究にあったものだと使われますが、それでも読み散らかしたままになってしまい、どこへいったかわからなくなるケースもよくあります。また、学芸員は何を基準で大事にするかというとそれぞれに専門があり、漆工の専門の人は布や刀などには目もくれないのです。また、例えば"家康公が使った道具"ということが大事なのに、単に物としてしか見ないで歴史的な価値を評価してくれないのです。だから埃がついたままで眠っているものがいっぱいあります。ある博物館に徳川家のお雛様が相当あるのですが、30年間に一度も展示されませんでした。今では全て修繕が必要ですが最低水準です。どこにもお金がないのでできないのが実態です。
キワニスクラブへの要望と期待
小野)最後にキワニスクラブに対する要望や期待することがありましたら、お話ください。
徳川)世界一の自然保護団体である国際自然保護基金(WWF)の日本の理事をしています。国際会議に出席すると「日本は何をやっているのか」と強く指摘されます。自然保護問題に対する日本の取り組みは先進国の中では、最悪だと思います。ヨーロッパでは、アマゾンやボルネオの森林を守らないと2050年にはどうしようもなくなるという意識が強くあり、保護のために大きな支援をしていますが、日本は地球に優しくと言っている割には、南洋材は安くて加工しやすいと乱伐しています。基本的に日本の自然保護問題に対する認識はできていないと思います。いまや2040年〜50年の間に石油は無くなるというのが世界の通説になってきています。ドイツではすごい勢いでエネルギーを太陽電池に切り替えています。導入すると税金が安くなる。こういうインセンティブが必要です。したがってキワニスでも地球環境問題を活動のひとつに入れて欲しいですね。
さしあたっては、専門家に例会で話してもらったらどうでしょうか。
稲田)キワニスは「子供達を幸せにするために奉仕しよう」という会ですが、環境問題は子供達を健康に育てる基盤になるものであり、キワニスの取り上げるテーマにふさわしいと思います。児童虐待問題については、キワニスの身の丈にあわせ、勉強会を開きみんなで共通の現状認識を持つことが大切だと思います。まず警察、児童相談所、学校、NPOなどが協力の輪をつくり、国を動かし法律を整備し予算をしっかりつけて、虐待問題が発生しないよう、発生しても迅速に対応できるような仕組みを作ることが必要なんだと思います。それにはみんなで問題に対する共通認識を持つことが第一です。またキワニスが社会貢献するためには、まずメンバーが仲良くなり、全員がひとつにまとまり、一つの目標に向かうことが大変重要だと考えています。
次に文化賞についてです。アメリカ側には異論があるようですが、日本はアメリカと風土が違っていて、地域社会にものづくりがしっかりと根付いています。家康公も匠の技術を尊びました。この伝統が脈々と続き日本は発展してきました。入会してから2回全国大会に出席しました。印象深かったのは文化賞の授与で、仙台大会では正藍冷染の千葉よしのさん。ご高齢の当人はこの技をご家族の方々に伝承されているとのことでした。札幌大会では江戸時代に武具造りで有名だった明珍家の末裔明珍武康さんが選ばれました。維新後明珍一族は北海道に移り住み、武具造りで会得した鉄を鍛える技を代々この地の開拓に最も必要とされる農具造りに生かし続けて今日に至っているとのことでした。いづれもそれぞれの地域社会の文化的土壌を肥やして、この地域の子供達の精神が健全に育つのに貴重な栄養分になっているのではと思います。そういうことで文化賞は是非続けていって欲しいと思います。
小野)今日はなかなか普段聞くことができない、貴重な珍しいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
徳川恒孝:平成17年(2005年)4月入会。略歴:昭和39年日本郵船鞄社、平成6年取締役、平成10年米国郵船会長、平成14年代表取締役副社長退任、顧問就任、平成15年(財)徳川記念財団設立、理事長就任。東京都出身。
稲田 徹:平成16年(2004年)6月入会。平成17年〜19年監事。略歴:昭和33年日本郵船鞄社、昭和63年取締役、平成4年常務取締役、平成6年専務取締役、平成7年東京船舶兜寰ミ長、平成8年社長、平成11年日本郵船褐レ問、日中貨客船且ミ長、上海貨客船且ミ長。愛知県出身。


○18年10月: 藤澤一就 会員 vs 大堀太千男会員、山岸信久会員
(司会・編集)佐藤隆國会員
 左から:佐藤会員、藤澤会員、大堀会員、山岸会員
囲碁愛好会の楽しみ
佐藤 東京キワニスクラブに、今年の3月待望の囲碁愛好会が発足しました。そこでこの会の師匠であり、東京キワニスクラブ会員の日本棋院常務理事・棋士八段の藤沢一就さんを囲んで座談会を持ったらどうかと、北里広報委員長からお話をいただきまして本日の運びとなりました。囲碁愛好会を立ち上げるのに貢献していただいた会員の小坂さんが、残念ながら本日はご欠席ですが、早速はじめさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。さて、本日の例会で藤澤会員による講話「囲碁の世界とこども達」がありました。先生、お話ありがとうございました。まず本日の講話のご感想から伺いましょうか。
とても面白い講話だった
藤澤 もう少しお話しする準備をしてきたのですが、十分ではなかったと思っています。
大堀 いやいや、とても広範囲なお話を面白く、興味深い事例を交えてお話いただき、みんな感銘を受けたのではないでしょうか。囲碁を知っている人はもちろん、囲碁を知らない人にとっても、興味が湧いたことと思います。講話が終わってから大変な反応でしたね。お孫さんにやらせようかとか、私も始めようかしらとか、囲碁をやったことのない人の反応の大きさに驚きましたよ。
山岸 私は小さいとき基本を覚えていて良かったなぁー。(ぼけなくて済むかな?)頭がよくなるのですから、これから小さいお子さんを引っ張り込むようにしなければと思いましたね。
囲碁を始めた時期
佐藤 ところでみなさんは、囲碁をいつごろから始められたのでしょうか。
大堀 中学生の頃父親から教わりました。父親の棋力はせいぜい5,6級でしたでしょうか。ですからあまり筋の良い教わり方はしなかったと思います。途中学生時代にマージャンを覚えて中断しましたので、今思えばそのまま続けておればと反省しきりです。
山岸 私は、小学校高学年の頃だと思いますが、東京にいたおじさんから教わりました。疎開中に弟と二人でやっていましたね。将棋をやる友達は多かったのですが、囲碁はやる人がいませんでしたから。その後中学、高校、大学では同級生がやるのにただ参加しただけで上達もしませんでした。会社に入ってから真剣にやったお陰で少し上達したのだと思います。
佐藤 私もはじめは小学校のとき親父からでしたね。東京に出たとき、下宿の主人が元外交官で3段の腕前でしたので、その人に星目風鈴から教わりました。毎月1目ずつ置石が少なくのが、楽しみだった覚えがあります。大学に入って、囲碁部に入ろうかなと思って、囲碁部の門を叩いたのですが、当時早稲田は村上さん、山本さんが主将、副主将のときでして、入部希望者が列を成していて入部を諦めてしまいました。今思えば惜しいことをしました。
藤澤 早稲田の連覇時代ですね。
佐藤 ところで、先生はどうだったのでしょうか。
藤澤 覚えたのがいつかと言うのは定かではないのですが、確か小学校一年生の頃、父親がアマチュアの人に頼んで教えさせたようです。
大堀 記憶にある一番古い囲碁の対戦はいつごろでしたか。
藤澤 小学校の1年生のときに碁会所に行きまして、そこのオーナーのおばさんが3,4級だったようですが、その人に4,5目置いて打っていたのはよく覚えています。
大堀、山岸、佐藤: ほぉー(そんなときがあったのだと複雑な感嘆)
キワニスクラブに入って良かった
佐藤 ところで、囲碁のお話を一寸置きまして、みなさんからキワニスの入会のキッカケを伺っておきたいと思います。
藤澤 妻が先に入会していました。奉仕活動をやるのを見ていましたが、自分もだんだん年を重ねるにしたがって、アジア外交とかが問題になるにつけて、日本もこれらの国の人たちと仲良くしていくのに、人々のために何か奉仕活動をして役に立ちたいと考えたことと、入会するのは日本棋院の常務理事をしている今でないと、入れてもらえないのではないかと思いましたのでね。(一同爆笑)
山岸 私は単純でして、会社の先輩が次はお前の番だと、順送りみたいなことでしたね。私は、各界の素晴らしい方たちとご一緒できる期待と、キワニスの奉仕活動が、"Serving the children of the world"ということに共鳴しました。
大堀 私も先輩から勧められたのですが、話の中で惹かれたことは、いろんな人と肩書きのない裸の付き合いができる面白いところだよ、そして今までの仕事とは別の形で社会のためになるところだからと言われたことです。
佐藤 私の場合は会社からではなく、ゴルフ場でご一緒していた元会長・ガバナーの木村太郎さんから勧められて入会しました。入会してよかったと心から思っています。
キワニスに囲碁愛好会ができた!
佐藤 ところで、東京キワニスクラブの囲碁同好会の設立の経緯について、これは代表の大堀さんにお話を伺いたいですね。
大堀 佐藤さんも囲碁が好きなのですが、名簿を見ていて趣味が囲碁だという人が大変多かったのですね。調べたら何人ぐらいいましたかね。
佐藤 80人ほどでした。
藤澤、山岸 そんなにいるのですか。
大堀 こんなに仲間がいるのだから、キワニスの囲碁の会を作ろうという話は、すぐまとまったのですが、なかなか実現しませんでした。しかし藤沢先生の入会がきっかけになり、急に具体的なとりまとめが進みました。今年になって、木村さん、荒木さん、小坂さん、佐藤(満)さん、佐藤(隆)さんそして私が発起人となって、一気に設立へと進みましたね。実は事務局に碁盤はあるのですよ。(当時の大堀会長が寄贈)ときどき事務局で打っていましたね。愛好会の立ち上げでは、場所の選定など小坂さんの力も大きいですね。
藤澤 東京キワニスクラブでは最強の方ですね。
大堀 その通りです。
素晴らしい師範の下で楽しく競い合う囲碁愛好会に
佐藤 これまで例会を3回やりましたが、現在の囲碁愛好会をどのように感じられ、今後どんな風に育てていくべきでしょうか。
山岸 囲碁をやる場所も、自分たちの所有物ではありませんが、良い場所を探したと思います。費用もそこそこだと思います。そして何よりも素晴らしい師範をもっている。スタートしたばかりとしては、素晴らしいのではないでしょうか。
大堀 何と言っても藤澤先生がいらっしゃるということは誇りですね。それから、囲碁を全く知らない人が参加する愛好会と言うのは珍しいし、素晴らしい特徴ではないでしょうか。今後これらの人がどの程度上達されるのか、意欲を削がないようにしていかなければなりませんね。
山岸 初めてやってみようと言う人がいることは、とても素晴らしいことですね。これから私も、教えたり教わったりしながら楽しみたいと思います。
大堀 強い人同士の対局も良いが、弱い人が少し強い人と打っていると、碁を通じて会話も弾むのですね。囲碁は手談とも言われていますからね。
佐藤 先生から見てこの会はどんな風に写っていますか。そして今後会の活性化のために、何か良いアドバイスはありませんか。
藤澤 みなさん楽しんでいるようで良いと思います。今後は年に1度か2度、大会等イベントを考えたらどうでしょう。緊張感を持つことは上達の秘訣でもありますから。
また、入門者の会を別に設けてはいかがですか。1ヶ月に1度の訓練では覚えきれないと思います。会費を別に取って、例えばアマチュアのインストラクターを雇って覚えてもらう手もあります。
大堀 キワニスの碁会をやる場合、先生からお預かりしている賞品をどう配るか、やはりAクラスとBクラスそして初心者と、3クラスに分けなければならないでしょうね。
イベントをする場合に何かアドバイスはありませんか。
藤澤 やはり3段階のクラス分けでしょう。あと、人数が多ければオール互先の名人戦も面白いですがね。ただ小坂さんの常勝では心配ですが・・・。置き碁は、星目以上はやりません。できれば5目以内の手合いに分けるように工夫した方が良いと思います。
子供は実戦で囲碁を覚える
佐藤 先生は子供囲碁教室をお持ちだと伺っていますが、どんな風にして初心者の子供たちに教えていらっしゃるのですか。
藤澤 子供には理屈をあまり教えません。簡単なルールを教えて実践で覚えさせます。
佐藤 簡単なルールとは?
藤澤 囲んだら取れる。石が入れないところがある。着手禁止のルール。囲んだ数の多い方が勝ちということだけです。あとは9路盤で、実践で覚えてくるわけです。
大堀 劫はどうやって教えるのですか。
藤澤 できたときに教えます。最初から教えると分からなくなります。同じことは"生き""死に"を教えるときにも言えます。本当は実践で二つの目を作ってやると分かり良いですね。入れないから生きていると言うわけです。とにかくできたときにその場で教えるのが一番です。アタリの石はどうやったらとれるのか、いろいろなアタリに遭遇させる。とにかく実際にやってみて楽しませるのが大切ですね。 しかし、大人はそうは行きませんね。どうやって打つのでしょうという大人には、マン・ツウ・マンで教えるよりも、大盤を使って理屈を教える必要がありますね。
大堀 今私は、月に2度ボランティアで土曜日に子供に教えていますが、教えると言うことは大変ですね。普段は10人位集まるのですが、少ないときは3人ぐらいになってしまいます。少ないので調べてみると、団子つくりやハイキングに参加して囲碁には来ないこともある。楽しくしてあげることは中々難しいことですね。
それから、私も大人に教えるときは理屈から教えるようにしています。
囲碁上達のコツ
佐藤 ところで先生、上達のコツはありませんか。
藤澤 それがあれば私が教わりたいところです。(笑)上達方法も10級から5級ぐらいのレベルと、高段者では異なりますね。ただどちらも、楽しむだけでは上達はできません。真剣で緊張感のある対局が強くなります。私のところでは、他に比べると強いと言われていますが、子供たちが飛び回ったり、勝手な振る舞いが多くなったりしますと、手をパンパンと叩いて、そんなに遊びたかったらもう帰りなさいと言って叱ります。するとシーンとなる。「楽」と「楽しむ」を履き違えているのですね。集中力が大事です。頭を使うから強くなるのです。
佐藤 棋譜を並べると強くなると聞いたことがありますが・・・。
藤澤 棋譜を並べるのはイメージトレーニングとして良いことです。ただ石を並べるだけではなく、一つ置いたら全体を眺めて、自分なら次はどこに置くと考えてから、次の石を並べることが大切です。棋譜を並べるが、何番がどこにあるかを探すのに精一杯では本末転倒です。棋譜を並べるのは、大局観や石の感覚を養うのが目的です。そういう意味では、DVDやビデオを見て、イメージを自分のものにすることも大切ですね。おしまいまで打たなくても良い。棋譜にもよりますが、序盤から50,60手位までを、考えて頭を使ってイメージトレーニングするのが良いやり方です。
大堀 私も高段者と打つときの棋譜は、全部ではないが取っていることが多いのですが、取るときには相手にお断りするのが礼儀だと伺っています。私はその場で全部つけるときと、後で50手ぐらいまで書くときとあります。
山岸 私も30代ぐらいのときはよく覚えていました。真剣に打てば棋譜を書いたことはないが、頭の中で覚えているものです。
佐藤 流石みなさんが強いわけですね。私はやったこともない。ところで先生は、4面打ちでも全部覚えていらっしゃいますね。驚きです。
藤澤 はい、いま打った碁は覚えています。
韓国が一番強い
佐藤 今日の講演の中にも出てきましたが、世界で碁の強い国は、韓国、中国、日本の順でしょうか。韓国が強いのは、やはりハングリー精神の差なのでしょうか。
藤澤 特に韓国が強いのですが、韓国では昔の日本のそろばん塾みたいに小さな子供が、囲碁教室にたくさん通っている。若い人がよく勉強していて強いということですね。日本は、結構年配者が強いのですが・・・。
大堀 聞いた話ですが、日本で大盤解説と言うと年寄りが聞いていると思いますが、韓国では若い人がたくさん聞いているそうですね。
藤澤 その通りです。日本は30代、40代、50代の囲碁人口が極端に少ない。「ヒカルの碁」の影響で10代の囲碁人口が増えてきましたので、何とか何千年も続いてきた日本の文化を、絶やさないように努力しなければならないと思います。
初心者も参加できる囲碁愛好会
佐藤 話を戻して恐縮ですが、今後囲碁愛好会を活性化していくためには、どうすればよいでしょうか。藤澤先生がいらっしゃるというのは超目玉ですが、たくさん来ていただくにはどうすればよいでしょうか。
大堀 先ほども出ましたが、初心者でも入会できるのが特徴であるので、大盤の活用や9路盤も借りて、初心者だけの会を増やしていくことも重要でしょう。女性も入会されるようですから。
藤澤 女性が入れば男性は必ず増えます。これは真理です。(笑)
佐藤 お子さんがいる若い女性が、抱っこしてでも連れてこられる雰囲気にしたいですね。
藤澤 私の父は、おじいさんにおんぶされて碁会所に行っている内に碁を覚えたそうです。
山岸 趣味を囲碁と書いている人に、ご案内を出すことも重要ですね。
佐藤 それはすぐできますね。やりましょう。 それから先の話ですが、他のクラブとの対抗戦などもやりたいですね。
藤澤 それはいいですね。いろいろなクラブがありますよね。経団連は?
大堀 先生が特に力を入れてくれるかもしれませんね。
藤澤 厳しい競い合いは上達しますからね。
佐藤 とにかくみんなで知恵を出し合って、たくさんの人が集まる、楽しい囲碁愛好会にいたしましょう。
段位は甘い方が良い?
大堀 ところで、関連しますが話が少し戻って恐縮ですが、段位の厳しさについて伺いたいと思います。韓国の段位が辛いのは何故ですか。日本は甘くありませんか。
藤澤 韓国には日本から段位は伝わったのですが、段位が伝わった後の昇段制度が厳しいのだと思います。賭け碁が盛んなことも影響しているでしょう。日本は、日本棋院ができて、長い歴史の中で昇段がだんだん甘くなったためでしょう。新制度を作りましたので、これから9段はタイトルを取らないと生まれないのではないでしょうか。欧米も仕組みを厳格に作って、指定された大会の成績で昇段します。
私はプロと違って、アマチュアの段位は少し甘くても良いのではないかと思っています。現に他の習い事と違って、碁の初段を取るのは大変難しいのではないでしょうか。毎日やっても初段を取るのは難しいですよね。私は、甘くても良いが、基準はしっかりするべきだと思います。よくクラブの中の段位が甘くなることがあります。しっかりした上位者を基準に置けば、決して甘くはなりません。例えば私を10段格と置けば、自ずと段位は決まっていきます。天井を作らないからどんどん上がってしまうわけです。
佐藤 確かにクラブの段位が、2段ぐらい違う気がするところもありますね。私の段位も甘いのでしょうね。
藤澤 そんなことはありませんよ。(笑)
家康も囲碁が好きだった
江戸時代も厳しくて、九段は名人一人だけでした。八段が準名人で3,4人いました。
大堀 囲碁は貴族、武士の嗜みということは理解できますが、江戸時代の庶民は囲碁を打っていたのでしょうか。
藤澤 今どきのように、娯楽の少ない時代ですから、庶民も楽しんでいたようです。江戸時代の川柳に「銭突きて 最後の一文 碁の手つき」、これは私の好きな川柳ですが、庶民感覚を表していますよね。落語では熊さん、八っぁんと言えば将棋ですが、ご隠居さんは囲碁をやっていますね。囲碁を題材にした落語もいくつかありますね。
大堀 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は囲碁が好きだったようですが、棋譜は残っているのでしょうか。
藤澤 残念ながらありません。ただ、ものの本によりますと、いずれも時の本因坊に4目であったそうですから、中々の打ち手でしょうね。この3人の棋力は、信長、秀吉、家康の順であったとも書いてあります。私は、秀吉が伊達政宗に贈ったといわれる碁盤を、仙台で見たことがあります。家康も囲碁がほんとうに好きだったようですね。徳川実記によりますと、家康の碁敵は浅野弾正だったようですが、囲碁を打っている様子が今に残っています。弾正が相当の憎まれ口を叩いても、家康はにこにこと許して碁を楽しんでいたようです。
囲碁は子供の創造性を高めるーキワニス入会希望者への囲碁愛好会からのメッセージ
佐藤 キワニスは世界の子供たちに奉仕する国際ボランティア団体です。藤澤会員の今日の例会のお話では、囲碁は子供の頭を良くするそうです。子供のためにというところには共通項目があります。そういう意味から、これからキワニスに入会したい人たちへのメッセージを述べていただきたいと思います。最初に恐縮ですが、囲碁を嗜まれないそうですが、北里さんはどう思われますか。
北里 キワニスは奉仕活動をしていますが、会員同士の懇親がそのベースになります。その意味で、趣味が同じ人同士の対話と友好は重要ですね。囲碁愛好会は正にこれに合致しているのではないでしょうか。その上囲碁は子供の創造性を養う訓練にもなるということですね。キワニスのモットーである、世界の子供たちへの奉仕にも関連しますね。私自身は囲碁を知らないで過ごしてきましたが、孫たちにはぜひ触れさせようと思います。囲碁を通じて子供たちへの囲碁普及活動のボランティアも視野に入れられたらいかがですか。
一同 なるほど。
山岸 囲碁は1対1でゲームをします。お互いが親密になると同時に、人間的なつながりも生まれてきます。その上、頭の訓練になるのですから、スポーツ・文化活動の中でも特別面白いものだと思います。わが囲碁愛好会は、さまざまなレベルの人を受け入れています。全くできない人はもちろん、少しできるが恥ずかしいと言う人も、ぜひ一緒に勉強しましょう。
大堀 同感です。キワニスの囲碁愛好会は、みんな高段者の猛者ばかりがいるわけではありません。初心者もいます。とても入りやすい会だと思います。どうぞ一度お訪ねください。
藤澤 キワニスには囲碁の好きな人がたくさんいらっしゃいます。またお忙しい方も多いのですが、せっかくの愛好会ですので、例会やイベントにはぜひ参加して交友を深めていただきたいと思います。徳川家康ではありませんが、碁を大いに楽しんでください。
佐藤 本日はお忙しい中お集まりいただき、みなさんからとてもよいお話を伺うことができました。ありがとうございました。
藤澤一就会員 平成16年(2004年)入会。 現職 (財)日本棋院常務理事。略歴 昭和56年(財)日本棋院プロ棋士初段 平成2年〜6年、14年〜現在(財)日本棋院常務理事 平成13年〜現在 経済産業省構造審議会臨時委員 平成15年〜現在 NPO法人マイヨ・ジョーヌ理事 新宿こども囲碁教室主宰。東京都出身。
大堀太千男会員 昭和63年(1988年)入会。平成10年〜11年ボランティア活動委員長、平成11年〜15年副会長、平成15年〜16年会長、平成10年〜13年日本地区IDD対策委員長、平成13年〜14年日本地区組織強化委員長、平成15年〜18年日本地区副ガバナー。現職 (財)交通事故総合分析センター理事長。略歴 昭和30年警察庁入庁 警視庁総務部長 警察庁刑事局審議官 警察庁保安部長 神奈川県警察本部長 警視庁副総監 警察庁警務局長 警視総監 阪神高速道路公団理事長 運輸審議会委員。東京都出身。
山岸信久会員 平成10年(1998年)入会。略歴 昭和36年日本麦酒梶i現サッポロホールディングス梶j入社 平成3年理事名古屋工場長 7年取締役ビール製造本部製造部長 平成9年常務取締役製造本部長 平成12年専務取締役製造本部長 平成13年常勤監査役 平成16年退任。栃木県出身。
佐藤隆國会員 平成10年(1998年)入会。平成13年〜14年レクリエーション委員長、平成14年〜16年事務局長、平成16年〜18年日本地区事務総長。略歴 昭和37年東京芝浦電気(現鞄月ナ)入社 昭和50年東芝昇降機販売鰹務取締役 昭和60年鞄月ナ営業企画部長 平成2年鞄月ナ関西支社副支社長 平成7年東芝物流且謦役営業開発部長 平成10年常務取締役。熊本県出身。

○18年9月: 前田利祐 会員 VS 中田一男 会員BR>
(司会・編集 北里光司郎会員)
 左:北里 会員 中央:前田 会員 右:中田 会員
新設「金澤クラブ」への期待
金澤クラブの新設は日本地区発足時からの悲願
司会)7月20日に金澤クラブがめでたく設立総会の運びになりましたが、中田ガバナーから設立に至るまでの経緯をお伺いいたしたいと思います。
中田)東京クラブが日本に初めてのキワニスクラブとして発足して今年で42年になります。当初は全国で精々3つ位のクラブがあれば良いだろう、量より質だと言われて発足したのですが、4〜5年たってみると、日本が一つの地区として独立しないと国際的に認知されないということとなり、当時の東京、大阪、名古屋の会長が集まって、これからクラブを新設し増やしてゆこうということを相談し合いました。その時上がった候補地が地方中核都市で、札幌、仙台、横浜、京都、神戸、広島、福岡、高松、それに北陸の中心の金澤が入っていました。これらの10数箇所の都市にクラブを作れば地区として認められるだろうということで、クラブ設置計画が始まりました。そして、順次クラブが新設され、日本地区が認められましたが、当初の計画の中で金澤だけがクラブが存在せず、空白地帯になっていました。
一昨年10月にガバナーエレクトになったとき、私は、たまたま30数年前に石川県庁に務めていた経験があり、ご縁がありましたので、是非金澤にクラブを新設し、空白地帯を埋めたいと思いました。そこで、昨年4月に石川県副知事の杉本さんにご挨拶に伺い、金澤にキワニスクラブを是非作りたいので中心になる方をご紹介いただきたいとお願いし、小堀酒造鰍フ小堀さんをご紹介いただき、お話を進めておりました。
そうこうしている内に私にとってはありがたいことに、前田様が東京キワニスクラブに入会されました。石川県に勤務していた頃、前田様の先代の殿様が、東京の石川県人会会長をしておられて、お世話になっていましたが、前田家が徳川時代に加賀の文化、行政、平和外交に尽くされていたことに感銘を受けていましたので、早速前田様のところへ伺い、是非東京キワニスクラブの設立にご協力をいただきたいとお願いし、快くお引き受けいただきました。ちょうど今年の4月金澤で小児科学会が開かれ、キワニスドールを展示することになり、東京クラブを中心に10名程の会員が金澤に参りました。その折に、前田様にお願いしてキワニスクラブの中心になっていただけそうな方をご紹介いただき、前田様の紹介状を持って金澤滞在中に訪問させていただいたわけです。
「前田様を囲む会」で一気に進んだ
中田) お会いしたのは、金澤の経済界のトップの方々で、皆様からは、キワニスの精神は良く分かるが、ロータリーやライオンズが既にあり、これからクラブを新設しても入会をする人を見つけるのはなかなか難しいというのが最初の反応でした。 ただ、幸いなことに前田様のご紹介であれば無下にお断りもできないので、前田様を囲む会なら出席しましょうと言ってくださいました。そこで前田様にお願いして、まずは前田様を囲む会を組織しました。そして、第1回の会合を開きましたら、皆様ご熱心で、5月の第2回の集まりでは設立発起人会になるような密度の濃い会なりました。というわけで、7月20日に設立総会を行なうという具合に、とんとん拍子に事が進み、本当に前田様の存在の大きさを改めて認識させていただいた次第です。
司会)予想以上のペースで設立総会まで運んだようですが、前田様の方から見てどのようなご感想でしょうか。
前田)私は日本郵船に務めていましたが、その時の同期の稲田徹さんがキワニスの会員で入会を勧められてました。私より少し前にやはり元日本郵船で一緒であった徳川宗家の徳川恒孝氏がキワニスに入会しました。実は私は九州に転勤していた時ロータリーの会員でしたが、出席が厳しくて、出張が多かった為出席できず、役も務められず、転勤とともに退会しました。稲田会員のお話では、出席については柔軟であり、あまり厳しくなく、郵船の仲間に勧められたこと、また割りと面白いと思ったことは、官の方が沢山入っておられること、それにお人形なら自分もお付き合いが出来るかなと思って、入会させていただきました。
そうしましたら、飛んで火に入る夏の虫というか(笑い)、中田ガバナーより金澤クラブ新設のお話があり、お断りする内容ではないので、やってみましょうということになってお手伝いすることになったわけです。
金澤は人口が精々40万人位で、ロータリーあり、ライオンズあり、女性のソロプチミストもあり、経済同友会もあり、代表者は色々な会合で顔を合わせています。それが地方都市の特色です。そこにまたキワニスがスタートするのかという感じはありました。しかし、中田ガバナーの猛烈な熱意と行動力に皆圧倒されて、動かされて来ました。一緒に話し合い、食事をしながら集まっているうちに、中田さんのご人徳により、2回目の会合で皆その気になってしまった。
本当に思ったより早くとんとん拍子に進みました。ちょうど札幌での日本地区大会に併せてその前日にチャーターナイトを開催する運びになりました。
中田)札幌大会に間に合って良かったですね。ゴールがはっきりしていたので、それに向かってやり易かったと思います。
前田)そうですね。それは確かにあると思います。
官と民の会員のバランスが素晴らしい
司会)7月20日の設立総会で決まったことはどういうことでしょうか。
中田)設立の為に何が必要かというと、最低10名以上の会員、中心になっていただく会長、次期会長、事務局長、この3つが揃わないと前には進めない。
まず事務局は、静岡クラブと同じく、和田洋会員のご紹介で富士ゼロックスの北陸支社の社長さんに引き受けていただくことになりました。会長は、小堀様と相談し、経済同友会の長老で渋谷工業渇長の渋谷亮治様にお引き受けいただくことになりました。会長、次期会長、事務局長も内定し、発起人も10人以上集まりました。県庁からは、副知事の杉本様、企画振興部長の角田様、市からは助役の須野原様、県警本部長の干場様、北陸財務局長の上村様、日銀支店長の佐藤様にも入っていただきました。官と民がしっかり組んで、ちょうど東京クラブを設立する時に進めた官民トップによるスタートと似た形が金澤で出来つつあるように思いました。
前田)本当に思っていた以上に各界の方々の賛同を得てスタートをすることが出来、良かったですね。官と民のハイレベルの方々の賛同を得られたのは大変良かったと思います。
中田)杉本副知事に発起人と副会長を引き受けていただきました。ご挨拶に行きましたら、実はキワニスドールの話を聞き、子供達の為にこういう奉仕活動をやっている団体なら自分も協力しなければいけないと思って入会したとお話されました。市の助役の須野原さんも、事前に金澤の小児科学会でキワニスドールの展示をやっていますとお話をしたところ、わざわざブースを見に来られ、こういう活動をやっているのなら、協力しても良いと思われたとのことでした。
キワニスで地道に続けている奉仕活動が県や市の幹部の方を動かした要因になりました。
前田)これは、他の団体にない特色だと思います。
司会)スタート時の会員は何名でしょうか。
中田)今現在、会員は33名です。
前田)中田さんと私も顧問という形で入会しました。
8月30日のチャーターナイトでは加賀の伝統文化を披露
司会)今後の予定は?
中田)8月30日がチャーターナイトの日です。今実行委員の方が案を練っているところだと思います。是非チャーターナイトで金澤の伝統文化を披露したいと頑張っておられます。
前田)日本地区のクラブの会長さん方や国際キワニスの役員の方にもご出席いただくことになっており、皆張り切っているようです。
中田)札幌の日本地区大会に出席される国際キワニス理事で日本地区カウンセラーの台湾のミッシェル・ウーさんが金澤のチャーターナイトに出席されます。
司会)金澤の伝統文化とは何になるのでしょうか。
中田)先代の前田様に伺ったことがありますが、加賀百万石は、徳川幕府から眼をつけられていたので、絶対に武力には訴えないで、文化藩としてやってゆくことを主義として貫かれた。友禅染、焼き物、芸などの面で。
前田)いわゆる出来たものを買うのでなく、主に京都から人、先生、学者等に来て、住んでいただいて、文化、伝統、芸能を教えてもらって、城下に拡げ育てた。それが今でも残っている。
普通だと、明治維新で終わるが、石川県の場合はつくる人も使う人もいたので、多数の人間国宝が生まれることにもなった。うちの祖先は種はまいたが、それを明治以降もやってくださっているのは町方の人たちです。
金澤クラブへの今後の期待
司会)金澤クラブへの今後の期待はどのように抱いておられますか?
中田)小さく生んで大きく育てるのが私の願いです。北陸の中心地として金澤に新設できたので、ここから拡がってくれればありがたい。これで中核都市には全て進出したので、これからは各県に一つずつ作りたい。北陸では、北陸3県への進出です。
前田)本当にとんとん拍子にできちゃったので、後はどうやってあの熱気をどう続けてゆくかが心配です。そのベースになるのは、官と民のバランスがうまく取れていること。特に官の存在が他のクラブにない存在価値です。
中田)副知事さんや助役さんと懇談していると、今後裾野を拡げて、陶芸をやるような金澤の文化人、お医者さん、弁護士などにも輪が拡がってゆくと特色が出て来ると思います。
前田)芸術家やお医者さんなどが新しい分野の方々です。金澤は医大が最初に出来たところなので、お医者さんはステータスが高い。
中田)ユニークな会に育ってくれることを願っています。国際キワニスでは、シーメンス会長が音頭を取って100周年の会員を100万人にしようというキャンペーンをしています。それに対して、日本ではまずキワニスの知名度を高めたい、まずは種蒔きをすることが大事だといい続けて来ました。私の在任中にクラブ新設が出来なくても仕方がないと思っていましましたが、金澤がスタートし、松江の方も9月27日に設立総会が開かれ、その後鹿児島、福島と続いています。金澤でも、キワニスドールの活動を知ってもらって一挙に進んだので、やはり、認知度を上げて拡大して行く路線を進めたいと思います。
キワニスドールの威力は大きい
前田)やはり、キワニスドールが印象が強く、クラブの認知度を上げる為に、効果的だと思いますね。私の家でも幾つかキワニスドールを作っています。もっとも家内が中心になってやっているのですが。キワニスドールは、これからもクラブ活動の旗印になりますね。
中田)国際的にも日本のキワニスドールの活動が注目されています。これは、昨年8月にキワニスドールの1時間番組が全国放映されましたが、その内容を20分弱のPR版にまとめ英語版もつくりました。その英語の字幕入り版を各国に送っています。やはり、映像の力は大きいですね。これが今後も大きな力になるでしょう。
日本の中でキワニスドールを使っていただいている病院等について、各県に浸透するように努力しているのですが、一年前は、まだ使っていただいていない県が13県ありましたが、現在5県までに減りました。やはり、ドールを使っていただいているとキワニス活動を身近に感じていただけます。
前田)何百という単位でキワニスドールを欲しいと希望される病院があるとのことですね。
中田)ええ、大きな病院からは、大量に欲しいと言われています。これに応えて、作る方の体制も強化しようとしております。実は昨年3月読売新聞日曜日朝刊の家庭欄にキワニスドールについての囲み記事が出た時に、その後の一週間で600人を超す方から自分もドールを作りたいとの申込みがありました。会員の奥様、パートナーの方々も集まって「さくら会」をつくり、ドール作りに励んでいただいています。また、幾つかの大学や高校にも呼びかけてドール作りに参加していただいています。私の近所の田園調布学園では、家庭科の担当の先生が女子高生の裁縫の練習にもなると言って進めています。
前田)この間、青少年教育特別賞の表彰を受けた学校ですね。
中田)そうです。あの表彰は地域でのボランティア活動を進めていることを対象にしたものです。
前田)そういう活動がドール作りにも繋がるのでしょうね。
中田)輪が拡がって行きますね。それから、キワニスクラブの特色は、それぞれのクラブが特色のある奉仕活動をやっていることです。それぞれ生い立ちも会員構成も土地柄も違いますので。ドールは皆やっていますが、活発なところとそうでないところがあります。例えば、高松クラブはコミュニティに溶け込んで小学校生にボランテイア活動をしませんかと呼びかけ、その結果の発表会を行いそれらを表彰するということをやっており、それが地元のメディアに取り上げられているので、高松クラブの地元での知名度は高いです。神戸クラブは外人の方が多いので、外人の子供さんの為に図書館を作ったり、そのために外国の童話の本を集めたりして、外人だけでなく日本の子供達にも公開しています。また国際キワニスにもお願いして子供さん達に読ませたい本を寄贈して欲しいお願いしております。横浜は、10年来マタニティコンサートをやっています。各クラブがやっている良い事例を紹介して、他のクラブでもできることから取り入れて欲しいということを進めています。日本地区の事務局体制も大きく変わって、各クラブをサポートしてゆくように積極的に動いています。
新しいクラブの誕生、古いクラブの革新がキワニスを元気にする
司会)キワニスクラブに入会されて今感じておられることは何かございますか。
前田)まだ、日が浅いので、本当に印象ですが、この間の金澤クラブを立ち上げることで感じたことは、キワニスドールがあること、それから官と民が両方入ってやっていることが他のクラブにない大きな特色であると思います。
クラブの活動を長続きさせる為には、ボランティア活動とか子供さん達を集めて挨拶の仕方や礼儀作法を教えるとか、金澤はお茶やお花が盛んな土地ですから、そういうことをやるのも面白いと思います。
中田)高校のボランティア活動でも、挨拶や掃除をするなどから始まりますね。駅前、公園の掃除挨拶運動などはコミュニティを明るくし周囲にも良い影響を与えますね。
前田)熱心な人が始めると拡がってゆく。
中田)東京クラブに来て最近変わったなと思うことは、会員の方が自分のクラブという感じを持つようになり、お友達を連れて来るようになった。きっかけは40周年記念行事の時だと思います。その時会員数が200名を切りそうになり、危機感があって、クラブの活性化を図り、会員増を図る為の施策を種々図りました。東京クラブは昔はステータスを重視していましたが、今は活動に積極的な会員を歓迎するように変わり、それが他のクラブにも刺激を与えています。日本地区の若いクラブは勢いがあり、古いクラブは変革しながら活性化しています。そこへ、金澤の様な新しいクラブが出来て全体のクラブ活動が更に元気になる。そういう流れになりそうで、勇気付けられています。
前田)私もその一端に加担しましたので、その流れがもっと大きくなるようにしたいですね。
司会)では、この辺で、ありがとうございました。
前田利祐会員 平成17年(2006年)入会。現職(社)霞会館理事。略歴 日本郵船葛繽B支店長 八馬汽船鰹務取締役 宮内庁掌典職。東京都出身
中田一男ガバナー 昭和57年(1982年)広島クラブ入会。平成4年(1992年)東京クラブ入会。平成6年/9年文化委員長、平成11年/12年広報委員長、平成12年/16年副会長、平成16年/17年会長、日本地区次期ガバナー、平成17/18年日本地区ガバナー。現職 潟hワンゴ顧問。略歴 昭和32年大蔵省入省 昭和57年大蔵省中国財務局長 昭和59年大蔵省理財局次長 平成元年北海道開発庁事務次官 平成3年北海道東北開発公庫副総裁 平成7年苫小牧東部開発且ミ長 平成12年潟Iーエムシーカード会長、三井住友海上火災保険褐レ問。大阪府出身

金沢クラブ設立総会

○18年8月: 山口衛一 会員 VS 永井弓彦 会員
(司会・編集 北里光司郎会員)
左:山口衛一 会員 右: 永井弓彦 会員
小唄で「共に逢う会」を楽しむ
入会して心掛けたこと
司会)まずはお二人から自己紹介も兼ねて、キワニスクラブへの入会のきっかけについてお話しいただきたいと思います。
山口)入会したのは、昭和60年(1985年)です。ただ、その10年程前から通産省の先輩の赤澤璋一さんからキワニスクラブへの入会の勧めがあり、また日本輸出入銀行の役員を務めていた時、その銀行の顧問が木戸孝彦さんで、その二人から入会を勧められた。その時は忙しくてだめだったが、日本航空機開発協会の役員をやっていた時、少し時間が出来たので入会をすることにしました。推薦者は赤澤さんと橋本信夫さんでした。以前からロータリークラブ、日本クラブ等からも入会を勧められましたが、外部からの強制で入会して社会奉仕をするのはどうかと思っていましたので、全部お断りして、キワニスクラブ一本にしぼって入会しました。今年でちょうど満20年になります。私なりに心掛けてきたことは、入会した以上は何とかやりくりして皆勤に努めることと、日本地区大会には毎年必ず出席して一泊旅行にも参加して、地方の会員の方々と知り合うようにすることでした。
札幌クラブの設立をサポート
永井)私の場合は、昭和48年(1953年)札幌転勤の際に、前野徹社長から「キワニスをよろしく」と言われたのが、キワニスを知るきっかけとなりました。確かめてみたところ、世界三大社会奉仕団体のひとつであることが分かりました。早速、産経新聞札幌の中島支局長(故人)に尋ねましたところ、日本地区で七番目のクラブとして、設立準備中であり、手伝って欲しいと要望され、携わることになりました。札幌クラブの設立には、鹿内東京キワニスクラブ会長が、道内由仁町のご出身なので、地元クラブの設立ということで、大変力を入れられて、ご多忙の中をしばしば来道されて、ご指示を受けました。6月30日に辻村朔朗初代会長のもとに、北海道を代表するメンバーが勢揃いして、札幌キワニスクラブが誕生し、私もメンバーの一員に加えていただくことになりました。
札幌には、4年間会員として在籍、月2回の例会には必ず出席、4年間皆勤して賞をいただきました。この間他クラブの会員との交流を通じて良き友、良き師に接することが出来ました。会員同志の楽しい集まりから家族ぐるみのお付き合いになり、地元会員の皆様とも強い絆が出来ました。キワニスのスローガンであるヤング・チルドレン・プライオリテイ・ワンを念頭に、社会奉仕活動に参加しつつ、クオリティ・ライフを楽しみました。
昭和54年(1979年)に東京クラブに移籍入会しましたが、推薦者は坪内嘉雄さんと前野徹さんと荒井好民さんでした。札幌クラブでの4年と東京クラブでの26年間で在籍30年、皆勤19年をいただきました。現役の時代は忙しくて10年間は殆どお手伝いもできませんでした。クラブの役職としては、平成4年(1992年)レクレーション委員長を2期、平成7年(1995年)ボランティア活動委員長、平成15年(2003年)社会公益委員長、平成16年(2004年)グラント・コネリー委員長を務めました。
小唄で「共に逢う」のがキワニス
司会)お二人が共通に進められている活動として小唄同好の集いである「キワニス共逢会」があります。これはどのような趣旨で始められたのですか。
山口)キワニスの中で個人的に触れ合う機会を増やそうというのがそもそもの趣旨です。例会だけではどうしても触れ合いの機会が少ないので、その機会を増やそうということです。今から20年近く前にキワニスクラブの忘年会を浅草の「婦志多」という料亭でやりました。その時小唄を唄って欲しいと言われ、小菅さんと僕と牛山さんが座興で皆さんの前でやったのが始まりです。それから平成元年に平山健さんという会員の方がいて、小唄江戸散歩とか小唄下町散歩という有名な本を出した。その平山さんが僕に相談に来て、キワニスで会を作ろうという話になり、小菅さんを会長にして私と平山さんがサブとなってスタートしました。会の名前をどうしようかということになり、キワニスは一緒に逢うことが趣旨なので「共逢会」という名前にしようということになりました。
春は吉原の松葉屋、秋は浅草の多満喜という料亭で集まり、平成2年に松葉屋の時に浅草芸者を8人招んで行いました。浅草芸者は日本の中でもトップクラスの芸を持っており、その生き残りのお姐さん方が浅草に8人いて、平均年齢75歳、一番上が84歳で、この8人を入れてスタートしました。今は3人しかおられませんが、当時は何か博物館の中で貴重な遺跡にとり囲まれて唄わされたという不思議な経験でした。
平成5年には、共逢会への出席をメーキャップにする条件をつけていただきました。キワニスでは一番古い趣味の集まりで、今年は27回目の会を行い、その歴史が続いています。
この会のチャーターメンバー10人の内5人の方が亡くなり、現在会員は13名です。創始者の一人の平山健さんが平成6年に亡くなられ、小菅元会長も大阪クラブに移られましたので、今は、私と中田ガバナー、永井会員で世話役をやらせて頂いております。
小唄には色々な流派がありますが、共逢会は色々な流派の方が集まっています。今後興味のある方は是非入会していただきたいと思っています。キワニスクラブ最古の趣味の会で、今年も2回、赤坂の「たい家」で行っており、秋の会は小唄振りが中心で、赤坂でもトップクラスの踊り手の方が私達の唄で踊ってくれます。大変楽しい会です。
永井)私が小唄を知ったのは、大学生の時で、両親が出稽古の先生に習っておりましたので、調子的なものは、耳から入っておりました。しかし、私は声が良くないので小唄は自分には無理だと思っておりましたが、小唄は声の良し悪しではなく、年季と節回しと努力次第で何とかなると決めて始めることにしました。そのきっかけは、元会長小菅さんのご指導によるものです。
小唄は聞かせるものではなくて、愛好者同志で、しんみりとお酒を交わしながら、楽しく過ごすものと聞いておりましたが、やっているうちに「粋」なものだと感じるようになりました。小唄は、どなたでもできますので、始めてみてはいかがでしょうか。
山口)先ほどお話した平山さんの受売りですが、小唄の生命は粋―イキだと云われています。小唄は読んで字の如く短いのですが、構造たるや謡曲、長唄、清元、新内、歌舞伎の有名な科白等の粋が凝縮されて出来ている唄です。
また唄と三味線がお互いにせり合って面白さを出すという特徴もあります。厄介なのがこの「イキ」でして、有名な九鬼周造先生の「(イキ)の構造」という著書も出されている位で、平山さんのまとめによると「ざっくらんに云うとイキとは、垢抜けした張りのある色っぽさ」という判ったようで判らない代物です。文化というものはアンビバランスのものでしょうね。
まあこんな処に落ち込んで面白がっているのかも知れませんがね。しかし、これがDNAに刷り込まれてしまうと、面白いし、楽しいのですね。
趣味を通じて会員同士の触れ合いをもっと濃密にしよう
司会)キワニスの活動全般についてお感じになっていること等ございますか。
山口)小唄の会の他に今年から始まった囲碁愛好会にも入っています。免状段位は、20年位前に六段になったのですが、もう八十四才になった今では、専ら楽しんで会員方とお付き合いしてゆきたいと願っています。もう一つワイン同好会にも入っていました。これは、浅草ビューホテルの箭内さんがやっておられたが箭内さんが辞められてなくなってしまった。
キワニスクラブは場所を持っていませんので、例会だけだとどうしても会員同士のコミュニケーションの密度が落ちてしまう。入退会が激しくなり、又若い方々が入会されてくると、もっとコミュニケーションの度合いを濃密にしないと、楽しみながら社会奉仕というクラブの目的のために沿わなくなります。これから高齢化が進み若い人たちとのコミュニケーションギャップが更に大きくなって来る。このままだとどうしても不安定な組織になってしまう。もう少しモチベーションを同じにして楽しみながら社会奉仕をしようという雰囲気作りをすることが大事だと思います。そのためには、やはり趣味を共にする活動を活発にしてそれを通じてコミュニケーションを濃密にすることが重要ではないでしょうか。例えば、書道の会とか、俳句の会、謡曲の会などがあっても良い。世代間のコミュニケーションギャップをこれらを通じて意識的に解消するように努力すること。共逢会の存在の意味はここにあると思います。これが、20年やって来て強く感じるところです。このことが、企業のCSR活動にも繋がって行くと思います。
もう一つは家族も含めた絆を強くする、子供達も参加させるようなシステムに変えて行く。家族を含めた親近感で付き合いを拡げて行くことが大事だと思います。昔は家族を含めた旅行会等もあった。ファミリーデーなどでは子供は無料にする位に思い切って身近なところから広げて行くことが大事ではないでしょうか。
永井)ファミリーデーは家族、親戚、同僚、秘書などを連れて来て出席される方が多かった。これを積極的にやっておられたのがヤシカの牛山さんでしたね。
これからは参加するための奉仕活動になる
山口)10年位前にピーター・ドラッカーの「未来への挑戦」という本を読んで衝撃を受けたことがあります。「アメリカでは9千万人、総人口の半分が非営利組織で平均週3時間働いている。今日アメリカ人は「成果」を求めて寄付をしているのであって、決して「慈善」のために「寄付」をしているのではない。「参加」するために寄付をしている」という所でした。キワニスもアメリカで発展した団体なので、ドラッカー教授の云うように、こらからは社会奉仕活動も「参加型」になってゆくと思います。
これからは日本のクラブ活動についても、「成果」と「具体的な」活動内容をもっと判り易く会員に報せることが、モチベーションを高揚するためにも必要になってくると思います。その意味で、最近のキワニスドールや児童虐待防止活動の方向は正しいし、更に強化していって欲しいものです。
東京の場合は伝統的にQualified memberという考えがベースにあるが、お互いにすぐ分かり合えるレベルの会員同士であることが重要であると思います。そういうメンバーが自分達でどのような奉仕活動をやろうと考えて進めることが大事だと思います。
キワニスクラブに入会して良かった
永井)キワニスクラブには異業種の方々が集まっているので、今まで自分の知らない分野で活躍された、高い見識を持った方々との交流によって、知識も増し、勉強にもなり、自分自身の向上にもなり、大変良かったと思っております。その他、毎年の世界大会、ASPAC大会、日本地区大会、各地区のレクレーション行事等への参加を自由に出来ることは、素晴らしいことだと思います。
山口)同感です。
永井)私も同様、入れば必ず楽しいことが分かるし、出ないと損するという気持ちになります。キワニスをもっと知ってもらうことも大事です。
家族に楽しい会にすることが大切
山口)昔は入会したくても出来なかった。今は入り易くなった。企業人にとってはCSRの勉強にもなる。
今後はなんと言っても身近な会員の家族をベースにして、子供、孫の方々にもP.Rを拡げて、楽しい会の印象を与えるような方向で動いてはどうかなと思っています。
永井)絶えず会う機会を増やすことですね。共逢会は春と秋の2回しか集まりませんが、15年以上も続いています。
山口)日本クラブは小唄の会が毎月ある。会館があるのでそれが出来る。
永井)逆に毎月だと、運営する方もやる方も大変ですね。年に2回でも勉強が間に合わなくて大変です。
山口)大丈夫ですよ。皆さんもどんどんうまくなっていますよ。
司会)では、この辺で。ありがとうございました。
1999年当時の共逢会のメンバー
山口衛一会員 昭和60年(1985年)入会。昭和61年/62年財務委員長、平成4年/5年副会長略歴、昭和22年商工省入省。昭和44年通産省通商政策課長、昭和45年経済協力部長、昭和47年防衛庁装備局長、昭和50年日本輸出入銀行理事、昭和55年日本航空機開発協会副理事長、平成7同会特別顧問 東京都出身、
永井弓彦会員 昭和54年(1979年)札幌クラブより移籍入会。平成4年/5年レクレーション委員長、平成8年/9年ボランテイア活動委員長、平成14年/15年社会公益委員長、平成15年/16年日本地区グラント・コネリー委員長、略歴、 昭和30年東京急行電鉄入社。昭和36年東急エージエンシー、昭和61年東急エージェンシーインターナショナル社長
現潟Aーキドラマ特別顧問 東京都出身

○18年7月: 小田忠雄 会員 VS 大久保和孝 会員
 左:大久保和孝 会員 右: 小田忠雄 会員
祖父から聞いていたキワニスクラブは私の憧れでした
大久保)私は昨年夏に入会しました新人会員です。入会のきっかけは、副会長の木全さんがある会合でキワニスクラブのお話をされていたときに、聞き覚えのあるクラブの名前が出てきましたので、私のほうから会話に割り込ませていただいたことがきっかけで、お奨めいただきました。実は、元々、私の祖父の(故)木戸孝彦がチャーターメンバーで、キワニスの話は祖父がいつも嬉しそうに話しているのを鮮明に覚えていましたし、幼少時代にファミリーディにも参加したりしたことも記憶しています。また祖父が東京裁判の弁護活動について、キワニスクラブで話した講義録をいまだに持っているなど、キワニスクラブは私の憧れでした。ですから、木全さんからお話をいただいた時は喜んで入会しました。現在仕事が忙しく活動にもなかなか十分に参加しきれていませんが、色々な行事にできるだけ参加したいと思っているところです。個人的には、家内の実家も近いこともあって、靖国神社の清掃も好きで、朝から爽快な気持ちにリフレッシュすることができます。
知れば知るほど分かるキワニスの素晴らしさ
小田)私も会員歴はまだ7年半です。仙台クラブに1991年1月に入会し、東京クラブは昨年の12月入会ですからまだ新人です。そもそもなぜキワニスクラブに入ったかと言いますと、東北大学理学部に会員が歴代おられ、前任の方に誘われて入会しました。但しその頃は東北大学の現役で例会に出るのは至難の技、社会奉仕活動にもあまり参加できず、夜の会合に出るのが精一杯という状況でした。ところが、2003年3月に定年になり、待ちかねたようにクラブの会長をやれということになり、同時に、日本地区次期ガバナーということになってしまったのです。
しかし、次期ガバナー研修で2003年11月にアメリカのキワニス本部でみっちり訓練を受けてキワニスのことが分かり、その後知れば知るほど素晴らしい団体だということが分かってきました。
何といっても今までの大学という狭い世界での交流範囲が、仙台だけでなく、日本地区全体、更には世界各地の幅広い人々との交流へと広がって行きました。キワニスは、親睦と奉仕という二つの柱を持っていますが、まず親睦の面では大きく広がって行ったと思います。奉仕のことは後でお話をしたいと思います。
人生の大先輩とお付き合いが出来る貴重な勉強の機会
小田)大久保さんは、元々CSR(企業の社会的責任)やボランティア活動をやっておられたのですか。
大久保)幼少期に途上国に住んでいたこともあり、ボランティア活動への興味がありました。しかし、ボランティア活動はできていませんが、現在は、仕事柄、監査法人において、企業の社会的責任に関する研究や企業へのコンサルティングを行うことを通じて、社会がどうあるべきかを考えております。元々、橋本行革からスタートした政策論に取り組み、これまでは、世代間負担を中心とした財政問題や行政改革を中心に取り組んできましたが、ここ2年間ほど、民間セクターに目を向け、企業活動を通じた社会問題への取組みのあり方をテーマにして、CSR(企業の社会責任)に焦点を当てた活動をしております。
キワニスクラブに入って本当に良かったことは、会員どうしの親睦と社会への奉仕の2面があります。まず、親睦の側面では、日常的にお会いすることがあまりない、人生の大先輩の方々と知り合いになり、様々なことをご教示いただくという、若い者にとって貴重な機会があることです。個人的には、経済同友会や経団連関係団体などの会合にも良く出ていますが、経済的な関係をなくして、純粋に人生の大先輩として、多面的な物事の見方や、歴史的な考察を短時間でも教えていただけるというのが何といっても魅力的です。これからも、キワニスクラブでは色々と勉強をさせていただきたいので、遅刻してでも(笑)、できるだけ出席したいと思っています。
つぎに、社会への奉仕の観点から、キワニスクラブの良さは、自ら動いて具体的な成果を出してゆくことだと思います。理想論について声をあげるだけでなく、地道な活動を通じて、本当に役に立つ成果をあげてゆくという点が、素晴らしい取り組みだと思います。その意味では、最近、社会貢献がブームとなっていますが、CSRを進める企業においては、単なる広告宣伝を目的とするのではなく、キワニスのような活動をモデルにして社会に貢献する活動をやっても良いと思いました。
ところで、仙台から東京に移られてクラブの雰囲気など違いますか。
小田) 仙台や東京のクラブのみならず、クラブごとに全国的に全く違います。ガバナーになったとき公式訪問で各クラブを回りました。埼玉クラブは年末のイベント、高松クラブも30周年行事でしたが、それ以外は,例会でパワーポイントによるスライドを使って話をしました。その時にクラブによって雰囲気や例会のやり方が非常に違うものだと感じました。例えば、広島や福山では例会が始まる前にキワニスの目的を朗読される。神戸、西宮ではクラブの歌をお持ちです。地域社会の性格を反映しているのでしょう。世界の中でも日本のクラブは独特なところがあるようです。歴史的に見てもエリートクラブで、多分外国でも日本のようなクラブは少数でしょう。会費も日本のように高くはないようです。
キワニスクラブはこれからの社会貢献活動のモデル
大久保)それでは、今後、東京クラブは、世界のキワニスクラブの中で、どのような位置づけを持ってやるべきでしょうか。
小田)東京クラブの規模は大変大きい。国際年次総会では、大規模クラブ或いは旗艦クラブというような言い方で大きなクラブの集まりがありますが、その数も決して多くありません。東京クラブは歴史も古く、200名以上の会員がおられ、一時減少傾向にあったのが、大久保さんのような若い方たちが入って来られて最近たいへん活性化してきていると思います。しかも、活動状況がすごいと思います。どこでも高齢化が進んで新しいメンバーをなかなか集めにくくなり、現役の方々の入会が難しくなっています。その意味で東京クラブの現状は大変素晴らしいと思います。
大久保)昨今、企業の社会責任(CSR)の議論が高まっていますが、その背景には、行政改革を端に政府機能が縮小する一方で、いろいろな社会的問題が次々と起きています。そのなかで、誰が、それらの社会的問題に立ち向かうのかが議論されており、中でも、重要な役割を担うのが、市民セクターの代表としてのNGO,NPOとされています。しかし、我が国では、政治のプロパガンダや、特定の思想に固執していたりなど、市民セクターの代表として具体的かつ活動的な奉仕活動を、理念をもってやる団体がまだまだ少ないように感じられます。とくに、昨今の外交問題などの側面では、NGOが国際政治の舞台で主導的な役割を果たすようになっており、日本のNGOが、海外のNGOと渡り合うために、しっかりした理念を持って発言し、グローバルレベルでしっかりとした立場を確立すべきものと考えます。その意味で、日本のキワニスクラブが、世界的に見ても、ユニークだということですが、世界のキワニスクラブに日本からも積極的に発信し、世界の中の日本としての立場を確立できるような構図を作ってゆくのも良いのではないかと感じました。
小田)公益法人に関する取り扱いがやっと改正になり、募金活動に税法上のメリットが出てくる方向に進んで行くと期待されます。寄付に対する免税措置が得られるようになると、ボランティア活動や募金活動もやりやすくなります。インドネシアの大津波の時には、キワニスだけでは不十分と考えてユニセフにキワニス特別枠を設けて頂き、免税措置が受けられて従来よりも成果を挙げることができたと思います。
大久保)免税措置を得るにはまだ大変な努力が必要ですね。日本の個人寄付は精々3000億円位、それに比べて米国は約21兆円と桁が違います。そういう特典やインセンティブが出来ると大いに助けになりますね。
小田)小さな政府になって、民間の活動がやり易くなるような制度作りが重要です。
若い世代から見ても魅力的な企画が満載
小田)東京クラブに入会して隔週の例会の他にファミリーディに最近参加しました。大変楽しい会でした。東京クラブには楽しい活動が沢山あって、参加しきれない程です。
大久保)イージス艦見学とか東京湾クルージングとか楽しそうな有益なイベントが続々とありますね。参加された方々も、皆さん、楽しかったとおっしゃっている。
小田)東京クラブの素晴らしい人脈のお陰もあって普通に行けないようなところにも行ける。
大久保)楽しいプログラムが満載していて、時間さえあれば参加したいものばかりですね。我々若い世代から見ても世代を超えた魅力的な企画が多いですね。ところで、自然災害など海外でも様々な社会問題が起きていますが、キワニスクラブでは寄付以外に何かアクションをやっていますか。
小田)やっています。もっとも、大津波の被害地域は、残念ながらキワニス活動が弱いところですので直接のアクションは難しかった。マレーシアなどASPACのクラブが直接の支援をしたようですが、コンテナに入れて品物を送っても税関で時間がかかって放置されていたりしたようです。このような場合には、国際キワニス財団に寄付金を送り、そこから被災地で活動している団体に適切に届けて貰うが確実です。素人が被災地に直接行ってもうまく行かないことが多い。米国のカトリーナの場合はキワニス活動の盛んな地域なので、周辺のキワニアンが直接援助をしました。日本地区から国際キワニス財団に送った義援金も彼らを通じて有効に使われたと思います。
大久保)海外での活動報告についても、出来るだけ分かりやすくアクセスのしやすい媒体を通じて、活動状況を紹介すると、寄付のインセンティブも違ってくるかもしれませんね。
小田)大津波がインドネシア等で起こった時など、キワニスはすぐに寄付のアクションを起こしています。有効かつ確実に使ってくれる信頼すべき寄付先を確保することで、状況を御報告できるようになると思います。
大久保)ODAなどの国際貢献においても、政府あるいは準公共機関的なところを通じた寄付では、使途が不明確になりがちのため、グローバルレベルでは、近年、活動が明確になるとの理由からグローバルで活躍するNGOを経由することが一般的になってきています。キワニスクラブでも、寄付先をどこにするのか、寄付したものが、具体的にどのように使われているのか明確かつ透明な仕組みをつくってもいいかもしれません。それは、結果として国際的に貢献するNGOの育成に繋がり、広く社会貢献のインフラ整備にも役立つと考えます。
小田)キワニスの活動状況は英文のKIWANISマガジンに出ています。ただ、残念ながら、言葉の関係で日本の方には余り読まれていませんね。日本地区で発行する年刊のキワニス・ジャパンにもできるだけ御報告するようにしています。
キワニスクラブのこれまでの大きな活動としては、IDD(ヨード欠乏症)撲滅活動があります。ユニセフとキワニスが共同で10年間大々的に取り組み、知能障害で生まれて来る子供が大幅に減少するなどの大きい成果を挙げました。人間が一生に必要なヨードは小匙一杯分と言われていますが、世界中の多くの地域では、食塩にヨウ化カリ・ヨウ素酸カリなどの形で人工的に混合して摂取するようにしないとその必要が満たされない。日本では海産物を常食するお陰でIDD問題は全くないのですが、募金活動を積極的に行なってこの運動に大きく貢献しました。また、ヨウ素については、日本は世界の30%以上を輸出しています。千葉県の房総地域で地下水から天然ガスと分離して工場で抽出・精製し、ヨウ素結晶あるいはヨウ化カリ・ヨウ素酸カリなどとして世界中に輸出しています。
キワニスの国際年次総会で、ユニセフの代表が「キワニスありがとう」と感謝の講演をしていました。
現地を訪問し汗を流して感動する経験が大事
大久保)先ほども申し上げましたが、私自身、小学校高学年の時2年間ほど、バングラディッシュのダッカに住んでいました。当時、東パキスタンから独立したばかりの世界最貧国で、途上国特有の病気や多くの社会問題があり、海外青年協力隊の方が来て一生懸命に支援をされていましたが、中々援助が思うように進んでいませんでした。一方で、ODAなど巨額の援助をしながらも、不要としか思えないようなところに橋を作ったりしていました。このようなアンバランスな状況を如何に解消できるのかという疑問から、社会問題あるいは、政策論に興味を持ち始めたのです。また、仕事柄、いろいろな団体を会計監査をしていますが、未成熟な団体では、寄付の使途が不明確なことが日常茶飯事であったり、それらに対するチェックシステムがないなど、様々な問題を現実に目の当たりにすると、単なる寄付行為そのものに対する不信感が出てきます。おそらく、このようなことは、日本にいると、実体験として問題や活動が見えてこないのだと思います。私が政策や、CSRに興味を持つようになったのも、このような経験がきっかけになりました。
小田)キワニスクラブは親睦と奉仕活動を柱にしており、素晴らしい活動を行なう場を提供してくれると思います。活動の機会もこれから益々多くなると思います。
大久保)日常的な仕事に追われ、キワニスクラブに参加できるのは限られた時間となりますが、出られるときにはできるだけ参加させていただけるという参加のし易さが、キワニスクラブの良いところだと思います。しかも、時々出る会合のすべてが刺激になり、勉強をさせていただいています。
小田)それがキワニスの良いところですね。他の奉仕団体とは違う特色です。最近ベトナムと交流があり、中部ベトナムのスイートウォーター村にあってカトリックの修道女会が運営する慈善施設に診療所や保育所の建物や給水設備を寄付しました。神戸クラブ・西宮クラブ・仙台クラブが米国のいくつかの地区やキワニスクラブと共同して取り組んでいる事業の一環で、日本地区としても協力しました。2001-02年国際会長をされたキューナット氏の美紀夫人やアメリカのキワニアン数名と一緒に現地を2005年4月に訪問して診療所の開所式を行ないました。また2006年2月にも神戸クラブ・西宮クラブ・仙台クラブの方々と再訪しましたが、実際に援助の必要な貧しい地域を訪問してみて、奉仕活動の重要性を皆さんが実感されたようでした。素晴らしい経験だと思います。
大久保)社会問題というのは、テレビ等で見るのと違って、自分の眼で見た時の衝撃の強烈さを実感しました。実際に自ら経験をし、それを生かしていくことが大切だと感じています。
小田)寄付により援助をする場合でも、実際に現地を訪れて、状況を自分の眼で見て、手を動かし、汗を流すということが、国内だけでなく、海外でも大事だと思いました。
大久保)特にこれからはアジア諸国との関係強化が重要になります。私も時間が許す限り取り組んでいきたいと思っています。今日は、本当に、ありがとうございました。
小田忠雄会員
1999年1月仙台クラブ入会。 2002-2003年仙台クラブ会長、2003―2004年日本地区ガバナー、2005年12月東京クラブ入会。東北大学教授、東北大学附属図書館長、東北大学副総長(研究担当)を歴任。
現職、国際基督教大学客員教授、東北大学名誉教授、京都府出身。
大久保和孝会員
2004年10月入会。(財)水府明徳会監事(社)昭和経済会監事、NPO法人社会的責任フォーラム評議委員、政策分析ネットワーク監事等を歴任。現職、新日本監査法人パートナー(公認会計士)、新日本インテグリティアシュランス鰹務取締役。東京都出身。昭和48年生まれ、男性最年少会員。
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