無知をさらすようですが、ずっと疑問に思っていることがあります。それは、「黒人」という表記についてです。
昨日の夕刊(東京版)を見ると、読売、日経、毎日、東京が米大統領選に当選したオバマ氏について「初の黒人」と書いていおり、今朝の産経も同じです。朝日だけは「初のアフリカ系(黒人)」と違う書き方をしていますが、黒人って何なのでしょうか。
オバマ氏はいわゆる白人の米国人の母と、いわゆる黒人であるケニアからの留学生の父との間に生まれたわけですね。とすると、白人と黒人の血を等しく引いているわけですね。どっちも半分半分です。そうであれば、オバマ氏は白人でもあり、黒人でもあり、あるいはどちらでもないというのが本当ではないかという気がするのです。
そのオバマ氏を黒人と呼び、白人とは呼ばないのはなぜなのでしょうか。これは、白い人と、白くない人をどうしても区別したいという「白人」の発想、純血主義の反映、名残に過ぎないような気がしてなりません。もしそうだとすると、有色人種である日本人がことさら黒人という言葉を強調するのはいかがなものかと。私が何か勘違いしているだけならいいのですが。
かつて、パウエル氏が米国務長官に就任したときにも感じたことですが、オバマ氏の肌の色はそりゃおおまかに言えば黒っぽいにしても、純粋なアフリカ系民族の黒さとは明らかに異なります。髪の毛はともかく、顔の造作そのものは、ヨーロッパ系にも見えます。難癖かも知れませんが、だったらことさらアフリカ系と言わず、「ヨーロッパ系のオバマ氏は…」と言ったっていいじゃないかと。
白人とそれ以外を区別するならば、非白人ともいえるのかもしれませんが、それを黒人と言い切ることに違和感を覚えるのです。いや、そもそも、半分は白人の血を引いている人を非白人とすること自体に何か違うものを感じるのです。
確かに米国の歴史を考えると、かつてアフリカ大陸から奴隷として連れてこられ、近年まで公民権も与えられなかったアフリカ系人種の血を引く人物が大統領に選ばれたことはまさに画期的であり、とても素晴らしいことだと思います。その意味で今回、人種について触れるのは当然ですし、また必然性もあるのはよく分かります。
ただ、アフリカ系の血を引くというだけで、機械的に「黒人」と位置づけ、表記することには抵抗があります。仮にオバマ氏が白人と結婚して子供が生まれたとして、その子はやはり黒人と呼ばれるのか。それとも違うのか。外見上、肌の色が薄かったら白人と呼ばれるのか…。
小学校の低学年のときだったか、自分たち日本人は黄色人種といわれるのだと知り、自分の手を見て「黄色じゃない、これは肌色だ」と疑問に思った瞬間が忘れられません。長じて、まあ黄色っぽく見えないこともないかなと感じる場面もありましたが、本当はいまでも東洋人=イエローという区分けは、西欧人が勝手にそう言ってきただけだろうという思いもあります。
もう12年も前のことですが、元沖縄県副知事の尚弘子さんからこんな話を聞いたことがあります。彼女は昭和27年、フルブライト・プログラムの前身、ガリオア資金で米南部・ケンタッキー州のベリア大で学んだそうですが、当時、バスの前部は白人専用、後部は黒人用などと区別されていたと言います。
彼女は仲のいい黒人のルームメイトがいたのですが、一緒にバスに乗ると、ルームメイトは後ろに座り、純粋な東洋人なのに肌が白かった尚さんは「お前は白い」と言われて前部に連れていかれ、一緒に座ることができなかったそうです。尚さんは「白人・非白人の区別も実はいいかげんなものだなと思った」という趣旨の感想を述べていました。私はこの話を聞きながら、「そんなものなのか。その程度のことがこんなに差別を生み、人々を苦しめてきたのか」と少し驚いた記憶があります。
日本=侵略国という戦勝国がつくり、押しつけたコードが現在も日本の言論空間をがんじがらめに支配しているように、「純粋な白人とそれ以外」という、どこか白人優越思想の影響・残滓を感じさせる発想が、やはり日本の言語空間を無意識に誘導し、オバマ氏=黒人という表記につながっているのではないかと、そんな気がするのです。私の見当違い、的外れな愚考かもしれませんし、じゃあどういう表記だったらふさわしいのかというと、よく考えていないのですが。いつもの通り、あまり考えなしに書いたことですが、みなさんはどうお考えでしょうか。
by 三茶の住人
小沢一郎氏の初当選からの言動…