雅子妃に関連して記事を書くと、以前は保守派にされていた。次第に、保守派ではあるものの、「東宮擁護(皇太子と雅子妃)派」の怪しから奴となり、そして、ついに「反日の東宮擁護派」に見做されているようである。
こういう見方は沖縄県にあっては常識的見方である。と言っても、その見方とは皇室に関連してのことではない。対象は米軍施設である。その米軍施設を巡って、保守派と革新派、県内移設派と県外移設派、戦争屋と平和派等々とレッテルを貼られる。貼ってしまえば楽なもので、あとは無思考でそのレッテルのいがみ合いをすればいいだけだから、何はさて置きますレッテル貼りから行なわれる。
その点で、皇室と米軍施設への対応が似ている。
私は「反皇室活動」に加担していると看做されているのだが、その活動内容は大きく以下の3つの類型に分けられるそうである。
①(八木秀次先生のSAPIOでの表現を借りれば)雅子妃のご病気を人質に皇室制度を否定し,皇室や宮内庁を攻撃する。
まず、皇室は「制度」ではないとするのが私の見方であり、考え方である。皇室を制度としたのは、日本の社会主義者や共産主義者であり、そういった制度はない。私は皇室は「伝統」としている。伝統は放置しては成立しない。伝統とは常にそれを表に出し、それを検証し、未来に申し送るものである。
しかし、制度はそうではない。制度とは主義のことであり、従って、日本国民が、例えば、相互対等契約的な一揆契状に基づく集団主義を止めて、もっと個性を生かす生き方を求めるという意識があれば、ナチスに学び、昭和16年から存続している現行の画一的教育制度は廃止されねばならない。つまり、現行の画一的教育制度は全体主義に基づくものであっても、資本主義や個人主義的自由主義に基づく制度ではないからである。主義が変われば制度も変わらねばならない。このことをナザレのイエスは聖書の中で、「新しい酒は新しい皮袋に入れよ」とする譬で語っている。
従って、一方は皇室を「制度」とし、私は「伝統」とする。つまり前提が違う。これでは討論も話合いもできない。まずは、その前提の、どちらが正しいのかとする議論が必要である。
②雅子妃(や承子女王)の非と皇室そのものの非とはじめから同一視している,または摩り替える.
③特定の皇族を云々することでなく,はじめから皇室=戦前のように皇室そのものを否定している.
②③については、議論の対象ではないと思っている。私には雅子妃に何らかの非があったとする事実を知らない。
by ブルーフォックス@雅…
皇室をめぐる国民と賊民