2026.06.16
写真史
このテキストはAIを利用して書かれています。私も目を通し、間違いがないか確認、加筆しておりますが、写真家が時間のある時に個人でまとめたテキストである、ということを前提にお読みください。
また、超重要箇所のみピックアップしているため、初学者のための写真通史として、歴史の確認としてお読み下さい。
決して批評、論文といった類のものではございません。
調べてもこういったテキストがあまりなかったので、個人の趣味で作りました。著作権には最大限配慮しておりますが、問題がある、間違っている等ございましたらご連絡ください。
はじめに
200年程度の歴史を回顧する前に、大きな流れだけ捉えておきましょう。写真史は、ざっくり言うと二つの流れで動いてきました。
① 技術の流れ ── どうやって光を像に固定したか
カメラ・オブスクラ → 銀塩 → 湿板 → 乾板 → ロールフィルム → 小型カメラ → カラー → デジタル → スマホ → AI。 技術が一段進むたびに、写真は「安く・速く・身軽に・誰でも」へと進み、専門家の手から普通の人の手へ降りてきます。そして技術は、撮れる被写体も、撮り方も、写真の意味そのものも変えていきます。
② 問いの流れ ── 記録か、芸術か
写真は生まれた瞬間から、「現実をそのまま写す機械的な記録」と「作者の精神が宿る芸術」という、相反する二つの顔を抱えていました。どちらなのか ── この問いが、写真史を動かし続ける原動力になります。
そしてこの二つの流れの上で、次の三つのテーマが章をまたいで何度も顔を出します。読みながら「あ、これさっきの線だ」と気づけると、ぐっと地図が見えてきます。
① 真実か、フィクションか
写真は「現実をそのまま写すもの」と思われがちですが、生まれた瞬間からすでに 「演じる」「作る」 が可能でした。第1章で イポリット・バヤール は、写真の発明をダゲールに横取りされた悔しさを 『溺死者としての自画像』(1840年) ── 自分の死体を演じたセルフポートレート ── で皮肉にぶつけます。写真史最初の自演にして最初のフェイク。第3章の 南北戦争(オサリヴァン/ガードナー)では遺体を動かして構図が作られ、第7章では 硫黄島とベルリン国会議事堂 の二大戦勝アイコンが両方とも演出だったことが戦後に明かされます。第9章で ダイアン・アーバス が「事実」と「フィクション」の境界を不気味に揺らし、第11章で シンディ・シャーマン の 『Untitled Film Stills』(1977–80年) ── 自分が自分でない誰かを演じ続けるシリーズ ── が、バヤールから 120年後の回収 として置かれます。第13章では AI生成画像 が、ついに「撮らなくても写真の見た目を作る」ところまでこの線を伸ばします。
② 崇高な自然か、人の手が入った風景か
風景写真の系譜は、ほぼずっと 「神が創った崇高な自然」 と 「人間が改変した日常の地形」 の二つに割れています。第3章の 西部探検写真(ワトキンス、ジャクソン)は崇高側の出発点。彼らの写真は実際に ヨセミテ(1864年)とイエローストーン(1872年) の国立公園化を後押ししました。第6章で アンセル・アダムス(f/64)がその崇高を20世紀に引き継ぎ、ゾーン・システムで明暗を精密に設計した雄大なシエラの風景を「祈り」のように差し出します。1975年の 第10章ニュー・トポグラフィクス 展で振り子が反対側へ ── ロバート・アダムス/ルイス・バルツ らが、駐車場・トラックハウス・荒れた郊外といった 「人の手の入った平凡な土地」 をニュートラルに撮りました。日本では 松田政男『風景の死滅』(1971年) がほぼ同じ問題を 「均質化した日本のどこでもない風景=国家権力」 と読み替え、欧米を20年以上先取りしています。第12章の グルスキー や、附録に並ぶ バーティンスキー が、人の手が入った風景を巨大プリントで突き詰めるところまで、この線は伸びます。
③ 絵画的か、写真らしくか
「写真は写真であるべきか、絵画になろうとするべきか」── この問いも、振り子のように何度も行き来します。第5章 ピクトリアリズム(1885–1915年) では、エマーソンやスティーグリッツの フォト・セセッション、英国 リンクト・リング、日本の 福原信三 までが、ソフトフォーカス・ゴム印画・プラチナ印画など 絵画の手仕事の痕跡 を写真に与えて、芸術として認めさせようとしました。ところが第6章で振り子は真逆へ。「絵画の真似はやめろ、写真にしかできないこと(鮮明さ・即物性)を突き詰めろ」という ストレート写真 が、スティーグリッツ自身の『三等船室』(1907年)の転向、ポール・ストランド の決定打、そして西海岸の f/64 ── ウェストン、アダムス ── で極まります。日本でも 伊奈信男「写真に帰れ」(1932年) が、グリーンバーグやベンヤミンとほぼ同時に同じことを言い切りました。だが振り子は止まりません。第11章 ピクチャーズ世代 と第12章 デュッセルドルフ派 が、巨大プリントや構築された場面で、写真をもう一度「絵画の隣」に置き直します。
第0章 写真以前 ── 「像を留めたい」という長い夢(〜1820年代)
写真の誕生を理解する鍵は、「映す」と「固定する」という二つの問題に分けて考えること。前者は何百年も前に解決済み、後者こそが本丸だった。
0-1 像を「映す」── カメラ・オブスクラの歴史
暗い部屋(箱)の壁に小さな穴を開けると、反対側の壁に外の景色が上下左右逆さまに映る。この現象が カメラ・オブスクラ(ラテン語で「暗い(obscura)部屋(camera)」、英語 camera の語源)。
- 古代:中国の墨子(紀元前5世紀頃)が小穴を通る光の反転を記述。アリストテレスも木漏れ日が太陽像を結ぶ現象に言及。 Britannica「camera obscura」↗
- 11世紀頃:イブン・アル=ハイサム(アルハゼン)が『光学の書』(1011〜1021年頃)で光学的に説明。視覚と光の科学を大きく進めた。 Britannica「Ibn al-Haytham」↗
- ルネサンス:レオナルド・ダ・ヴィンチが詳述。やがてレンズ付き・持ち運べる箱型になり、画家の作画補助器具として普及。 Britannica「camera obscura」↗
- フェルメールら17世紀オランダ絵画の精密な光・遠近にカメラ・オブスクラが使われたか、は美術史の有名な論争(デイヴィッド・ホックニーの「ホックニー=ファルコの理論」など)。断定はできないが、「光学装置と絵画」というテーマの先駆として触れる価値あり。 D. ホックニー『Secret Knowledge』(2001) が提唱 / 一次史料を欠き検証不能との批判(D. G. ストーク, S. シェクナーら)。美術史家の大勢は「立証されていない」 / Wikipedia「Hockney–Falco thesis」↗
要点:カメラそのものは写真より何百年も古い。映った像をなぞれば絵は描ける。だが人の手を借りずに像を留めることができなかった。だから写真史の本当のドラマは「固定」に集中する。
0-2 像を「固定する」── 化学の苦闘
像を留めるには「光が当たると変化する物質」が要る。
- 1717年頃(公表は1719年):ドイツのヨハン・ハインリヒ・シュルツが、銀の塩(銀塩)は熱ではなく“光”で黒く変色することを実証。感光材料の決定的な候補が見つかった(写真史では再録版にちなみ「1727年」と書かれることも多い)。 Britannica「J. H. Schulze」↗ / Wikipedia「Johann Heinrich Schulze」↗
- 1800年頃:イギリスのトマス・ウェッジウッド(陶磁器のウェッジウッド家)とハンフリー・デービーが、銀塩を塗った紙や革に葉などを乗せ、影絵(フォトグラム)を作ることに成功(デービーが1802年に王立研究所紀要で発表)。 Britannica「history of photography」↗
ところが彼らは像を「止める(定着させる)」方法を知らなかった。作った像を明るい所で見ると、光が当たり続けて全体が黒ずみ、やがて真っ黒に消える。見るために光を当てれば、見た瞬間から壊れていく。
第0章の結論:写真誕生の最後の関門は「定着=ある時点で感光反応を止め、像を安定させる」こと。この一点を誰がどう解いたか ── それが第1章の物語になる。
第1章 誕生 ── 多重発明のドラマ(1820s–1840s)
写真は「ひとりの天才がパッと発明した」のではない。何百年もの準備のうえ、1820〜30年代に複数の人物がほぼ同時にゴールテープを切った。その緊張ごと味わいたい。
1-1 ニエプス ── 人類最古の、定着した写真
フランスの発明家 ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス。出発点がリトグラフ(石版画)だったのが面白い。「絵を手で描かず、自然そのものに版を作らせる」発想だった。
- 技法は ヘリオグラフィ(héliographie=太陽で描く)。金属板にユダヤ瀝青(天然アスファルトの一種)を塗る。光が当たった部分が硬化し、溶剤で洗うと未硬化部が流れ落ちて像が残る。銀塩とは別ルート。
- 『ル・グラの窓からの眺め』(1826〜27年頃):現存する世界最古の「自然を写した写真」。自宅二階からの中庭の眺め。 Smarthistory ↗
- 露光時間は数時間(8時間とも複数日とも)。その間に太陽が東から西へ動き、建物の左右どちらの壁にも日が当たるという現実にはありえない光に。「一瞬を切り取る」常識が通用しない世界。
ニエプスはゴールに触れたが、像は薄く、一点もので複製できず、撮影に丸一日。実用には程遠かった。1829年、彼は野心的な人物ダゲールと組むが、1833年、ブレイクスルーを見ずに死去。バトンは渡された。
1-2 ダゲール ── 1839年、ついに「写真の誕生」
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは発明家というより見世物の天才。パリで巨大な絵と照明効果による没入型アトラクション ディオラマ を経営していた。「人をあっと言わせる」才能の塊。
ダゲレオタイプ(銀板写真)の工程:
- 銅板に銀を貼り鏡面に磨く
- ヨウ素蒸気で感光性を与える(ヨウ化銀の層)
- カメラで露光
- 水銀蒸気で現像 ← 戸棚の割れた温度計の水銀で像が浮かんだ、という偶然の逸話付き
- 食塩水(のちチオ硫酸ナトリウム)で定着
特徴と弱点:髪の毛や石畳の一粒まで写る超精密さ。鏡のような銀色の像で角度により反転して見える独特の質感。ただし 世界に一枚だけ(複製不可)、左右反転、表面がデリケート。それでも露光が数分に短縮され、ぎりぎり肖像が撮れるようになった(初期は頭を固定する首当てを使用)。
なぜ1839年が「写真誕生の年」か 科学者で政治家のフランソワ・アラゴが、1839年1月7日に科学アカデミーで発明を予告し、同年8月19日の科学・美術アカデミー合同会議で製法を公開。フランス政府は特許を買い上げ(ダゲールとニエプスの息子イジドールに終身年金)、発明を「全世界への贈り物」として無償公開した。 Met「The Daguerreian Era」↗ ただし抜け目なくイギリスだけは例外で有料(仏発表の5日前に英で特許取得)。「人類への贈り物」と「ちゃっかり特許」が同居する、興行師らしい逸話。発表後は「ダゲレオタイプ・マニア」と呼ばれる世界的大ブームに。
1-3 タルボット ── もうひとつの誕生、現代写真の祖先
同じ1839年、イギリスでもまったく別原理で写真が生まれていた。紳士科学者 ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット。新婚旅行のコモ湖で自分の写生の下手さに嫌気がさし、「カメラの像が紙に勝手に定着してくれたら」と夢想したのがきっかけ。
- 初期は フォトジェニック・ドローイング、改良して カロタイプ(タルボタイプ、1841年特許)。銀塩を使う紙ベース。精密さでは銀板に負ける(紙の繊維を通すので柔らかくざらつく)。
- 決定的発明=ネガ・ポジ法:まず明暗反転のネガができ、そこに光を通してポジを何枚でも焼き増しできる。この原理がその後150年のフィルム写真すべての土台になる。
- 『自然の鉛筆』(The Pencil of Nature、Longman, Brown, Green & Longmans、1844〜46年):6分冊・24枚のカロタイプを手貼りした、写真図版入りの世界初の商業出版物。タイトルは「人ではなく自然そのものが絵筆を執る」当時の畏怖を凝縮。商業的には不振で、完全な6分冊が現存するのは世界に約40部。だが「写真でできた本」という形式そのものが発明で、これがエヴァンス『American Photographs』(1938・第7章)、フランク『The Americans』(1958・第8章)、ルシャ『26のガソリンスタンド』(1963・第9章) を経て、現代の写真集文化へとつながる始祖となった。 Met「Talbot」↗
最初から埋め込まれた二択 ダゲレオタイプ=一点もの・超精密(写真の「鏡」) / カロタイプ=柔らかい・無限に複製可(写真の「印刷」)。 見た目では銀板の圧勝。だが長い目で世界を制したのは「複製できる」タルボットの原理。きれいな対比。
1839年の特許レース:ダゲール発表の報に、静かに研究していたタルボットは大慌てで先取権を主張。仏英で別原理の写真がほぼ同時にゴールした奇跡の同着が、誕生の物語をいっそうスリリングにしている。
1-4 脇役と、多様な萌芽 ── ハーシェル、バヤール、アトキンス
写真の誕生は三大主役だけでは語れない。
- ジョン・ハーシェル(天文学者・化学者、タルボットの友人)
- 「photography(光で描く)」「ネガ」「ポジ」という語を広めた。
- チオ硫酸ナトリウム(ハイポ)を定着剤に使うことを示した ── ウェッジウッドらを敗らせた「定着問題」への化学的決定打。地味だが最重要。 Britannica「John Herschel」↗
- サイアノタイプ(青写真)も考案(1842年)。
- イポリット・バヤール(フランス)
- 紙に直接ポジ像を得る独自方式をほぼ同時期に完成。だがダゲールを国家的英雄に押し上げる政治の中で「発表を待て」と説得され、光を奪われた。
- 抗議として 『溺死者としての自画像』(1840年) を撮影(自分の溺死体を演じ、裏に皮肉な遺書)。“演出された写真”の最初期の例であり、写真史が敗者の物語でもあることを示す。なお彼は1839年6月24日に世界最初の写真公開展示も行っている。 Getty「Hippolyte Bayard」↗ / Wikipedia「Hippolyte Bayard」↗
- この一枚は「写真は撮った瞬間からフィクションでもありえた」という最初の証拠。第11章シャーマンの遠い祖先。
- アンナ・アトキンス(イギリス)
1-5 誕生がもたらした思想的衝撃
なぜ写真は「魔法」だったのか。
- 画家を介さず、世界が自分を写し取る:それまで像を平面に写すには人間の手・目・解釈が必須だった。写真は実在物から反射した光そのものが物理的に像をつくる。絵画とは種類の違う出来事。
- 哲学的には、写真の像は対象と物理的・因果的につながる(インデックス的)。足跡が足を、煙が火を指すのと同じ。だから「これは本当にそこに在った」という独特の真実味をまとう。 「インデックス(指標)」は、アメリカの哲学者 C.S.パース(チャールズ・サンダース・パース、1839–1914)の記号論の用語。彼は記号を 類像(イコン=似ている)/指標(インデックス=物理的・因果的につながる)/象徴(シンボル=約束事) に三分類し、煙・足跡・風見鶏を指標の例に挙げた(パース自身、写真をその好例とした)。これを写真・現代美術に応用して広めたのが美術批評家 ロザリンド・クラウス「Notes on the Index」(1977年、『October』誌)。本稿で何度も出てくる「写真の真実味」の理論的な背骨で、第13章でデジタル/AIがこの“つながり”を断ち切る。 Stanford Encyclopedia「Peirce’s Theory of Signs」↗ / Wikipedia「Rosalind Krauss」↗
- 同時に、バヤールが示した通り演出すれば嘘もつける。「真実の証拠」と「つくられたフィクション」を生まれた瞬間から両方抱えた。
- 「絵画は死んだ」?:画家ポール・ドラローシュが「今日をもって絵画は死んだ」と漏らした、と伝わる。出典は確かでないアポクリファルな逸話(1839年頃、ダゲレオタイプを見たときの反応とされる)で、ドラローシュ自身はむしろ写真を称賛したとも伝えられ、1856年の没年まで描き続けた。とはいえ逸話が広まったこと自体が、画家たちの動揺を物語る。 Smithsonian Institution Archives ↗ / Wikipedia「Paul Delaroche」↗
第1章の結論:ニエプスが扉を開け、ダゲールが世界を熱狂させ、タルボットが未来の原理を残し、ハーシェルが言葉と定着を与え、バヤールとアトキンスが「演出」と「自然の記録」という二つの可能性を早くも指し示した。写真は最初から多面的だった。
第2章 拡散と実用化 ── 肖像・記録・最初の論争(1840s–1860s)
写真が実験室を出て、商売・記録・娯楽として社会に広く普及していく時代。ここで早くも「記録か芸術か」の最初の大論争が起きる。
2-1 肖像写真の爆発
ダゲレオタイプの露光短縮で、写真の最初の巨大市場=肖像が立ち上がる。世界中の都市に写真館が乱立。
- マシュー・ブレイディ:ニューヨークとワシントンに高級スタジオを構え、リンカーンら著名人の肖像で名声。のちに南北戦争記録の総指揮へ(第3章)。
- ヒル&アダムソン:カロタイプによる味わい深い人物・群像。芸術写真の早い達成例。
- 庶民にとって肖像写真は、それまで貴族の特権だった「自分の似姿を持つこと」の民主化だった。
2-2 湿板革命とその派生(1851年〜)
二大方式の「精密さ」と「複製可能性」を両取りしようとして登場したのが、フレデリック・スコット・アーチャーの湿板コロディオン法(1851年)。 Britannica「F. S. Archer」↗
- ガラス板使用でシャープ+ネガから何枚でも焼ける。露光も短く、安い。良いことづくめ……だが名の通り「湿った」まま使う地獄。
- 塗布 → 濡れたまま撮影 → 濡れたまま現像、を10〜15分以内に。乾いたら台無し。屋外は移動暗室(暗室テント・暗室馬車)を現場に持ち込む必要。後の戦場・西部のカメラマンは薬品と暗室を担いで危険地帯へ入った。
- 派生:安価な アンブロタイプ(ガラス)・ティンタイプ(鉄板写真)。庶民が数銭で肖像を持てる時代に。
2-3 複製と収集の文化
- カルト・ド・ヴィジット(名刺判写真):ディスデリが1854年に特許。一枚の板に複数ポーズを焼き、安く大量に製造。人々は肖像を名刺がわりに配り、王族・有名人のカードを集めてアルバムに貼った。「カードマニア」という社会現象(写真版トレカ収集)。 Royal Collection Trust ↗
- ステレオ写真(立体視):左右二枚の写真をステレオスコープで覗くと立体に見える。ヴィクトリア朝の一大娯楽で、世界中の名所・事件・風景が立体写真で消費された。観光地や絶景が大量に流通し、「写真で世界を見る」体験が一般化した最初期の例。 近年の紹介例として、東京都写真美術館「TOPコレクション 何が見える?「覗き見る」まなざしの系譜」(2023年7月19日〜10月15日)が、19世紀のステレオスコープと立体写真(ステレオカード、1854〜1870年頃)を「立体的に見る」セクションで展示した。 東京都写真美術館 展覧会ページ ↗
写真が街の商売・庶民の娯楽になるほど、「やっぱり芸術じゃなく実用品だ」という見下しも強まる。普及するほど芸術から遠ざかる皮肉な力学が、次の論争の火種になる。
2-4 写真が世界へ出る ── 戦争・報道・空からの眼
湿板の機動力で、写真は現場へ出ていく。
- 戦争写真の始まり:ロジャー・フェントンがクリミア戦争(1855年)を撮影。『死の影の谷』などが知られるが、当時の長い露光ゆえ戦闘の瞬間ではなく前後の風景・兵士が中心。さらに政府寄りで悲惨な場面を避けた“編集された戦争像”でもあった(『死の影の谷』には砲弾を道に撒いた演出説があり、エロル・モリスが2007年にニューヨーク・タイムズで発表した三部作の現地調査、および著書『Believing Is Seeing』(2011年)でも演出を支持)。 LoC ↗ / Public Domain Review ↗ 報道写真の客観性という問題が最初から潜む。
- ナダール(フランス):知識人の肖像で名高い一方、気球からの空中写真(1858年、パリ近郊上空)に世界で初めて成功。電灯(人工光)を使ってパリの地下墓地(カタコンベ)も撮影し、下水道も同種の試みの対象となった。「写真で人間の視点を超える」志向の先駆。 Britannica「Nadar」↗
- ギュスターヴ・ル・グレイ:海景の名手。空と海を別ネガで撮り合成するコンビネーション・プリントで、当時撮り分けが難しかった明るい空と暗い海を一枚に。技術的制約への芸術的回答。
2-5 「記録か芸術か」── 第一の大論争
ボードレールの批判(1859年)
詩人シャルル・ボードレールは、1859年のサロン評(「Salon de 1859」、なかでも「近代の公衆と写真(Le public moderne et la photographie)」と題された節)で写真を一刀両断した。論旨はこうだ ── 写真は記憶を助け記録を残すしもべ(召使い)としてなら有用だ(古文書の保存、旅の記録、博物学の標本など)。だが芸術の領域に踏み込むな。想像力の代わりに現実を機械的に書き写すだけのこの装置は「絵が下手な連中の逃げ場」にすぎず、放っておけば大衆の趣味を堕落させる、と。芸術の核を想像力(目に見えないもの、夢想の領域)に置く彼にとって、現実をそのまま複製する写真は芸術の敵に映った。
この 「写真=芸術のしもべ」論 は、以後ずっと写真に貼られ続けるレッテルになる。だが見方を変えれば、ボードレールはここで 「機械的な複製」対「想像力=芸術」 という対立軸をくっきり言語化してしまった。皮肉にも、その対立軸こそが、のちにベンヤミンの複製技術論(第11章)、ポップ・アート(第9章)、ピクチャーズ世代(第11章)が、それぞれ逆手に取って攻め込む主戦場になる。 ボードレール「Salon de 1859」(「近代の公衆と写真 / Le public moderne et la photographie」ほか)。原典(仏語)はフランス語版ウィキソース ↗。
法廷での勝利(1862年/1884年)
フランスの裁判(マイヤー&ピアソン事件、1862年)で「写真は著作権で守られる芸術作品か」が争われ、作者の思想・個性が表れた芸術的著作物でありうるとして保護が認められた。写真の芸術性を最初に公式認定したのは、評論家ではなく裁判所だった。
同じ問いに、アメリカの連邦最高裁も答えを出す。バロウ=ジャイルズ対サロニー事件(1884年)。写真家ナポレオン・サロニーが撮ったオスカー・ワイルドの肖像を無断で複製した会社を訴えた裁判で、被告は「写真は機械的産物で“著作者”の作品ではない」と反論した。最高裁は、ポーズ・衣装・背景・照明・表情の選択と配置こそ作者の“知的創作”であるとして、写真の著作権を認めた。 米連邦最高裁 111 U.S. 53 (Justia) ↗「機械が撮ったか」ではなく「人間の知的創作があるか」という基準は、第13章で見るAI生成画像の著作権論にそのまま受け継がれる。(写真をめぐる主要判例は 附録C にまとめた。)
作品での反撃 ── 「絵画そっくり」というねじれ
- オスカー・レイランダー『人生の二つの道』(1857年):30枚以上のネガを合成した壮大な寓意画。ヴィクトリア女王と夫アルバート公が購入し、写真の地位を押し上げた。
- ヘンリー・ピーチ・ロビンソン『臨終(消えゆく)』(1858年):死の床の少女と家族を合成で演出。著書『写真における絵画的効果』(1869年)で写真を絵画の構図理論で語った。
- ジュリア・マーガレット・カメロン(1860年代):当時の常識「くっきり写せ」をあえて破り、わざとピントを甘くした親密な肖像。技術的には「失敗・下手」と酷評されたが、「正確さより表現」を貫く。被写体はテニスン、ダーウィン、ハーシェルら一流の知識人。
第2章の結論:「芸術だと証明するために、写真を絵画そっくりに作る」というねじれが生まれた。この路線を世紀末に極めるのがピクトリアリズム(第5章)。論争は決着せず、写真の二つの顔がはっきり名前を持っただけ。
第3章 戦場・西部・植民地 ── 湿板写真の遠征と風景写真の源流(1860s–1870s)
ここは風景写真にとって最重要の章。のちの「アメリカの風景写真」という巨大な伝統の出発点がここにある。湿板を担いで未踏の大地へ分け入った男たちが、その系譜を生んだ。
3-1 南北戦争 ── 写真が「死」を持ち帰る
- マシュー・ブレイディが私財を投じて従軍カメラマン隊を組織。実働はアレクサンダー・ガードナー、ティモシー・H・オサリヴァンら。
- オサリヴァン撮影/ガードナー出版の『死の収穫』(ゲティスバーグ、1863年7月)(後年『Gardner’s Photographic Sketch Book of the War』1865年に収録)や、ガードナー&ギブソンによるアンティータム(1862年)の戦死者などが、戦場の遺体を初めて大衆の眼前に突きつけた。「戦争のロマン」を写真が打ち砕いた瞬間。 LoC「A Harvest of Death」↗/Wikipedia「A Harvest of Death」↗/Wikipedia「Mathew Brady」↗
- 一部は遺体や小道具を動かして“構図”を作ったことが後に判明。報道写真の演出問題が、ここでも顔を出す。
3-2 アメリカ西部探検 ── 風景写真の巨大な源流
戦後、政府の地質調査隊(サーベイ)や鉄道資本が、写真家を伴って未踏の西部へ。目的は「土地を測量・記録し、入植と開発を促す」こと。だが結果として崇高なアメリカ自然の図像が生まれた。
- カールトン・ワトキンス:ヨセミテを巨大な「マンモス・プレート」(約46×56cm=18×22インチのガラス湿板)で撮影(1861年〜)。その荘厳な画像は、ヨセミテ保護法(1864年、リンカーン署名)の後押しになったとされる。写真が自然保護を動かした最初期の例。 SFMOMA「Carleton E. Watkins」↗/Wikipedia「Carleton Watkins」↗/スミソニアン米国美術館↗
- ティモシー・H・オサリヴァン:戦場から転じ、キング隊・ウィーラー隊に同行。ネバダの砂漠、コロラド川の峡谷など、人を寄せつけない不毛で異様な地形を、感傷を排した冷たい眼で記録。その即物的・地質学的なまなざしは、100年後のニュー・トポグラフィクスが再評価する“先祖”でもある。 ゲティ美術館『キャニオン・デ・シェイ』↗
- ウィリアム・ヘンリー・ジャクソン:ヘイデン隊に同行しイエローストーンを撮影(1871年)。その写真が議会を動かし、1872年、イエローストーンが(近代的な意味で)世界初の国立公園に(より古い保護地の先例はある)。ここでも写真が政策を動かした。 NPS ↗
- エドワード・マイブリッジ:太陽神にちなむ 「Helios」名義で、1867年・1872年にヨセミテの劇的な風景を撮影。移動暗室「Helios’s Flying Studio」を駆って大判の湿板で撮り、青空の白飛びを抑える「スカイ・シェード」(1869年特許)などの工夫でも知られる、ワトキンスと競う西部風景の名手だった(のちに連続写真=運動研究へ、第4章)。 Wikipedia「Eadweard Muybridge」↗
第3章の核心:アメリカの風景写真は、出発点からして二つの顔を持っていた。 ① 崇高(サブライム)な大自然の賛歌(ワトキンス、ジャクソン → のちのアンセル・アダムス) ② 即物的・地質学的な土地の記録(オサリヴァン → のちのニュー・トポグラフィクス) 後年の「アダムス的(崇高)」と「ニュー・トポ的(即物)」という風景写真の二極の根は、すでにこの時代に芽生えている。
コーダ ── 20世紀への延長:Edward Curtis『The North American Indian』(1907–30)
19世紀の西部探検写真が風景を撮ったとすれば、20世紀初頭、その視線はそこに住む人へ向かう。エドワード・カーティス(1868–1952)は 20巻・約40,000枚・80以上の部族を網羅した壮大な民族誌『The North American Indian』(1907–1930年)を、J・P・モルガンの $75,000 出資(1906年、現在価値で約 $270万)で30年がかりで完成させた。だが「vanishing race(消えゆく民族)」という枠組みで、被写体に儀礼装束を着せ、撮影のため銀貨で報酬を払うなど演出された“失われていく崇高”として撮ったため、20世紀後半以降、民族誌的記録と植民地的まなざしが分かちがたく絡んでいた典型として批評の対象にもなっている。第3-3節フリスの「観光と帝国のまなざし」が、米国内のフロンティアでも同じ構造で作動していた事例。 Wikipedia「Edward S. Curtis」↗
3-3 ヨーロッパ・世界の記録写真
- フランシス・フリス:エジプト・中近東の遺跡を撮影し大量販売。観光と帝国のまなざし。 Wikipedia「Francis Frith」↗
- 各国で建造物調査・人類学的記録・植民地記録が進む。「写真=客観的アーカイブ」という信念が制度化されていく。その“客観”には帝国主義的なまなざしも埋め込まれていた、という批判は現代写真論の重要テーマ。
第4章 技術の民主化と「動き」の発見(1870s–1890s)
写真が専門家の手から大衆の手へ決定的に降りてくる時代。同時に「肉眼を超える眼」という新しい力も獲得する。
4-1 乾板革命(1871年〜)
- ゼラチン乾板(リチャード・マドックスら)。工場で作り置きでき、乾いたまま使える。湿板の「その場でドロドロ格闘」から解放。
- 感度向上で露光が一瞬に。ついに 手持ちスナップ と 動くものを止める瞬間写真 が可能になった。第1章の「数時間露光で人が消えた」世界からは隔世の感。
4-2 マイブリッジとマレー ── 瞬間と運動、映画の前夜
- エドワード・マイブリッジ『動く馬』(1878年):「疾走する馬は四脚とも宙に浮く瞬間があるか」を、実業家スタンフォードの依頼で多数のカメラを並べ連続自動撮影(有名な「賭け」の逸話は、近年は史料的裏付けが薄いとされる)。答えはYES。肉眼では捉えられない真実を写真が暴いた。 Smarthistory ↗/Wikipedia「The Horse in Motion」↗
- エティエンヌ=ジュール・マレー:一台のカメラに連続露光するクロノフォトグラフィで、運動を一枚に重ねて記録。科学と芸術の交差。
- これらは映画(動く写真)の直接の先祖。写真が「人間の眼を超える」第一歩。
20世紀の継承 ── Harold Edgerton と高速ストロボ撮影
マイブリッジ&マレーの「肉眼を超える眼」は、20世紀にさらに先へ届く。ハロルド・エガートン(1903–1990、MIT電気工学教授)はストロボスコープを改良してマイクロ秒露光の電子フラッシュを実用化。マイブリッジが多数のカメラを並べて運動を「分解」したとすれば、エガートンは1台のカメラ+1回の電子フラッシュで「一瞬を固定」した。代表作 『Milk Drop Coronet』(1957年、ミルクが王冠状に跳ねる瞬間)、『Bullet Through Apple』(1964年、リンゴを貫く弾丸)。国立科学賞(1973年)、ジャック・クストーとの海中探査協力。MITの 「Strobe Alley」研究室は 科学と芸術の境界が消える場所として伝説に。写真は「肉眼を超える眼」として、19世紀のマイブリッジから20世紀のエガートン、そして21世紀の天体望遠鏡・電子顕微鏡・スマホのスローモーションへと連続する。 Wikipedia「Harold Edgerton」↗
4-3 コダック ── 「あなたはボタンを押すだけ」(1888年)
写真史で最も有名な「降りてくる」瞬間。ジョージ・イーストマンが二つの発明を組み合わせた。
- ロールフィルム(巻物状フィルムに連続撮影)+ 誰でも扱える単純な箱型カメラ。
- 伝説のコピー “You press the button, we do the rest.”(あなたはボタンを押すだけ、あとは私たちが)。 George Eastman Museum ↗/Wikipedia「You Press the Button…」↗
- カメラには100枚分のフィルムが最初から入っており、撮り終えたらカメラごと工場へ送り返すと現像・再装填して返ってくる。購入者は化学も光学も何も知らなくていい。
- 写真はついに普通の家族・子ども・素人の手へ。人類は新しい行為 スナップ写真(snapshot) を獲得。1900年の1ドルの「ブラウニー」で子どもも撮れる時代に。
第5章でピクトリアリストが「これは芸術だ」と必死に主張する“裏”で、写真はこうして爆発的に大衆化していた。「猫も杓子も撮るからこそ、芸術写真を差別化したい」という焦りが、ピクトリアリズムを生む心理的圧力になる。
4-4 社会を撮る萌芽
- ジェイコブ・リース『向こう半分の人々の暮らし』(1890年):当時新しかったフラッシュ(マグネシウム閃光)で、ニューヨークのスラムの暗い室内まで写し、社会改革を訴えた。
- ルイス・ハイン(1874–1940)── 児童労働と Empire State:リースを継ぐ社会派ドキュメンタリーの最重要人物。社会学者出身。1908年から全米児童労働委員会(NCLC)の委託で、工場・炭鉱・紡績工場で働く子どもたちを、火事査察官や絵葉書売りに変装して潜入撮影。その記録は1912年の児童局創設、1938年の公正労働基準法による児童労働禁止に直接結びついた、写真が法律を変えた最も明確な例。1930–31年には Empire State Building の建設工事を担当(「Sky Boys」連作)── 地上1,000フィートの吊り籠に乗って、命綱なしで鋼材を渡る労働者を労働者目線で記録した。FSA(第7-1節)と Photo League(第7-1節)への直接の系譜源。 Wikipedia「Lewis Hine」↗
- 写真が「ただの記録」から「人を動かし社会を変える力」へ。第7章ドキュメンタリーの源流。
第5章 ピクトリアリズム ── 絵画主義写真の国際運動(1885–1915)
第2章の「芸術として認められたい」という願いの最終進化形。同時に、世界中(含・日本)で同じ運動が花開く国際的潮流でもある。
5-1 エマーソンと自然主義写真
- ピーター・ヘンリー・エマーソン:『自然主義写真』(1889年)で、絵画の模倣(合成や過剰な演出)を批判し、「自然をありのままに、人間の眼の見え方に即して撮れ」と主張。意図的なソフトフォーカスは、人間の視覚(中心が鮮明で周辺がぼける)の再現という理屈だった。 Wikipedia「Peter Henry Emerson」↗
- ところが翌1890年頃、彼は『自然主義写真の死』で自説を撤回したとされる。「写真は芸術になりえない」と悲観した。揺れること自体が、写真が抱える根本的な不安定さの表れ。
5-2 ピクトリアリズムの美学と技法
論理:「写真が見下されるのは機械的でそっけないからだ。ならば手仕事の痕跡と作者の感性をこれでもかと注ぎ込もう」。
- 柔らかいピント(夢のような情緒)
- 手加工の印画技法:ゴム印画、プラチナ印画、ブロモイル、油彩法など。表面を絵筆やエッチングのように加工。
- 主題と構図は印象派・象徴主義の絵画を手本に。
全体を貫く最大の皮肉:写真が芸術だと証明するために、彼らは写真を「写真らしくなく」した。まさにこの一点に、次世代(ストレート写真)が猛反発する。
5-3 スティーグリッツ、フォト・セセッション、カメラ・ワーク
- アルフレッド・スティーグリッツ:アメリカ写真界の巨人。フォト・セセッション(1902年、ニューヨーク)を結成し、伝説の機関誌 『カメラ・ワーク』(1903〜1917年) を刊行。写真をうやうやしく印刷した、それ自体が美術品のような雑誌。 Wikipedia「Photo-Secession」↗ / Wikipedia「Camera Work」↗
- 英国には リンクト・リング(1892年設立)。 Wikipedia「Linked Ring」↗
- エドワード・スタイケン初期作『池——月の出』(1904年)『フラットアイアン』(1904年)はほとんど印象派絵画。 Wikipedia「The Pond—Moonlight」↗ / Wikipedia「Edward Steichen」↗
- スティーグリッツの画廊 「291」(1905年開設)は、写真と最先端の現代美術(ピカソ、マティス、セザンヌ、アフリカ彫刻…)を並べて見せた。写真をモダンアートの文脈に置く戦略。 Wikipedia「291 (art gallery)」↗
5-4 アジェ ── どの流派にも属さない孤高
- ウジェーヌ・アジェ(1857–1927):写真史でも飛び抜けて重要な孤高の作家。船乗りや旅役者を経て1880年代末に写真を始め、1898年頃から 消えゆく「古いパリ(le vieux Paris)」 の徹底的な記録に生涯を捧げた。早朝、40ポンド近い大型木製カメラと三脚・ガラス乾板を担いで街を歩き、18×24cmの大判で撮り続けた。 Wikipedia「Eugène Atget」↗
- 被写体は、街角・古い扉や階段・中庭・店先・ショーウィンドウ・物売りなどの小さな職業(petits métiers)・リュクサンブール公園・ヴェルサイユ/サン=クルーの庭園・娼館まで多岐にわたる。数千点のプリントに通し番号を振り、アーキビストのような執念で体系化した。
- 自分の写真を「芸術」とは呼ばず、画家・建築家・舞台美術家・歴史家らに売る 「画家のための資料(documents pour artistes)」 と称した。フランス政府(歴史記念物局)にも多数のネガを納め、生前はほぼ無名のままだった。
- 晩年、近所に住むマン・レイが作品に注目し、1926年にはシュルレアリスムの機関誌『La Révolution surréaliste』にアジェの写真が(本人の意に反し、無署名で)掲載される。無人の街角やマネキンの並ぶショーウィンドウに漂う夢のような不気味さを、シュルレアリストたちは「身内」と見なした(アジェ自身はこの結びつきを嫌った)。
- マン・レイの助手(1923年から)だったアメリカの写真家 ベレニス・アボット が、アジェの死後(1928年6月にスタジオの残りを買い取り)にネガとプリントを保存・顕彰。そのアボット=レヴィ・コレクションは1968年にMoMAへ収まり(ガラス乾板ネガ約1,415点・ヴィンテージプリント約8,000点)、アジェは死後に近代写真の祖の一人として国際的に再評価された。 Wikipedia「Berenice Abbott」↗ / Wikipedia「Eugène Atget」↗
- アジェは「記録」のつもりで撮ったものが「芸術」として読み直された、記録と芸術の境界そのものを体現する存在。ウォーカー・エヴァンス(第7章)の即物的ドキュメンタリーや、戦後の「土地を淡々と撮る」系譜(ニュー・トポグラフィクス=第10章)の遠い源流でもある。哲学者ヴァルター・ベンヤミンは「写真小史」(1931年)で、アジェが人気のない街路を「犯行現場のように」撮ったと評し、被写体から“アウラ”を剝ぎ取る近代写真の先駆と論じた。 ヴァルター・ベンヤミン(1892–1940)はドイツの批評家・思想家。「アウラ」とは、作品が「いま・ここ」にしか宿さない一回性・近づきがたさのこと。複製技術(写真・映画)はそれを溶かす、と「複製技術時代の芸術作品」(1935年執筆・1936年刊)で論じた。「写真小史」(1931年)はその前哨で、この概念は第11章ピクチャーズ世代で再び主役になる。 Stanford Encyclopedia「Walter Benjamin」↗
- (→ MoMA で検索/メトロポリタン美術館。アジェ作品はパブリックドメイン)
5-5 日本と写真の出会い ── 明治の写真術
世界で写真が生まれた1839年から十数年後、ペリー来航(1853年)を経て、写真術は日本にも到来する。幕末から明治にかけての半世紀で、日本は写真を「文明開化のメディア」として独自に受容し、コロタイプ印刷まで備える写真産業を築いた。次節の福原信三は、この明治の写真術という土壌の上に現れた、日本における芸術写真の世代である。
- 写真との出会い(1860年頃):幕末の浮世絵師・一川芳員(いっせん よしかず)は『外国写真鏡之図』『横浜見物図会』(ともに1860年、開港直後の横浜を描く)で、外国人が持ち込んだ「写真鏡(カメラ)」を描いた。写真が日本に到着した瞬間の、日本人自身による視覚証言。 NDL『外国写真鏡之図』↗ / 『横浜見物図会』↗
- 上野彦馬(うえの ひこま、1838–1904):長崎で1862年に「上野撮影局」を開業した日本最初期の商業写真家。坂本龍馬・高杉晋作・伊藤博文ら、幕末から明治を動かした人物の肖像を多数残した。 NDL 名刺版写真(石黒五十二、Elliot & Fry/上野彦馬撮影)↗
- 内田九一(うちだ くいち、1844–1875):上野彦馬に学び、横浜・浅草で開業。1872年(明治5年)・1873年に明治天皇を撮影し、流布した公式の御真影は1873年の軍服姿のものとされる。宮中御用写真家として早世しながら、勝海舟ら明治政府要人の 名刺版肖像(カルト・ド・ヴィジット、第2章) を多数残した。 NDL 名刺版写真(勝安芳、内田九一撮影)↗ / Wikipedia「Uchida Kuichi」↗
- 小川一真(おがわ かずまさ、1860–1929):米国でコロタイプ製版を学んで帰国し、宮内省・東京帝大の御用写真と印刷を一手に担った。代表作 『日本百景』(1896年、上下巻)、『東京帝国大学』(1900年)、明治天皇大葬を記録した 『御大喪儀写真帖』(1912年)は、日本写真が国家の自己表象と分かちがたく結びついていた時代を象徴する。コロタイプ印刷の技術水準は当時、世界に伍するものだった。 NDL『日本百景』上 ↗ / 下 ↗ / 『御大喪儀写真帖』↗
明治の写真術は、肖像(上野・内田)と国家儀礼の記録(小川)から始まった。この「記録」のラインに対し、次節の福原信三は「芸術」のラインを切り開く。日本写真の二本柱が、ここで揃う。
5-6 日本のピクトリアリズム ── 福原信三
世界の振り子は、日本でも同じように振れていた。
- 福原信三(ふくはら しんぞう、1883–1948):資生堂の初代社長にして写真家。創業者・福原有信の息子。資生堂のシンボルマーク「花椿」を考案した人物でもある。コロンビア大学で薬学を学び、パリで写真と美術に親しんだ。 日本写真会「創立者」↗
- 1921年 写真芸術社を設立、翌1922年 雑誌『写真芸術』創刊。同年、初の写真集 『巴里とセイヌ』(徹底したソフトフォーカス)。
- 写真論 「光と其諧調」(写真芸術社、1923年)を展開し、1920年代の日本のアマチュア写真家に広く影響。 NDLデジタルコレクションで全文 ↗
- 1924年 芸術写真団体「日本写真会」を結成し会長に就任(同会は現在も活動。設立年は公式に1924年)。 日本写真会(公式)↗
- 作風は『巴里とセイヌ』のぼかしから、やがて日本各地や中国・西湖地方の水辺や田園を題材にした、シンプルで静謐な東洋的自然観へ。西洋ピクトリアリズムを「東洋の風景」に翻訳した。後年「日本のピクトリアリズム ── 風景へのまなざし」展(東京都写真美術館、1992年)として括り直された。
- 第三の極:アンセル・アダムスの崇高でも、ニュー・トポの即物でもない、「静謐で詩的な東洋の風景」という第三の選択肢がここ日本にある。
- 弟の 福原路草 も写真家。兄弟で日本近代写真の礎を築いた。
- 高山正隆(たかやま まさたか、1896–1978)/西山清:福原信三と同時代の日本ピクトリアリズムの代表作家。1926年刊『アルス芸術写真画集』のシリーズ第1・2編が彼らに割かれた。日本のピクトリアリズムは資生堂を率いた福原信三だけでなく、複数の作家による厚みのある運動だった。 NDL『高山正隆写真画集』↗ / 『西山清写真画集』↗
第6章 写真モダニズム ── ストレート・前衛・新即物(1910s–1930s)
振り子が真逆へ。「絵画の真似はやめろ。写真の芸術性は、写真にしかできないことにこそある」。世界同時多発のモダニズム。
6-1 ストレート写真の誕生
- 口火を切ったのはかつてピクトリアリズムの親玉だったスティーグリッツ自身。『三等船室(ザ・スティアレッジ)』(1907年)は、情緒のぼかしではなく画面の幾何学と現実の構造を鋭く見る作品で、転向の象徴とされる。(→ メトロポリタン美術館)
- 決定打は ポール・ストランド(作品は1916年)。極端なクローズアップ、大胆な幾何学的抽象、街の人を盗み撮った直球のポートレート。『カメラ・ワーク』は最終号(1917年)で彼を大々的に掲げ、ピクトリアリズムの終焉を自ら宣言した。 Getty ↗
6-2 ヨーロッパ前衛 ── 「新しい眼」の実験
モダニズムは「冷徹な鮮明さ」一色ではなかった。各地で多彩に爆発。
- バウハウス/ニュー・ヴィジョン(新しい視覚):ハンガリー出身のラースロー・モホイ=ナジ。カメラを使わず印画紙に直接ものを置いて感光させるフォトグラム、極端なアングル、俯瞰・あおり、二重露光で、「肉眼とは違うカメラ独自の見え方」を追求した。理論書『絵画・写真・映画(Malerei, Fotografie, Film)』(1925年、バウハウス叢書)で「ニュー・ヴィジョン」を体系化し、「未来の文盲とは、文字ではなく“写真(像)”を読めない者だ」と語ったとされる(後年広く引用される箴言。出典は本人の関連著作と伝えられるが要確認)。バウハウスの教育を通じ、写真を視覚言語そのものの刷新として広めた。 Wikipedia「László Moholy-Nagy」↗
- モホイ=ナジの視覚論は、ベンヤミン「写真小史」(1931年)と並ぶ時代の古典。作品(フォトグラム等)はMoMA で検索。
- 新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト):アルベルト・レンガー=パッチュ『世界は美しい』(1928年)。工業製品・植物・機械を即物的・鮮明に。 Wikipedia「Albert Renger-Patzsch」↗
- ロシア構成主義:アレクサンドル・ロトチェンコ。ぐいと傾いた劇的な対角線構図、俯瞰・あおり。革命のための新しい視覚言語。
- シュルレアリスム:マン・レイ。レイヨグラフ(独自のフォトグラム)、ソラリゼーション。写真を夢と無意識の領域へ。
- ラテンアメリカ・モダニズム ── メキシコの結節:モダニズム写真は欧米だけでなくメキシコでも独自に開花した。ティナ・モドッティ(1896–1942、イタリア系米国人)は1923–26年にエドワード・ウェストン(6-4 f/64)の恋人としてメキシコへ渡り、現地でディエゴ・リベラら革命派と接続、形式的な美と政治的記録を結ぶ写真を撮った。1927年に彼女が マヌエル・アルヴァレス・ブラボ(1902–2002)にウェストンを紹介し、ブラボはメキシコ・モダニズム写真の中心人物に成長。ブラボの反・絵葉書的(anti-picturesque)でシュルレアリスム的、アイロニカルな日常のまなざしはアンドレ・ブルトンを魅了し、カルティエ=ブレッソンとの国際合同展を開催するまでに。代表作 『ストライキで殺された労働者』(1934)。ハッセルブラッド賞(1984)ほか、グラシエラ・イトゥルビデら次世代をも育てた。ピクトリアリズム → ストレート → 新即物の振り子が、ラテンアメリカに渡って独自の言葉を持った例。 Wikipedia「Manuel Álvarez Bravo」↗ / Wikipedia「Tina Modotti」↗
6-3 ザンダーの類型学
- アウグスト・ザンダー(1876–1964):写真集『時代の顔(Antlitz der Zeit)』(1929年)と、その母体となった生涯のプロジェクト『20世紀の人々(Menschen des 20. Jahrhunderts)』。農民・職人・芸術家・公務員・失業者…とドイツ社会の人々を、職業・階層ごとに類型(タイプ)として体系的に撮り集めた、巨大な“人間の地図”。 Wikipedia「August Sander」↗
- 『時代の顔』には作家アルフレート・デーブリンが序文「顔・像・その真実について」を寄せ、刊行直後からヴァルター・ベンヤミン、クルト・トゥホルスキー、さらにアメリカのウォーカー・エヴァンスまでが高く評価した。とりわけベンヤミンは「写真小史」(1931年)で、ザンダーの仕事を時代を読み解くための「訓練の書(アトラス)」と讃えている。ナチスは1936年に『時代の顔』を発禁・原版を破壊し、ザンダーは風景写真へと退いた。
- この「無表情に対象を分類・収集する」態度は、のちのベッヒャー夫妻(第9章)→ デュッセルドルフ派(第11・12章)へと受け継がれる重要な水脈。
- 作品は著作権存続(独・SK財団/VG Bild-Kunst管理)のため図版はリンクで ── Die Photographische Sammlung/SK Stiftung Kultur/MoMA で検索。
6-4 アメリカ西海岸 ── グループ f/64(1932年)
- エドワード・ウェストン、アンセル・アダムス、イモジェン・カニンガムら。
- 名の「f/64」は最も絞り込んだ絞り値=画面の隅々まで最大限くっきり写る設定。名前自体が「徹底的に鮮明であれ」という宣言。 Britannica「Group f/64」↗
- ウェストン:ピーマン、貝殻、砂丘、裸体を、彫刻のような官能的フォルムに。ありふれたモノの中に純粋な形の美を発見。
- アンセル・アダムス:ヨセミテなど西部の雄大な風景。第3章ワトキンス=ジャクソンの「崇高な自然」の系譜を20世紀に受け継ぐ正統。ゾーン・システム(明暗を科学的に制御する撮影・現像理論)で写真を「偶然」から「精密な設計」へ。シエラクラブと結び自然保護運動の象徴に。
- イモジェン・カニンガム:植物のクローズアップなど。
重要:アダムスは「手つかずの大自然の崇高」という風景観の頂点。これが第10章ニュー・トポグラフィクスに真っ向から否定されることで、戦後の風景写真の二極が完成する。
6-5 1929年の結節 ── Film und Foto 展(シュトゥットガルト)
6-1から6-4まで世界各地で並行して進んだモダニズム写真は、1929年、ひとつの展覧会で一堂に集結する。
- Film und Foto(フィルム・ウント・フォト、通称 FiFo):1929年、シュトゥットガルトで開催。ドイツ工作連盟(Deutscher Werkbund)主催。191名・約1,200点を集めた、20世紀写真展の金字塔。 Wikipedia「Film und Foto」↗
- 企画:ヨーロッパ写真部門の選定はラースロー・モホイ=ナジ(6-2 バウハウス)、アメリカ部門の選定はエドワード・ウェストン(6-4 f/64)。ストレート写真/ニュー・ヴィジョン/ロシア構成主義/新即物主義/シュルレアリスム/報道写真の前夜まで、モダニズム写真のあらゆる流派を一望できた、ほとんど「写真の万博」。
- 巡回:チューリヒ・ベルリン・ダンツィヒ・ウィーンを巡り、1931年には東京・大阪へも来日。日本の「新興写真」(堀野正雄、伊奈信男ら)を加速させる起爆剤に。
- 意義:これは「現代のヨーロッパ・アメリカ写真の最初の大展覧会(the first great exhibition of modern European and American photography)」で、ナチス政権の到来(1933年)と新即物主義への弾圧の直前に、戦間期モダニズム写真の頂点を国際的に総括した瞬間。次節 6-6 で扱うベンヤミン「写真小史」(1931年)は、この展覧会の余韻のなかで書かれた。
6-6 モダニズムを支えた批評と美術界 ── 「メディウムの純粋性」
ストレート写真の「写真は写真であれ」という確信は、同時代の美術批評の中心思想と響き合っていた。
- クレメント・グリーンバーグ:20世紀アメリカ美術を方向づけた最重要の批評家。各芸術は自分の媒体(メディウム)にしかできないことを純化すべきだという 「メディウムの純粋性(medium specificity)」 を唱え、絵画では「平面性」を、抽象表現主義(ジャクソン・ポロックら)を擁護した。この形式主義(フォーマリズム)は、「絵画の模倣をやめ、レンズと印画ならではの即物的な鮮明さを突き詰める」というストレート写真の論理と地続きの発想である。
- グリーンバーグは写真も論じている。エッセイ 「カメラのガラスの眼(The Camera’s Glass Eye)」(『ネイション』誌、1946年) で写真を「人間が手にした最も透明な媒体」と呼び、それゆえ記録(ドキュメント)を超えて芸術になることの難しさを指摘した。技術的に完璧すぎるエドワード・ウェストンを「冷たく機械的」と評する一方、ウォーカー・エヴァンス(第7章)を 「逸話をつかむ独自の力ゆえに、何よりもまず芸術家だ」 と称揚している。
- 同時代の批評・美術界:写真をめぐる思考は美術全体の動きと不可分だった。ドイツではヴァルター・ベンヤミンが「写真小史」(1931年)・「複製技術時代の芸術作品」(1935年執筆・1936年刊)で、複製がもたらす「アウラ」の消失を論じ(第5・11章で詳述)、バウハウスのモホイ=ナジは『絵画・写真・映画』(1925年)で「新しい視覚」を宣言した。絵画ではモンドリアンやマレーヴィチ、ロシア構成主義が純粋な形態・抽象へ向かう ── 写真の「純粋に写真的であれ」という運動は、この美術全体のモダニズムと同じ地殻変動の一部だった。
- 日本の批評 ── 伊奈信男「写真に帰れ」(1932年):グリーンバーグやベンヤミンと同じ「写真は写真であれ」の確信は、日本でもほぼ同時に言語化された。美学・美術史出身の批評家 伊奈信男(1898–1978) が、写真同人誌 『光画』創刊号(1932年) に評論 「写真に帰れ」 を発表 ── 絵画を真似る「芸術写真(ピクトリアリズム)」を退け、写真の機械性にこそ近代の美学がある、と説いた。日本の近代写真批評の出発点であり、第5-6節の福原信三(ピクトリアリズム)に対するストレートからの折り返し=日本版の「絵画的か写真らしくか」の振り子にあたる。この批評の系譜は、戦後の 重森弘淹・福島辰夫・多木浩二(第9章プロヴォーク)へと受け継がれていく。 Wikipedia「伊奈信男」↗
- 「写真は芸術か」という第2章の問いは、モダニズム期に 「写真は“写真という芸術”であれ」 へと組み替えられた。批評の出典:グリーンバーグ「モダニズムの絵画」(1960年)、同「カメラのガラスの眼」(1946年、The Collected Essays and Criticism, Vol.2 所収)。作家・批評家の作品/論文は著作権存続のものが多く、原則リンク・引用で参照する。
6-7 35mmフィルムというメディア ── 写真の身軽さと「スナップ」の美学
写真史を動かしたのは作家だけでなくフォーマット(判型)でもある。なかでも 35mm(135判)フィルムは、20世紀の写真の見え方そのものを変えた。
生い立ち ── 映画のフィルムから生まれた
- 35mm は元々映画用のシネフィルムの幅。これをスチル写真に転用した。
- オスカー・バルナック(ライツ社)が小型カメラを試作(1913年頃の「ウル・ライカ」)、1925年に「ライカ I」として市販。手のひらサイズ・速写・目立たない。 Wikipedia「Leica Camera」↗
- コダックが1934年に「135」daylight-loadingカートリッジを規格化し、誰でも装填できる標準フォーマットに。 Wikipedia「135 film」↗
- ライバルは コンタックス(ツァイス・イコン、1932年)。ライカ vs コンタックスのレンジファインダー二強時代へ。 Wikipedia「Contax」↗
なぜ革命だったのか ── 機材が美学を変える
- 小さく・軽く・速く・36枚撮り・接近できる → 報道・ストリート・スナップに最適。第7章フォトジャーナリズム、第8章カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」の物理的前提。
- 単なる便利さでなく美学を変えた。手持ち・低速シャッター・高感度フィルムがもたらす 粒状感(グレイン)・ブレ・即興性 が、新しい写真の見え方になった。
- フィルム感度の進化:コダクローム(1935年・35mm判は1936年)でカラー、トライX(Tri-X、35mm判は1954年)の高感度モノクロが、薄暗い現場での手持ち撮影と粗粒子の表現を解き放つ。第8章フランク/クライン、第9章プロヴォークの アレ・ブレ・ボケ は、まさにこの「35mm+高感度フィルム」の美学。 Wikipedia「Kodachrome」↗/Wikipedia「Kodak Tri-X」↗
一眼レフ(SLR)革命と、日本のカメラ産業
- 戦後、ファインダーで写るままを見られる一眼レフ(ペンタプリズム式)が普及。コンタックスSなどに続き、日本メーカーが台頭。
- ニコンF(1959年)が報道写真家の定番機(ベトナム戦争報道の象徴)に。アサヒペンタックス、キヤノンも続き、日本が世界のカメラ産業の中心へ。これは第8〜9章で日本写真が世界の最前線に並ぶ物質的な土台でもある。 Wikipedia「Nikon F」↗
大判 vs 35mm ── フォーマットが立場を語る
- 大判(8×10、f/64やニュー・トポグラフィクスの精密で動かない世界)と、35mm(スナップ・即興・粗粒子の世界)。機材の選択がそのまま美学・思想の選択になる。大判で撮るか35mmで撮るかという選択も、すでにこの分岐の上にある。
- 35mmの“軽さの美学”を体現した代表が 木村伊兵衛=日本のライカの名手(→ 第8章)。一方、土門拳は大判で「リアリズム」を志向した。フォーマットの対比が、そのまま二大巨匠の対比になっている。
第7章 ドキュメンタリーと報道写真 ── 大恐慌からグラフ誌・戦場へ(1930s–1940s)
振り子は「美」から「社会」へ。第2章で蔑まれた「記録」を、崇高な使命として引き受けた時代。グラフ誌の隆盛で写真がマスメディアの中心言語になる。
7-1 FSA ── 大恐慌のアメリカを記録する
世界恐慌期、政府機関が写真家を雇い、恐慌と砂嵐(ダストボウル)に苦しむ人々を記録させた。当初は再定住局(RA、1935年〜)、1937年に農業安定局(FSA)へ改称。ロイ・ストライカーが指揮。 LoC ↗
- ドロシア・ランゲ『移民の母』(1936年):不安と疲労、それでも子を守る母の眼差し。「写真は一枚で時代全体の痛みを語れる」ことを示した写真史上もっとも有名な一枚。(→ アメリカ議会図書館(PD))
- ウォーカー・エヴァンス:感情を抑えた正面性の「ドキュメンタリー・スタイル」。作家ジェイムズ・エイジーとの『今こそ名高き人々をたたえよう』(1941年)。看板・街並み・木造家屋など人工的なアメリカの景観を淡々と見る態度は、第10章ニュー・トポグラフィクスが直接受け継ぐDNA(→ MoMA最初の収蔵写真もエヴァンス、第7-5)。 Wikipedia「Walker Evans」↗ / Wikipedia「Let Us Now Praise Famous Men」↗
- 他に アーサー・ロススタイン、ラッセル・リー、ベン・シャーン、ゴードン・パークス(後にLIFE初のアフリカ系専属写真家)ら。
- ゴードン・パークス(1912–2006)── 黒人写真家の先駆を深掘り:1940年に12.50ドルで質屋でカメラを買い、独学。1942年にFSAへ。代表作 『American Gothic, Washington, D.C.』(1942年):FSA清掃婦 エラ・ワトソンが、米国旗の前でモップとほうきを持つ正面ポートレート ── ロイ・ストライカーは「全カメラマンを首にできる写真だ」と評した、人種差別の風景を国家のシンボルで皮肉る強烈な一枚。1948年に LIFE 誌初のアフリカ系専属写真家となり、1972年まで24年間、公民権運動・スラム・セレブを撮り続けた。後年は映画『Shaft』(1971) の監督に転じ、ハリウッド大手による黒人監督の長編第1号『The Learning Tree』(1969) も。1988年 National Medal of Arts、2000年 LoC「Living Legend」。米国黒人写真家の最重要先駆。 Wikipedia「Gordon Parks」↗
- Photo League(NY, 1936–51):FSAと同年(1936年)にニューヨークで設立された社会記録写真の非営利組織。FSAが政府主導だったのに対し、Photo League は草の根のフォトグラファー協同体。アーロン・シスキンド(『Harlem Document』を主導、後にシカゴ Institute of Design で抽象写真へ)、シド・グロスマン、リゼット・モデル(のちのダイアン・アーバスの師)、ウォルター・ローゼンブラム、晩年のルイス・ハイン、ポール・ストランドらが集った。会員の約3分の1が女性という、当時としては突出して進歩的な集団だった。だが1947年12月、米司法長官 トム・C・クラークが冷戦初期のレッド・スケア下で「破壊的団体(subversive organization)」リストに指定 ── 退会者が相次ぎ、1951年に解散。米国社会派ドキュメンタリーが、外側ではなく内側の政治的弾圧で潰された象徴的事件。だがリゼット・モデル → ダイアン・アーバス(第9-3節「ニュー・ドキュメンツ」)という遺伝子は、戦後米国写真の主流に流れ込んだ。 Wikipedia「Photo League」↗
7-2 報道写真とグラフ誌
- 『LIFE』(1936年創刊)、ドイツの『ベルリン画報』、英『ピクチャー・ポスト』などグラビア週刊誌が登場。
- 複数の写真で物語を語る フォト・エッセイ/フォト・ストーリー が花開く。W・ユージン・スミス(『カントリー・ドクター』『水俣』)が様式を極める。
- 写真家が「フォトジャーナリスト」という職能として確立。
- 日本の戦時グラフ ── 〈写真大観〉とプロパガンダ:1930年代の日本でも、写真はドキュメンタリーの顔をして国家動員と分かちがたく結びついた。『大日本陸軍写真大観』(1934年)、『非常時国防写真大観』(同)、『満蒙地理風俗写真大観』(満州国成立直後の1934年)、月刊『亜細亜大観』(1930s–40s、大東亜共栄圏のプロパガンダ写真)── いずれも当時の中心的視覚メディアで、戦時下に報道写真とプロパガンダの境界が消えたことを示す。米英のグラフ誌が読者・市場主導だったのに対し、日本のそれは国策と密着していた。後年、名取洋之助/日本工房/東方社(対外向け宣伝誌『FRONT』、1942年〜)の系譜はこの延長線にある。 NDL『大日本陸軍写真大観』↗ / 『満蒙地理風俗写真大観』↗
- 名取洋之助(1910–1962)── 日本の報道写真の父:18歳でワイマール期ドイツに渡り、欧州最大級のグラフ誌 ウルシュタイン社の契約写真家 に。1932年に帰国し、ドイツ仕込みの組写真によるフォト・ルポルタージュを持ち込んで、「報道写真(ほうどうしゃしん)」 という新しいジャンルを日本に根づかせた。木村伊兵衛・原弘・伊奈信男・岡田桑三らと 日本工房(1933年結成、再編を経て)を興し、多言語の対外宣伝グラフ誌 『NIPPON』(1934年〜)を制作 ── 写真家+アートディレクター+デザイナーが組んで誌面で物語を作る近代的なグラフ・ジャーナリズムの方法を確立した。その手腕は国策宣伝と表裏一体でもあったが、戦後は教育的な 岩波写真文庫(1950–58年、全286冊)に結実する。 Wikipedia「名取洋之助」↗
7-3 戦争写真
- ロバート・キャパ:スペイン内戦の 『崩れ落ちる兵士』(1936年)(真偽は今も議論)、ノルマンディー上陸作戦(1944年)。「いい写真が撮れないのは、十分に近づいていないからだ」。
- のちにマグナムを共同設立(第8章)。
- ロマン・ヴィシュニアック『失われた世界(A Vanished World)』(1983年、1935–39年撮影):ロシア生まれの写真家(1897–1990)が、米国ユダヤ人合同分配委員会(JDC)の依頼でポーランド・ルーマニア・チェコスロヴァキア・リトアニアを回り、ナチス前夜の東欧ユダヤ人社会を約16,000枚で記録した。1983年にエリ・ヴィーゼルの序文付きで写真集として刊行 ── 撮影された人々の大多数はホロコーストで死んだため、本書は「消滅する直前の世界」をとどめた稀有な視覚記録になった。アーカイブはICP(M節)から2018年にUCバークレーへ。写真が「消えてしまうもの」を見ていたという、戦争写真の別系統。 Wikipedia「Roman Vishniac」↗
- メンデル・グロスマン『ウーチ・ゲットー秘密撮影』(1940–44年):ポーランド・ユダヤ人写真家(1913–45)が、ナチス占領下のウーチ・ゲットーでコートに隠したカメラで約10,000枚を秘密裏に撮影。飢餓・強制労働・絶滅収容所(ヘウムノ)への移送を、死を賭して記録した。1944年のゲットー解散直前にネガを陶器の壺などに入れて埋蔵し、助手の Arieh Ben-Menachem が417枚のプリントを救出。グロスマン自身は 1945年4月30日、強制行進中にナチスに射殺された(最後までカメラを離さなかったと伝わる)。アーカイブはヤド・ヴァシェムとゲットー戦士の家美術館。写真が「証言の最後の形式」になりうることを示した20世紀最大の事例の一つ。ヴィシュニアックが「消える直前」を、グロスマンが「消されていく途中」を撮った対をなす。 Wikipedia「Mendel Grossman」↗
- ユーセフ・カーシュ『吼える獅子』(チャーチル、1941年12月30日、オタワ):アルメニア系カナダ人写真家(1908–2002、アルメニア人虐殺の生き残り)が、英首相チャーチルの議会演説後に撮影。Karshが撮影直前に葉巻をチャーチルの口から抜き取ったため、不機嫌な表情に ── これが「写真史上もっとも複製された肖像の一つ」となりKarshの名声を一夜で確立した。彼はその後 ヘミングウェイ・アインシュタイン・ピカソ・エリザベス女王・JFK ら 「20世紀の著名人100人中51人を撮った」。「Karsh of Ottawa」ブランドはLIFE誌の表紙20点以上、戦後の権威的肖像写真の代名詞に。 Wikipedia「Yousuf Karsh」↗
- 戦争終結の二大アイコン(1945)── どちらも“演出されていた”:1945年、第二次大戦の終わりに、東西二つの戦勝アイコンがほぼ同じ手つきで作られた。ジョー・ローゼンタール『硫黄島の星条旗』(1945年2月23日、AP):摺鉢山頂上で米海兵隊員6人が国旗を立てる瞬間 ── 1945年ピューリッツァー賞(撮影と同年受賞の唯一の写真)、海兵隊戦争記念碑(1954)の原型に。実際はその日2回目の旗揚げ(最初の旗を大きいものに交換)で、無演出だったが、Rosenthal が別に撮った「成功記念ポーズ」と混同され「演出論争」が長く続いた。イェフゲニー・ハルデイ『国会議事堂上の旗』(1945年5月2日、TASS):ベルリン陥落時のソ連兵 ── 撮影者本人が「通りすがりの兵士を呼んで演出した」ことを後年認め、発表版では 1人の兵士の手首から略奪した時計を消去、煙を別ネガから合成してドラマ化した。東西どちらの戦勝写真も「事実の構成」だったことが戦後ようやく明かされ、第1章バヤール『溺死者としての自画像』(1840)以来の「写真は撮った瞬間からフィクションでもありえた」という伏線が、20世紀最大の戦争の終わりにも回収された。 Wikipedia「Iwo Jima」↗ / Wikipedia「Reichstag」↗
- ベトナム戦争報道写真 ── 写真が反戦運動を駆動した時代:1960s-70s、テレビと並んで写真がベトナム戦争の現実を米国本土に持ち込み、反戦世論を作る決定的な道具になった。エディ・アダムス「サイゴンの処刑(路上の銃殺)」(1968年2月、AP、1969年ピューリッツァー賞):南ベトナム警察長官が捕虜のベトコン容疑者を路上で処刑する瞬間を撮った一枚。ニック・ウット「ナパーム弾の少女(Phan Thị Kim Phúc)」(1972年6月8日、AP、1973年ピューリッツァー賞):ナパーム弾を浴び裸で逃げる9歳の少女キム・フックを撮った写真は、世界中で反戦運動を加速させた(なお2025年公開のドキュメンタリー『The Stringer』を機に撮影者帰属論争が起き、World Press Photo は帰属を一時停止、AP はウット説を維持と立場が分かれている)。ラリー・バロウズ(英、LIFE、1971年ラオスで搭乗ヘリ撃墜により死亡)、ティム・ペイジ、ドン・マッカリン(英)も。写真が戦争を「終わらせる」力を持ちうることが、戦後最も鋭く示された時代。第7-1節FSA以来の社会派ドキュメンタリーの頂点。 Wikipedia「Eddie Adams」↗ / Wikipedia「The Terror of War」↗ / Wikipedia「Larry Burrows」↗
- アルベルト・コルダ『英雄的ゲリラ(Guerrillero Heroico)』(チェ・ゲバラ、1960年3月5日、ハバナ):キューバ革命の最重要視覚アイコン。ラ・クーブル号爆発犠牲者の追悼式で、Korda(フィデル・カストロの専属写真家)が Leica M2 + 90mmレンズ + コダック Plus-X で 2フレームだけ撮った肖像。1967年に伊出版者ジャンジャコモ・フェルトリネッリがコピーを世界に大量配布したことで、同年10月のゲバラ死後、世界中の革命運動・反体制運動のシンボルへ。V&A 美術館はこれを 「写真史上もっとも複製された画像」、メリーランド美術大学は 「20世紀の象徴」「世界でもっとも有名な写真」 と評する。Tシャツ・壁画・抗議運動まで、1枚の写真がポップ文化と政治の境界を消した戦後最大の事例。第11章ピクチャーズ・ジェネレーションが「メディアのイメージを引用する」前に、すでにこの画像は世界の引用イメージになっていた。Korda は生涯ロイヤリティを受け取らず(理想の拡散を優先)。 Wikipedia「Guerrillero Heroico」↗
7-4 エコール・ド・パリと写真 ── 戦間期パリの「外国人写真家」たち
絵画で モディリアーニ・シャガール・スーチン・キスリング・藤田嗣治 らがパリに集まり エコール・ド・パリ を形成した、ちょうど同じ時代。写真にも完全に並行する 「もうひとつのパリ派」 がありました。中欧ユダヤ系を中心とした移民・亡命写真家たち が、35mm Leica 片手にカフェ・街頭・夜のパリを撮りまわした、戦間期のもうひとつの黄金時代です。報道一辺倒ではない、都市を主観的に切り取る系譜は、この外国人コミュニティから育ちました。
- マン・レイ(米国・フィラデルフィア、1921年パリ移住):シュルレアリスム(→ 6-2)の中心人物として再登場。レイヨグラフ、肖像(藤田嗣治・キキ・ド・モンパルナス・ジャン・コクトーら)。エコール・ド・パリの芸術家コミュニティの内側にいた写真家で、ビル・ブラントやベレニス・アボットを助手として育てた。
- アンドレ・ケルテス(ハンガリー、1925年パリ移住):エコール・ド・パリの写真側の中心人物。1928年に Leica を手に入れ、報道とアートの境界で詩的な街頭スナップを確立。藤田嗣治やシャガールのアトリエにも出入りした。1936年ニューヨークへ。カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」(→ 第8章)に最大の影響を与えた人物。 Wikipedia「André Kertész」↗
- ブラッサイ(ジュラ・ハラース、ハンガリー、1924年パリ移住):写真集 『夜のパリ(Paris de nuit)』(1933年)。霧と街灯、娼婦、夜のカフェの住人たち ── エコール・ド・パリの夜の側を一冊に焼き付けた。ピカソやヘンリー・ミラーと友人で、後年ピカソのアトリエの写真集 『Conversations with Picasso』(1964年) も残した。 Britannica「Brassaï」↗
- イルゼ・ビング(ドイツ、1930年パリ移住):早期から 35mm Leica に切り替え、構成主義的な厳格な構図と斜めの俯瞰で 「ライカの女王(Queen of the Leica)」 と呼ばれた。1941年ニューヨークへ亡命。 Wikipedia「Ilse Bing」↗
- ジゼル・フロイント(ドイツ、1933年ナチス政権成立で即パリ亡命):博士論文 『19世紀フランスにおける写真(La photographie en France au XIXe siècle)』(1936年、ソルボンヌ) で写真の社会史を切り開いた稀有な学者写真家。ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、コクトー、ベンヤミンらをカラー(アグファカラー)で撮った肖像が代表作。戦後マグナム加入。 Wikipedia「Gisèle Freund」↗
- 若き ロベール・カパ(ハンガリー、本名 アンドレ/エンドレ・フリードマン、1933年ベルリンからパリへ亡命):同じハンガリー出身の ゲルダ・タロー と組み、二人で「アメリカ人写真家ロベール・カパ」というブランドを作って売り込んだ。1936年スペイン内戦の 『崩れ落ちる兵士』(→ 7-3)でブレイク。1947年のマグナム創立(カパ/カルティエ=ブレッソン/ジョージ・ロジャー/デヴィッド・シーモア「シム」)は、このパリ人脈の戦後への直接の延長線。
イギリス側にも、戦間期パリと往復する詩的な系譜があります。
- ビル・ブラント(独国生まれ・英国育ち):1929年に マン・レイの助手 としてパリで写真の文体を吸い込み、英国に持ち帰った。社会の階級、英国の風景、歪曲ヌード、陰影の濃いドラマ。エコール・ド・パリの英国への輸出口でもある。
意味 ── 1933年ナチス政権成立、1939年第二次大戦の開戦 で、これら外国人写真家の多くがアメリカへ再亡命します(マン・レイ・ビング・フロイント・カパ…)。戦間期パリで研がれた 手持ち・35mm・街頭 の感性が、戦後アメリカ写真と マグナム(1947年、パリ+ニューヨーク同時創立) に流れ込み、第8章の カルティエ=ブレッソン「決定的瞬間」 へとつながっていきます。20世紀写真史の中軸の一本は、パリで芽吹いて、ニューヨークで実を結んだ移民たちの線です。
7-5 制度化 ── 写真が「美術館の芸術」になる
第2章の「写真は芸術か」に、制度の側から決定的な「イエス」を返したのがニューヨーク近代美術館(MoMA)。
- MoMAが最初に収蔵した写真は1930年、ウォーカー・エヴァンスの作品(設立1929年の翌年)。1930年春の企画展 『Weber, Klee, Lehmbruck, Maillol』(MoMA 第4回展、1930年3月12日〜4月2日)に合わせ、Evans が同展のドイツ表現主義彫刻家 ヴィルヘルム・レームブルック(1881–1919) の作品を撮った一連 ── 『Lehmbruck: Torso of Woman』『Lehmbruck: Figure of a Woman』(ともに c. 1929、ゼラチン・シルバー) ── が作家本人から寄贈され、MoMA 全コレクション通算23番目として登録された。写真が「美術作品の代理人」として美術館に入った、象徴的な始まり方。 MoMA『Lehmbruck: Torso of Woman』↗ / 『Lehmbruck: Figure of a Woman』↗
- 1933年に初の個人写真展、1937年にボーモント・ニューホールの大回顧展『写真 1839–1937』(ダゲールから始まる写真史を美術館が体系展示した初の試み。カタログは写真史の古典的教科書に)。
- 1938年 エヴァンス『アメリカン・フォトグラフス』(展覧会+不可分の傑作写真集)。
- 1940年、MoMAに写真部門が正式発足。美術館に写真専門部署ができたのは世界初。ニューホールが初代キュレーター。戦後はエドワード・スタイケン、ついでジョン・シャーカフスキー(第8・9章で写真史の流れを決定づける)へ。 Wikipedia「Beaumont Newhall」↗ / Wikipedia「Walker Evans」↗
- 1962–91 シャーカフスキーの30年:スタイケンを継いだジョン・シャーカフスキーは、就任直後の展覧会 『The Photographer’s Eye』(1964年・カタログ1966年)で、写真にしかできない見え方を 「①もの自体/②ディテール/③フレーム/④時間/⑤視点」 の5つの形式語彙に整理した。これがその後の 『ニュー・ドキュメンツ』(1967・第9-3節)、『ウィリアム・エグルストンズ・ガイド』(1976・第10-2節)、さらに 『Mirrors and Windows: American Photography Since 1960』(1978年)── 1960年代以降の米国写真を 「自伝的=鏡」と「探求的=窓」 の二分法で総括 ── へとつながるシャーカフスキー4部作(64→67→76→78)の理論的基盤に。MoMAが戦後アメリカ写真の文脈そのものを作った時代である。 Wikipedia「John Szarkowski」↗
第7章の結論:写真は「世界を証言する力」と「美術館の芸術」という二つの地位を同時に獲得した。だが戦後、その“客観的証言”という理想に、内側から疑いが向き始める(第8章へ)。
第8章 戦後 ── 主観への転回(1940s–1950s)
「客観的記録」「完璧な決定的瞬間」という理想から、写真が徹底して個人的・主観的な“私の見方”へと解き放たれていく時代。
8-1 マグナムと決定的瞬間
- アンリ・カルティエ=ブレッソンの 「決定的瞬間(le moment décisif)」:幾何学的構図とタイミングがある一瞬でピタリと一致し、形と意味が同時に完成する刹那を狙い撃つ。目立たないライカで街に溶け込む。(→ MoMA / マグナム・フォト)
- 仲間(キャパ、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャー)と マグナム・フォト(1947年) を設立。写真家自身が著作権を持つ独立組合で、報道写真家の倫理と自由を守る画期的モデル。 Magnum「History」↗
- ICP(International Center of Photography、1974)── マグナムの精神を制度化:マグナム創設者の一人で写真家でもあったコーネル・キャパ(ロバート・キャパの弟、1918–2008)が、1966年設立の International Fund for Concerned Photography を母体に、1974年ニューヨークで美術館+写真学校として設立。兄ロバートと仲間のヴェルナー・ビショフ、ダヴィッド・シーモアが1950年代に相次いで取材中に死んだ衝撃が出発点。標語は 「concerned photography(社会的関心の写真)」 ── 報道写真の倫理を美術館的価値と結ぶ。MoMA・マグナム・Aperture・Institute of Design(8-3)と並ぶ 戦後米国写真の制度的四角形を完成させる最後のピース。Infinity Awards(1985〜)など現在も活動継続。 Wikipedia「ICP」↗
8-2 「人間家族(The Family of Man)」展(1955年)
- MoMAでエドワード・スタイケンが企画。68か国・273人の写真家による503点を、誕生・愛・労働・死など普遍的テーマで構成。世界を巡回し、写真展史上空前の動員。 MoMA Archives ↗
- 戦後ヒューマニズムの頂点:「人類はみな家族」という普遍的メッセージ。
- 後にロラン・バルトやアラン・セクーラが「歴史や政治の差異を消し、普遍を演出するイデオロギー」と批判。ヒューマニズム的ドキュメンタリーへの懐疑が、次の主観・批評の時代を呼ぶ。
8-3 作家中心主義の戦後 ── 欧「主観写真」と米『Aperture』
報道写真の客観性(第7章)が頂点に達した直後、作家の内面・精神性を中心に据える動きが欧と米でほぼ同時に立ち上がる。
- 欧 ── オットー・シュタイナートの「主観写真(Subjektive Fotografie)」(ドイツ、1950年代):戦後ドイツで、報道でも記録でもない、作家の内面・造形意志を前面に出す抽象的・実験的写真を提唱。
- 米 ── 季刊誌『Aperture』創刊(1952年):ミナー・ホワイトを初代編集長に、アンセル・アダムス、ドロシア・ランゲ、ボーモント&ナンシー・ニューホール、バーバラ・モーガンらが創設した非営利の写真批評誌。「creative thinking, significantly expressed in words and photographs(言葉と写真で表現された創造的思考)」を綱領に、写真の作家性と精神性を理論武装。MoMA・マグナムと並んで戦後米国写真の制度的基盤となり、今も継続中。 Aperture 公式「About」↗
- 米 ── シカゴ Institute of Design(旧 New Bauhaus、1937〜):モホイ=ナジ(6-2 バウハウス)が1937年シカゴで設立した「New Bauhaus」が前身。1939年改称、1944年 Institute of Design、1949年に Illinois Institute of Technology(IIT)と合併(米国初のデザイン博士課程)。「アメリカのバウハウス」と呼ばれた写真教育の本場。ハリー・キャラハン(在籍1947–61、植物・街・妻のクローズアップ)、Photo League から移籍したアーロン・シスキンド(7-1節/在籍1951–71、剥がれた壁の抽象クローズアップ)、アーサー・シーゲルらが教鞭をとり、バウハウスのDNAを戦後米国写真教育に直結させた。シスキンドの 社会派ドキュメンタリー(Photo League)→ 抽象写真(ID) という転回そのものが、戦後米国写真の大きな水脈の一つ。 Wikipedia「Institute of Design」↗
- 米 ── ロイ・デカラヴァ(1919–2009)と『The Sweet Flypaper of Life』(1955年、詩人ラングストン・ヒューズと共著):「アメリカのバウハウス」(ID) の冷たいモダニズムとは正反対の系譜。1952年、写真家として史上初のアフリカ系グッゲンハイム・フェローとなり、1年間ハーレムの黒人コミュニティを撮影。詩人ラングストン・ヒューズと共著した本書は、黒人家族の日常の尊厳を叙情的な暗いトーンの黒白で描いた古典。「黒人が真面目に芸術として描かれない」状況を変えるべく、ドキュメンタリーではなくファインアート写真として仕事をした。2006年 National Medal of Arts。彼の暗いトーンと黒人の尊厳を結ぶ系譜は、後の キャリー・メイ・ウィームズ(12-3)・ラトーヤ・ルビー・フレイザーらへ流れる。 Wikipedia「Roy DeCarava」↗
8-4 ロバート・フランクとクライン ── 写真の文法を壊す
- ロバート・フランク『アメリカ人(The Americans)』(1958/59年、序文ジャック・ケルアック):アメリカ中を車で旅し、ピンボケ・傾いた構図・ザラついた粒子で、孤独・人種差別・消費社会といったアメリカの陰を、よそ者の冷たい眼差しで撮る。当初は「反米的・下手・暗い」と猛批判。だがこれが革命となり、写真を個人的・主観的な表現へ解放した。
- ウィリアム・クライン『ニューヨーク』(1956年):ブレ・粗粒子・広角の接近・大胆なレイアウト。報道写真の「整った美」を破壊する暴力的な躍動。クラインとフランクの美学は、のちの日本のプロヴォーク(第9章)に直撃する。
8-5 戦後日本 ── リアリズムから前衛へ、そしてVIVO
日本写真史の独自の厚みがここから始まる。鍵は リアリズム(土門拳)→ 主観・前衛(VIVO) という転回。
二大巨匠 ── 木村伊兵衛と土門拳
戦後(そして戦前から)の日本写真は、対照的な二人の巨匠を軸に語られる。この二人の対比は、第6章で見た「35mm vs 大判」というフォーマットの対比とぴたり重なる。
- 木村伊兵衛(1901–1974)── ライカの名手、瞬間の軽やかさ
- 戦前からライカ(35mm)を自在に操り、街や人々の自然な一瞬を、軽妙洒脱に、構えさせずに捉えた。日本におけるスナップショットの達人。
- 秋田の農村、銀座、戦後パリのカラーなど。「写されていることを気づかせない」距離の取り方が真骨頂。第6章の“35mmの美学”を体現する存在。
- 土門拳(1909–1990)── 大判のリアリズム、凝視の重さ
- 戦後のリアリズム写真運動を主導。スローガンは「絶対非演出の絶対スナップ」── 演出を排し、社会の現実を正面から凝視せよ。
- 大判カメラによる徹底した精密描写。『ヒロシマ』(1958年)、『筑豊のこどもたち』(炭鉱閉山と貧困)、そしてライフワーク『古寺巡礼』(仏像・古寺の圧倒的な細部)。
- 対比と関係:木村=軽さ・瞬間・35mm/土門=重さ・凝視・大判。スタイルは対極だが、二人はともにアマチュア写真界の審査・指導を担い、戦後写真の規範を作った盟友でもあった。
- 遺産:日本写真界で最も重要な二つの賞 ── 新人の登竜門 木村伊兵衛写真賞(朝日新聞社)と、社会派・大作を讃える 土門拳賞(土門の故郷・酒田市が主催)── に、二人の名と美学がそのまま受け継がれている。本稿に何度も登場する受賞者たち(北島敬三、川内倫子ら)は、この系譜の上にいる。
土門の「絶対非演出」は、写真の“真実”への信頼の極点。VIVO以降の世代(次項)は、その「客観的に世界を写せる」という信頼そのものを問い直していく。二大巨匠は、戦後日本写真の出発点であり、乗り越えるべき父でもあった。
VIVO(ヴィヴォ、1959–1961)── 主観への扉を開いた写真家集団
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強大だった土門拳中心の「リアリズム写真運動」に対抗し、より私的・主観的な、“写真家が見える”表現を志向した若い世代が結集。
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母体は写真評論家 福島辰夫 が企画した第1回 『10人の眼』展(1957年、小西六フォトギャラリー)。ここから6人が 1959年7月にセルフ・エージェンシー「VIVO」を結成(〜1961年)。名はエスペラントで「生命(life)」。 SFMOMA ↗
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メンバーは 川田喜久治・佐藤明・丹野章・東松照明・奈良原一高・細江英公 の6人。事務所兼暗室は銀座の佐藤明スタジオ。マグナムを手本に、写真家自身が自作の使用権を握る独立組織を目指した(=単なるグループではない)。
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極端なクローズアップや大胆な明暗処理など技法的実験から「映像派」とも呼ばれた。代表作に 東松照明『〈11時02分〉NAGASAKI』、奈良原一高『人間の土地』『王国』、川田喜久治『地図』(1965年、序文・大江健三郎)、細江英公『薔薇刑』(三島由紀夫主演)『鎌鼬』。
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存続は2年と短いが、戦後日本写真を「客観的記録」から「主観的・象徴的表現」へ転回させた決定的事件。この人脈が第9章プロヴォーク、第10-5節WORKSHOP写真学校へとつながっていく。
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戦後日本写真は「戦争・占領・近代化のなかで日本とは何か」を問い続けた。風景=記憶や歴史を負った土地、という見方の素地がここにある。
第9章 1960年代 ── イメージへの懐疑とスナップの深化
「写真は世界を写す」という素朴な信頼が揺らぎ始める転換点。ポップアート、コンセプチュアル・アート、そして日本のプロヴォークが、それぞれの仕方で写真の前提を問い直す。
9-1 ポップアートと写真
第6章ストレートと第11章ポストモダンを橋渡しするミッシングリンク。
- アンディ・ウォーホル:報道写真・宣材写真(マリリン、自動車事故、電気椅子、人種暴動)をシルクスクリーンでキャンバスに刷り込む。素材はすべて“すでに出回っている写真”。「現実を撮る」のではなく「イメージを引用・反復する」。
- ロバート・ラウシェンバーグ:写真イメージをシルクスクリーンで画面に流し込む(実物を貼り込む1950年代の「コンバイン」とは別の、1962年以降のシルクスクリーン絵画)。 SFMOMA ↗
- さかのぼればリチャード・ハミルトン『今日の家庭をこれほど…』(1956年)は雑誌広告のフォト・コラージュ。 Tate「Just what is it…」↗ / Wikipedia ↗
- 機械的に複製された大衆イメージが、見下される弱点どころか最高にクールな芸術素材になった。第2章ボードレールの「しもべ論」を真正面から無効化し、第11章の“流用”へ直結。
9-2 エド・ルシャと写真集 ── デッドパンの起源
- エド・ルシャ:『26のガソリンスタンド』(1963年)、『サンセット・ストリップの全建物』(1966年)、『ロサンゼルスのいくつかのアパート』(1965年)『34の駐車場』(1967年)。 MoMA ↗
- タイトルがそのまま中身。ただ平凡な人工物を機械的に並べただけ。「作家の魂」も「決定的瞬間」もない、徹底してそっけない(デッドパンな)アメリカの日常風景。
- この「平凡な人工的風景を、淡々とシリアルに記録する」態度は、ポップとコンセプチュアルを橋渡しし、そのまま第10章ニュー・トポグラフィクスへ流れ込む。ルシャのガソリンスタンドはニュー・トポの予告編。
9-3 ニュー・ドキュメンツ ── スナップの内向き化
- MoMAのジョン・シャーカフスキーが企画した展覧会 「ニュー・ドキュメンツ」(1967年) が、三人を束ねて時代を画した。 Wikipedia「New Documents」↗
- ダイアン・アーバス:社会の周縁(小人、巨人、双子、見世物の人々)を正面から、不穏な親密さで。
- ゲイリー・ウィノグランド:街の混沌を傾いた広角で大量に。「写真がどう見えるかを見るために撮る」。
- リー・フリードランダー:自分の影や反射が写り込む、複雑で自己言及的な都市風景。
- ドキュメンタリーが「社会を証言する」道具から、「私的で・内向きで・意味の定まらない曖昧なもの」へ深化。客観から主観への転回の到達点。
- アーバスの死後の制度的承認(1971–72):1971年7月26日、ニューヨークの自宅でアーバス自死(享年48)。だが翌1972年は、写真史の制度的転換点になる。ヴェネチア・ビエンナーレで米国を代表 ── 写真家がビエンナーレで国を代表した史上初の例。同年MoMAで大回顧展(娘のドゥーン・アーバス+友人マーヴィン・イスラエル企画)が開かれ、それまでのMoMA史上最多動員を記録した。写真家が個人作家として国際美術の最高峰で承認された象徴的事件で、後年の写真の美術市場化(第12章 グルスキー/シャーマン)の遠い前哨でもある。 Wikipedia「Diane Arbus」↗
9-4 プロヴォーク ── 日本の「アレ・ブレ・ボケ」
- 同人誌 『プロヴォーク(PROVOKE)』(雑誌3号は1968年11月〜1969年8月、関連書籍まで含めれば1970年3月。副題「思想のための挑発的資料」)。多木浩二・中平卓馬・高梨豊・岡田隆彦が創刊、森山大道が第2号(1969年3月)から参加。 Wikipedia「Provoke (magazine)」↗
- アレ(粗い粒子)・ブレ・ボケ:意図的に荒れ・ブレ・ピンボケを多用し、「言葉や意味になる前の、生の世界の手触り」をつかもうとした。クライン/フランクの衝撃を日本で先鋭化。
- 森山大道『にっぽん劇場写真帖』『狩人』、犬の写真。中平卓馬は後に自説(イメージの氾濫への批判)を理論化し、『なぜ、植物図鑑か』で自らの初期スタイルを否定する厳しさへ。
- プロヴォークは「写真は世界を客観的に写せる」という信頼そのものへの挑発。風景もまた、整った絶景ではなくざらついた現実の断片として立ち現れる。
- MoMA「New Japanese Photography」展(1974)── プロヴォーク世代の世界承認:1974年3〜5月、MoMAで「New Japanese Photography」展(ジョン・シャーカフスキー+山岸章二共同企画)が開催。日本国外で行われた現代日本写真の初の大規模サーベイで、東松照明・細江英公・川田喜久治・森山大道・奈良原一高・土門拳ら15作家・約150点。展覧会は米国内の複数都市を巡回し、戦後日本写真(VIVO・プロヴォーク世代)が世界の制度に組み込まれた起点となった。シャーカフスキー(7-5 / 9-3)が日本写真を米国観客に紹介した、戦後日米写真交流の節目。 Wikipedia「Shōmei Tōmatsu」↗
コンポラ写真 ── プロヴォークの対岸、平静な日常の系譜
プロヴォークの叙情的な「アレ・ブレ・ボケ」と並んで、1960年代末〜70年代の日本写真にはもう一本の太い線がある。コンポラ写真。海外で先に有名になったプロヴォークの陰に隠れがちだが、戦後日本写真を語るうえで欠かせない潮流で、現在の日常スナップ・私写真の地下水脈にも直接つながっている。
- 語源:コンポラは Contemporary Photographers の短縮形。由来は1966年12月にニューヨーク州ロチェスターの ジョージ・イーストマン・ハウス(→ 10-1 ニュー・トポと同じ場所)で開かれた展覧会 『Contemporary Photographers: Toward a Social Landscape』。キュレーターはネイサン・ライオンズ、出品はブルース・デヴィッドソン/リー・フリードランダー/ゲイリー・ウィノグランド/ダニー・ライアン/デュアン・マイケルズの5名。「social landscape(社会的風景)」という枠組みで、街なかの何でもない眺めをニュートラルに撮るスナップ美学を提示した。翌1967年MoMA「ニュー・ドキュメンツ」(→ 9-3)と地続きで、米国で同時並行に立ち上がった“内向きで平静なスナップ”の潮流である。 Wikipedia「Nathan Lyons」↗/Internet Archive『Toward a Social Landscape』全文 ↗
- 日本への着地(1968年):写真家・大辻清司が 『カメラ毎日』1968年6月号「シンポジウム 現代の写真」で、この“contemporary photographers”の傾向を日本側で定義づける議論を展開。以後「コンポラ調」「コンポラ写真」という呼び名が定着していく。プロヴォークが「写真の信頼そのものへの挑発」だったのに対し、コンポラは 「私のまわりにあるありふれた事物を、無造作な視線でただ写す」 ことを徳とした。叙情ではなく平静、宣言ではなく観察。 Wikipedia「コンポラ写真」↗
- 舞台 ── 『カメラ毎日』と山岸章二:山岸章二(1928–1979) は1957年に毎日新聞社『カメラ毎日』編集部に入り、1976年に編集長、1978年に退職。彼の編集下で『カメラ毎日』は コンポラ写真の中心舞台となり、若い作家を組織的に世に出した(1974年にはシャーカフスキーと組んでMoMA「New Japanese Photography」も共同企画 → 9-4)。戦後日本写真は、欧米のような美術館・市場ではなく、カメラ雑誌(『アサヒカメラ』『カメラ毎日』)と編集者が苗床になった ── この構図が最も濃く出たのがコンポラの時代である(→ 10-5 自主ギャラリー運動と地続き)。 Wikipedia「山岸章二」↗
- 代表作 ──『日々』(1971):牛腸茂雄(ごちょう しげお、1946–1983) と 関口正夫(桑沢デザイン研究所での同級生)の共著写真集 『日々』(1971年、自費出版)。大辻清司が「写真をみる他人」と題する序文を寄せた。タイトルどおり、街角・室内・路地で見かけた何でもない日常のモノクロ48点。コンポラ写真の代表作のひとつ。 shashasha『牛腸茂雄全集 作品編』解題 ↗/赤々舎『牛腸茂雄全集 作品編』 ↗
- 牛腸茂雄『SELF AND OTHERS』(1977):自費出版(白亜館)。大辻清司の序文付き。「自己と他者」を主題に、家族・友人・通行人をフラットに正対して撮った60点。1978年に日本写真協会新人賞を受賞。先天性の胸椎カリエスにより36歳で早世したが、1990年代以降(季刊『déjà-vu』1992年8号特集、1994年未來社復刻)に再評価が進み、現在は戦後日本写真の古典として遇される。“正対した他者の肖像”という形式は、後の都築響一・川内倫子・蜷川実花以前の、穏やかな日常スナップの源流として参照され続ける。 Wikipedia「SELF AND OTHERS」↗/未來社(新装版) ↗
- 鈴木清『流れの歌』(1972):鈴木清(1943–2000) の処女写真集。福島・好間(常磐炭鉱)に生まれた鈴木が、沖縄・恐山・新潟などを旅して撮った写真を、装幀・レイアウトまで自分の手で仕上げた自費出版。叙情的だが派手な前衛性は無く、足で歩いて見たものを淡々と束ねる ── コンポラ的な“私のまわり”の拡張版。 タカ・イシイギャラリー『流れの歌、夢の走り』展解説 ↗
- 北井一夫『村へ』:1974年1月〜1975年12月、『アサヒカメラ』に24回連載された、過疎が進む日本の村々のモノクロ・ルポ。1975年度(第1回)木村伊兵衛写真賞を受賞(賞の発表は1976年、同年『アサヒカメラ』10月増刊として写真集化、1980年に淡交社から決定版『村へ』)。プロヴォークの叙情的破調とは対極の、静かな足取りで土地と人を写す仕事で、北井はコンポラ世代の社会派ドキュメンタリーの代表格になった。 FUJIFILM SQUARE『北井一夫 村へ、そして村へ』展解説 ↗
- プロヴォークとの対比:同じ1960年代末〜70年代に並走したが、出自と狙いは対照的。プロヴォークは「言葉になる前の世界」をアレ・ブレ・ボケで叩き出す叙情的・宣言的な運動。コンポラは 「ありふれた事物」「日常的・無造作な視線」(大辻)を、ピントの合った平静なフレームで淡々と差し出す観察的な態度。森山大道らの“叫び”の対岸にある“ささやき”である。ところがこの2本の線は、海外での受け止められ方が大きく違った ── プロヴォークは1970年代以降に欧米の美術館・写真集市場で繰り返し再評価され国際的な代名詞になったのに対し、コンポラは長く国内向けの文脈にとどまった。現在の私写真・日常スナップの世界的な広がり(→ 11-5 私写真)の起点を辿ると、実は声の大きいプロヴォークよりも、声の低いコンポラのほうに直接の血脈が通っていることが多い。
- 米欧との家族的近縁:コンポラはアメリカの ニュー・ドキュメンツ(1967、→ 9-3)=アーバス/フリードランダー/ウィノグランドの“内向きスナップ”と、ニュー・トポグラフィクス(1975、→ 10-1)=改変された平凡な土地のニュートラルな記録という、60〜70年代米国写真の二つの太い線と地続きにある(語源そのものがイーストマン・ハウスから来ていることを思い出したい)。つまりコンポラ写真は、第9〜10章の米国写真と、第10-5の日本の自主ギャラリー運動・第11-5の私写真をつなぐ蝶番として位置している。
中平卓馬の転回 ── 「アレ・ブレ・ボケ」を捨てた者の問い
本書の問い「写真は記録か芸術か/作家性とは何か」に、プロヴォーク主導者みずからが正面から答え直した稀有な例として、中平卓馬(1938–2015)の軌跡を独立に置く。プロヴォーク的なアレ・ブレ・ボケが「世界に触れる方法」だったはずが、いつの間にか「作家の身振り・スタイル」として消費されはじめたとき、その当事者が自分の手で梯子を外した。
- 写真集『来たるべき言葉のために』(1970年、風土社) ── プロヴォーク的方法をひとつの極まで突き詰めた写真集。粗粒子・ブレ・ボケで都市の夜を焼きつけ、アレ・ブレ・ボケの時代を象徴する一冊として戦後日本写真史に残る。 Aperture ↗ / コトバンク「中平卓馬」↗ / Wikipedia「Takuma Nakahira」↗
- 評論集『なぜ、植物図鑑か』(1973年、晶文社) ── そのわずか3年後、中平は自らのプロヴォーク的スタイルを自己批判する。詩的な暗喩や情緒に寄りかかった「作家の感情の記録」を退け、世界をそのまま指し示す「植物図鑑」のような写真を構想した。作家性=スタイルを一度ゼロに戻す宣言であり、9-1〜9-3の「主観・内向き化」の流れに、当事者の側から打たれた最大級のブレーキ。 Aperture ↗ / コトバンク「中平卓馬」↗
- 自作の焼却(1970年代半ば) ── 言葉だけでなく行為でも転回を刻んだ。植物図鑑論前後の時期に、過去のネガ・プリントの多くを自ら焼却したと伝えられる。プロヴォーク的な写真の蓄積をそのまま捨てる極端な身振りは、「作家=過去の作品の総体」という近代芸術の前提そのものへの拒絶でもあった。 Wikipedia「Takuma Nakahira」↗ / コトバンク「中平卓馬」↗
- 1977年、急性アルコール中毒で昏睡 ── 記憶と言語の喪失:39歳のときに急性アルコール中毒で倒れ、重い記憶障害と失語の後遺症を負う。批評家として走り続けた人間から、批評の言葉そのものが奪われた。「写真は言葉に先立つか、言葉のあとに来るか」というプロヴォーク以来の問いが、不意に人生の側から問い返された出来事として読める。 Wikipedia「Takuma Nakahira」↗ / コトバンク「中平卓馬」↗
- 記憶障害後の「日々、撮る」生活 ── 回復後の中平は、横浜の自宅周辺を毎日のように歩き、目の前のもの(植物、看板、犬、街路)をカラーで淡々と撮り続けた。スタイルの誇示も意味の付与もない、ほとんど図鑑のような撮影行為そのもの。1973年に言葉で構想した「植物図鑑」が、皮肉にも記憶を失ったあとの身体によって実装された、と読むこともできる。 Aperture ↗ / コトバンク「中平卓馬」↗
- 2003年 横浜美術館『原点復帰—横浜(Degree Zero—Yokohama)』 ── 横浜美術館で大規模個展が開かれ、プロヴォーク後の長い空白を経て、中平の仕事が戦後日本写真の中核として制度的に再評価された。タイトルそのものが「作家性ゼロ地点からの再出発」を告げている。2015年9月1日没(享年77)。 Wikipedia「Takuma Nakahira」↗ / コトバンク「中平卓馬」↗
- 本書全体への接続── 中平の弧は、プロヴォーク(主観の極北)→ 植物図鑑(自己否定)→ 焼却(過去の消去)→ 記憶障害後の日々の撮影(作家以前の眼)、と進む。「作家のスタイル」が剥がれ落ちたあとに、なお写真は撮られ続ける。これは第2章ボードレールの「写真はしもべでよい」、第6章ザンダーの「分類こそが芸術か」、第9-5ベッヒャー夫妻の「無表情こそが見ることか」と地下水脈でつながり、第10-1ニュー・トポグラフィクスの「中立的な記述」とも響き合う。日本側からの、もっとも徹底した「作家性への問い直し」として、本書ではプロヴォークの隣に独立で置く。
9-5 コンセプチュアル・アートと、ベッヒャー夫妻の開始
- コンセプチュアル・アート:1960年代末、アイデアこそが作品とする動向の中で、写真は「行為やアイデアを記録する中立的な道具」として多用された(ランド・アートやパフォーマンスの記録など)。芸術写真の“上手さ”からの意図的な離脱。
- ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻(ドイツ):給水塔、溶鉱炉、ガスタンクなど産業構造物を、同一条件・無表情・正面から撮り、グリッド状に並べるタイポロジー(類型学)を始めた(共同制作は1959年から)。 Tate ↗第6章ザンダーの水脈を継ぎ、第10章ニュー・トポグラフィクス、第11・12章デュッセルドルフ派へとつながる、戦後写真の最重要の柱の一つ。
- Documenta での制度的承認:現代美術の最高峰イベント Documenta(カッセル、5年に一度) に、写真/コンセプチュアル系が制度として組み込まれていく。1972年 Documenta 5(ハラルト・ゼーマン企画「現実への問い ── 今日のイメージ世界」)にベッヒャー夫妻が参加 ── エド・ルシャ、ハンス=ペーター・フェルトマン、ソル・ルウィットらと並び、産業考古学的なタイポロジーが現代美術の本流として承認された。続く1977年 Documenta 6ではキャパ/カルティエ=ブレッソン/ウォーカー・エヴァンス/ザンダー/マン・レイ/スタイケン/アーバスらが集結し、カタログも『写真・映画・ビデオ』として一巻が独立 ── 写真が現代美術の中で本格的に位置づけ直された節目とされる。1976年のベルントのデュッセルドルフ芸術アカデミー教授就任(→ 11-6 / 12-2)はこの直線上にある。 Wikipedia「Documenta 5」↗ / Documenta 6 ↗
第10章 1970年代 ── 風景の再定義と色彩の解放
風景作家にとって最大の分水嶺。①風景写真の意味が変わり、②それまで「俗」とされたカラーが芸術として認められる、二つの革命が起きる。
10-1 ニュー・トポグラフィクス(1975年)
- 1975年、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス(国際写真美術館)で開かれた展覧会 『ニュー・トポグラフィクス ── 人の手が加わった風景の写真(New Topographics: Photographs of a Man-Altered Landscape)』。会期は1975年10月〜1976年2月。
- キュレーターは ウィリアム・ジェンキンス(ジョー・ディールが協力)。出品はこの10人:
- ロバート・アダムス、ルイス・ボルツ、ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻、ジョー・ディール、フランク・ゴールケ、ニコラス・ニクソン、ジョン・ショット、スティーヴン・ショア、ヘンリー・ウェッセル・ジュニア。 Wikipedia「New Topographics」↗
- 撮られたのは郊外の建売住宅、駐車場、倉庫、工業団地、モーテル、送電線=人間がいじり倒した平凡な景観。撮り方は徹底してニュートラルで、劇的な光も感情も主張もない。
- ジェンキンスはカタログで「中立的」「本質的に地形図(トポグラフィック)的な状態に還元され、美・感情・意見を一切排している」と表現。「トポグラフィクス(地形測量)」は19世紀の測量写真(→第3章オサリヴァン!)のような“ただ土地を客観記録する”姿勢を指す。 Wikipedia「New Topographics」↗
- 当時の反応は冷淡だったとされるが、後年に決定的な転換点として再評価され、現代風景写真に持続的影響を与えた展覧会として広く参照される。
なぜ事件だったのか(風景史における意味)
- 崇高な自然 → 人新世の“改変された風景”へ:第6章アンセル・アダムスの「手つかずの大自然の崇高(サブライム)」を、真っ向から否定。手つかずの自然などもうない、人間が改変した土地こそ現実だ、と。 人新世(じんしんせい/アンソロポシーン, Anthropocene)=人類の活動が地質や生態系を変える主要な力になった、とする時代区分の考え方。大気化学者 パウル・クルッツェン らが2000年前後に提唱・普及させた(クルッツェンは2002年に Nature 誌「人類の地質学」で論じた)。ただし地質学の正式な「世(epoch)」としては未承認で、2024年に国際地質科学連合(IUGS)系の委員会が正式化を見送っている。風景写真では「もう手つかずの自然はない」という認識を支えるキーワードとして使われ、第12-4節バーティンスキーで地球規模に拡張される。 Wikipedia「Anthropocene」↗
- 作家の感動 → 観察者の距離へ:第8〜9章の主観的な“私の眼”への、静かな反動でもある。
- デュッセルドルフ派の母体:10人にいたベッヒャー夫妻の参加が、その分類記録の手法を国際的に知らしめた。1976年ベルントがデュッセルドルフ芸術アカデミー教授に就任し写真クラスが発足、グルスキーら(第12章)を育てる。 Wikipedia「Bernd and Hilla Becher」↗
この時代の分岐:1975年以降、風景写真家は好むと好まざるとにかかわらず 「アンセル・アダムスか、ニュー・トポグラフィクスか」 という二極のどこかに立つことになった。現代の風景写真の多くは、この二極のどこに位置するかで読み解ける。
10-2 カラー写真の格上げ ── エグルストン、ショア、マイヤーウィッツ
それまでカラーは「広告と家族スナップのもの」で、芸術写真はモノクロが正統(カラーは俗っぽい、と長く見下された)。これを覆したのが1970年代。
- ウィリアム・エグルストン:MoMAでジョン・シャーカフスキーが個展『ウィリアム・エグルストンズ・ガイド』(1976年)を開催。南部の何でもない日常(裸電球の赤い天井、三輪車、ガソリンスタンド)を鮮烈なカラー(ダイ・トランスファー印画)で。当初は否定的な評価も多かったとされるが、カラー写真が美術の中心に受け入れられる象徴的転換点として歴史的に位置づけられている。Wikipedia「William Eggleston」↗
- スティーヴン・ショア(1947–):『アメリカン・サーフェシズ』(撮影1972–73、刊行1999)、『アンコモン・プレイシズ』(撮影1973–79、刊行1982)。大判カメラによる、明るくフラットなアメリカの日常・道路・街並み。1971年、24歳のときに存命の写真家として史上初めて Metropolitan 美術館で個展を開催(写真史の制度史で異例の若さ)。1976年 MoMA でカラー写真の個展(エグルストン展と同年)、ニュー・トポグラフィクス展(1975)にも出品。“そっけない人工風景×カラー”という現代風景写真の文法を確立し、エグルストンと並ぶカラー写真芸術化の二人。 Wikipedia「Stephen Shore」↗
- ジョエル・マイヤーウィッツ:『ケープ・コッド』など、大判カラーで光と大気をとらえる叙情的な系譜。
- 重要:現在カラーで風景を撮れるのは、この1970年代の“色彩の解放”のおかげ。ニュー・トポの即物性とカラーの解放が合流して、現代の風景写真の土台ができた。
10-3 ソンタグ『写真論』(1977年)
写真“を”撮る技術の話ではなく、写真“について”考える本。撮る側でなく見る側・受け取る側の倫理に切り込んだ、20世紀写真批評の最重要文献。以後の写真論はこの本を避けて通れない。
- 成り立ち:スーザン・ソンタグ(1933–2004)が 1973〜77年に『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス(The New York Review of Books)』に連載した6編のエッセイをまとめた本(1977年、Farrar, Straus and Giroux 刊)。1977年の全米批評家協会賞(批評部門)を受賞。収録は「プラトンの洞窟で(In Plato’s Cave)」「アメリカ、写真を通して暗く」「メランコリーな対象」「視覚の英雄主義」「写真の伝道者たち」「イメージ=世界(The Image-World)」、巻末に引用集「A Brief Anthology of Quotations」。冒頭作はプラトンの“洞窟の比喩”を下敷きに、写真=壁に映る影=現実の代用品、という枠組みを据える。 Wikipedia「On Photography」↗/SuperSummary「On Photography」↗
- 主張①|撮ることは“所有”すること:「写真に撮ることは対象を私物化(appropriate)すること」。世界を自分の知識・支配下に置いたような感覚を与えるが、それは現実そのものではなく代用のトークンにすぎない。
- 主張②|まなざしの暴力性と受動性:撮る行為には“狙う・撮る(shoot)”という捕食的・暴力的な含みがある一方、カメラを構える者は介入せず傍観する(目の前で起きることに手を出さず記録だけする)。ソンタグはこの傍観者性こそ写真の最も倫理的に厄介な点だと言う。「人は遅かれ早かれ自分自身の現実の観光客になる」。
- 主張③|世界を断片の集積に変える:写真は世界の理解ではなく断片の収集を与える。イメージが氾濫すると出来事の意味は平板化(横並び)し、何もかもが等価に見えてくる。
- 主張④|過剰消費と感覚の麻痺:苦痛や惨事のイメージも、浴び続ければ衝撃が摩耗し道徳的な応答力を鈍らせる。だからこそソンタグは「イメージのエコロジー(an ecology of images)」── 広告やテレビが垂れ流す映像の洪水に抗い、イメージを節度をもって扱う態度 ── の必要を説く。 Wikipedia「On Photography」↗/SuperSummary「On Photography」↗
- 影響と射程:写真を撮る行為そのものを倫理的に問い直し、メディア・イメージへの懐疑を理論化した点で、続くポストモダン写真論(第11章ピクチャーズ世代)の土壌を耕した。1990年代末には、その概念群が写真批評家の“共有の道具箱”の一部になったと評される。一方で、写真を消費・暴力・代用品として捉える悲観的・断定的な論調には批判もあり、ソンタグ自身が後年それを修正していく(次項)。
- 邦訳:『写真論』近藤耕人〔こんどう こうじん〕訳、晶文社(晶文社ライブラリーで新版も刊行)。 晶文社『新版 写真論』↗
ソンタグ自身による“修正”──『他者の苦痛へのまなざし』(2003年)
- 『他者の苦痛へのまなざし(Regarding the Pain of Others)』(2003年、Farrar, Straus and Giroux)は、ソンタグ最晩年の長編エッセイ。『写真論』の続編と位置づけられ、かつての自説を一部反省・更新している。直接の母体は 2002年12月『ニューヨーカー(The New Yorker)』掲載の論考「Looking at War(戦争を見る)」。 Wikipedia「Regarding the Pain of Others」↗
- 論点:主題は戦争写真と、惨状の画像に慣れて無感覚になる「同情の摩耗(compassion fatigue)」。ただしソンタグは『写真論』の「イメージは道徳的応答力を麻痺させる」という断定をそのまま撤回するのではなく、複雑化する。同じ一枚の写真でも、文脈やキャプション、見る者の信条しだいで反応は変わる(反戦にも復讐の煽動にもなりうる)ので、イメージが特定の反応を自動的に生むわけではない、と。麻痺を必然視した1977年の自分に、留保をかけ直した本。 Wikipedia「Regarding the Pain of Others」↗
- 邦訳:『他者の苦痛へのまなざし』北條文緒〔ほうじょう ふみお〕訳、みすず書房(2003年)。 みすず書房『他者の苦痛へのまなざし』↗
10-4 ピクチャーズ世代の胎動
- 批評家ダグラス・クリンプの展覧会 「Pictures」(1977年、ニューヨークのArtists Space) と論考が、「ピクチャーズ・ジェネレーション」という呼称の起点に。 Artists Space ↗メディア・イメージを引用・再構成する若い作家たちの登場(本格展開は第11章)。
10-5 日本の写真の地下水脈 ── 写真学校と自主ギャラリー運動
第9章プロヴォークの“その後”として、日本写真の独自の厚みを支えた教育・場づくりの動きをまとめておく。海外の美術館・市場中心の流れ(第10〜12章)に対し、日本では学校と自前のギャラリーが表現の苗床になった、という対比が重要。
「日吉の写真学校」── 東京綜合写真専門学校
- 写真批評家 重森弘淹(しげもり こうえん、1926–1992) が、渡辺勉・玉田顕一郎らと 1958年に「東京フォトスクール」を創立。1960年に 東京綜合写真専門学校 と改称し、1963年、横浜・日吉(港北区箕輪町)に移転。以後「日吉の写真学校」として知られる。 Wikipedia「Tokyo College of Photography」↗/東京綜合写真専門学校 公式『学校沿革』↗
- 重森は批評家=教育者。その根本思想は 「表現とは作者の批評行為であり、それなくして表現は存在しない」。技術より思考・批評を重んじる、強く理論的な校風を築いた。
- 重森は隆盛したリアリズム写真運動を批判的に継承しつつ、東松照明・奈良原一高ら新しい表現を支持。さらにウィリアム・クライン、ロバート・フランクをいち早く日本に紹介(第8章)。批評誌 『写真批評』(1973〜74年) も刊行。
- 「撮る前に考える」批評的な写真観の拠点。卒業生に 土田ヒロミ(後に校長、社会派ドキュメンタリーの大家)、後述する 鈴木清(→ 9-4 コンポラ)ら。後述プリズム等の自主ギャラリーの担い手も多くここから出た。
- 須田一政(すだ いっせい、1940–2019)── 「風姿花伝」の祝祭的な歪み:1962年本校卒。寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」専属カメラマン(1967–70年)を経て独立。代表作 『風姿花伝』(1978年、朝日ソノラマ) は、日本各地の祭礼・縁日・郷土芸能の場を湿った空気と独特の歪んだフレームで撮ったモノクロ。日本写真協会新人賞(1976年)、第1回 東川賞(1985年)、第16回 土門拳賞(1997年、写真集『人間の記憶』)。コンポラ的な平静さの対岸で、「日常と非日常の裂け目」に目を凝らした独自の系譜。 Wikipedia「須田一政」↗ / shashasha『風姿花伝』解題 ↗
- 渡辺兼人(わたなべ かねと、1947–)── 「既視の街」の静謐:1969年本校卒・研究科進学。兄は人形作家の四谷シモン。代表作 『既視の街』 は1973〜80年撮影、1980年に小説家・金井美恵子との共著として新潮社から刊行、翌1981年に第7回 木村伊兵衛写真賞(同名写真展、ニコンサロン)。大判モノクロで都市の何でもない街角を寡黙に観察したその達成は、コンポラ(→ 9-4)的な「ありふれた事物への平静なまなざし」を最も静かに研ぎ澄ました仕事として再評価が進む。2003年、京都・何必館に全作品が永久収蔵。 Wikipedia「渡辺兼人」↗ / IMA「木村伊兵衛写真賞」↗
- 伊奈英次(いな えいじ、1957–)── 大判で読む日本近現代史:1984年本校研究科卒。8×10 の大判モノクロで、都市景観・在日米軍基地の通信アンテナ・産業廃棄物・天皇陵・都市の監視カメラなど、戦後日本の権力と環境の地形を即物的に撮り続ける。代表作 『EMPEROR OF JAPAN』(2008年、Nazraeli Press) は、神武天皇から昭和天皇まで歴代124代の天皇陵を7年かけて撮影したモノクロ大判写真集。1988年 第4回 東川賞新人賞。日本におけるニュー・トポグラフィクス以降(→ 10-1)の系譜に乗りつつ、対象に「日本そのもの」を選んだ最深度の作家。 Wikipedia「伊奈英次」↗ / 公式サイト ↗
- 小林のりお(こばやし のりお、1952年、秋田県大館市生まれ)── 研究科の出身:本校(東京綜合写真専門学校)研究科を1983年に卒業。1980年代に多摩・港北ニュータウンなど造成途上の郊外を大判カメラで即物的に捉えた写真集 『LANDSCAPES』(1986年、Ark One) で日本写真協会賞新人賞、続く 『FIRST LIGHT』(1992年、ペヨトル工房) で 第18回木村伊兵衛写真賞(大西みつぐと同時受賞)。均質化する郊外=風景を乾いた視線で見つめる仕事は、ニュー・トポグラフィクス以降の「新しい風景」をめぐる日本の系譜(→ 10-6 風景論、第12章)で論じられ、ホンマタカシ『東京郊外』(1998年)の先行例にもあたる。1997年頃からデジタルカメラ作品をウェブで発表するなどデジタル時代の表現にもいち早く取り組み、長く武蔵野美術大学映像学科で教えた(現・名誉教授)。 公式サイト(bio)↗ / Wikipedia「小林のりお」↗
WORKSHOP写真学校(1974–1976)── 寺子屋式の伝説的写真塾
- 沖縄から東京に戻った 東松照明 が森山大道に持ちかけ、1974年4月に開校、1976年3月に解散(わずか約2年)。
- 6人の写真家が曜日ごとに各自の教室を持つ「寺子屋式」:月=深瀬昌久、火=荒木経惟、水=細江英公、木=森山大道、金=東松照明、土=横須賀功光(昼・夜の部あり)。 Wikipedia「Shōmei Tōmatsu」↗/Wikipedia「Daido Moriyama」↗
- 機関誌 『季刊WORKSHOP』全8号(1974–76)を自主刊行。マスコミ・カメラ雑誌の権威主義への対抗心も濃い。
- 短命ながら、その後の日本写真に決定的な影響。第8章VIVO(東松・細江ら)→ 第9章プロヴォーク(森山)→ WORKSHOP、という戦後前衛の人脈がここで一度合流する。
自主ギャラリー運動(1976年〜)── 自前のメディアで撃ち返す
- 背景に1973年のオイルショック。花形職業としての写真家への道を断たれた若手が、自分たちの展示・暗室・たまり場を自前で作った。同時多発的に各地で誕生。
- プリズム(新宿)── 東京綜合写真専門学校(重森・土田ヒロミ・石黒健治ゼミ)や東京造形大の在校生・卒業生中心。
- PUT(新宿)── WORKSHOP写真学校・東松ゼミ卒業生中心。
- イメージショップ CAMP(新宿二丁目、1976年6月〜1984年)── WORKSHOP森山大道教室の卒業生6人(菊池大一郎・北島敬三・倉田精二・杉本建樹・徳永浩一・山崎和英)+森山。日本のインディペンデント・ギャラリーの先駆け。
- 北島敬三:CAMPで連続展 『写真特急便 東京』(1979年、毎月1〜12号) を開催。展示空間を暗室に変え、壁の印画紙に直接像を投影・現像して“その場で”見せる過激な実践。のち写真集『NEW YORK』で第8回木村伊兵衛写真賞(1982年度/発表1983年)。
- 倉田精二:『FLASH UP』など、都市のストリートを生々しく。
- 研究者(金子隆一ら)はこの運動を、短命さや閉鎖性という弱点を抱えつつも 「独自のメディアを持つことによる社会への反撃、マスコミ的権威主義への反発」 と評価する。“発表の場を自分で作る”という日本写真のDIY精神は、現在のZINE/写真集文化にもつながる地下水脈。
10-6 風景論 ── 風景写真を「論じる」系譜
風景写真には「撮る」だけでなく「論じる」太い系譜がある。第3章で見た崇高(アダムス的)⇄ 即物(ニュー・トポ的)の二極の先で、20世紀後半には風景を権力・文化・記憶として読み解く理論=風景論が育った。出典の明確なものに絞って、欧米と日本(厚め)の代表を挙げる。
欧米
- ウィリアム・ジェンキンス 編『ニュー・トポグラフィクス』展カタログ(1975年、ジョージ・イーストマン・ハウス):出品作を「美・感情・意見を排し、本質的に地形図(トポグラフィック)的な状態に還元したもの」と定義した、風景論の起点となった一次文献(→ 10-1)。
- ロバート・アダムス『Beauty in Photography』(1981年、Aperture):ニュー・トポ出品作家自身による風景論集。即物的に見えるニュー・トポ的態度の内側から、なお「美」と「真実」を擁護した。撮る側が書いた風景論。 Aperture ↗
- J・B・ジャクソン『Discovering the Vernacular Landscape』(1984年、Yale UP):名所ではなく道路・住宅・商店といった「ありふれた日常の景観(ヴァナキュラー)」に文化を読む「文化的景観(cultural landscape)」論。ニュー・トポ的まなざしの理論的背景として引ける。 Yale UP ↗
- W・J・T・ミッチェル 編『Landscape and Power』(1994/2002年、シカゴ大学出版局):風景を「見る対象」ではなく「国民的・社会的アイデンティティを作る装置(動詞としての landscape)」と捉え直し、風景研究の向きを変えた論集。 University of Chicago Press ↗
- デボラ・ブライト「Of Mother Nature and Marlboro Men」(1985年、『Exposure』誌):風景写真は中立ではなく文化的イデオロギー(孤高のカウボーイ=西部神話)を生産する、と論じた批判的風景論の代表的論文。撮影者・キュレーターの男性支配にも切り込む。 Wikipedia「Deborah Bright」↗
日本
- 松田政男『風景の死滅』(1971年、田畑書店/増補新版2013年、航思社):日本の「風景論(ふうけいろん)」の起点。永山則夫の連続射殺事件を追うなかから、全国的な都市化で均質化した“どこにでもある風景”の背後に国家権力と資本を見る視座を打ち出した。直接の母体は映画 『略称・連続射殺魔』(1969年、足立正生・松田政男ら)── 永山が見たであろう日本各地の風景だけを淡々と連ねた作品で、理論と作品が一体で生まれた。松田の「均質な風景=権力」は、欧米のミッチェル(1994)やブライト(1985)を20年以上先取りしていた。 Wikipedia「松田政男」↗ / artscape「風景論映画」↗ / 東京都写真美術館「風景論」関連展 ↗
- 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』(1973年、晶文社):詩的暗喩や作家の情緒を排し、世界をそのまま指す「植物図鑑」のような写真を構想した自己批判の書(→ 9-4)。イメージの叙情への批判として、松田の風景論と同時代的に呼応する。
- 多木浩二『生きられた家』(1976年)/『眼の隠喩 ── 視線の現象学』(1982年、青土社):プロヴォーク同人(→ 9-4)でもある批評家による、空間・住まい・視線の理論。均質な近代住宅=風景を「住む経験」の側から問い直し、「見ること」そのものの権力性を論じた。 Wikipedia「多木浩二」↗
- 倉石信乃『反写真論』(1999年、オシリス):中平の再評価に連なる批評家による、従来の写真論の枠組みを問い直す論集。 Wikipedia「倉石信乃」↗
- 港千尋『風景論 ── 変貌する地球と日本の記憶』(2018年、中央公論新社):タイトルそのものが「風景論」。震災後の日本と変貌する地球環境を背景に、写真・映像から風景と記憶を論じた現代版の風景論。 中央公論新社 ↗
- 〔参考〕 日本語で英語圏の写真理論に当たるなら 甲斐義明 編訳『写真の理論』(2017年、月曜社) が定番(シャーカフスキー、A・セクーラ、R・クラウス「Notes on the Index」ほかを訳出)。近年の総覧として東京都写真美術館 『風景論以後』展(2023年) も、足立・中平らを起点に1970年前後から現代までの風景表現を一望できる。 月曜社『写真の理論』↗ / 東京都写真美術館「風景論以後」↗
第11章 1980年代 ── ポストモダンと「構築された写真」
最大の方向転換。これまで誰もが(ピクトリアリストもストレートもドキュメンタリーも)「写真は何かを写すもの」と信じていた。その大前提そのものに刃を向ける。
11-1 ピクチャーズ・ジェネレーション
起点 ── 「Pictures」展(1977年、Artists Space, NY)
ニューヨークの非営利スペース Artists Space で 1977年9月24日〜10月29日に開催された伝説の小展覧会。批評家 ダグラス・クリンプ企画。出品は トロイ・ブラウンタック/ジャック・ゴールドスタイン/シェリー・レヴィン/ロバート・ロンゴ/フィリップ・スミス の5名 ── シャーマンは1977年の本展には含まれていない(1979年にクリンプが論文「Pictures」を October 誌で発展させた際、スミスを外しシャーマンを加え、以後「ピクチャーズ・ジェネレーション」と呼ばれる枠組みが定着した)。クリンプは彼らに共通する手つきを 「引用・抜粋・フレーミング・演出(quotation, excerptation, framing, staging)」 と整理した ── これがポストモダン写真の理論的基盤に。本節タイトルもこの展覧会に由来する。 Wikipedia「Pictures Generation」↗
作家たち
「写真は現実を写すのではない。私たちはすでに無数のイメージ(映画・広告・報道写真)に取り囲まれていて、写真は“イメージのイメージ”にすぎないのでは?」── 彼らは写真を“イメージそのものを批評する道具”として使う。
- シンディ・シャーマン『無題フィルム・スティル』(1977〜80年):存在しない映画のワンシーンのありきたりな女性像(おびえる主婦、田舎から出た娘…)を自分で演じて撮る。そこに「本当のシャーマン」はいない。あるのはメディアに刷り込まれた“女らしさのイメージの寄せ集め”だけ。アイデンティティは真実ではなく演技だと暴く。第1章バヤール『溺死者としての自画像』(演じた自画像)の120年越しの反響。 MoMA ↗
- シェリー・レヴィン『アフター・ウォーカー・エヴァンス』(1981年):第7章エヴァンスの写真を複写しただけの作品。「オリジナルとは?作者とは?唯一無二のありがたみ(アウラ)とは?」と問う。
- リチャード・プリンス:マルボロ広告のカウボーイを再撮影(リフォトグラフィ)。
- バーバラ・クルーガー:広告の手法で「あなたの身体は戦場だ」等の政治的メッセージ。
1989年の制度的定着 ── 「A Forest of Signs」と「Image World」
1977年Artists Spaceの小展覧会から12年。1989年に二つの大展覧会で、ピクチャーズ・ジェネレーションは完全に「美術の本流」として定着する。
- 『A Forest of Signs: Art in the Crisis of Representation』(MOCA Los Angeles、1989年5月7日〜8月13日):シャーマン、レヴィン、ロンゴ、バーバラ・クルーガー、ジェニー・ホルツァー、リチャード・プリンス、ハイム・スタインバックら、Pictures世代を現代美術館の正面ホールで本格的に集成した最初の大展覧会。 MOCA ↗
- 『Image World: Art and Media Culture』(Whitney 美術館、1989年11月9日〜1990年2月18日、Marvin Heiferman/Lisa Phillips/John G. Hanhardt 共同企画):シャーマン、クルーガー、プリンス、レヴィン、アンディ・ウォーホルを結びつけ、戦後の「メディア/引用/再撮影」を半世紀の視野で総括。 Whitney ↗
- 両展により、Pictures世代は「Pictures Generation」と呼ばれる美術史的カテゴリとして定着した(用語の確定は2009年 Met「The Pictures Generation, 1974–1984」展でさらに固まる)。77年の小展覧会 → 89年の制度化 → 09年の歴史化、というのが「ポストモダン写真」の制度史。
11-2 写真論の古典が出そろう
- ロラン・バルト『明るい部屋』(1980年):写真の核心は「それは=かつて=あった(ça a été)」という、過ぎ去った存在の証明。そして見る者の心を不意に刺すプンクトゥム(対 ストゥディウム=一般的・文化的な関心)。 ロラン・バルト(1915–1980)はフランスの批評家・記号学者。『明るい部屋』(La chambre claire)は1980年、その死の直前に刊行された遺作。「それは=かつて=あった」=写真の本質は被写体が確かにそこに在ったこと(第1章インデックス性の言い換え)。ストゥディウム=教養や文脈から読み取る一般的な関心、プンクトゥム=見る者を予期せず突き刺す細部。第13章でAIがこの「かつて=あった」を揺るがす。 Wikipedia「Camera Lucida」↗
- ヴァルター・ベンヤミンの複製技術論(1935年執筆・1936年刊、「複製技術時代の芸術作品」でのアウラの喪失)が、この世代の思想的土台として再発見・参照される。
- ロザリンド・クラウス「Notes on the Index」(1977年、後に1985年の著書『The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths』に所収):1976年にOctober誌を共同創刊した米国の批評家。チャールズ・サンダース・パースの記号分類でいう「インデックス(指標)=対象と物理的・因果的につながる記号(足跡・指紋・煙)」の概念を写真の核に据えた。「写真は意味でなく痕跡である」── これがシャーマン/レヴィン世代(11-1)が「コピーや引用はオリジナルのアウラを呼び戻さない」と主張する理論的下敷きに。 Wikipedia「Rosalind E. Krauss」↗
- ヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために(Für eine Philosophie der Fotografie)』(1983年):プラハ生まれ、ナチス占領を逃れブラジル→欧州に渡った哲学者(1920–1991、家族をホロコーストで失う)。写真の発明を「線形文字の発明以来の歴史の断絶」と位置づけ、「アパラトゥス(装置)」「テクニカル・イメージ」「ファンクショナリー(機能人)」という概念で、カメラという黒箱に組み込まれた選択肢を人間が選ばされている構造を分析した。第13章AIの「アルゴリズムが画像を生む」状況を予言的に論じたメディア理論の古典。 Wikipedia「Vilém Flusser」↗
- アラン・セクーラ『Photography Against the Grain』(1984年)/論文「The Body and the Archive」(1986年):米の社会派批評家・写真家(1951–2013、CalArts教授)。MoMA/シャーカフスキー流の形式主義(写真を芸術として純化する)に真っ向反対した。19世紀の犯罪学的写真(ベルティヨン式人体測定、ゴールトンの優生学的合成写真)から FSA、ナショナルジオグラフィック、企業広報まで、「中立的記録」の裏に潜む国家・資本のまなざしを暴く。写真を権力・監視・アーカイブの道具として読み解いた。ポストモダン写真論が美学だけでなく政治経済を視野に入れる転換点。 Wikipedia「Allan Sekula」↗
11-3 演出写真/タブロー ── ジェフ・ウォール
- ジェフ・ウォール:1978年『破壊された部屋』以降、大型のバックライト付きトランスペアレンシー(ライトボックス)で、絵画(とりわけ19世紀絵画)を意識した緻密に演出・構築された一枚を制作。日常の一場面を、俳優・セット(1990年代以降はデジタル合成も)で作り込む。 Hirshhorn ↗
- 「決定的瞬間を待つ」のではなく「一から構築する」。写真の“真実性”を逆手に取り、絵画の大きさ・重厚さで美術館の壁を占める「タブロー(絵画的写真)」の時代を開く。第12章デュッセルドルフ派の巨大プリントへ。
- ジャン=マルク・ビュスタモント:ウォールとほぼ同時期、1978〜82年に8×10の大判カメラでバルセロナ郊外の何でもない風景を大判カラーで撮り、一枚ずつ《タブロー(Tableau)》と名づけた(本人いわく「ゆっくりしたスナップ」)。額装され絵画のように壁に掛かるその姿は、批評家ジャン=フランソワ・シュヴリエが1989年に名づけた「タブロー形式(la forme tableau)」という潮流の起点とされ、ジェフ・ウォール、トーマス・ルフ(11-6節)と並ぶ“写真を絵画の大きさで壁に掛ける”動きの源流に。マイケル・フリードはこれを「現代の芸術写真でもっとも決定的な展開」と論じた。
- 面白いのは、その被写体が郊外=ニュー・トポグラフィクス(ルイス・ボルツやロバート・アダムス)と同じ“平凡で人の手が入った土地”だったこと。ビュスタモントは「即物的な土地の記録」と「タブロー(絵画的・大画面)」を一身に橋渡しした作家で、ウォール→デュッセルドルフ派→現代の巨大風景プリント(第12章)への線に直接つながる。(→ メトロポリタン美術館)
11-4 親密なドキュメンタリーと、身体・検閲をめぐる論争
- スーザン・メイゼラス『カーニバル・ストリッパーズ(Carnival Strippers)』(1976年)/『ニカラグア』(1981年):先行例として置く。ハーバード大学院でバーバラ・ノーフリートに学び、ニューイングランドの巡業カーニバルでストリップを観衆と楽屋の両側から長期取材した『カーニバル・ストリッパーズ』が、長期被写体に深く入り込む親密ドキュメンタリーの戦後米国版の起点。マグナム入会1976、正会員1980、現在マグナム財団会長。続くニカラグア・サンディニスタ革命の取材(1978–79)から、『モロトフ・マン』は革命の象徴的アイコンに(後年、引用と所有権をめぐる議論の発端にも)。ロバート・キャパ金メダル(1979)、MacArthur Fellowship(1992)、ハッセルブラッド賞(1994)。撮影者と被写体の倫理関係を問い続けた現代マグナムの代表格。 Wikipedia「Susan Meiselas」↗
- ナン・ゴールディン『性的依存のバラッド』(1986年、当初スライドショー):自分自身の友人・恋人・コミュニティ(愛、暴力、ドラッグ、エイズ禍、ジェンダー)を、内側から日記のように撮る。“撮る者と撮られる者”の距離をゼロにした親密なドキュメンタリー。第8〜9章の主観の系譜を、究極の私性へ。
- ロバート・メイプルソープ:完璧な古典的様式美と、同性愛・SM・ヌードの主題。死後の巡回展(1989年〜)が全米の検閲・公的助成(NEA)論争を巻き起こし、「写真・芸術・公共・道徳」をめぐる文化戦争の象徴に。写真の力が社会的・政治的争点になる時代。
11-5 私写真(わたくし・しゃしん)── 日本が深めた「生=作品」の系譜
前項ナン・ゴールディン(西洋の親密なドキュメンタリー、1986年)の先行例にして日本独自の達成が「私写真」。撮影者自身の生・身体・家族・恋愛・日常を主題とし、作品と人生の境界を溶かす。日本の文学伝統 「私小説(ししょうせつ)」 のアナロジーで語られる、日本写真の最重要ジャンルの一つ。起点は1971年と、本章(1980年代)より早いが、ここに置いて西洋の親密ドキュメンタリーと並べて読む。
荒木経惟 ── 「私写真家宣言」
- 荒木経惟『センチメンタルな旅』(1971年、私家版・1000部限定):妻陽子との結婚式から、新婚旅行(京都・柳川〈福岡県〉ほか)を撮る。表紙は陽子の手書き文字。序文に、私小説家ならぬ 「私写真家宣言」 を掲げた ── これが私写真というジャンルの旗印になった。
- 新婚旅行の幸福のはずが、全編に濃厚な死の気配が漂う。以後、陽子は荒木の最重要被写体となり、1990年の陽子の死で関係は突然終わる。1991年『センチメンタルな旅・冬の旅』で、その死までを一冊に再構成。「愛・性・死・日常」が分かちがたく絡む荒木の世界の核。
- 多作(生涯500冊近い写真集)で毀誉褒貶もあるが、「写真は私的なものだ」という原理を最も徹底した存在。
深瀬昌久 ── 孤独の極北
- 深瀬昌久『鴉(からす/Ravens)』(撮影 1976〜1982年、写真集刊行 1986年):妻との別離の前後、北へ向かう車窓や荒れた海辺の鴉を撮り続けた、孤独と喪失の極北。世界の「最も偉大な写真集」の一つにしばしば挙げられる(British Journal of Photographyの2010年企画では1986–2009年の写真集ベストに選出)。ほかに家族を撮り続けた『家族』。私写真が、幸福の記録ではなく自己崩壊の記録にもなりうることを示した。 Wikipedia「Masahisa Fukase」↗
1990年代「女の子写真」── 私写真の大衆化と批評
- コンパクトカメラ(「写ルンです」など)の普及を背景に、1990年代、若い女性写真家が自分とその半径数メートルの日常・身体・セルフポートレートを撮る潮流が爆発。HIROMIX、長島有里枝、蜷川実花ら。キヤノン「写真新世紀」(第11回、1995年3月)で荒木経惟の推薦によりHIROMIXがシリーズ『Seventeen Girl Days』で見出されたのも象徴的。 Wikipedia「Hiromix」↗
- 当時この潮流は 「女の子写真」と揶揄的に呼ばれた(「技術的に稚拙」「視野が狭い」等のジェンダー化された言説とともに)。後に当事者の長島有里枝自身が、この呼称と「ヘアヌード」ブームの権力関係をジェンダーの視点から批評し直している。私写真は、撮る/撮られるの権力関係や、女性写真家の評価のされ方という論点も照らし出した。
つながり
- 私写真は 第8章VIVO(“写真家が見える”表現)→ 第9章プロヴォーク(私的な手触り) の延長にある日本の主観表現の到達点。
- 横の糸:西洋のナン・ゴールディン(11-4)と並走し、第13章のセルフィー=「全人類が自分の生を撮り、見せる」時代の、芸術的な先取りでもある。
- 川内倫子(2001年に『うたたね』『花火』『花子』を同時刊行、第27回木村伊兵衛賞を2002年に受賞)ら、叙情的な日常へと系譜は更新され続けている。 Wikipedia「Rinko Kawauchi」↗
11-6 デュッセルドルフ派の始動
- ベッヒャー夫妻の教えを受けた世代が台頭:アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトゥルート、トーマス・ルフ、カンディダ・ヘーファーら。(→ テートでグルスキーを見る)
- 師の類型学・即物性・正面性を継ぎつつ、各々が大判・大画面・カラーへ展開(本格的席巻は第12章)。
- ザンダー → ベッヒャー → デュッセルドルフ派、そして横にニュー・トポグラフィクス。「無表情に世界を分類・記録する」ドイツ=アメリカの水脈が、現代写真の主流の一つを形づくる。
第12章 1990年代–2000年代 ── デジタルと巨大化、そして「写真の勝利」
写真が物質からデータへ変わり、同時に美術館とアート市場の中心に登りつめる時代。第2章ボードレール以来の「写真は芸術か」問題は、市場では「当然イエス」で決着する。
12-1 デジタル革命とPhotoshop
- 写真は19世紀以来、光が化学物質に残す物理的痕跡(=インデックス性、真実味の根拠)だった。デジタル化で写真は0と1の数値データになり、無限に劣化なくコピーでき、一画素単位で書き換え可能に。
- 最初のデジタルカメラ試作は1975年、コダックのスティーブ・サッソン。一般普及は1990年代。
- 決定打が Photoshop(1990年)。誰でも痕跡を残さず現実を改変できる。第11章ポストモダンが「写真はウソをつきうる」と理屈で示したのに対し、デジタルは「嘘をつくのが技術的に当たり前」を社会全体に行き渡らせた。報道写真の加工が大問題化するのもこの頃。
12-2 デュッセルドルフ派の席巻 ── 写真が「絵画の値段」になる
- アンドレアス・グルスキー:『99セント』『ライン川II』など、壁いっぱいの巨大プリント+デジタル合成で、現代世界(証券取引所、巨大スーパー、工場、群衆)を圧倒的なスケールで提示。『ライン川II』は要素を消し去った“完璧すぎる”川の風景で、自然の表象すらデジタルで構築されることを象徴。2011年11月のオークションで約430万ドルで落札され(当時の写真史上最高額)、写真が絵画と同じ市場規模に達したことを示した。 CBS News ↗
- シンディ・シャーマン(第11-1節)── その半年前の2011年5月:シャーマンの 『無題 #96』(1981年、Centerfolds シリーズ)が Christie’s NY で 約 $3.89M(約390万ドル)で落札され、当時の写真史上最高額を記録し、現存する女性アーティストとして最も高額な作家の一人となった。だが半年後の11月、グルスキー『ライン川II』がこの記録を上塗りする。2011年は、5月にシャーマン、11月にグルスキーが続けざまに記録を樹立した「写真が美術市場の頂点に達した年」として記憶される。第11章で写真の前提を疑った世代が、12章でついに美術市場の主役になった瞬間。 Wikipedia「Cindy Sherman」↗
- トーマス・シュトゥルート(美術館の観衆、密林、都市)、トーマス・ルフ(巨大ポートレート、ネットから採取した画像、天体)、カンディダ・ヘーファー(無人の図書館・劇場の空間)。
- タブロー化(絵画的・大画面化)により、写真は“壁に掛けて所有する一点物の美術”として完全に受容された。複製可能性という弱点(第2章)を、巨大な一点物プリントで“絵画化”して克服した、とも読める。
- 写真オークション記録の連鎖(2006→2011)── 5年で完成した市場制覇:2011年の二大記録は突発的に出てきたわけではない。2006年2月、エドワード・スタイケンのピクトリアリスト作 『池——月の出(The Pond—Moonlight)』(1904年・ガム印画)が Sotheby’s NY で 約 $2.93M で落札、それまで「写真は版画より下」という市場通念を破った最初の事件に。翌2007年2月、グルスキー『99セント II』が Sotheby’s ロンドンで £1.7M(約 $3.34M)でこれを上塗り** ── ピクトリアリストの古典 → 現代写真と、たった1年で市場の主役が交代した。その4年後、2011年5月にシャーマン($3.89M)、11月にグルスキー($4.34M) が立て続けに記録を更新する。美術市場における写真の地位は、ピクトリアリストの古典(2006)が市場を開き、デジタル巨大プリント(2011)で完成した5年の物語だった。第2章ボードレールが「写真は芸術ではない」と書いた1859年から 152年、第2章フランス判決(1862年)の 149年後の決着である。 Wikipedia「The Pond—Moonlight」↗/Wikipedia「99 Cent II Diptychon」↗
- そして2022年 ── マン・レイ『アングルのヴァイオリン』が王座を奪う:2022年5月14日、Christie’s NYで、マン・レイ『Le Violon d’Ingres(アングルのヴァイオリン)』(1924年・1920年代撮影の歴史的プリント)が $12.4M(約1,240万ドル) で落札 ── 写真史上最高額の記録を11年ぶりに更新。1924年のシュルレアリスム写真(背中にf字孔を書き込んだヌード)が、デジタル巨大プリントのグルスキー(2011 $4.34M)を3倍近く上回った逆説。デジタル時代の頂点が、フォトショップなどあるはずもない1世紀前の暗室技法で塗り替えられた。市場は最終的に「いつの時代のものか」より「美術史上の絶対的位置」を価値づけるという、写真市場の成熟を示した。 Wikipedia「Le Violon d’Ingres」↗
12-3 ドキュメンタリー/日常の更新
巨大タブローの一方で、軽やかな日常・色彩・私性の系譜も更新される。
- マーティン・パー(英、マグナム):けばけばしいカラーで消費社会・観光・俗物性を風刺。
- ヴォルフガング・ティルマンス(1968–、独)── 写真の「並べ方」を更新した世代の代表:1968年 独レムシャイト生まれ。1990–92年に英ボーンマス・アンド・プール芸術大学で学び、その頃から雑誌 i-D に寄稿(1990年代前半から)、ストリートとクラブカルチャーの距離感をそのまま誌面に持ち込んで頭角を現した。1995年 Kunsthalle Zürich 個展で美術館デビュー、2000年 Turner Prize 受賞 ── 写真家として、また非英国人として史上初で、英国現代美術の最高賞が 写真を完全に承認 した節目になった。 Wikipedia「Wolfgang Tillmans」↗/Tate Modern「Wolfgang Tillmans: 2017」↗
- 友人・静物・空・抽象を、額・サイズ・素材を混在させて壁に「並べる」:ティルマンスの核は撮影だけではなく展示にある。写真を額装・無額装・テープ留め・大判インクジェット・小さなコピーまで、サイズも素材もばらばらのまま 非階層的に壁面へ展開する。友人のポートレートと、空、果物、洗濯物、デモの群衆、抽象が同じ目線で並ぶことで、「写真をどう見るか」のヒエラルキーそのものを解体した ── ニューカラー(第10章)が「色」で日常を昇格させたなら、ティルマンスは 「並べ方」で写真の見方を更新した世代の代表になる。
- 【作品】カメラを使わない抽象 ── Freischwimmer と Silver:印画紙に直接光や薬品を作用させて作る非カメラ作品。微小な点や流れが画面いっぱいに広がる 『フライシュヴィマー(Freischwimmer)』は、印画紙とプロセス自体を画面にする抽象シリーズ。1998年以降展開する『Silver』は、現像機内の銀の汚れや薬液の跡を取り込んだ印画紙そのものを作品化する。カメラ無しでも写真は成立することを、表現の中心に据えた仕事だった。 Wikipedia「Wolfgang Tillmans」↗
- Between Bridges ── 2006年ロンドン、2014年ベルリン:2006年4月、ロンドン東部 Bethnal Green の自身のスタジオ隣(223 Cambridge Heath Road)に 非営利アートスペース Between Bridges を開設。ジェニー・ホルツァー、デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ、コリタ・ケントら政治的・社会的な作家を改めて紹介する場として運営した。2014年に拠点をベルリンへ移し、現在は Kreuzberg の自社建築で非営利財団として継続している。作家自身が「次に紹介されるべき作家のための場」を運営するという、ティルマンスのもう一つの実践。 Between Bridges 公式↗/Wikipedia「Between Bridges」↗
- 2017 Tate Modern → 2022 MoMA:2017年2月15日–6月11日、Tate Modern で個展 Wolfgang Tillmans: 2017。「2003年(イラク戦争・反戦デモ)を世界が変わった時点として出発点に置く」展示で、写真・映像・出版・音楽までを横断した。2022年 MoMA(ニューヨーク)で大規模回顧展 To Look Without Fear、続いて 2023年 Art Gallery of Ontario(トロント)、2023年11月–2024年3月 SFMOMA(サンフランシスコ)を巡回。1980年代から現在までを、撮影・抽象・「真実研究センター(Truth Study Center)」のテーブル展示まで含めて見せる、現時点の集大成になった。 Tate Modern「Wolfgang Tillmans: 2017」↗/SFMOMA「To Look Without Fear」↗
- ハッセルブラッド賞 2015:ハッセルブラッド財団国際写真賞 2015 を受賞(授賞式 2015年11月30日、受賞展 2015年12月1日–2016年2月14日)。財団は「1990年代以降、写真というメディウムを絶えず新しい方向へ押し出してきた作家」と評し、非階層的インスタレーション、Silver / Lighter / Paper Drop の物質性、Truth Study Center による情報の検証を受賞理由に挙げた。1990年代以降の若い世代に絶大な影響を与え続けている、現代写真の中心に立つ作家。 Hasselblad Foundation 公式↗
- リネケ・ダイクストラ(蘭):海辺の思春期のポートレートなど、ベッヒャー的厳密さと人間的繊細さの融合。
- セバスチャン・サルガド(1944–2025、ブラジル → 仏):経済学者からマグナム入りした転身組。白黒の壮大な構図とドラマチックな光で、地球規模の労働・移動・自然を撮る。代表作 『Workers/労働者:産業時代の考古学』(1993、世界中の鉱山・工場・船舶解体)、『Migrations』(2000、世界の難民・移民)、『Genesis』(2004–2011、ほぼ無人の原始自然)。1989年 ハッセルブラッド賞(写真家として初の高額アジア/グローバル賞の一つ)、1998年アストゥリアス皇太子賞。同年 Instituto Terraを設立、ブラジル大西洋岸森林の17,000エーカーを復元する環境活動も。「写真家=記録者でなく構築者」を体現する戦後ドキュメンタリーの最大規模の達成。 Wikipedia「Sebastião Salgado」↗
- デイヴィッド・ゴールドブラット(1930–2018、南アフリカ):アパルトヘイト時代の南アフリカを、シスキンドやキャラハンとは別の道で撮り続けた巨匠。「激情を避け、安易な判断を排する」スタンスで、暴力ではなく分離された街並み・長距離通勤する黒人労働者・追放された住居跡といった日常の構造を黒白で記録した。アパルトヘイト下では絶対にカラーを使わなかった(「色は不適切」)が、1994年の解放後にカラーに転換。2006年 ハッセルブラッド賞、MoMA・ポンピドゥー他で大回顧展。「中立的記録」が政治的告発になることを示した、セクーラ(11-2)と表裏一体の実践。 Wikipedia「David Goldblatt」↗
- マリック・シディベ(1935–2016、マリ)/セイドゥ・ケイタ(1921–2001、マリ)── バマコ・スタジオ肖像:1960年代の独立後の首都バマコで、夜のダンスホール、街頭、スタジオで撮った肖像群が、アフリカ独立期のモダンな若者像を残した。1990年代に欧米キュレーター André Magnin の「再発見」で世界の美術市場へ。シディベは2007年ヴェネチア・ビエンナーレで Golden Lion 終身功労賞 ── 写真家として、アフリカ人として史上初。2003年ハッセルブラッド賞、2008年 ICP Infinity Award。ケイタ・シディベの再評価は、写真の美術史が長らく欧米中心だった構造を撓ませる事件だった。 Wikipedia「Malick Sidibé」↗
- シリン・ネシャット(1957–、イラン → 米):1979年イラン革命の余波で渡米、UCバークレーで美術を学び、1990年に帰国した経験を基点に1993年から本格的な作家活動を開始。代表作 『神の女たち(Women of Allah)』シリーズ(1993–97年):チャドルをまとった女性のポートレートにペルシャ書道を直接書き込み、武器を手にもつ ── イスラム・女性・暴力・声の交差する地点を視覚化した。1999年ヴェネチア・ビエンナーレ国際賞(映像インスタレーション『Turbulent』『Rapture』)、2009年ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞(映画『沈黙の中で叫ぶ女たち(Women Without Men)』)。写真と映像の境界を行き来する、政治と詩を兼ね備えた現代写真の代表格。 Wikipedia「Shirin Neshat」↗
- ヴィヴィアン・マイヤー(1926–2009)── 死後に発見された街頭写真家:シカゴで乳母として働きながら、150,000枚以上の写真(多くは未現像のフィルムのまま)を残した謎の女性。2007年、シカゴの倉庫オークションで地元の歴史研究者ジョン・マルーフが30,000枚のネガを購入 ── 持ち主の名前すら分からないまま整理を始め、2009年に Flickr に作品を投稿 したところ世界中で話題に。生前は誰にも見せず、Rolleiflexで撮り続けたシカゴ・NY・LAの街頭ポートレート群が、ロバート・フランクやヘレン・レヴィットと並ぶ戦後街頭写真として位置づけ直された。ドキュメンタリー映画『Finding Vivian Maier』(2013) がアカデミー賞ノミネート。21世紀になっても「未発見の巨匠」がいるという、写真史の制度的に異例の物語。 Wikipedia「Vivian Maier」↗
- リチャード・アヴェドン『In the American West』(1979–84年撮影/1985年刊行):ヴォーグ/ハーパーズ・バザーで戦後ファッション写真の頂点を作った巨匠(1923–2004)が、5年間アメリカ西部の17州を回り、油田労働者・畜産業者・受刑者・娼婦・流れ者ら「西部のもう一つの肖像」124人を、白いシーツの背景で正面から大判で撮った。ファッション写真の精密さで“西部の名もなき市民”を撮る反転で、アンセル・アダムスの崇高な西部とは正反対の 「人間の西部」を提示。Amon Carter Museum(フォートワース)の委託・常設。商業/美術/ドキュメンタリーの境界を融解させた、戦後米国写真の最も野心的な肖像プロジェクトの一つ。 Wikipedia「In the American West」↗
- アニー・ライボヴィッツ『ジョン・レノン & ヨーコ・オノ』(1980年12月8日、Rolling Stone):1970年から Rolling Stone の専属、後に Vanity Fair(1983–)、Vogue(1998–)の時代を作ったアメリカの肖像写真家(1949–)。1980年12月8日撮影のレノン×オノ・ヨーコの抱擁ポーズ(裸のレノンが衣服を着たヨーコに巻きつく)── 5時間後、レノンはダコタ・ハウスで射殺された。ライボヴィッツはこれを 「彼の最後の肖像」として伝えた。1991年、英国 ナショナル・ポートレート・ギャラリー史上初の女性個展。商業肖像写真と美術の境界を完全に消した存在で、IKEA から大統領まで撮る現代の代表格。米国議会図書館は彼女を「Living Legend」に指定。 Wikipedia「Annie Leibovitz」↗
- キャリー・メイ・ウィームズ『キッチン・テーブル・シリーズ』(1989–90年):黒人女性写真家の最重要存在(1953–)。自宅キッチンの食卓を舞台に、自身を主役にして男・子・友人・自分自身との関係を演じ、黒人家族の親密さ・対立・愛を画面化。20点の写真と添えられたテキストが叙事詩のように展開する。家族の食卓という最も日常的な空間を 「黒人女性の心理劇の舞台」に変えた発明。MacArthur Fellow(2013)、グッゲンハイム美術館で黒人女性として史上初の個展(2014)、National Medal of Arts(2022)、ハッセルブラッド賞(2023)── 黒人女性として史上初。デカラヴァ(8-3節)の叙情とシャーマン(11-1節)の演出が、ウィームズで交差する。 Wikipedia「Carrie Mae Weems」↗
- ヴィック・ムニーズ『ピクチャーズ・オブ・ガベージ(Pictures of Garbage)』(2008年):ブラジル出身のコンセプチュアル写真家(1961–、NY在住)。チョコレート・砂糖・ジャム・ダイヤモンドなどの素材で巨匠絵画を再構成し、それを写真に撮るという、素材の特異な選択で名画を媒介する作家。『ガベージ』ではリオデジャネイロのジャルディン・グラマーチョ埋立地のごみ拾い労働者(catadores)を主役に、彼ら自身の労働で生み出されるごみで彼らの肖像を作った。ドキュメンタリー映画『Waste Land』(2010) はアカデミー賞ノミネート、収益は労働者協同組合に。2001年ヴェネチア・ビエンナーレでブラジル代表、2011年 UNESCO 親善大使。サルガード(12-3)の継承者でありながら、アヴェドンの肖像、シャーマンの引用にも連なる、現代ブラジル写真の最大の存在。 Wikipedia「Vik Muniz」↗
- ダヤニタ・シング『Museum Bhavan』(2017年) ── 写真集を「美術館」に:インドの写真家(1961–、National Institute of Design + ICP NY 出身)。書籍そのものを「museum-object(美術館=オブジェ)」として扱う作家。代表作『Museum Bhavan』は蛇腹折りの写真集で、無数のスタジオ・帳簿庫・友人の家を撮った写真を、開いて立てて並べることで 「持ち運べる小さな美術館」になる ── 写真の展示と書籍の境界を消す実験。2017年 Paris Photo-Aperture PhotoBook Award、2018年 ICP Infinity Award、2022年 ハッセルブラッド賞。タルボット『自然の鉛筆』(1844、第1章) から180年、「写真でできた本」の最新進化形。 Wikipedia「Dayanita Singh」↗
- 1990年代日本の若手によるカラー・スナップ潮流 ── 第10章のエグルストン/ショアへの“もう一つの応答” 日本:第10章でアメリカが「平凡な日常をカラーで撮る」というカラー写真の格上げを果たしたのに対し、日本の1990年代後半には、コンパクトカメラと使い捨てカメラを携えた若い書き手たちが、家族・友人・恋人・部屋のすみを明るいカラーのスナップでそのまま差し出す潮流が現れた。当時の国内批評では「ガーリー・フォト」「女の子写真」と括られて消費された呼び名で、現在は当事者の側から呼び名そのものが問い直されている(長島有里枝の後年の批評『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』2020がその代表)。エグルストン/ショア(第10章)が「平凡をカラーで撮る」という権利を獲得したのを受けて、それを生活の体温・私性・スピードで更新した、日本側の応答として読める。 artscape「ガーリー・フォト(女の子写真)」↗/現代ビジネス「かつて『女の子写真』の枠にはめられた、女性写真家からの異議申し立て」↗
- HIROMIX(本名・利川裕美、1976–):1995年度・第4回キヤノン写真新世紀グランプリを『SEVENTEEN GIRL DAYS』で受賞。選考委員の荒木経惟の支持を受けたことで、当時最年少のグランプリ受賞者として一気に世に出た。コンパクトカメラで撮った日常スナップの軽やかさが、それまでの「アレ・ブレ・ボケ」とも報道写真とも違う新しい眼として受け止められた。初期の代表作集として写真集『Hiromix』(Steidl、1998)も刊行。 キヤノン写真新世紀 公式「HIROMIX SEVENTEEN GIRL DAYS」↗/Wikipedia「Hiromix」↗
- 長島有里枝(1973–):1993年・urbanart#2展(パルコ主催)でパルコ賞(グランプリの次点)を、選考委員の荒木経惟の支持で受賞。受賞作はスキンヘッドの自身と父・母・弟を撮った“家族ヌード”のセルフポートレイト群で、私性とフェミニズムが同じ画面で交わる転換点になった。写真集『empty white room』(リトルモア、1995)、『家族』(光琳社出版、1998)。後年は「女の子写真」と一括りにされた90年代の批評そのものを問い直す書き手としても重要(『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』2020)。 Wikipedia「長島有里枝」↗
- 蜷川実花(1972–):強い原色・花・金魚の連作で2000年代を席巻。写真集『Pink Rose Suite』(Éditions Treville、2001)、『Liquid Dreams』(2003)、『Acid Bloom』(2004)など。商業/広告/映画(『さくらん』2007、『ヘルタースケルター』2012)を横断する強度で、カラーをポップ・カルチャー側へ振り切った位置に立つ。 Wikipedia「Mika Ninagawa」↗
- 三名の同時受賞という事件 ── 第26回(2000年度)木村伊兵衛写真賞:HIROMIX(『HIROMIX WORKS』)・長島有里枝(『PASTIME PARADISE』)・蜷川実花(『Pink Rose Suite』『Sugar and Spice』)が同じ回で受賞(2001年発表)した。三名がカラー・スナップ・私性で共鳴する世代として、日本写真の制度の側から束ねて承認された節目である。 Wikipedia「木村伊兵衛写真賞」↗
- 佐内正史(1968–):デビュー写真集『生きている』(青幻舎、1997)で、日常の路上・室内・人物をけばけばしくない静かなカラーで並べた。ジャズの即興のように非論理的に配列された写真群は、HIROMIX/長島の陽性のスナップとは異なる、翳りを残したカラー・スナップの方向を切り開いた。写真集『MAP』で第28回(2002年度)木村伊兵衛写真賞を受賞。 青幻舎『生きている』書誌 ↗/Wikipedia「佐内正史」↗
- 川内倫子(1972–):写真集『うたたね』『花火』(ともに2001年同時刊行)で第27回(2001年度)木村伊兵衛写真賞。光・水・生まれること・死ぬことの小さな断片を、わずかにぼやけた淡いカラーで掬うスタイル。Aperture『Illuminance』(2011、ニューヨーク。日本の Foil と共同出版)で初めて本格的に国外へ。2009年・ICP Infinity Award(Art部門)で国際的にも承認された。 ICP「2009 Infinity Award: Art ── Rinko Kawauchi」↗/Wikipedia「Rinko Kawauchi」↗
- 本城直季(1978–):大判カメラのティルトシフト(あおり)を逆用し、実在の都市・人々をミニチュア模型のように写した写真集『small planet』(リトル・モア、2006)で第32回(2006年度)木村伊兵衛写真賞。カラー・スナップの系譜の隣で、カメラの機構そのものに介入することでカラーの“見え方”を更新した変則的な分岐として、この世代に加えて読める。 Wikipedia「本城直季」↗
- 系譜上の位置:第10章でエグルストン/ショア/マイヤーウィッツが切り開いた「平凡な日常をカラーで撮る」というアメリカの達成は、日本では1990年代後半に、コンパクトカメラ・コンビニのカラーコピー機・若い書き手の私性という別の条件のもとで独自に書き直された。アメリカのニューカラーが郊外と中産階級の被写体に向かったのに対し、日本のこの世代は自分の部屋・家族・友人・恋人へ向かい、その意味では第9章「ニュー・ドキュメンツ」の内向きスナップとも、第11章「私写真」の系譜とも交差する。筆者はこれを便宜上、エグルストン以降の日本側のカラー応答として並べておく(英語圏で“Japanese New Color”といった固有名で括られているわけではなく、あくまでこの本のための整理である)。なお同時期にホンマタカシ(第12-5節)が郊外の風景を同じく明るいカラーで撮ったのも、この潮流と表裏の動きと見える。
- 杉本博司:『海景(Seascapes)』(世界各地の水平線を半分に分けただけの極めて静謐なモノクロ)、『劇場』『ジオラマ』。「いま我々が見ているのと同じ風景を、原始の人類も見たはずだ」という時間の主題。風景写真を概念の高みへ。日本出身でこの系譜の世界的巨匠。 Wikipedia「Hiroshi Sugimoto」↗
12-4 現代の風景① ── 人新世(アンソロポシーン)のランドスケープ
ニュー・トポグラフィクス(第10章)が開いた「人の手が入った風景」を、大判カラーとより強い環境・政治的メッセージ、そして圧倒的なスケールで受け継いだのが、この世代。興味深いのは、アンセル・アダムスが体現した「崇高(サブライム)」が、ここで“産業の崇高/有毒な崇高”として裏返って戻ってくること。美しさと破壊が同居する。
- リチャード・ミズラック:連作 『砂漠のカントス(Desert Cantos)』(1979年〜)。アメリカ西部の砂漠を大判カラーで、息をのむ美しさで撮る。だがそこには核実験場、軍の爆撃演習地(『Bravo 20』)、動物の死体処理場などが写り込み、“崇高な西部”の裏に潜む暴力を暴く。後年『ペトロケミカル・アメリカ』でルイジアナの石油化学汚染地帯(“がん回廊”)を記録。アダムス的な「美しい西部」を、そのまま美しく撮りながら意味を反転させた。 Wikipedia「Richard Misrach」↗
- エドワード・バーティンスキー(カナダ):写真集『China(中国)』(2005年)『OIL』『WATER』、ライフワークの 「アンソロポシーン(人新世)」プロジェクト。 Burtynsky 公式 ↗鉱山、採石場、油田、製油所、廃棄物の池、シップブレイキング(船の解体場)、中国の巨大工場を、大判で俯瞰的に・壮大に捉える。人類が地球を作り変えるスケールそのものを“崇高”として突きつける。ニュー・トポの「人新世の風景」を地球規模に拡張した。
- アレック・ソス(アメリカ、マグナム):8×10の大判で撮る 『ミシシッピ川で眠る(Sleeping by the Mississippi)』(2004年) 『ナイアガラ』『Broken Manual』。川や道路に沿って、土地・人・小さな物語を拾い集める、叙情的なアメリカン・ロードトリップ。ウォーカー・エヴァンス〜ロバート・フランク〜ショアの系譜を、メランコリックな現代の視点で継ぐ。「即物的な土地の記録」に物語と情感を取り戻した方向。 Wikipedia「Alec Soth」↗
- ポール・グラハム(イギリス):『Troubled Land』(1984–86年)。同じ「人の手が入った風景」を、砂漠や工業地帯ではなく北アイルランドの「動乱(The Troubles)」のさなかへ向けた一作。雨に濡れた街道や緑の丘といった何の変哲もない風景を、当時としては異例のカラーで撮る。だが目を凝らすと画面の隅に ── 宗派の帰属を示して塗り分けられた縁石、掲げられた旗、落書き、塗料を撒かれた路面、遠くにたたずむ兵士やヘリコプター ── がそっと立ち現れる。当時の紛争報道がモノクロの劇的な瞬間(暴動・葬列)に偏っていたなか、「何も起きていない風景」をカラーで撮ることは画期的かつ論争的で、英国の社会派ドキュメンタリーにカラーの革命をもたらした。ミズラックが「美しい西部」に核実験場や軍の暴力を潜ませたように、グラハムは牧歌的な風景に政治的分断のしるしを潜ませた。風景写真は社会・政治から逃げるのではなく、それらを静かに背負いうる ── そう示した点で、後の風景写真に長く影響した。なお同じ北アイルランドでも、デヴィッド・ファレル『Innocent Landscapes』(1999年〜)は、IRA に殺され秘密裏に埋められた「消された人々(the Disappeared)」の埋却地が和平プロセスで掘り返された“その後”を撮った紛争後(ポスト・コンフリクト)の風景で、グラハムが動乱の最中を、ファレルが動乱の後を撮った対をなす。(→ Paul Graham 公式/Tate で検索。ファレル → davidfarrell.org)
- 系譜上の位置:オサリヴァン → エヴァンス → ルシャ → ニュー・トポグラフィクス、の延長線上に三人がいる。ミズラック=美と告発、バーティンスキー=産業の崇高、ソス=叙情と物語。いずれも「②即物的な土地の記録」を現代へ拡張した三つの方向である。
- 同系統で、ロバート・アダムス(ニュー・トポの中心、その後も西部の開発を撮り続けた)、デヴィッド・マイゼル(露天掘りの空撮)、ミッチ・エプスタイン『American Power』(エネルギーと風景)なども。北アイルランド/紛争と風景では、グラハム・ファレルのほかウィリー・ドハティ(デリー出身、ターナー賞候補。監視と土地をめぐる映像・写真)、ポール・シーウェイト『Sectarian Murder』(宗派対立殺人の現場を当時の新聞記事と並置)、ドノヴァン・ワイリー『The Maze』(マゼ刑務所)も候補。
12-5 現代の風景② ── 日本(柴田敏雄・畠山直哉)
ニュー・トポグラフィクス/ベッヒャー以後の「人の手が入った風景」を、日本で独自に深めた作家たち。日本で風景を撮るうえでの直接の先達といえる存在。
- 柴田敏雄:ダム、砂防堰堤、法面(のりめん)、護岸など、国土を覆うコンクリートの土木構造物を、大判で端正に・即物的に・しかし不思議な抽象美とともに撮る。日本版ニュー・トポグラフィクスとも評される。「日本の風景は人工物でできている」という視点。
- 畠山直哉:『ライム・ワークス』『BLAST』(石灰石採掘場と発破の瞬間)、都市と自然の循環をテーマに。故郷・陸前高田を撮り続け、東日本大震災後の喪失も主題に。風景を産業・資源・災害・記憶の循環として捉える知性。
- ホンマタカシ:1962年東京生まれ。広告写真や雑誌(ロンドンの『i-D』など)を経て、写真集『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』(1998年)で第24回木村伊兵衛写真賞を受賞。多摩ニュータウンなどの郊外を、明るくフラットなカラーで批評も情緒も排してニュートラルに写し、ニュー・トポグラフィクス(第10章)の即物的な眼を日本の“終わりなき日常”の風景へ接続した。一貫して「写真とは何か/写真の真実性」を問い、近年はピンホール=カメラ・オブスクラ(『THE NARCISSISTIC CITY』)にも回帰 ── 第0章のカメラ・オブスクラが現代作家の手で甦る円環でもある。柴田・畠山と並ぶ、日本の“即物的な風景”の代表的な担い手。(→ 東京都写真美術館 / TARO NASU(取扱画廊)) Wikipedia「木村伊兵衛写真賞」↗
- 他に 北井一夫、本橋成一、宮本隆司(廃墟・九龍城)、川内倫子(光と生命の叙情)なども日本写真の厚みとして検討。
12-6 市場・制度の成熟
- 写真がオークションで高額化し、専門ギャラリー・写真フェア(パリ・フォトなど)が成立。美術大学・美術館で写真が正規ジャンルに。第2章の問いは制度的には完全決着。
- だが皮肉なことに、写真が「芸術」として勝利した瞬間、スマホとSNSによる写真の意味の根本的変質(第13章)が始まっていた。
12-7 風景写真の系譜 ── 一枚の地図(まとめ)
ここまで章をまたいで張ってきた風景の糸を、一枚の地図にまとめておく。風景写真は単線の歴史ではなく、いくつかの太い系譜が並走し、ときに対立し、ときに合流してきた。ある作品がどの系譜の上に、どんな配合で立っているかを意識すると、その写真の読み方が一段深くなる。
① 崇高な大自然の系譜(サブライム)
ワトキンス/ジャクソン(1860年代・第3章)が西部探検で打ち立てた「人知を超えた荘厳な自然」の図像 → アンセル・アダムス(f/64・第6章)が20世紀に精密化・神格化 → エリオット・ポーターがカラーで継承。キーワードは畏敬・保護・サブライム。自然保護運動と分かちがたく結びつく。
② 即物的な土地の記録の系譜
オサリヴァン(1860年代・第3章)の地質学的で感傷を排したまなざし → ウォーカー・エヴァンス(1930年代・第7章)→ ルシャ『26のガソリンスタンド』(1963年・第9章)→ ニュー・トポグラフィクス(1975年・第10章)が「人の手が入った平凡な風景」を中立的に記録 → 同じ“郊外”を大判の《タブロー》に翻案したビュスタモント(第11章)→ ベッヒャー夫妻/デュッセルドルフ派(第11章)→ 日本の柴田敏雄・畠山直哉・ホンマタカシ(第11・12章)。さらに現代では人新世(アンソロポシーン)へ拡張し、ミズラック(砂漠・告発)/バーティンスキー(産業の崇高)/ソス(叙情と物語)へ。さらに横へ、ポール・グラハム『Troubled Land』(北アイルランドの紛争を風景に読む)が「政治を背負う風景」という枝を伸ばした。キーワードは中立・即物・改変された風景。
③ 絵画的な風景美の系譜
ピクトリアリズム(第5章)が「絵画のように美しい風景」を志向 → 日本では福原信三らの東洋的・静謐なピクトリアリズムへ。キーワードは詩情・調子・絵画への接近。①②が「自然をどう捉えるか」なら、③は「写真をどう美しく仕上げるか」の系譜。
④ 概念としての風景
杉本博司『海景』(時間と抽象・第11章)/グルスキー『ライン川II』(デジタル構築された“純粋な”風景・第12章)。風景を被写体ではなく概念として扱う現代的な極。
⑤ 日本の“場”の系譜(教育と自前のメディア)
東京綜合写真専門学校=日吉(重森弘淹の批評・第8章)・WORKSHOP写真学校(1974年・第10章)→ 自主ギャラリー運動(CAMP/PUT/プリズム、1976年)→ ZINE・写真集文化へ(第10・11章)。学校と自前のメディアが作家の苗床になる、という日本写真の独自の強み。
ざっくりした見取り図にすると:
①崇高な自然 ワトキンス/ジャクソン(1860s) → アンセル・アダムス(f/64) → ポーター(カラー)
②土地の記録 オサリヴァン(1860s) → エヴァンス → ルシャ → ニュー・トポ(1975)
→ ビュスタモント → デュッセルドルフ派 → 柴田/畠山/ホンマ → [人新世] ミズラック/バーティンスキー/ソス → [政治] グラハム/ファレル
③絵画的な美 ピクトリアリズム → 福原信三/日本(東洋的・静謐)
④概念として 杉本博司『海景』 / グルスキー『ライン川II』
⑤日本の"場" 日吉(重森弘淹)・WORKSHOP(1974) → 自主ギャラリー(1976) → ZINE・写真集
二極のあいだで:1975年以降、風景写真家は好むと好まざるとにかかわらず、①アンセル・アダムス的な「崇高」か、②ニュー・トポグラフィクス的な「即物」かという二極のあいだのどこかに立つことになった。現代の風景写真の多くは、この二極のどこに位置づくかで読み解ける。
第13章 2010年代–現在 ── 遍在するカメラとAIの時代
第13章は、第12章までの「写真は現実を写したものだ」という大前提そのものが、技術によって根こそぎ揺さぶられる最終章。①で人々を驚かせた魔法が、形を変えた不安として戻ってくる。
13-1 スマホとSNS ── 写真が「会話の言語」になる
- カメラつき携帯(2000年頃、日本が先駆け)→ iPhone(2007年) → Instagram(2010年)。第4章コダックが夢見た大衆化の、想像を絶する完成形。全人類がポケットに高性能カメラを入れ、年に何兆枚も撮る。SoftBank「World’s First Mobile Phone with Fully-Integrated Camera (J-SH04, 2000-11-01)」 ↗/Apple Newsroom「Apple Reinvents the Phone with iPhone (2007-01-09)」 ↗/Wikipedia「Instagram」(2010-10-06 リリース) ↗
- 写真の意味が変わる:かつては「大切に保存する貴重な記録」(アルバム・額)。いまや多くは「いま、これ、という瞬間を送り合い、流れていくメッセージ」。写真は保存の道具から会話の言語へ。
13-2 セルフィー文化とアイデンティティ
- セルフィー(自撮り):誰もがSNS上で「見せたい自分」を演じ、編集し、投稿する。
- これは第11章シャーマンが芸術として示した「アイデンティティは演技であり、つくられたイメージだ」を、全人類が日常的に実践していることにほかならない。芸術家の先鋭な問いが社会の標準装備になった。
13-3 計算写真(コンピュテーショナル・フォトグラフィ)
- いまのスマホはレンズに映った光を素直に記録していない。HDR、ナイトモード、AIによる補正で、複数画像と推論を合成して“それらしい一枚”を計算で組み立てている。
- 画像は「光のじかの痕跡」というより機械の解釈・計算の産物へ。第1章以来のインデックス性が静かに薄れていく。
13-4 生成AIと「写っている=在った」の揺らぎ
- 画像生成AI(2022年頃〜の拡散モデルなど)。写真そっくりなのに、現実には一度も存在しなかった情景が、言葉で指示するだけでいくらでも生成できるようになった。Wikipedia「DALL-E」(DALL·E 2 = 2022-04 発表) ↗/Wikipedia「Stable Diffusion」(2022-08-22 公開) ↗
- 第11章でバルトが写真の核心と呼んだ「それは=かつて=あった」 ──「写っている=確かに存在した」という、写真が第1章以来背負ってきた前提が、ここで大きく揺らぐ。ディープフェイク、真贋判定、来歴(プロヴェナンス)認証が現実の課題になりつつある。
- ただしこれは「写真は終わった」という決着済みの話ではなく、いままさに議論されている最中のテーマである。写真とAIの境界が揺れていることを示す出来事が、現実に起きている。
- AI画像が写真コンペで優勝 → 本人が受賞辞退:2023年、ソニー・ワールド・フォトグラフィー・アワードのクリエイティブ部門で、ボリス・エルダグセンのAI生成画像『Pseudomnesia: The Electrician』(DALL·E 2 で制作)が優勝。だが本人は「AIは写真ではない。両者を同じ賞で競わせるべきではない」として受賞を辞退し、大きな議論を呼んだ。CNN「AI image wins Sony award」↗
- 実写がAI部門で優勝 → 失格:翌2024年、写真賞「1839 Awards」のAI部門に、マイルズ・アストレイが“あえて実写”のフラミンゴ写真『F L A M I N G O N E』を出品。ニューヨーク・タイムズやゲッティの関係者を含む審査員はAI生成と信じて3位+観客賞に選んだが、実写と判明して失格に。CNN「This flamingo image won an AI award」↗
13-5 現在進行形 ── 直近の動き(2024–2026)
本稿執筆時点(2026年)の、写真をめぐる直近の動きをいくつか。いずれも進行中で、評価はまだ定まっていない。
- 報道写真は2年続けてガザを大賞に:World Press Photo の年間大賞は、2024年が モハメド・サレム(ロイター、姪の遺体を抱く女性)、2025年が サマル・アブ・エルーフ『Mahmoud Ajjour, Aged Nine』(NYT、空爆で両腕を失った9歳の少年)。報道写真がこの戦争を象徴し続けた。WPPは2024年から全カテゴリーで生成AIを禁止している。なお「ナパーム弾の少女」の撮影者帰属を2025年にWPPが一時停止した件は第7-1節を参照。 World Press Photo 2025 ↗
- 来歴認証 ── 普及と、早くも露呈した限界:AI時代の真贋対策の本命とされる C2PA/Content Credentials(撮影時に来歴の電子署名を埋め込む規格)が、Leica M11-P(2023年、世界初搭載) に続き Sony・Nikon・Canon へ広がった。ところが2025年、Nikon Z6III の実装に署名を偽造できる脆弱性が見つかり、Nikon は発行済み証明書をすべて失効させた。「技術で真正性を保証する」試みの難しさが、早くも見えている。 Content Authenticity(Leica)↗ / Digital Camera World(Nikon 失効)↗
- プラットフォームと規制のAI表示:Meta・Google・Adobe が生成画像へのラベル付け(Content Credentials 等)を進め、EU AI Act(2024年発効)はAI生成コンテンツの開示を義務づけた(透明性義務の適用開始は2026年8月)。 Google(C2PA 参加)↗ / European Commission(AI Act)↗
- 「これは写真か」── 合成と生成の日常化:Samsung の「月」写真論争(2023年)、Google Pixel の「Best Take/Add Me」(複数枚や“その場にいなかった撮影者”を合成)、Apple の「Clean Up」(生成AIで写り込みを除去、2024年)が一般化。2025年には GPT-4o のネイティブ画像生成などフォトリアルなAIが爆発的に普及し、「撮る」と「作る」の境界そのものが問われている(→ 13-3 計算写真)。 PetaPixel(Pixel「Add Me」)↗
- 報道写真の真正性が一般の話題に ──「Kategate」:2024年3月、英王室が公開したキャサリン妃の写真に修整が見つかり、AP・ロイター・AFP・Getty が一斉に配信を取り消した。AIではなく手作業の修整だったが、報道写真が守るべき真正性の基準が広く注目された。 Wikipedia「Kategate」↗
- 巨匠たちの訃報:この数年で重要な作家が相次いで世を去った。細江英公(2024年9月、『薔薇刑』・VIVO、→ 第8章)、セバスチャン・サルガード(2025年5月、社会派ドキュメンタリーの巨人、→ 附録D)、マーティン・パー(2025年12月、皮肉な高彩度で消費社会を撮った英ドキュメンタリー、Magnum)。 Artforum(細江英公)↗ / Magnum(Martin Parr)↗
- AI画像の学習・生成をめぐる著作権訴訟の最新(Getty v. Stability、Andersen ほか)は 附録C を参照。
附録A 通史 略年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 前5C〜 | カメラ・オブスクラの記述(墨子、アリストテレス→アルハゼン) |
| 1727 | シュルツ、銀塩の感光を実証 |
| 1800頃 | ウェッジウッド&デービー、定着できない影絵 |
| 1826/27頃 | ニエプス『ル・グラの窓からの眺め』(現存最古) |
| 1839 | ダゲール公式発表(写真誕生)。タルボットが先取権主張 |
| 1843〜 | アトキンス『英国の藻類』(写真挿絵本の最初期) |
| 1844–46 | タルボット『自然の鉛筆』(写真図版入り初の出版物) |
| 1851 | 湿板コロディオン法(アーチャー) |
| 1854 | カルト・ド・ヴィジット(ディスデリ) |
| 1855 | フェントン、クリミア戦争(戦争写真の始まり) |
| 1858 | ナダール、気球からの空中写真 |
| 1859 | ボードレールの写真批判 |
| 1861〜 | ワトキンス、ヨセミテのマンモス・プレート |
| 1862 | 仏判決、写真を芸術的著作物と認定 |
| 1862–65 | 南北戦争(ガードナー、オサリヴァン) |
| 1867〜 | 西部探検写真(オサリヴァン、ジャクソン) |
| 1871–72 | ジャクソンのイエローストーン→世界初の国立公園 |
| 1871 | ゼラチン乾板(マドックス) |
| 1878 | マイブリッジ『動く馬』 |
| 1884 | バロウ=ジャイルズ対サロニー(米最高裁)写真も著作物 |
| 1888 | コダック「You press the button…」 |
| 1889/90 | エマーソン『自然主義写真』と、その撤回 |
| 1890 | リース『向こう半分の人々の暮らし』 |
| 1890s〜 | アジェ、古いパリの記録(死後に再評価) |
| 1902–03 | フォト・セセッション、『カメラ・ワーク』創刊 |
| 1907 | スティーグリッツ『三等船室』。オートクローム(カラー) |
| 1916 | ストランド、ストレート写真の決定打 |
| 1921–24 | 福原信三、写真芸術社・『写真芸術』・日本写真会 |
| 1925 | ライカ市販(35mm) |
| 1928 | レンガー=パッチュ『世界は美しい』 |
| 1929 | ザンダー『時代の顔』。MoMA設立 |
| 1930 | MoMA、エヴァンス作品を初収蔵 |
| 1932 | グループf/64結成 |
| 1935 | RA(再定住局、後のFSA)の写真班開始。コダクローム |
| 1936 | ランゲ『移民の母』。『LIFE』創刊。キャパ『崩れ落ちる兵士』 |
| 1937–40 | MoMA『写真1839–1937』展、写真部門発足 |
| 1947 | マグナム設立。決定的瞬間 |
| 1955 | 「人間家族」展(スタイケン、MoMA) |
| 1956 | クライン『ニューヨーク』 |
| 1958/59 | フランク『アメリカ人』 |
| 1957 | 『10人の眼』展(福島辰夫企画)→ VIVOの母体 |
| 1958 | 土門拳『ヒロシマ』 |
| 1959–61 | VIVO(東松・奈良原・細江・川田ら6人のセルフ・エージェンシー) |
| 1962 | エリオット・ポーター(シエラクラブ、カラー風景) |
| 1963 | ルシャ『26のガソリンスタンド』 |
| 1967 | MoMA「ニュー・ドキュメンツ」展 |
| 1968–70 | 『プロヴォーク』(森山大道、中平卓馬ら) |
| 1969 | 京都府学連事件(最高裁)肖像権の確立 |
| 1971 | 荒木経惟『センチメンタルな旅』=「私写真家宣言」 |
| 1974–76 | WORKSHOP写真学校(東松照明ら6人の寺子屋式) |
| 1975 | 「ニュー・トポグラフィクス」展 |
| 1978–82 | ビュスタモント『タブロー』(タブロー形式の起点) |
| 1976 | エグルストン個展(MoMA)。ベッヒャー、デュッセルドルフ教授就任。自主ギャラリーCAMP/PUT/プリズム開設 |
| 1977 | ソンタグ『写真論』。「Pictures」展 |
| 1977–80 | シャーマン『無題フィルム・スティル』 |
| 1979〜 | ミズラック『砂漠のカントス』開始 |
| 1980 | バルト『明るい部屋』 |
| 1981 | レヴィン『アフター・ウォーカー・エヴァンス』 |
| 1986 | 深瀬昌久『鴉』。ナン・ゴールディン『性的依存のバラッド』。グラハム『Troubled Land』(風景が政治を背負う) |
| 1990 | Photoshop登場。メイプルソープわいせつ裁判(無罪) |
| 1990s | デュッセルドルフ派の席巻(グルスキーら)。バーティンスキーの産業景観 |
| 1998–99 | ホンマタカシ『東京郊外』(光琳社出版/1998刊)。第24回(1998年度)木村伊兵衛賞受賞(発表1999) |
| 1999 | グルスキー『ライン川II』 |
| 2004 | アレック・ソス『ミシシッピ川で眠る』 |
| 2007 | iPhone |
| 2010 | |
| 2012 | ピンク・レディー事件(最高裁)パブリシティ権 |
| 2022〜 | 画像生成AIの普及 |
| 2023 | ウォーホル財団対ゴールドスミス(米最高裁)流用とフェアユース |
附録B 用語集
本文に頻出する用語を「技術・プロセス(どう像をつくったか)/様式・運動(流派の振り子)/理論・概念(写真とは何か)」の三つに分けてまとめる。各項目末の(第N章)は本文での主な登場章。
技術・プロセス ── どう像をつくったか
- カメラ・オブスクラ:暗い箱の小穴から外の景色が壁に逆さに映る現象・装置。「camera(部屋)」の語源で、写真より何世紀も前から作画補助に使われた(第0章)。
- フォトグラム:カメラを使わず、感光紙に物を直接のせて露光する影絵。ウェッジウッド、のちアトキンスのサイアノタイプもこの原理(第0・1章)。
- 定着(フィクシング):光が当たると変化し続ける感光材料の反応をある時点で止め、像を安定させる工程。ハーシェルのハイポ(チオ硫酸ナトリウム)が決定打となり、写真誕生の最後の関門を解いた(第0・1章)。
- ヘリオグラフィ:ニエプスの方式。瀝青(天然アスファルト)を塗った金属板を露光し、硬化しなかった部分を溶剤で洗い流す。銀塩とは別ルートで、現存最古の写真を生んだ(第1章)。
- ダゲレオタイプ(銀板写真):磨いた銀板に像を結ぶダゲールの方式。髪の一筋まで写る超精密さの一方、一点もので複製できず左右反転、表面も繊細(第1章)。
- カロタイプ(タルボタイプ):紙ネガを用いるタルボットの方式(前身はフォトジェニック・ドローイング)。鮮明さは銀板に劣るがネガから何枚でも焼ける(第1章)。
- ネガ・ポジ法:まず明暗反転のネガを作り、そこから何枚でもポジを焼く原理。タルボットに由来し、その後150年のフィルム写真すべての土台になった(第1章)。
- サイアノタイプ(青写真):ハーシェル考案(1842年)。プルシアンブルーの地に白い像が浮かぶ。アトキンスが植物標本の記録に用いた(第1章)。
- 湿板コロディオン法:1851年、アーチャー。ガラス板を用い、鮮明さと複製可能性を両取り。ただし塗布・撮影・現像を濡れたまま十数分以内に行う必要があり、屋外には移動暗室が要った(第2章)。
- アンブロタイプ/ティンタイプ:湿板から派生した安価な一点もの(ガラス/鉄板)。庶民が数銭で肖像を持てる時代をひらいた(第2章)。
- カルト・ド・ヴィジット:1854年、ディスデリが特許。名刺判の安価な肖像を大量生産し、有名人カードの収集ブーム(カードマニア)を生んだ(第2章)。
- ステレオ写真:左右2枚を専用ビューアで覗くと立体に見える。ヴィクトリア朝の一大娯楽で、世界の名所を「写真で見る」体験を広めた(第2章)。
- コンビネーション・プリント:複数のネガを合成して一枚にする技法。ル・グレイの海景や、レイランダー/ロビンソンの寓意画に使われた(第2章)。
- 乾板(ゼラチン乾板):1871年、マドックス。あらかじめ感光させ乾いた状態で保存・携行でき、移動暗室から解放。撮影を一気に手軽にした(第4章)。
- ロールフィルム/コダック:1888年、イーストマン。「You press the button, we do the rest」で、現像をメーカーが担い撮影を万人に開いた。写真大衆化の決定的一歩(第4章)。
- 小型カメラ(35mm/ライカ):1925年市販。身軽で速写でき、スナップや報道、「決定的瞬間」の美学を可能にした(第6章)。
- 大判カメラ(8×10 など):精密で動かない世界。f/64やニュー・トポグラフィクスの即物的描写と結びつく。35mmとの選択がそのまま美学の選択になる(第6・10章)。
- カラー(オートクローム/コダクローム):オートクローム(リュミエール兄弟、1907年)が最初期の実用カラー、コダクローム(1935年)が現代カラーフィルムの祖。芸術として認知されるのは1970年代まで遅れた(第2・6・10章)。
- 計算写真(コンピュテーショナル・フォトグラフィ):複数画像とソフトウェア/AI推論を合成して一枚を作る現代技術。スマホ写真の中身は「撮る」より「計算する」に近づいた(第13章)。
様式・運動 ── 流派の振り子
- ピクトリアリズム:写真を絵画のように芸術らしく作る運動(19C末〜20C初)。ソフトフォーカスや手加工で「芸術である」ことを証明しようとした(第5章)。
- フォト・セセッション:スティーグリッツ率いる米国の芸術写真運動(1902年〜)。機関誌『カメラ・ワーク』を通じ写真の地位を押し上げた(第5章)。
- ストレート・フォトグラフィ:絵画模倣をやめ、鮮明さ・即物性など写真ならではの描写を追求する立場。ピクトリアリズムの対極(第6章)。
- 新即物主義/ニュー・ヴィジョン:1920年代ドイツの即物的・実験的モダニズム。事物をクールに見つめ、俯瞰や接写など新しい視点を開拓(第6章)。
- グループf/64:1932年、ウェストン、アダムス、カニンガムら西海岸の作家集団。名は「最も絞り込んだ=隅々まで鮮明」の宣言。ストレート写真の精鋭(第6章)。
- ドキュメンタリー写真(FSA):1930年代、大恐慌下のアメリカを国家プロジェクトで記録(ランゲ、エヴァンスら)。「写真が社会を証言する」黄金時代(第7章)。
- 決定的瞬間:構図とタイミングが一瞬で一致し、形と意味が同時に完成する刹那。カルティエ=ブレッソンの理念(第7章)。
- ニュー・ドキュメンツ:1967年MoMA(シャーカフスキー企画)。アーバス、フリードランダー、ウィノグランドら、社会改良でなく個人的・内向きのまなざしでスナップする態度(第9章)。
- アレ・ブレ・ボケ:粗粒子・ブレ・ピンボケを積極活用する日本の前衛美学。『プロヴォーク』(1968〜)の森山大道・中平卓馬らに代表される(第9章)。
- 私写真:作家自身の私生活・身辺を撮る日本の系譜。荒木経惟『センチメンタルな旅』(1971年)が宣言的(第11章)。
- コンポラ写真:「contemporary」に由来。日常の何気ない光景を中立に撮る、1960〜70年代日本の傾向(第9章)。
- ニュー・トポグラフィクス:1975年の展覧会に由来。人の手が加わった平凡な風景を中立的に記録する潮流。アダムス的な「崇高な自然」を否定した(第10章)。
- カラー写真の芸術化(ニュー・カラー):1970年代、エグルストンやショアがカラーを芸術表現として確立。それまで「広告や素人のもの」とされた色を美術館へ(第10章)。
- タイポロジー(類型学):同一条件・無表情で対象を撮り、分類・収集する手法。ザンダー → ベッヒャー夫妻 → デュッセルドルフ派とつながる(第6・9・10章)。
- デュッセルドルフ派:ベッヒャー夫妻の門下(グルスキー、シュトゥルート、ルフら)。大判・大画面の構築的な写真で美術市場を席巻(第12章)。
- ピクチャーズ世代:1977/79年の「Pictures」を機に括られた世代(シャーマン、レヴィン、プリンスら)。既存イメージの引用・演出・再撮影を武器にした(第11章)。
- アプロプリエーション(流用):既存のイメージを引用・転用して新たな意味を生む手法。ピクチャーズ世代の中核的戦略(第11章)。
- タブロー:絵画のように大判・大画面で構築・演出された写真(ジェフ・ウォール、グルスキー)。壁にかける「作品」としての写真(第11・12章)。
理論・概念 ── 写真とは何か
- インデックス性:像が対象と物理的・因果的につながっていること(足跡が足を、煙が火を指すように)。哲学者 C.S.パース の記号論の用語で、写真・美術への適用は美術批評家 ロザリンド・クラウス「Notes on the Index」(1977)。写真の「確かに在った」という真実味の根拠で、デジタル/AIで揺らぐ(第1・13章)。
- 「それは=かつて=あった」(ça-a-été):バルト『明るい部屋』の語。被写体は確かにそこに存在した、という写真の核心。生成AIはこの前提を揺るがす(第11・13章)。
- プンクトゥム/ストゥディウム:同じくバルトの語。前者は見る者を不意に刺す細部、後者は一般的・文化的な関心(第11章)。
- アウラ:ベンヤミンの語。作品が持つ一回性・「いま・ここ」性。複製技術はこれを解体する、と論じた(複製技術時代の芸術論。第11章)。
- ゾーン・システム:明暗を11段階に分け、撮影と現像を科学的に制御するアダムスらの理論。写真を偶然から「精密な設計」へ(第6章)。
附録C 写真をめぐる裁判 ── 主要判例
写真は生まれた瞬間から「機械的な複製か、作者の創作か」「真実か、私的領域の侵害か」を問われ続けてきた(はじめに②「記録か、芸術か」)。その問いが最も鋭く現れるのが法廷である。ここでは写真史と並走する主要な判例を時系列で。第2章の1862年判決から第13章のAIまで、一本の糸としてつながる。
著作権 ── 「写真は誰の作品か」
- マイヤー&ピアソン事件(フランス、1862年):写真が著作権で守られる芸術的著作物たりうると認めた初期の判決。→ 第2章。
- バロウ=ジャイルズ対サロニー(米・連邦最高裁、1884年):写真家サロニーのオスカー・ワイルド肖像の無断複製をめぐり、被告は「写真は機械の産物で著作者の作品でない」と主張。最高裁は ポーズ・衣装・照明・構図の選択=作者の「知的創作」 と認め、写真の著作権を確立。「機械が撮ったか」ではなく「人間の知的創作があるか」という基準は、139年後のAI著作権論(下記)に直結する。 米連邦最高裁 111 U.S. 53 (Justia) ↗/Cornell LII(判決全文)↗
- ブリッジマン対コーレル(米・NY 南部地区、1999年):パブリックドメインの絵画を忠実に複製しただけの写真には、新たな著作権は生じないと判示(「原画にできる限り近づける」複製=独創性なし)。バロウ=ジャイルズの「知的創作があるか」基準を裏側から確認した判決で、「複製」と「創作」を分ける線引きとして美術館・アーカイブの画像利用論に今も効く。→ 第2章。 米地裁 36 F. Supp. 2d 191 (Justia) ↗/Wikipedia「Bridgeman v. Corel」↗
わいせつ・表現の自由
- メイプルソープ「The Perfect Moment」わいせつ裁判(米・シンシナティ、1990年):同性愛的・SM的な作品を含む巡回展に対し、現代美術センター(CAC)と館長デニス・バリーが「わいせつ物頒布」で刑事起訴された(美術館が刑事被告となった初の事例)。陪審は無罪評決。芸術 vs わいせつ、そして公的助成(NEA)論争の象徴に。→ 第11章。 Wikipedia「The Perfect Moment」↗
流用(アプロプリエーション)とフェアユース
写真の「複製できる」性質(第2章)と、引用・流用する現代美術(第9・11章)が、繰り返し衝突する。
- ロジャース対クーンズ(米・第2巡回区、1992年):アート・ロジャースの写真『Puppies』を、ジェフ・クーンズが彫刻『String of Puppies』に流用。裁判所は侵害を認定(パロディの抗弁を退ける)。流用アートに冷たい初期判例。 Wikipedia「Rogers v. Koons」↗
- キャリオウ対プリンス(米・第2巡回区、2013年):リチャード・プリンスがパトリック・キャリオウのラスタファリの写真を流用した『Canal Zone』。控訴審は多くを「変容的(transformative)=フェアユース」と認定。芸術的フェアユースの“最高到達点”とされた。→ 第11・13章。 Wikipedia「Cariou v. Prince」↗
- ウォーホル財団対ゴールドスミス(米・連邦最高裁、2023年):ウォーホルがリン・ゴールドスミスのプリンス(音楽家)の写真を基に作ったシルクスクリーン。財団がそれを雑誌に商業ライセンスした行為について、最高裁はフェアユースにあらず(ゴールドスミス勝訴)と判断。Cariouの広い「変容的」解釈を引き締めた重要判決。→ 第9章(ウォーホル)・第11章の”流用”の、現在における決着点。 米連邦最高裁 598 U.S. 508 (Justia) ↗/Cornell LII(判決全文)↗
肖像権・パブリシティ権(日本)── 「撮られない自由」と「肖像の価値」
- 京都府学連事件(最高裁大法廷、1969年):デモを撮影した警察官への公務執行妨害事件を機に、最高裁が 「何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する」(憲法13条) と判示。日本における肖像権の確立。ストリート写真の倫理・法の出発点。 Wikipedia「京都府学連事件」↗
- ピンク・レディー事件(最高裁、2012年):無断で雑誌に写真を使われたとして争われ、最高裁がパブリシティ権(肖像等の“顧客吸引力”という人格権由来の経済的価値)を正面から承認。ただし「専ら顧客吸引力の利用を目的とする」場合に限り侵害とし、表現の自由とのバランスを取った。
撮られる側の権利 ── ストリート写真の倫理
- ガレラ対オナシス(米・第2巡回区、1973年):執拗に付きまとう写真家ロン・ガレラに対し、ジャクリーン・ケネディ・オナシスがプライバシー侵害・嫌がらせで争った事件。控訴審は報道の自由を認めつつも「正当な取材の範囲を超えた」として、本人や子どもへの一定距離内への接近を禁じる差止命令を支持した。「パパラッチ」という言葉と、撮る自由の限界を法廷で画した古典。 米連邦控訴審 487 F.2d 986 (OpenJurist) ↗/Wikipedia「Galella v. Onassis」↗
- ヌッセンツヴァイク対ディコルチア(米・NY、2006年):フィリップ=ロルカ・ディコルチアがタイムズスクエアで無断撮影した通行人(正統派ユダヤ教徒エルノ・ヌッセンツヴァイク)の肖像を連作『Heads』として展示・高額販売。本人が信仰・プライバシー侵害で提訴したが、裁判所は芸術表現=表現の自由として保護し、写真家側を支持。ストリート写真の法と倫理を考える際の touchstone。→ 第9章。 Wikipedia「Nussenzweig v. DiCorcia」↗
「誰が作者か」── 動物とAI
- ナルト対スレイター「猿の自撮り」(米・第9巡回区、2018年):写真家のカメラでマカクザル(ナルト)が自分を撮った“セルフィー”。PETAが動物の著作権を主張したが、動物には著作権なし(著作権は人間の創作にのみ及ぶ)。米著作権局も「猿が撮った写真」を非保護の例として明記。「シャッターを押した者」と「作者」は別という問い。 Wikipedia「Naruto v. Slater」↗
- AI生成画像の著作権(米・著作権局、2023年〜):Midjourney等で生成した画像は 「人間の著作物ではない」 として登録を拒否(コミック『Zarya of the Dawn』では、AI画像は保護されず、人間が書いた文章と配列・構成のみ保護)。著作権局はガイダンス(2023年3月)と報告書(2024–25年)を整備中。ここで効いてくるのが1884年のバロウ=ジャイルズ基準──「人間の知的創作があるか」。写真誕生期の問いが、140年後にAIをめぐって再演されている。 米著作権局「Copyright and AI」↗
- AI学習データ訴訟(米・アンダーソン対 Stability AI ほか/英・ゲティ対 Stability AI、2023年提訴〜):AI著作権のもう一方の戦線。上の「生成物は著作物か」に対し、こちらは「学習に他者の作品を無断で使えるか」を問う。アーティストや写真エージェンシーが Stable Diffusion 等の学習を著作権侵害だと訴え、米・英で複数の訴訟が進行中(英ゲティ事件は2025年11月、高等法院が中核の主張を退けた ── ゲティが「学習」に関する主張を訴訟途中で取り下げ、二次的侵害も棄却、商標のみごく一部を認容。米国の各訴訟は係争が続き、アンダーソン事件は2026年に公判が予定される)。写真の「複製できる」性質(第2章)が、AIの学習という形で再び法廷に問われている。→ 第13章。 Copyright Alliance「Andersen v. Stability AI」↗/Bird & Bird「Getty v. Stability AI(英・2025)」↗
1839年に「世界が自分を写し取る」と驚いた人々の問い ──「これは機械の産物か、人の作品か」「本当に在ったのか」── は、ずっと法廷で問われ続けてきた。バロウ=ジャイルズ(1884)からAI(現在)まで、写真史と判例史は同じ一本の糸の上にある。
附録D 重要作品ガイド ── 画像と所蔵館アーカイブへのリンク
本文に登場する「間違いなく重要」な作品を、所蔵館・アーカイブのデジタル公開ページにつなぐ一覧。PD=パブリックドメイン(自由に閲覧・利用可。本稿では挿画として一部を掲載)/ ©=著作権存続(リンクのみ。各館の公式ページで鑑賞を)。URLは将来変わることがあるため、作者名・作品名でも検索できるよう併記した。
第1〜4章 誕生と拡散(多くがパブリックドメイン)
- ニエプス『ル・グラの窓からの眺め』1826年頃 ── PD ── Harry Ransom Center 所蔵。画像(Wikimedia Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- バヤール『溺死した男の自画像』1840年 ── PD ── 最初期の“演出写真”。Wikimedia Commons(本稿に挿画あり)
- ルイ・ダゲール『タンプル大通り』1838年 ── PD ── 人間が写った最初の写真。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- アンナ・アトキンス『英国の藻類』1843年 ── PD ── ニューヨーク公共図書館(NYPL)/ The Met。Met で検索
- ロジャー・フェントン『死の影の谷』1855年 ── PD ── アメリカ議会図書館。議会図書館で見る(本稿に挿画あり)
- ジュリア・マーガレット・カメロン(肖像写真)1860年代 ── PD ── The Met(オープンアクセス)。Met で検索
- カールトン・ワトキンス『ヨセミテ』1860年代 ── PD ── スミソニアン米国美術館 / NGA。スミソニアンで見る(本稿に挿画あり)
- ティモシー・オサリヴァン『キャニオン・デ・シェイの古代遺跡』1873年 ── PD ── シカゴ美術館 / ゲティ美術館。ゲティ(同峡谷の近接作 “Head of Cañon de Chelle”) / Commons の O’Sullivan 作家カテゴリ
- W・H・ジャクソン『イエローストーン』1870年代 ── PD ── アメリカ議会図書館 / NYPL。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- エドワード・マイブリッジ『動く馬』1878年 ── PD ── アメリカ議会図書館。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- W・H・フォックス・タルボット『開いた扉』1844年頃(写真集『自然の鉛筆』所収)── PD ── ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)。画像(Wikimedia Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- ヒル&アダムソン『エディンバラ・エール』1844年頃 ── PD ── メトロポリタン美術館。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- ギュスターヴ・ル・グレイ『大きな波、セート』1857年 ── PD ── フランス国立図書館(BnF)。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- ナダール『サラ・ベルナール』1864年頃 ── PD ── ゲティ研究所(オープンコンテンツ)。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- オスカー・レイランダー『人生の二つの道』1857年 ── PD ── 32枚のネガを合成した寓意画。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- ヘンリー・ピーチ・ロビンソン『消えゆく(Fading Away)』1858年 ── PD ── ジョージ・イーストマン・ミュージアム。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- ティモシー・オサリヴァン/ガードナー『死の収穫(A Harvest of Death)』1863年 ── PD ── アメリカ議会図書館。議会図書館で見る / Wikipedia「A Harvest of Death」
- エドワード・マイブリッジ『ユニオン・ポイントから望むテナヤ峡谷、ヨセミテ渓谷』1872年 ── PD ── ワシントン・ナショナル・ギャラリー(NGA)。画像(Commons, CC0)(本稿に挿画あり)
- エティエンヌ=ジュール・マレー『ハードルを跳ぶ人』(クロノフォトグラフィ)1890年代 ── PD ── 運動を一枚に重ねた連続露光。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- ジェイコブ・リース『盗賊の巣(バンディッツ・ルースト)』1888年(『向こう半分の人々の暮らし』1890年に収録)── PD ── MoMA/ニューヨーク市博物館 ほか。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
第5〜7章 ピクトリアリズム〜モダニズム〜ドキュメンタリー
- アルフレッド・スティーグリッツ『三等船室』1907年 ── PD ── The Met(オープンアクセス)。Met で検索
- ルイス・ハイン(児童労働の記録)1908年〜 ── PD ── アメリカ議会図書館。LoC で検索
- ウジェーヌ・アジェ(古いパリ)1900年前後 ── PD ── The Met / MoMA。Met で検索
- アンセル・アダムス『ティトンとスネーク川』1942年 ── PD(米政府著作物) ── アメリカ国立公文書館。NARA / NGA(本稿に挿画あり)
- ドロシア・ラング『移民の母』1936年 ── PD ── アメリカ議会図書館(FSA/OWI)。LoC アイテムページ
- ウォーカー・エヴァンス(FSA期)1936年 ── PD ── アメリカ議会図書館。LoC で検索
- アウグスト・ザンダー『時代の顔』1920年代〜 ── © ── SK Stiftung Kultur(ケルン)。
- アンリ・カルティエ=ブレッソン『サン=ラザール駅裏』1932年 ── © ── マグナム / MoMA。MoMA で検索
- ピーター・ヘンリー・エマーソン『ウナギ網を上げる』1886年 ── PD ── クリーブランド美術館。画像(Commons, PD)(本稿に挿画あり)
- ポール・ストランド(街頭ポートレート/クローズアップ)1916年 ── © ── アパチャー財団 / ゲティ美術館。Getty で見る
- ラースロー・モホイ=ナジ(フォトグラム/ニュー・ヴィジョン)1920年代 ── © ── MoMA ほか。MoMA で検索
- アルベルト・レンガー=パッチュ『世界は美しい』1928年 ── © ── 新即物主義の代表作。Wikipedia「Albert Renger-Patzsch」
- マン・レイ『アングルのヴァイオリン(Le Violon d’Ingres)』1924年 ── © ── ゲティ美術館 / パリ国立近代美術館。Wikipedia「Le Violon d’Ingres」
- ゴードン・パークス『American Gothic, Washington, D.C.』(エラ・ワトソン)1942年 ── PD(米政府著作物・FSA/OWI) ── アメリカ議会図書館。画像(Commons, PD)
- ロバート・キャパ『崩れ落ちる兵士』1936年 ── © ── 国際写真センター(ICP, キャパ・アーカイブ)/ メトロポリタン美術館。Wikipedia「The Falling Soldier」
- ブラッサイ『夜のパリ』1933年 ── © ── エステート・ブラッサイ / 各館。Britannica「Brassaï」
第8〜13章 戦後〜現代(ほぼ著作権存続 = リンクのみ)
- ロバート・フランク『アメリカ人』1958年 ── © ── National Gallery of Art / MoMA。NGA で検索
- ダイアン・アーバス ── © ── The Met / MoMA。MoMA で検索
- 木村伊兵衛・土門拳 ── © ── 土門拳記念館(酒田市)ほか。
- 森山大道・荒木経惟・深瀬昌久 ── © ── 東京都写真美術館 ほか。
- シンディ・シャーマン『無題フィルム・スティル』1977–80年 ── © ── MoMA(全70点を所蔵)。MoMA で検索
- ウィリアム・エグルストン ── © ── MoMA / エグルストン芸術財団。MoMA で検索
- ジャン=マルク・ビュスタモント『タブロー』1978–82年 ── © ── 「タブロー形式」の起点。メトロポリタン美術館
- アンドレアス・グルスキー『ライン川 II』1999年 ── © ── テート / MoMA。Tate で検索
- 杉本博司『海景』 ── © ── テート / 各館。Tate で検索
- ホンマタカシ『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』1998年 ── © ── 日本のニュー・トポ的郊外(木村伊兵衛賞)。東京都写真美術館 / TARO NASU
- エドワード・バーティンスキー ── © ── 各館・作家公式。Tate で検索
- アレック・ソス『ミシシッピ川で眠る』2004年 ── © ── マグナム / SFMOMA。
- ポール・グラハム『Troubled Land』1984–86年 ── © ── 北アイルランドの動乱を風景に(英国ニュー・カラーの代表作)。Paul Graham 公式(Troubled Land) / Tate で検索
- デヴィッド・ファレル『Innocent Landscapes』1999年〜 ── © ── 「消された人々」の埋却地を撮った紛争後の風景。davidfarrell.org
- 畠山直哉・柴田敏雄 ── © ── 東京都写真美術館 ほか。
- ウィリアム・クライン『ニューヨーク(Life Is Good & Good for You in New York)』1956年 ── © ── 報道写真の「整った美」を破壊した一冊。MoMA で検索
- エド・ルシャ『26のガソリンスタンド』1963年 ── © ── デッドパンな写真集の起点。MoMA(Twentysix Gasoline Stations)
- ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻(給水塔・溶鉱炉のタイポロジー)1960年代〜 ── © ── テート / 各館。Tate「Who are the Bechers?」
- 『ニュー・トポグラフィクス』展(ロバート・アダムス/ルイス・ボルツ ほか10人)1975年 ── © ── ジョージ・イーストマン・ミュージアム。Wikipedia「New Topographics」
- スティーヴン・ショア『アンコモン・プレイシズ』1973–79年 ── © ── “そっけない人工風景×カラー”の文法。Wikipedia「Stephen Shore」
- 中平卓馬・森山大道ほか『プロヴォーク(PROVOKE)』1968–69年 ── © ── アレ・ブレ・ボケの震源。Wikipedia「Provoke (magazine)」
- ジェフ・ウォール『破壊された部屋』1978年 ── © ── ハーシュホーン美術館(ライトボックス/タブロー)。Hirshhorn
- シェリー・レヴィン『アフター・ウォーカー・エヴァンス』1981年 ── © ── メトロポリタン美術館(流用=アプロプリエーション)。Met で検索
- ナン・ゴールディン『性的依存のバラッド』1986年 ── © ── MoMA / 各館(究極の私性ドキュメンタリー)。MoMA で検索
- セバスチャン・サルガード『Workers/Genesis』1990s–2010s ── © ── Amazonas Images / 各館。Wikipedia「Sebastião Salgado」
- アルベルト・コルダ『英雄的ゲリラ(チェ・ゲバラ)』1960年 ── PD(キューバ著作権の保護期間満了) ── 画像(Commons, PD) / Wikipedia「Guerrillero Heroico」
- 川内倫子『うたたね』『花火』2001年 ── © ── アパチャー(『Illuminance』)/ 東京都写真美術館。Tate で検索
図版クレジットについて:本稿に挿画として掲載した作品(ニエプス/マイブリッジ/アンセル・アダムス)は、いずれも所蔵館がパブリックドメインとして公開しているもの。画像は Wikimedia Commons および国立公文書館を経由し、各キャプションに所蔵・ライセンス・出典を明記した。著作権が存続する作品は、本稿では画像を掲載せず公式ページへのリンクのみとしている。
附録E 主要参考文献・出典
写真史をさらに深掘りするための定番文献と、本稿が事実確認に用いた一次資料・所蔵館アーカイブ。
通史・理論(書籍)
- ボーモント・ニューホール『写真の歴史』(Beaumont Newhall, The History of Photography, 1937/改訂版1982, MoMA)── 写真史の古典的通史。
- ナオミ・ローゼンブラム『写真の歴史』(Naomi Rosenblum, A World History of Photography)── 包括的で図版豊富な定番。
- メアリー・ウォーナー・マリーン『Photography: A Cultural History』(邦訳未刊)── 文化史としての写真史の標準的教科書。
- スーザン・ソンタグ『写真論』(Susan Sontag, On Photography, 1977)── 写真の倫理と権力をめぐる必読書(第10章参照)。
- ロラン・バルト『明るい部屋』(Roland Barthes, La chambre claire, 1980)── プンクトゥム/ストゥディウムの理論(第11章参照)。
- ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」「写真小史」── アウラ概念の出典(第5・7章参照)。
- ジョン・シャーカフスキー『The Photographer’s Eye』『Looking at Photographs』── MoMA的な写真の見方を作った批評。
- ジェフリー・バッチェン『Burning with Desire』── 写真の起源をめぐる理論。
- リズ・ウェルズ編『Photography: A Critical Introduction』── 現代の写真理論を概観する教科書。
- ジョン・バージャー『イメージ ── 視覚とメディア』(John Berger, Ways of Seeing, 1972)── 見ることと所有・権力の関係を平易に説いた古典。BBC番組を書籍化したもの。
- グレアム・クラーク『The Photograph』(Graham Clarke, The Photograph, Oxford History of Art, 1997)── 肖像・風景・都市・身体・ドキュメントと主題別に写真史を読み解く入門書。
- ヴィッキー・ゴールドバーグ『The Power of Photography』(Vicki Goldberg, The Power of Photography: How Photographs Changed Our Lives, 1991)── 一枚の写真が社会を動かした事例を集めた報道写真論。
- アンドレ・バザン「写真映像の存在論」(André Bazin, “Ontologie de l’image photographique”, 1945/『映画とは何か』所収)── 写真の「自動生成」が対象を客観的に刻印するという存在論。映画理論にもつながる論考。
日本の写真史
- 飯沢耕太郎『写真の歴史』『「芸術写真」とその時代』ほか ── 日本写真史の第一人者による多数の著作。
- 鳥原学『日本写真史(上・下)』── 通史としてまとまった入門書。
- 重森弘淹 ── 戦後日本の写真批評の礎(第8・10章で触れた東京綜合写真専門学校の創立者)。
- 日本写真家協会 編『日本写真史 1840-1945』(平凡社、1971年)── 幕末から終戦までを網羅した、戦後日本で編まれた本格的通史の定番(第5・7章参照)。
- 金子隆一 ── 東京都写真美術館の専門調査員として日本近代写真を発掘・体系化した写真史家。『日本近代写真の成立』ほか、多くの展覧会と復刻を手がけた。
- ジョン・シャーカフスキー、山岸章二 編『New Japanese Photography』(John Szarkowski & Shoji Yamagishi, MoMA, 1974)── 戦後日本写真(東松照明・森山大道・細江英公ら)を初めて海外に大規模紹介したMoMAの展覧会図録(第8・9章参照)。
日本の写真の一次資料 ── 国立国会図書館デジタルコレクション(全文公開)
戦前に刊行された日本の写真書籍には、著作権の保護期間が満了し、国立国会図書館デジタルコレクション(NDL)で誰でも全文を閲覧・PDFダウンロードできるものがある。第5章「日本と写真の出会い/日本のピクトリアリズム」と第7章「日本の戦時グラフ」を、これらの一次資料そのもので確かめられる。
明治の写真術 ── 第5-5節
- 一川芳員『外国写真鏡之図』丸屋甚八、1860年 ── 幕末浮世絵が描いた「写真鏡」。日本人による写真との出会いの最初期視覚証言。NDL(pid/1311886)
- 一川芳員『横浜見物図会 写真鏡・時計真写アメリカ』上金、1860年 ── 開港直後の横浜、写真と時計が「文明開化」のシンボルとして並ぶ。NDL(pid/1312443)
- 上野彦馬/Elliot & Fry 撮影『名刺版写真(石黒五十二)』── 日本最初期の商業写真家(長崎)の上野彦馬を含む撮影者によるコレクション(『榎本武揚関係文書』所収)。NDL(pid/9974322)
- 内田九一撮影『名刺版写真(勝安芳=勝海舟)』1870年頃 ── 明治天皇御真影を撮った宮中御用写真家による肖像。NDL(pid/9974326)
- 小川一真『日本百景』小川一真出版部、1896年 ── 明治を代表する写真家・コロタイプ製版者による風景写真集。上(pid/762810) / 下(pid/762811)
- 小川一真 編『東京帝国大学』小川写真製版所、1900年 ── キャンパス・施設・人物を網羅した写真帖。明治写真が「国家の自己表象」になった例。NDL(pid/813161)
- 小川一真 編『御大喪儀写真帖』小川一真出版部、1912年 ── 明治天皇大葬の御用写真帖。NDL(pid/966081)
- 佐藤鉄弥 編『写真事歴』写真新報発行所、1894年 ── 幕末〜明治の写真技術導入を記録した、日本最初期の写真史文献。NDL(pid/853966)
日本のピクトリアリズム ── 第5-6節
福原信三を中心に据えつつ、同時代の代表作家『アルス芸術写真画集』を併載。
- 福原信三『光と其諧調』写真芸術社、1923年 ── 日本ピクトリアリズムの理論を体系化した代表的写真論。NDL(pid/971704)
- 福原信三『西湖風景』日本写真会、1931年 ── 中国・西湖を撮った晩年の写真集。「東洋的・静謐な風景」の実践例。NDL(pid/1174860)
- 福原信三『写真芸術(論説集)』武蔵書房、1943年 ── 写真を芸術として捉える理念を集成した著作集。NDL(pid/1069120)
- 福原信三『写真を語る』武蔵書房、1943年 ── 写真をめぐる随筆集。NDL(pid/1069121)
- 『アルス芸術写真画集 第1編 高山正隆写真画集』アルス、1926年 ── 福原信三と同時代の代表作家。NDL(pid/947369)
- 『アルス芸術写真画集 第2編 西山清写真画集』アルス、1926年 ── 同シリーズ第2編。NDL(pid/947370)
戦時グラフと国家動員 ── 第7-2節
- 『大日本陸軍写真大観』明治天皇御写真帖刊行会、1934年 ── 軍隊・兵器・演習を網羅した写真大観。戦時報道写真がドキュメンタリーの装いで国家動員を担った物的証拠。NDL(pid/1458480)
- 山田米吉 編『満蒙地理風俗写真大観』日本図書刊行会、1934年 ── 満州国成立直後の植民地写真。「地理・風俗」として記録するという民族誌的眼差しの典型。NDL(pid/1146633)
※ NDLには「インターネット公開(誰でも閲覧可)」と「図書館・個人送信(要利用者登録)」の区分があり、上記はいずれも前者。なお戦前の写真同人誌『光画』(1932–33年、野島康三・中山岩太・木村伊兵衛ら)や『アサヒカメラ』『写真新報』『写真月報』などの戦前写真雑誌はNDLに大量に所蔵されているが、いずれも「個人送信限定」のため本一覧では扱えなかった。公開資料は今後増える可能性がある。
重要なオンライン・アーカイブ/解説(出典)
- The Met「Heilbrunn Timeline of Art History」(metmuseum.org/toah)── 作家・主題ごとの信頼できる解説。
- MoMA(moma.org)/ Tate(tate.org.uk)/ SFMOMA ── 近現代写真の所蔵・解説。
- Smarthistory(smarthistory.org)── 美術史家による作品解説(本稿のオサリヴァン等の記述で参照)。
- Library of Congress(loc.gov)/ National Archives(archives.gov)/ NYPL Digital Collections ── パブリックドメイン画像の一次アーカイブ。
- The J. Paul Getty Museum / Getty Research Institute(getty.edu)── 写真の所蔵・解説と研究資料の一次アーカイブ(本稿の複数の記述で参照)。
- Public Domain Review(publicdomainreview.org)── パブリックドメインの図像を解説とともに紹介(本稿の図版・出典で参照)。
- Gallica / フランス国立図書館(BnF)(gallica.bnf.fr)── 1,000万点超を公開するフランスの電子図書館。著作権満了資料の一次ソース(本稿の出典で参照)。
- Internet Archive(archive.org)── 絶版書・古写真集などをデジタル公開する非営利アーカイブ(本稿の出典で参照)。
- George Eastman Museum / International Center of Photography(ICP) ── 写真専門機関。
- 東京都写真美術館(TOP MUSEUM) ── 日本の写真の所蔵・展示。
本稿が参照した一次資料(判例ほか)
- 米連邦最高裁判所意見(supremecourt.gov)、Justia U.S. Supreme Court Center ── バロウ=ジャイルズ対サロニー(1884)、ウォーホル財団対ゴールドスミス(2023)等。
- 日本の最高裁判例 ── 京都府学連事件(昭和44年)、ピンク・レディー事件(平成24年)。
- 米著作権局(copyright.gov)── AI生成画像に関するガイダンス(2023年)と報告書(2024–25年)、Zarya of the Dawn 決定。
- 各所蔵館の作品ページ(本稿の挿画・リンクの出典は附録D、および各図版キャプションに明記)。
注:本稿は初学者向けの読み物として、上記の通史・解説・一次資料を総合して記述している。年代・名称には資料により表記の揺れがあるため、研究・引用の際は各一次資料にあたることを勧める。