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日本の城と戦国武将
太田道灌(太田道灌と城一覧)

日本の城と戦国武将

太田道灌(太田道灌と城一覧)/ホームメイト

「太田道灌」(おおたどうかん)は、1432年(永享4年)~1486年(文明18年)を生きた戦国武将です。

太田道灌

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太田道灌とゆかりの城について、その歴史を紐解いていきましょう。

「太田道灌」(おおたどうかん)は、1432年(永享4年)~1486年(文明18年)を生きた戦国武将です。
多くの戦を制した武将としての才能と、数々の歌を残した歌人としての才能を備えていた太田道灌。江戸城や川越城などの名城を築いたことから「築城名人」とも称えられています。しかし、多彩な才能を活かして大活躍しながらも、暗殺という非業の死を遂げることになったのです。
そんな太田道灌の生涯と、ゆかりのある城についてご紹介します。

太田道灌の生涯

「築城名人」太田道灌
「築城名人」太田道灌

1432年(永亭4年)、太田道灌は「関東不双の案者(知恵者)」と称えられた武将「太田道真」(おおたどうしん)の子として生まれました。幼少期から由緒ある寺や当時の高等教育機関で学問に打ちこみ、成長すると「扇谷上杉家」(おうぎがやつうえすぎけ)の家臣となっています。
扇谷上杉家とは、関東管領(室町幕府が設けた関東の政務を行なう役職)を輩出する名門・上杉一族の分家のひとつです。

1455年(享徳4年)、鎌倉公方(関東を統治した鎌倉府の最高職)の「足利成氏」(あしかがしげうじ)が、関東管領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を暗殺するという事件が起きました。これが発端となり、足利家と上杉一族の間で「享徳の乱」(きょうとくのらん)が勃発。24歳となり、太田道真から家督を継いだ太田道灌は、この乱を収めるべく戦いに身を投じます。
1457年(康正3年)、太田道灌は足利成氏の勢力に対抗するために、相模(現在の神奈川県)に江戸城と河越城を築城。この城のできばえが見事だったため、それからも城造りにかかわり、「築城名人」と呼ばれるようになったのです。
1471年(文明3年)、足利成氏との戦により、扇谷上杉家の当主である「上杉政真」(うえすぎまさざね)が戦死。上杉政真が跡継ぎを残さずに没したことにより、扇谷上杉家内で跡目争いが起きることを懸念した太田道灌は、上杉政真の叔父にあたる「上杉定正」(うえすぎさだまさ)を新当主として擁立し、争いの芽を摘んでいます。

1476年(文明8年)、足利成氏との戦が続くなか、新たな戦端が開かれました。上杉一族の分家のひとつである「山内上杉家」(やまうちうえすぎけ)の家宰(大名に代わって一族を取りまとめる職務)を務めていた長尾家内で、「長尾景春」(ながおかげはる)が謀反を決行。謀反を起こしたのは、弟の「長尾忠景」(ながおただかげ)が家督を継いだことに不満を持ったからです。太田道灌は上杉一族の内紛を収めるべく、長尾景春とも戦うことになりました。
「小磯城」(こいそじょう)、「溝呂木城」(みぞろぎじょう)など、長尾景春の拠点を次々と落としていくと、劣勢に追いこまれた長尾景春は、足利成氏のもとへ逃げこんでいます。
1482年(文明14年)、上杉一族と足利成氏の間で和睦が成立し、約30年続いた享徳の乱が終結。また、足利成氏を頼っていた長尾景春も戦い続けることができなくなったため、関東での争乱は収まったのでした。
この長い争乱のなかで、太田道灌は30回以上も出陣しながら1敗もしていません。兵同士の一騎打ちが戦の主流だった当時、太田道灌は集団で戦う「足軽戦法」を駆使したことにより、常勝を果たしたのです。

数々の武勲を挙げて名将としての地位を確固たるものにした太田道灌でしたが、その生涯には悲しい結末が待ち受けていました。
1486年(文明18年)、太田道灌は主君である上杉定正の屋敷に招かれた際に、暗殺されてしまいます。享年は55歳。
主君に勧められて入浴した直後の丸腰のときに、暗殺者に狙われたため、抵抗しようがありませんでした。暗殺された理由は、名声を得た太田道灌が謀反を起こすことを上杉定正が恐れたから、とされています。

城を築いたり、戦で活躍したりして仕えていた扇谷上杉家に尽くしたものの、報われることがなかった太田道灌。しかし、江戸時代になると非業の死を遂げたその生涯が人々の琴線に触れることになり、悲劇の英雄として語り継がれることになりました。

少年時代から非凡な才能を示した太田道灌

太田道灌は9歳のときから学問に打ちこんでおり、その利発さが世間に認められました。山内上杉家は太田道灌を家臣に迎えようとしましたが、扇谷上杉家が「この少年の価値はどんな財宝にも代え難い」として、太田道灌を手放さなかったのです。
太田道灌の父である太田道真も「関東不双の案者」と称えられるほどの智将でしたが、そんな父を少年時代の太田道灌がやりこめたことがあったとされています。

あるとき太田道真は、15歳だった太田道灌に「理非曲直」(りひきょくちょく/道徳的に正しいことと間違っていること)を教えるために、「障子はまっすぐなところに価値があり、曲がっていては価値がなくなってしまう」という話をしました。
しかし、太田道灌は屏風を例に出して、「屏風は曲がっているからこそ立つのです。まっすぐだと立ちません」と反論。これを聞いた太田道真は怒って、その場を去っていったのでした。

このような経緯があると、「太田親子は不仲だった」と思うかもしれませんが、ふたりはともに戦ったり、城を築いたりしているので、仲は良好だったようです。ただし、あまりにも利発すぎた少年時代の太田道灌に、太田道真が手を焼いたというのは、十分にあり得る話でしょう。

太田道灌と山吹の枝

山吹の枝
山吹の枝

武将としても、城の造り手としても有能だった太田道灌は、歌人としても優れていました。太田道灌が歌道に精進していくきっかけとなった、こんな逸話があります。

あるとき、太田道灌は突然、雨が降ってきたため、農家に入り、そこの娘に「蓑(みの/雨具)を貸して欲しい」と頼みました。しかし、娘が差し出したのは蓑ではなく山吹の枝だったので、太田道灌は困惑してしまったのです。
後日、この話を家臣にすると、娘が山吹の枝を差し出したのは「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」という歌にちなんだからではないか、という意見が出ました。
この歌は、貧しいために客人に貸すための蓑がなかったことから、仕方なく山吹の枝を渡したという内容だったのです。つまり、農家の娘は蓑のひとつさえ貸せない申し訳なさを、山吹の枝にこめたということになります。
太田道灌は娘の気持ちに気付けなかったことを恥じて、歌について学ぶようになったのでした。

この逸話からは、人の気持ちを大事にしようとする太田道灌の真摯な人柄が伝わってきます。太田道灌は多彩な才能を持っていたのにもかかわらず、驕ることのなかった、立派な人物だったのでしょう。

武士の覚悟を示した太田道灌の最期

新渡戸稲造
新渡戸稲造

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があるほど、武士にとってどのように果てるかは重要でした。仕える家のために何十年も戦い抜き、忠義を尽くした武士のなかの武士である太田道灌の最期は、実に見事だったとされています。

太田道灌は入浴直後の丸腰だったところを暗殺者に襲われて、最期を迎えました。そのとき、暗殺者は太田道灌が歌に通じていたことを知っていたため「かかるときさこそ命の惜しからめ(いざ死ぬとなると、武勇で名をはせたあなたでもさすがに命は惜しいでしょう)」と、歌により死を前にした心境を聞いています。
それに対して、太田道灌は「かねて亡き身と思い知らずば(常々、死を覚悟していない者であるならば、命を惜しんで、そう思うのであろうよ)」と、返したのです。つまり、太田道灌は死を前にしてもうろたえることなく泰然としていたのでした。

明治から昭和にかけて活動していた教育者「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)が著書のなかで取り上げたことにより、太田道灌の最期は後世まで語り継がれることになります。
太田道灌が最期に言葉にした「日常的に死を覚悟するという生き方」は、現代人からすると理解しづらいものですが、だからこそそこに武士独自の誇りを感じることができるのでしょう。

太田道灌に関連する城・城郭

戦国時代の黎明期、享徳の乱を戦うなかで数々の城を築いた太田道灌。1457年(康正3年)に築いた江戸城は、政治の中心地となり、現在では天皇陛下がお住まいになる皇居へと姿を変えました。太田道灌の築いた城は、日本の歴史に大きな影響を与えたと言っても過言ではないでしょう。
ここでは、太田道灌にかかわった江戸城、川越城、岩槻城についてご紹介していきます。この3つの城は同時期に築かれており、「太田道灌の3名城」と呼ばれるほどの素晴らしい建造物でした。

江戸城(えどじょう):東京都千代田区

太田道灌が、足利成氏の勢力に対抗するために築いたのが江戸城です。太田道灌は夢のなかでお告げを受けたので江戸に城を築いた、という逸話もあります。

当時の江戸城は、台地に築かれた平山城でした。本城、中城、外城からなる3重構造となっており、城内には25ヵ所の石門を設置。城を水堀や切岸(人工的につくった断崖)で囲っていたうえに、城の東側には海、西側には山があったため、江戸城は高い防衛力を備えていたのです。
当時、江戸の町には武士たちの拠点がいくつもあり、江戸城もそれらのひとつに過ぎませんでしたが、太田道灌の名声が高まるにつれ、江戸城は武蔵の中心地となっていきました。

太田道灌は江戸城の周囲に多くの神社を建てており、その周りに人が集まるようになったことで、江戸の町は発展していきます。東京千代田区に今もある「平川天満宮」も、太田道灌が築いた神社のひとつです。

現在、江戸城は皇居へと姿を変えましたが、「道灌壕」という名付けられた堀など、戦国時代の遺構も数多く残っています。

川越城跡(かわごえじょうあと):埼玉県川越市

川越城跡
川越城跡

享徳の乱で足利成氏と戦うのに備えて、太田道灌が江戸城とともに築いたのが川越城(旧名は河越城)です。城の完成後、太田道灌の主君であった「上杉持朝」(うえすぎもちとも)が城主となっています。

当時の川越城は、江戸城と同じく本城、中城、外城からなる3重構造で、3つの城の周囲には土塁が築かれていました。本丸付近には高さ約20mという高い櫓が設置されて、敵の侵入を見張る役目を果しています。川越城周辺には太田道灌とその父である太田道真の屋敷が築かれました。
なお、川越城と江戸城は軍事用道路によって結ばれて、その道路は足利成氏の勢力に対する防衛線と位置付けられたのです。

川越城は明治時代に取り壊しになっていますが、本丸御殿の一部である大広間と玄関部分は保存されました。日本国内で本丸御殿が現存する城は非常に貴重なので、川越城は埼玉県の指定文化財に指定されたのです。

川越城の西大手門跡に建てられた川越市役所の前には、鷹狩りの装束を着て、山吹の枝を手に待つ太田道灌の像が立っています。

岩槻城(いわつきじょう):埼玉県さいたま市

大田道灌が上杉持朝の命により、江戸城、川越城と同時期に築いたのが岩槻城です。この城は、「白鶴城」「竹たばの城」という別名で呼ばれていました。鶴が木の枝を沼に落とし、その上に舞い降りたことに着想を得た太田道灌が、沼を埋め立てて岩槻城を築いたという逸話が別名の由来です。

岩槻城は台地に築かれた平山城で、石垣や堀などで城を囲った総構えという構造となっていました。城の防衛施設のひとつだった水堀は、日本でも屈指の大きさだったとされています。

現在、城跡は岩槻城址公園となっており、春になると約600本の桜が咲く名所として人気です。