| Ohio氏と読む ジョージ・セルの思い出 終章――1970 アラスカでの最後のコンサートの日に、セルのちょっとしたショック状態を私が引き起こすこととなった。私はパイロット免許を取得したばかりで、Louise LaneとJoseph Adatoをアンカレジ地域を飛び回りに連れて行ったのだった。セルはそれを聞き、コンサートの前に私がホールに入ってくるのを見つけると、言った。「君はあの飛行機を空港のあたりで操縦し、それを飛び上がらせて、空に上がって、そして一緒にLouiseを!! 君は彼を無事に連れ帰ったんだな」 私は言った。「はい。ミスター・セル」 Louiseを安全に連れ戻すことは私にとって非常に重要だった。「どうしてだ? どうしてなんだ?」と彼は訊いた。 「ですから私は安全に戻ってこれましたよ、ミスター・セル」 彼の返答は古い車がエンジンを始動するときの音のようだった。「ハァ、ハァ」 そして彼は私の操縦についてすべてを知りたがった。「君はいつから飛んでいるんだ?」 私は考えた。彼には本当のことは話せないと。彼は本当に動転してしまうはずだ。必死で、私は「物語」を考え始めた。そして空想の個人史を創作しようと試みた。私には彼が何を考えているのかはわかった……。「私は73歳だ。小型機で空を飛んだことはまったくない。Louiseはいまそれをした。私にはLarryがどうやって飛行を学んだのか理解できない。彼はベース奏者だし、他に何もすべきでないはずだ。それでも、たぶん私も一緒に飛ばせてと彼に頼むべきだろう!」 そして私は考えた……彼にどう話したものか? 最終的に私は、避けようのない現実を理解するに至った。私にはとっても彼にウソをつくことができない。セルがもう一度「ライセンスを取ってからどれくらいになるんだ?」と尋ねたとき、私は観念した。「私はライセンスを取って9か月になりました、ミスター・セル」 そのときまでセルは「ドン・ジョヴァンニ」の堂々たる石像の騎士長のように見えた。そう、あなたはその石が音を立ててステージの床に崩れ落ちるのを見たはずだ。 オーケストラの最後のコンサートのあいだ、彼は依然として私が飛べるということに驚いて、ときどき私のほうを見やっているようだった。しかし、さらにいっそう気づかされたのは、セルの棒がふらついたように思えた微妙な瞬間だった。彼はひどく疲れているように見えた。日本北部の札幌で、医師は次のコンサートで指揮するべきではないとセルに強くアドバイスした。しかし彼は韓国とアラスカの聴衆に対して義務を負っていると感じていた。 ソウルからアンカレジへのフライトは異常なほど長時間になった。航空会社の不適切な運行計画によって、遅れと燃料トラブルが引き起こされた。この旅は誰にとっても、エネルギーを使い果たし、消耗するものだった。しかし、いったん我々が所定の位置につき、ウォームアップを終え、彼の音楽的挑戦に応じる準備を整えると――はるか遠くに我々を連れて行き、あまりに多くのことを我々に教えた崇高なる巨人と一緒の――最後となったカーテンコールへと我々は進んだのだった。 Michael Haber, Cello, 1969-1971 Michaelはインタビューにひどく気乗りがしない様子だった。彼は私が話を聞く「最後で最短の人間」だと抵抗した。自分の話はおもしろいのかもしれないが、しかしこの本が出版されるべきなのかが彼には判然としなかった。というのは、みながセルのことを十分に考えていたとはいえないからだ、と。私は、欠点などすべてを含めてセルを人間として見ることを望んでいるのだと、彼に請け合った。 「彼は嫌なヤツだった……私のような人間に対しては」とMichaelは口を開いた。「私が思うに、セルの心は階級制の流儀で働いていた。独奏者や首席奏者はセルに、聡明で、魅力的で、深い教養のある、洗練された人間を見るのだろう。彼は疑いなくそうだった。しかし、凡庸な人間には……君も知っているように、もし私が演奏会に出ていても、オーケストラの出す音になんの違いもないとしたら……彼はそれで十分だと思っている。彼には私がそこに座っている必要があるだけで、私が彼の人間としての全体像を知る機会はないんだ。それが私からコメントするのが妥当でない理由だよ」 私はMichaelをなだめようと努め、彼が私たちについて言ったことはすべて正しいし、それこそが我々が欲しているセルその人の全体像(a complete picture)なのだと説明した。画像(pictures)といえば、我々はめったに展示されないセル氏の写真を数枚入手したところだった。私がそれらをMichaelに見せると、彼は受け入れたが、セルが彼にどんな思いをさせたのかを私と分かち合って、過去との不快な対面を終わらせたがっているように見えた。 「はじめ、彼は私をひどく怯えさせた。しかし、彼が結局、私が賞賛していたような種類の人物ではないのだと気づいて、小さな翼幅しかない小人物のような振る舞いをする彼を見たとき、私の彼に対する恐れは消えたんだ。彼は偉大な音楽家だったけれども、それで私に十分とはいえなかった……彼の一部の狭量さ、オーバーコントロール、私への関与の拒絶……取るに足らない私、26歳の、名もない……私は、まっとうな人間である私への関与を拒絶したことで、彼を軽蔑する。私は絶対に軽蔑する」 私がMichaelの宣言に、ある意味の爽やかさを見いだしたことは認めなくてはなるまい。というのも、私がおこなったインタビューで、あまりに多くの人々がセルのことをあたかも親切な祖父のように話したのだった。私がそのことを口にすると、Michaelはすぐに私を遮った……。 「私に話させてくれ!! あなたは最大のおしゃべり屋だけど、私は話す一言ひとことを愛しているんだ」 Michaelは、今度は哲学的な調子になって……「私はただ私自身について説明する必要があるんだ。私は自分の意見についてきわめてぼんやりとした見方をしていた。長じて私は、自分への理解により無知でいられるようになった。私は個人的に、それが知性のしるしなのではないかと考えているけれども、ほとんどの人はそう思っていないようだね」 「無知が、知性のしるしなの?」と私は訊いた。 「いや、自分自身に無知な感覚が、知性のしるしなんだ。他の誰かへの無知の感覚は、冷酷さのしるしだよ」 その哲学的な議論を終えると、Michaelはオーケストラとの彼のオーディションの描写に進むことができるようになった。彼の最初のオーケストラ・オーディションにやって来る4年半前に、Michaelはアマチュア音楽家として出発した。オーディションのためにクリーヴランドに来たとき、彼はワシントンDCの陸軍軍楽隊にいた。呼ばれるのを待っているあいだ、他のチェロ奏者が階段を下りてきて言った。「彼は私に『ドン・ファン』を下げ弓(down bow)で開始させたんだ」 Michaelは、上げ弓(up bow)で始めようが下げ弓(down bow)で始めようが、自分にはその曲を演奏するのは難しいと答えた。Michaelの番が回ってきて、彼は小さな希望と大きな不安とともにステージに上がった。セルの前でバカなまねをすることがありませんようにと願いながら。「そのときの私は、基本的には音楽愛好家というだけだったんだ……。ジョージ・セルとクリーヴランドオーケストラとは、つまり、それそのものなんだよ。私は協奏曲のひとつの楽章とバッハの組曲の全楽章を演奏した。私がベートーヴェンの第八交響曲からいくつか難しいチェロのパッセージを演奏しているあいだに、Lynn Harrell(1963-1971)がステージに上がってきた。私が弾き終えると、Lynnは私に言った。『長いストローク(long stroke)を使ったらいい』 セルはホールの後方から怒鳴った。『Lynn、これはチェロのレッスンじゃないんだぞ!』 私は(Lynnのアドバイスが)とてもありがたかった。私はそれをもう一度弾いたのだが、前よりよくなった」 「我々はオーディションの前に、自分たちの経歴を記入して質問表を埋めなければならなかった。私が書くことができたのは合衆国陸軍軍楽隊だけだった。『Haber君』 セルが言った。『君の経験は本当にこれだけなのかね?』 Michaelはそのとおりだと認めねばならなかった。そうして、オーディションの残りでは、セルが彼の横に立ち、「ドン・ファン」から2つの非常に難しいチェロ・パッセージを彼に4、5回繰り返させた。次に彼はブラームス第二交響曲の埋もれたパッセージを譜面台に置いた。「とうとう私はやり終えた。私は二度とこれほどにはできないと思えるほど上手く弾けて満足だった!」 セルは「君が来て学びたいと思うのなら」と、彼に職を提供した。 Michaelはすぐに、セルのために働く人生はすこしばかり困難だと気づかされた。彼はこう打ち明けた「セルは私を悩ませたんだ。私のような一兵卒に向かっては、わずかばかりの社交儀礼だけの、抑圧的で打ち解けない人間として――」 最初のリハーサルでは、Michaelは演奏に非常に神経質になった。曲のひとつは「売られた花嫁」序曲だった。「そこで私は曲を演奏しながら、怖がっていた、1人の男をとても恐れた。私はとても怖がっているように見えたに違いない。Teddy(Theodore) Barr(1944-1945, 1948-1974)が手を伸ばし、私の膝を軽く叩いた。彼はとても親切だった」 私は、Teddy BarrとAlbert Michelson(1947-1969)が気まずい休戦状態で一緒に座っていたのを思い起こした。Michelsonはいつも彼自身のための余分な空間をほしがった。その結果、Teddyは2人が共有する譜面台上の楽譜を見るのに難儀することになった。一度、ロシア移民のAlbertがTeddyに言った。「我々は闘うべきだ」と、まるで古式ピストルでの決闘を挑んでいるかのように。Michaelの推測によれば、当時のクリーヴランドオーケストラの(楽員の)半数以上は難民だった。「もし、その多くが苦しめられ、困難な過去を持つヨーロッパ難民の一団を連れてきて、彼らをひとまとめにしたら、それはギャラリーだ、みんなが感じがよい必要もないし、彼ら全員と友だちになりたいと思うわけでもないが、そこには実際に生きている人たちがいたんだ」 Michaelのなによりも好きな音楽はハイドンでありモーツアルトだった。このオーケストラはこうした作曲家の演奏で名高かった。しかしながら、交代制はなかったから、セクションのトップの少数の奏者だけがこの音楽を演奏する機会を得ていた。ある日、Michaelはセルと話す約束を得ることができた。彼がセルのオフィスに入ると、セルは瞬時に反応して訊いた。「何が問題なんだ?」 彼は不平を予期していたのだ。しかしMichaelは言った。「何も問題はありません、ミスター・セル」 その言葉がセルにショックを与え、Michaelの説明を待とうと彼をデスクの背後に退かせた。Michaelは説明した――ハイドンとモーツアルトが彼の好きな作曲家であり、セルとこのオーケストラが彼らの音楽を演奏する仕方を愛していた、そして関与する機会を願っているのだと。セルはMichaelに、今後ある種の交代制をおこなうことを考えていたところだと話した。「もちろん、彼は翌シーズンに亡くなったのだが、アーチストとして心からの要望だけを持って私が来たのを彼が知ったこのとき以来、彼はとても感じがよくなったんだ」 「私たちはずっと話してきたけど、音楽づくりについてひとつだけ話しておきたいんだ。繰り返すけど、これは26歳の人間の観点だよ。しかし我々がベートーヴェンの交響曲、ブラームス、シューベルト、ブルックナー、あるいはマーラーの交響曲をセルと演奏したとき、そうした夜は私にとって決して忘れられないものとなった。理解の本当の深さを私は感じたし、何か非常に特別なことがそこで起こっていた。多くの他のコンサートでは、彼のあらゆるものをコントロールする深い欲求が、ものごとを損なっていると私には思えた。しかし、このオーケストラでの私の最初の年に、5つか6つか7つあるいは8つの夜に表現されたものは、いまでも思い出されるのだが、音楽家になりたいという私の抱いた思いを完全に正当化するものだった。あれはなんとも特別だった」 Martin Flowerman, Double Bass, 1967-2011 Yarden Faden, Viola, 1966-2006 Yarden:セルのオフィスから駐車場を見渡せた。彼は毎朝9時ごろに、誰が早く来るのか、どんな種類の車を運転してくるか、そして楽譜を持参しているか否かを知ろうと観察していた。ヴァイオリン奏者のRalph Schiller(1947-1952)は印象づけるために、セルのオフィスの閉まったドアの真ん前に立って、ヴァイオリンを弾いたものだった。ある日、セルがドアを開けて言った。「Ralph、君の楽器の音は好きじゃないんだ」 自分にはすぐに新しいヴァイオリンを買う余裕がないのだとRalphが説明すると、セルはこう答えた。「先週、君はビュイックの新車でやって来たじゃないか」 Martin:私がはじめてセルのスピーチを聞いたときのことを思い出すよ。オーケストラがヨーロッパ・フェスティバル・ツアー(1967年夏にザルツブルク、ルツェルン、エジンバラの各音楽祭に招かれて出演したこと)のためのリハーサルを開始した日だった。彼はザルツブルクではどこにディナーに行くべきかを私たちに話した。そこはグレイビーやソースなしの素朴で純粋な肉を出すところだから、我々の体調が悪くならないだろうと。「オイレンシュピーゲル」というところだったんだけど、本当に素晴らしかったね。 Yarden:私はセルのオーディションなしで契約にサインした数少ない人間の1人だった。Louis Laneが私を雇ったのだが、私の最初のリハーサルのとき、セルはヴィオラセクションに知らない男を見たんだ。それがブラームスの大学祝典序曲だったか悲劇的序曲だったかは思い出せない。しかしセルはいつも言っていたよ。「アカデミック(大学祝典)」は非常に悲劇的で、「悲劇的」はアカデミックだとね。 セルにはリハーサルの時間が十分いうことがなかったが、マゼールは仕上がるまで待てなかった。マゼールがはじめてやって来て、我々はプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」を演奏し、録音した。限られたリハーサル時間で、いかにマゼールがそれを完成させたか、私は信じることができなかったよ。彼は私が一緒に演奏したなかで、最高のテクニシャンだね。 Marty:Laneが引き受けたときはいつも、まさにセルと同じように指揮したものだったね。彼は飲み込みが早かった。セルの死の直前、札幌からソウルに出発する前に私は朝食の列に並んでいた。Laneはとても悲しげに列にいた。セルの状態について、彼は情報を得ていたはずだ。彼は自分がオーケストラに来たときのこと、そして指揮については何も知らなかったことを、楽しげに語っていた。彼は驚異的な初見演奏のできる人間だった。 Yarden:Charlie Trager(Charles Tregerと思われる)はチャイコフスキー・コンクールで'62年か'63年に優勝(正しくは1962年ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール=International Henryk Wieniawski Violin Competitionで米国人初の優勝)し、独奏のキャリアを開始した。彼はまさに独習の、驚くべき才能の持ち主だった。彼は自分が何をなすべきかを理解し、そしてそれをおこなうという姿勢を持っていた。彼はモーツアルトの協奏曲を何度も我々とツアーで演奏した。そしてある時点で彼はすべてを、指づかいから何もかも、変えた。次に彼がそれを演奏したとき、セルは言った。「教えてくれないか、君は誰からモーツアルトを学んだのかな?」 Chrlieは苛立って言った。「モーツアルトの演奏の仕方はひとつだけじゃありません」 セルは言った。「私のオーケストラでは違うね」 Emilio Llinas, Violin, 1968- Hartford(コネチカット州の州都)でEmilioは、John MackやBill Steckと回転バー付きのレストランにいた。「君も知ってのとおり、Johnはコーラは飲まないんだ。そこで我々全員がカクテルを頼んだ。そして誰がレストランの動かない部分(回転バーではない席)に入ってきたかと思ったらLouis Laneとセルなんだよ。我々は飲み物と一緒に後ろを向いた。コンサートの午後の昼食時間だった。彼らの座っている場所の周囲を回りながら、我々は飲みものを隠すあらゆる方法を試みたんだ。これは例の「オー、ノー」の瞬間のひとつだった。もしロビーの周辺だとしたって午後4時に出会ったなら、彼はこう言うに決まってるんだから。「なぜ君は自分の部屋で昼寝をしていないんだ? 午睡は強制的だった」 セルの音楽への大きな敬意をEmilioは称賛する。「彼が凡庸に対して寛容ではなく、人々を強要したのは、彼がそうした完璧主義者だったからだよ。彼はあらゆるスコアのあらゆる音符を知っていた。そうして彼はそれが完全であるよう望んでいたんだ。木曜朝のリハーサルがその週の最高の演奏となることがままあった」 私はセルがよく言っていたことを思い出した。「我々は週に9回のコンサートをおこなう。うち7回はプライベートの」 私はそこでEmilioに彼の初リハーサルのことを尋ねた。「じつに完璧で、じつに彫塑され、宝石のようなバランスだった。管楽セクションは驚異的だった。誰もが同じスタイルで演奏していた。彼らはみな同じやり方で音を発し(articulated)、みなが同じ音楽的志向を有していた――このオーケストラのトレードマークだった。彼らは全員でひとつの楽器のように演奏した。もし誰かがライブラリーでセルのスコアを見たら、どのスコアにも印がつけられている、弦のパートはすべて緻密に運弓された」 セルはいつだって、向上が見られないなら、弦楽セクションの規模を減らすと脅していた。ときとしてセルはもっともすぐれた才能の人々の何人かを踏みつけにした。しかし、Emilioが指摘するように「セヴァランスホールでは何か重大なことが起こっていたんだ。電気が漂っていた」 Emilioは直前にクリーヴランドのオーディションの電話をもらった。準備のためにたった1週間しかなかったので、彼は辞退した。「私が電話を切ると、妻は誰からの電話だったのか、そして私がなんと言ったのかを訊いた。私の返事を聞くと彼女は言ったんだ。『電話をかけ直して』 私は言った。『君が電話しろよ。私は演奏すべき人間なんだ』 私が電話をかけ直した! 1968年のことだ」 Emilioのもっとも鮮やかな記憶のひとつは、セルの最後のツアーとなった日本の大阪でのものだ。「最後のアンコールの最後の音が発せられると、聴衆から称賛の巨大な叫びがあった。そしてオーケストラがステージを去った後ですら、人々は彼の手になんとか触れようと列を成したんだ」 同様に彼は地元クラシック放送局から得た2つの宝物の入ったテープ録音を思い起こした。「ひとつは、彼が女性グループにスピーチしていて、話の最後に彼は女性たちのおこなった仕事に対して感謝した。彼は言った。『私のお尻からハートまであなた方に感謝いたします』 もうひとつは、ギレリスがピアノに座り、セルがもうひとつのピアノに座っているテープ。セルは、ドイツ語で話しながら、実際にギレリスを指導していた。ギレリスにレッスンしていたんだ!」 一時、Emilioは副コンサートマスターのポジションのオーディションを考えていた。それで彼はセルの意見を聞くことに決めた。「セルはとても賞賛してくれて、私が『私はどうすべきですか?』と言うと、彼は答えた。『さきほど話したこと以上の認識は私には考えつかないね』 それで話は終わりさ」 「君は覚えているかな?」 Emilioは私に訊いた。「有名なヴァイオリニストのシモン・ゴールドベルクのことを? 彼は指揮と演奏にやって来た。我々がモーツアルトの協奏曲のリハーサルをしていて、セルが柱のうしろに隠れて聴いているのに気づいたんだ。突然、セルが指揮台にいてスコアに触れていた。ゴールドベルクは言った。『何か間違っていたかね?』 セルは言った。『その音符! 正しくない!』 ゴールドベルクが持参した彼のスコアには印刷ミスが含まれていたんだね。もちろん、我々のパート譜は正しかった。セルは厳しかったよ。けれど彼はこのオーケストラを知らしめたんだ!」 Bert Siegel, Violin, 1965-1995在籍 Joan Siegel, Violin, 1965-1995 Ed Ormond, Viola, 1959-1997 Bert:クリーヴランドオーケストラに加わるようセルが私たちを招いたとき、彼は言ったんだ。「このすぐれたオーケストラのどこに座ろうと問題じゃない」 それで私はあまり注意を払わなかったんだ。私たちの最初のリハーサルの初日に、楽屋から出てきた彼に会った。彼は言った。「Siegel君、私は君がどこに座るかについて、君に謝らなくてはならない。ファミリーの平和を保つために私にできる最善のことをしたんだよ」 これが、私が彼から経験したもっとも親切なことだったね。 Ed:到着したとき、私は5席に置かれた。Isaac Gans(Viola, 1944-1960)と座ったんだ。Isaacは私にすぐ、彼の片耳は完全に聞こえないと話した。翌年、私は2席の外側(outside)に移された。そこにはLaszlo Krauszが座っていたのだが、彼は内側(inside)に移動させられた。彼はこれを悄然と受け入れた。「これが君の責任でないことはわかっている。彼だ!」 私たちは友人になったよ。 Joan:私たちはベートーヴェンのすべての協奏曲を、偉大なエミール・ギレリスと数日にわたって録音していた。ある日、私が階段を上がっていたときにギレリスと一緒になったのね。ギレリスが私に言った。「彼はとてもいい人とはいえないね」 Bert:ミルステインが来てラロの協奏曲をやったときのことを憶えているよ。リハーサルのあいだに、ミルステインがセルにオーケストラがもう少しソフトに演奏できないか頼んだんだ。セルは言ったね。「我々は喜んで君の小っちゃい音に合わせさせていただくよ」 Joan:ミルステインが到着する前の週から、私たちはすでにラロのリハーサルをしていたのよね。 Bert:ああ、そうだ。我々はそれを完璧に知らなければならなかった。というのは誰にもわからないからね、アーチストがどう演奏するか! ミルステインのような気質の音楽家をセルは本当に嫌っていたな。 Larry:カサドシュのようなアーチストと一緒だと、(独奏者がやって来る)3、4週前から毎日5、10分のリハーサルをしたものだね。最初のリハーサルのときには、オーケストラ演奏の質は独奏者を驚かせ、しばしばショックを与え、彼らの演奏のアーチスティックな水準を高める意欲をかきたてさせた。 Bert:ラロのような協奏曲だとそれはわかるな。我々はそれをあまり演奏しないのに、彼はじつに多くの部分を心配したのだけど、それはひとたび独奏者が到着するとうまくいったんだ。 Larry:君たちはグレン・グールドの事件を憶えているかい? グールドは「ゴルトベルク変奏曲」の録音ですでに名が知られていて、みんな彼と仕事したがった。彼は頭から床までの長さのくすんだコートに、手袋を着け、喉の周りにマフラーを巻いてやって来た。彼以外のみんなはワイシャツ姿なのに。セルはベートーヴェンの協奏曲のために腕を振り下ろす用意ができていたが、グールドは彼のアーチスト・チェアを低くするのに大わらわだった。というのも、彼は手をとても高く上げて弾くからだ。(椅子を)どんどん下げて、それを試すためにしょっちゅう止まった。これがえんえんと続いて、セルのフラストレーションと苛々が募った。グールドは相変わらずマフラーと手袋、コートを身に着けていた。すっかり苛立ったセルは言った。「我々が君のお尻を2、3インチ切り取れたら、きっとうまくいくと思うんだが!」 Bert:あるとき我々はロッシーニ序曲集のレコードの録音をしてたんだが、最後のセッションでやることなすことうまくいかなかった。あらゆる種類のまともじゃない事故、テイク中に鉛筆が落ちたり、楽譜が譜面台から滑り落ちたり、誰かが咳やくしゃみをしたり……我々はテイクにテイクを重ねたんだよ。セルは業界用語を使うのが好きだった。そのテイクが満足できるものだったときには、エンジニアはこう言うのがならわしだった。「缶(can)に入ってる」 セルはそれを完全に正しくものにしたことがなかった。彼はいつもこう言っていた。「バッグ(bag)に入っている」 このときは、テイク、再テイク、おお神よ、なんという午後だったろうか、セルはようやく(プレイバックから)戻ってきて、他のみんなと同様に彼も本当に疲れていたのだが、こう言った。「よし、みんなうまくいった。いくつものさまざまなバッグに入っている」 セルについてはたくさんの旅行ネタがある。我々のキャリアの初期にオーケストラが西部ツアーにあるときに、そのひとつが起こったんだ。我々はPhoenixでチャーター機に搭乗していた。知っているだろ、彼らがひんぱんに「BGM(elevator music)」を流すのを。我々は最前部近くに座っていたのだが、セルがスチュワーデスに話しているのが聞こえた。「この音楽はどうしても必要なのかね?」 彼女は声の届く範囲のみんなに言った。「信じられない、この人、音楽が好きじゃないんですって!」 Larry:Bert、君はいつもオーケストラと組合の契約問題で活動していたよな。我々みんな、Fred Funkhouser(Frederick Funkhouser, Viola, 1929-1984)のことは憶えていると思う。彼は完全な紳士だった。組合とのミーティングで、楽員は、組合とオーケストラ運営側とのあいだでの契約案を承認するか否かの基本的な権利を保証契約するよう付随定款を変えることを望んだ。組合指導者は言った。「君たちが決議を作成し、我々がそれを3か月のあいだ組合機関紙に載せて広める。そして我々はそれを民主的に票決する」 それで我々はやったよ。そしてもちろん、彼らは2500人が参加し、我々の100票は否決された。ある熱く、荒々しく、怒りに満ちた総会で、Fredは震え声で、議長の注意をひいて言った。「しかしサー、サー、あなたはRobert's Rules of Order(ロバート議事規則=議事の円滑な運営のために米国の多くの団体が採用している議事規則)に従っていませんよ」「ここでは私がRobert's Rules of Orderなのだ」とセルは答えた。「さっさと座って、黙りたまえ」 我々の組合との結びつきは、最低のレベルに衰退したんだ。 since January 2016 |