第1回: 二人の同時代人――なぜ『戦争論』と『戦争概論』は噛み合わないのか
この記事でわかること
『戦争論』と『戦争概論』の成り立ちの違いがわかります。
二人の理論家が互いをどう批判したのかがわかります。
兵站という第三の視点が必要な理由がわかります。
この連載の読み方と、使う資料の限界がわかります。
「戦争は他の手段をもってする政治の継続」。クラウゼヴィッツの名で流通しているのは、ほぼこの一句だけです。加藤秀治郎訳『縮訳版 戦争論』の巻末解説も、この形で要約を掲げます。
はじめに人物を紹介します。カール・フォン・クラウゼヴィッツは、プロイセン(現在のドイツ北部にあった王国)の軍人です。1780年に生まれ、1831年に没しました。『戦争論』はその遺稿、つまり死後に残された原稿です。
では、同じ戦争を最前線で見て、正反対の結論を書いた同時代人を挙げられるでしょうか。アントワーヌ・アンリ・ジョミニです。スイス生まれの軍人で、19世紀の士官学校で最も読まれた軍事理論家です。
ジョミニはフランス軍、ロシア軍、アメリカ軍の教範を直接形づくりました。教範とは、軍が公式に定めた教科書です。イギリスの軍事史家マイケル・ハワードによれば、ドイツ以外の国で彼は「一九世紀末までに最も影響力のある識者となっていた」といいます。
二人は同じ戦争を見て、同じ皇帝ナポレオン(1804年から1815年までのフランス皇帝)を研究しました。しかし一方は「戦争に原則はある」と書き、他方は「原則を戦場の計算式にするな」と書きます。この連載は、その噛み合わなさを正面から扱います。
結論
二人の対立は、どちらが正しいかという問題ではありません。ジョミニは戦争から反復する構造を取り出し、クラウゼヴィッツは反復を裏切る要素を取り出しました。両方を手元に置いて、はじめて計画の妥当性を検算できます。二人の議論の下には、常に補給の物理が横たわります。本連載はこの三点から一つの問いを測量します。
1 二冊の本は、そもそも同じ条件で書かれていない
比較の前に、成り立ちの違いを押さえてください。クラウゼヴィッツは1831年11月16日、ブレスラウでコレラに倒れます。ブレスラウは当時プロイセン領で、現在のポーランドのヴロツワフです。倒れて一日と経たずに没しました。享年51歳です。
『戦争論』は生前に完成していません。遺稿は妻マリーの手でまとめられ、1832年から1834年に出版されました。著者が陸軍大学を去るときの言葉を、ハワードが引きます。この原稿は「大戦争の理論を構築するための素材を集積したものにすぎない」。つまり、材料を集めただけで、組み立てはこれからだ、ということです。
ジョミニは1779年3月6日に生まれ、1869年3月24日に没します。享年90歳、クラウゼヴィッツの倍近くを生きた計算です。『戦争概論』は1838年、59歳のときにパリで公刊されました。生前に完成し、版を重ね、著者が反響に答えられた本です。
引越しにたとえます。片方は荷造りの途中で家を出て、箱に中身のメモだけが残った状態です。もう片方は荷解きを終え、写真つきの手引まで作った状態です。教科書は引用しやすく、翻訳しやすく、講義に載せやすいのです。中身の優劣ではなく、受け取られ方が変わります。
思考実験をしましょう。二人の寿命を入れ替えたら、どうなったでしょうか。90歳まで生きたクラウゼヴィッツなら、鉄道と後装式ライフルの登場を見て書き直せたはずです。後装式ライフルとは、弾を銃身の後ろから込める新型の銃です。逆に51歳で没したジョミニは、『戦争概論』を書けません。
したがって、ジョミニ優位から始まった19世紀の軍事思想史には、思想の強さとは別の理由があります。
2 経歴の非対称――拾われた男と、放られた男
二人はともにロシア軍に身を寄せました。しかし、その入り方が正反対です。
ジョミニはスイス西部、フランス語を話すボー県の出身です。フランス軍では、ネイ将軍(のちに元帥となり、ナポレオンの主力を預かった指揮官)に見出されます。上級副官から皇帝側近の幕僚へと進みました。幕僚というのは、司令官のそばで計画を立て、命令を書く役目の将校です。
1808年から1809年には、ネイの幕僚長としてスペインへ行きます。そこで彼は、自分の戦争研究が想定していなかった事態にぶつかりました。住民の武装蜂起と、ゲリラ戦です。ゲリラ戦とは、少人数が待ち伏せと襲撃を繰り返す戦い方です。
侵攻する側が正面の敵へ突進している隙に、相手は「わが後方連絡線上に出没し、守備に残された分遣隊を血祭にあげ」ます。連絡線というのは、軍と後方の補給地とを結ぶ道のことです。この経験が、のちの彼の連絡線への執着を作りました。
その後、ジョミニはネイと決裂して職を失います。1812年のロシア戦役では後方の守衛にまわり、1813年春に再びネイの幕僚長へ戻りました。そして現在のドイツ東部で戦われたリュッツェンとバウツェンの会戦で功を立てます。会戦とは、主力どうしがぶつかる大きな戦闘です。その年の休戦期間に、彼はフランス軍を去りました。勤務は前後で約9年、以後の56年間をロシア軍で過ごします。
クラウゼヴィッツの側はどうでしょうか。1806年にフランス軍の捕虜になります。1812年には、フランスとプロイセンが同盟を結んだことに耐えかね、職を辞しました。そしてロシア皇帝アレクサンドル一世に仕えます。同じ年の12月には、タウロッゲン(現在のリトアニアの町)にいました。プロイセンのヨルク将軍がロシア軍に降伏する交渉で、仲介役を務めています。
『戦争概論』を訳した佐藤徳太郎は、訳者解説でこう書きます。ジョミニがナポレオンに率直な意見を言えた背景を論じたうえでの一文です。 「これは民族も違い、常に放られる側にあったクラウゼウィッツとは大きな相違である」。 つまり、ジョミニは外から来た客人として物を言えたが、クラウゼヴィッツはいつも追い出される側だった、ということです。
長距離の移動にたとえます。片方は乗り継ぎのたびに席が用意されている人です。もう片方は、そのつど自分で切符を買い直す人です。ジョミニは移籍のたびに迎えられ、クラウゼヴィッツは移籍のたびに弾き出されました。
この差は性格の問題にとどまらず、二人が理論に何を求めたかにも接続します。拾われる側は原則の普遍性を語りやすく、放られる側は状況の不確実性を語りやすいのです。
3 二人は相手をどう見たか
まずジョミニの側から見ます。『戦争概論』序章の題は「近代兵学とその価値について」です。兵学とは、戦争のやり方を研究する学問です。彼はこの序章でクラウゼヴィッツの死に触れ、こう書きました。
「その真髄を彼の著書に反映させる前にそれが書かれてしまったことを、ただただ遺憾に思うばかりである。」 つまり、自分の本を読む前に書き上げてしまったのが残念だ、という言い方です。
続けてジョミニは、相手の本の構成そのものを矛盾だと指弾します。「彼の第一巻は、一切の兵学理論を否定する大熱弁以外の何ものでもない」。それなのに第二巻と第三巻は理論的原則で満ちている、というのが彼の指摘です。
訳者解説は、ジョミニの別の一言も記録します。クラウゼヴィッツは自分の原理を全く誤解している、という非難です。ジョミニにとって相手は、理論を否定しながら自分の理論には自信満々な、筋の通らない人物でした。
クラウゼヴィッツの側は、生前にジョミニを名指ししていません。ここが、この節で一番わかりにくいところです。順を追って説明します。
『戦争論』には、幾何学に偏った戦争理論を順に潰す章があります(第二篇第2章)。その章はまず、作戦基地の角度を計算する理論を叩きます。作戦基地というのは、軍が補給と増援を受け取る後方の土地のことです。ここでは補給の元になる場所と考えてください。彼は、その計算が純粋に幾何学的な結果しか生まず、まったく役に立たないと書きます。
次の標的が内線です。内線というのは、敵に囲まれた側が中央にいて、短い距離を動いて相手を一つずつ叩く配置を指します。彼は、先の誤りへの反動として別の幾何学的な原理が持ち上げられた、と書きました。
ハワードとピーター・パレット(ハワードと共に英訳を作った歴史家)の1984年英訳版は、ここに編者注を付けます。"The reference is to A. H. Jomini."。「ここで指しているのはA・H・ジョミニである」という意味です。
先の作戦基地の議論に付いた注は、ビューロー(同時代の軍事理論家)を指します。つまりクラウゼヴィッツは、名前を出さずにジョミニを撃っていました。
工事にたとえます。担当業者の名を出さず、図面の番号だけを挙げて「この工法は危ない」と言うようなものです。名指しがなくても、現場では誰のことか通じます。
佐藤訳の解説は、ジョミニに向けられたクラウゼヴィッツの批判文も引きます。用兵はあらゆる方面と関わり、それらは「数量的に限定することを許さないものであって特に無形的要素において然りである」。つまり、数字で区切れないものが多く、目に見えない要素はとくにそうだ、ということです。
ブロディ(アメリカの戦略研究者。1984年の英訳版に解説を書きました)も、この章の標的を特定します。過去の理論家の名を並べたうえで、ビューローと同時代人ジョミニを挙げました。名指しはなくとも標的は特定できる、ということです。
4 対立の核心は「原則は存在するか」
ジョミニの立場は、序章の信条として文章になっています。「およそ兵学には、もしこれを無視すれば危険に陥るが、反対にこれにのっとれば殆どの場合勝利の栄冠を得るであろう若干の基本原理が存在する。」 つまり、無視すれば危ないが、守ればたいてい勝てる基本原理がいくつかある、ということです。
ハワードは、ジョミニの公式を二つに要約します。第一に、戦場の決定的地点へ自軍の大部分を次々に投入することです。決定的地点とは、勝敗を分ける一点です。第二に、自軍の補給線を乱さずに、敵の補給線へ可能な限り自軍を差し向けることです。
山登りにたとえます。ガイドブックには「稜線に出る前に水を補給せよ」という原則が載ります。たいてい正しく、破れば危険です。しかし当日の天候と体調によっては、原則どおりに動けません。
クラウゼヴィッツは、理論が行動の手引書である必要はない、と述べます(第二篇第2章)。理論の役割は、あらゆる線が集まる点を指し示すことです。戦場で使う代数式を組み立てることでは決してありません。同じ章の終わり近くの一行が、この対立の温度を伝えます。
"Pity the theory that conflicts with reason!"
「理性と衝突する理論こそ憐れむべきだ」という意味です。
なぜここまで拒むのでしょうか。理由は、理論を論じた次の章にあります(第二篇第3章)。
"In war, the will is directed at an animate object that reacts."
「戦争において意志は、反応する生きた対象に向けられる」という意味です。相手が反応する以上、一方的な計算は成立しません。
ハワードによれば、彼がジョミニの公式を否定したのは、それが単純すぎたからではありません。公式が「戦争の本質としていたものをうまく捉えていなかったから」です。
ここで、ジョミニ側の有力な反論を検討します。相手は理論を全否定しながら自分は理論を書いた、という先の指弾です。これは半分当たっています。摩擦と不確実性を強調した章は、手引書的な理論への全面攻撃と読めるからです(第一篇第七章)。摩擦とは、計画どおりに事が運ばない現実の抵抗です。
しかし残り半分は当たっていません。同じ第二篇第2章が、理論の仕事を四つ挙げて積極的に定義するからです。
[1]戦争の構成要素を分析します。 [2]一見ひとつに見えるものを正確に区別します。 [3]用いる手段の性質と効果を説明します。 [4]目的の性質を明確にします。
理論は将来の指揮官の自己教育を導きますが、戦場までついていきません。ブロディも同じ点を押さえます。原則に理論を基礎づける発想を拒むことは、彼が自分の理論に原則を含めることを妨げませんでした。
ジョミニの側にも留保があります。彼は基本原理を掲げた直後に、「これらの原則は状況に応じて時に修正されるものではあるが」と断りました。天才的な将軍には、法則に縛られず自由に戦争を導く余地が残されている、とも認めます。
二人の距離は、原則の有無ではありません。留保をどこに置いたかの差です。
5 忘れられた第三の軸――補給の物理
理論と原則の応酬の下には、もう一つの層があります。ジョミニは戦略を論じた章の冒頭で、戦争の術を三つに切り分けました(第三章「戦略一般」)。
「戦略はどこで行動すべきかを定め、ロジスティクスはこの地点に部隊を運び、大戦術は戦闘実行の様式と部隊の用法とを決定する」。 つまり、戦略が場所を決め、兵站が部隊を運び、大戦術が戦い方を決める、ということです。
この三分割の第二項が、本連載の第三の軸です。ジョミニは兵站を論じた章で、ロジスティクスという語の由来を説明します(第六章)。もとは兵站監という役職の名でした。その職分はかつて、部隊を宿営させ、行軍を指示し、一定の地域に配置することに限られます。彼はこれを、幕僚の仕事全体へ広げて定義し直しました。
店の在庫にたとえます。ジョミニにとって兵站は、倉庫と発注の仕組みをどう組むかという組織の問題です。クラウゼヴィッツにとっては違います。在庫が尽きれば店を開けられない、という作戦の可否そのものを決める制約です。
その制約の大きさを、数字が示します(第五篇第12章)。1812年6月24日、ナポレオンの中央軍は301,000人でニエメン河を渡りました。現在のリトアニアとロシアの境を流れる川です。
8月15日のスモレンスクで13,500人を分けて残しました。ですから287,500人が残るはずです。ところが実際の兵力は182,000人しかいません。105,500人が失われた計算になります。
この間、戦闘らしい戦闘は二度しかありません。戦闘による損失は、多く見積もっても10,000人です。残る95,000人は全軍の約3分の1にあたります。52日と約350マイル(約560キロ)の前進のあいだに、病気と落伍で消えました。
追うロシア軍も無傷ではありません。カルーガ(モスクワの南の都市)を120,000人で出発し、ヴィルナ(現在のリトアニアの首都)に30,000人で到着します。四分の三が道中で失われた計算です。
情報の速度だけは、この時代に変わりはじめます。ジョミニは1809年のラチスボンでのナポレオンの成功を、電信連絡の施設に帰しました。ラチスボンは現在のドイツ南部の都市レーゲンスブルクです。700マイル(約1,100キロ)離れた地の出来事を、24時間以内に把握したというのです。
しかし兵と馬の速度は変わりません。ハワードが書くとおり、この時代の「兵站は行軍する兵士と荷車を引く動物の進行速度と持久力に左右されていた」のです。
なお、クラウゼヴィッツが補給を軽視したわけではありません。先の第二篇第2章では、逆に、補給を戦争指導の最終的な決め手に据えようとした理論を批判します。具体的な数字は出るものの、勝手な仮定の山に載っており、実践の試験に耐えません。
補給は決定要因の一つであって、唯一の決定要因ではありません。これがこの軸の扱い方です。
用語のおさらい
兵站(ロジスティクス):軍に食料と弾薬を届け、部隊を運び、宿を割り当てる仕事です。
連絡線:軍と、後方の補給地とを結ぶ道です。ここが切れると軍は干上がります。
作戦基地:軍が補給と増援を受け取る後方の土地です。補給の元になる場所です。
内線:囲まれた側が中央にいて、短い距離を動いて相手を一つずつ叩く配置です。
6 ここからは筆者による応用――三角測量という方法
ここからは筆者による応用です。原典の説明ではなく、原典をどう使うかという提案として読んでください。
測量では、一点から見た距離は誤差を含みます。離れた二点から同じ対象を見て、角度を突き合わせます。そうしてはじめて位置が定まります。本連載が三角測量と名乗るのは、戦争または競争の局面を三つの視点から測るからです。
三つの問いは次のとおりです。
[1]何が反復するか。決定的な地点はどこで、線は何本引けるか。これはジョミニの問いです。
[2]何が反復を裏切るか。政治目的は何で、相手はどう反応し、摩擦はどこで生じるか。これはクラウゼヴィッツの問いです。
[3]物理的に可能か。その線を何日維持できるか。これは兵站の問いです。
順序が大切です。[1]から始めて[3]で検算し、[2]で最終判断を下します。順序を逆にして[2]から始めると、材料がないまま情勢論に流れます。[3]を省くと、地図の上でだけ成立する計画ができあがります。
引越しの見積もりと同じです。まず荷物の量を数え、トラックの台数と日数を出します。そのうえで当日の天気と道路の混み方を見て判断します。順序を入れ替えると、見積もりは崩れます。
三者を混ぜてはならない理由も述べます。ジョミニの答えは「どこを狙うか」の答えです。クラウゼヴィッツの問いは「何のために狙うか」の問いです。前者を後者の答えに流用すると、幾何学が政治判断を置き換えてしまいます。
ご自分の事例へ再利用するときは、次の手順で足ります。
ア 反復する構造を三つ書き出します。 イ その各々について、相手の反応で崩れる条件を一つずつ書きます。 ウ 実行に要する物量と時間を数字で置きます。 エ ウがイに耐えないなら、アに戻ります。
誤読を一つ防ぎます。ハワードが引く『戦争論』の一節に、戦略は「三角測量術に頭を悩ますこともなく、地図を使用すればよい」という文があります。これは戦略家が測量の実務から解放されている、という意味で、本連載の比喩とは別の話です。本連載は、渡された地図をどこまで信用できるかを測り直します。
7 資料についての断り
最後に、資料の性格を断ります。ここを飛ばすと、この連載の限界が見えなくなります。
第一に、ジョミニ『戦争概論』佐藤徳太郎訳には来歴があります。底本は米国兵役刊行会版『ジョミニとその戦争概論』です。訳者自身が「したがってこれは米訳からの重訳ということになろう。」と書きます。重訳とは、原書からではなく、別の言語の訳から訳すことです。しかも原書の一部の項目は、簡潔にする目的で米訳の段階から取り除かれました。原書の全体を映した訳ではありません。
引越しの荷物リストにたとえます。手元にあるのは、原本の写しをさらに写したものです。写す途中で、いくつかの品目が省かれています。リストは役に立ちますが、原本と同じではありません。
第二に、『戦争論』は三種を併用します。篠田英雄訳(岩波文庫)と、加藤秀治郎訳『縮訳版 戦争論』と、ハワードとパレットの1984年英訳版です。英語の引用は原文のまま示し、直後に日本語で意味を書きます。日本語訳は原表記のまま写します。篠田訳は1960年代の文語調に近い訳文ですから、引いたあとに必ず平易な言い換えを添えます。
第三に、本連載は12回で完結し、原則と理論と兵站の三軸を順に扱います。現代の進行中の事案と、実在の政治家と、特定の国家への評価は書きません。応用は意思決定の構造という抽象度にとどめます。
第四に、資料の間に食い違いがある場合は、一方を採らずに両方を示します。訳者解説の総括を借りれば、二人の「基本思想には超えることのできない大きな断絶があり」ます。その断絶こそが、本連載の観測対象だからです。
今日の要点
[1] クラウゼヴィッツは未完の遺稿を残し、ジョミニは1838年に完成した教科書を出しました。19世紀の受容の差は、まずこの違いから来ています。 [2] ジョミニは各軍に迎えられ、クラウゼヴィッツは弾き出されました。訳者解説は後者を、常に放られる側にあったと評します。 [3] ジョミニは相手を、理論を否定しながら理論を書いた矛盾だと批判しました。クラウゼヴィッツは名指しを避けて内線の幾何学を批判し、英訳版の編者注がジョミニの名を明かします。 [4] 対立の核心は原則の有無ではありません。ジョミニも原則の修正を認め、クラウゼヴィッツも理論に四つの仕事を与えました。差は留保の置き場所です。 [5] 二人の議論の下には補給の物理があります。1812年の前進では105,500人が失われ、うち戦闘による損失は最大10,000人でした。残りは病気と落伍によるものです。 [6] 本連載は三点から測量します。反復する構造と、反復を裏切る要素と、物理的な可否です。
次回予告
第2回は「戦争に原則はあるか――ジョミニの四原則とクラウゼヴィッツの拒絶」です。ジョミニが掲げた基本原理を原文のまま示し、一項目ずつ意味を解きほぐします。そのうえで、クラウゼヴィッツの四点の批判を突き合わせます。固定した値を求めること、目に見える量に偏ることを含む批判です。最後に、原則を答えではなく点検表として使う手順を示します。第2回から第12回は有料(980円)です。
参照文献
カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』上・中・下、篠田英雄訳、岩波文庫(電子書籍版、2019年2月21日発行)。第一篇第一章、第一篇第七章
カール・フォン・クラウゼヴィッツ『縮訳版 戦争論』加藤秀治郎訳、日本経済新聞出版本部、2020年11月19日。巻末解説
Carl von Clausewitz, On War, ed. and trans. Michael Howard and Peter Paret, Princeton University Press, 1984. 第二篇第2章、第二篇第3章、第五篇第12章
Bernard Brodie,「A Guide to the Reading of On War」, in On War (1984). 第二篇第2章、第三篇第14章への註解
アントワーヌ・アンリ・ジョミニ『戦争概論』佐藤徳太郎訳、中央公論新社(中公文庫)。序章「近代兵学とその価値について」、第三章「戦略一般」、第六章「兵站(部隊移動の実技)」、訳者解説「ジョミニについて」、あとがき
マイケル・ハワード『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の思想』奥山真司監訳、古池典久・中谷寛士訳、勁草書房、2021年7月20日(原著 Clausewitz: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2002)。序論、第1章、第2章
いいなと思ったら応援しよう!
ご支援ありがとうございます。
サポートは学業や研究のほか、様々な活動に充てたいと思います。
今後ともご期待に添えるように精進いたします。

