フェミニストの私は「男の生きづらさ」問題をどう考えるか

つらさに寄り添うのは当然、ただ…

「男がつらい」時代と「男性学」

現代日本社会は、「男性にとってつらい」社会だという。不安定な雇用、上がらない給料、長時間労働、昇進・昇給を望みにくい状況、失業不安など、仕事に関わる状況が悪化していることに加え、家族生活の上でも、未婚化の進行、離婚の増大、老親介護負担の増大、子育ての難しさの増大など様々な問題がある。確かに現代日本社会は「男性にとってつらい」社会かもしれない。

当然、こうした「男がつらい」時代に、「男のつらさ」に寄り添うことは、重要である。しかしその際に、繊細な論じ方をしないと、「男のつらさ」を訴えることが「男性の特権を回復せよ」という主張に接続してしまうおそれがある。以下では、そのことについて考えてみたい。

この「男性のつらさ」を、社会変動と男性に対する社会的イメージとの関係から読み解くのが、男性学の騎手の一人、田中俊之氏だ。氏は、社会が大きく変動しているにもかかわらず、男性の生き方に対する社会的イメージには大きな変化が生じておらず、そのギャップによって現代は「男がつらい」時代になっているという(田中俊之、『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』、中経出版編集、(株)KADOKAWA出版、2015年)。

〔PHOTO〕iStock

氏が最も問題だと指摘するのは、「男性と仕事とのつながりが強すぎる」こと。企業の成長とともに昇進や昇給が期待できた高度経済成長期とは違って、低成長期の今日では、男性でも非正規労働の職が増大している。

たとえ正社員になれたとしても、企業の成長があまり期待できないから昇進や昇給は期待できないし、リストラや倒産もある。にもかかわらず、現代日本でも、「男性は学校を卒業したら、定年退職までフルタイムで働くべきだ」というルールが依然としてある。

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バブル崩壊までに就職していた上の世代の男性たちの多くは、このルールに基づいて「生きて」きた。それゆえ「そうは生きられない」下の世代の男性たちにもこのルールを押し付ける。その結果、「フリーターや契約社員などで働く男性たちは、正社員よりも劣っている」と見るような上の世代の偏見や、無職の男性に対する「情けない」などの否定的評価が、未だ現代社会に強く残存してしまっている。

自分たち自身もそのような見方にとらわれ、自分自身を否定的に評価してしまう。それゆえ必要なのは、「男性の生き方」のイメージを変えることだと、田中氏は主張する。「男の生き方」を考え直し、男の価値を仕事だけに求めるのではない男性の生き方のイメージを作ることで、男性はずっと楽に生きられる。経済的見通しが立たない「絶望の時代」には、仕事の成功だけを評価するようなこれまでの男性の生き方を見直す「男性学」こそが、希望になるのだと。

男性のなかでの「世代格差」

田中氏の著作に代表されるこうした考え方を便宜的に「男はつらいよ型男性学」と呼んでおこう。

こうした議論は、いわゆるロスジェネ世代以降の男性たちのつらさに、よく照準している。1993年から2005年までの就職氷河期、私は大学生たちと教員として接していた。エントリ-シートを何十枚と書き、入社試験を何社も受け、何次にも及ぶ面接試験を受け、それでも一社からも内定が取れなかったなどの学生たちの経験を聞くたびに、本当に胸がふさがる思いだった。

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「落ちるたびに、『お前はいらない人間だ』と宣言されているようだった」と語る学生たちの声の中に、所属する会社や組織によって人間(=男性)の価値を測る日本社会の現実を、聞き取っていた。

「そんなもので人間の価値は測れないよ」と、正論を言うことは簡単だ。だが実際、その価値観から身を引き離すのは、どれほど大変なことか。「先生、~社の内定が取れました!」と報告してくる学生の表情は、それ以前の表情とまったく違って明るかった。その違いの大きさの中に、私は逆に、彼が感じていたであろう「所属する組織や会社が得られないかもしれない」「安定した収入をもたらす会社員にはなれないかもしれない」という不安の底知れぬ深さを、間接的ではあれ、感じ取っていた。

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だから、田中氏などの若い世代の男性学研究者が、「自分たちの世代の経験は、上の世代の男性の経験とは大きく違う」と意識せざるをえないことは、よくわかる。上の世代の男性学は、職場や家庭での男性の意識や行動に対する女性からの批判に、かなり素直に耳を傾けた。また、ポリティカル・コレクトネスの視点から、「女性を差別」してきた自分を積極的に自己批判してきた。

しかし若い男性たちからすれば、上の世代がそうできたのはあくまで、彼らの「男の特権」がゆるぎないものだったからにすぎない。彼らは、職場では女性を低く評価する評価制度によって管理職や高給などの好待遇を享受し、家庭では妻の無償労働に支えられた安定した家族生活を営んできた。彼らが女性からの批判に従順なのは、まさに彼らが女性差別の特権を十二分に享受してきたからなのだ。

しかし、就職氷河期以降の男性たちには、すでにその「特権」はない。正社員として働けない男性も多いし、正社員になったとしても、長時間労働や低賃金に苦しめられ、管理職になっても「名ばかり管理職」だったりする。結婚できない男性も者も多いし、結婚しても共働きでなければ暮らしが立たず、働く妻からの家事や育児分担要求に疲弊するばかり。

しかもイクメンでいくら疲弊しても、「大黒柱」を降りることもできない。もはや「男の特権」批判をやっている時ではない。今は「男もつらい」、いや「男がつらい」のだ。女性からの男性批判に終始する男性学ではなく、「男性当事者の立場で男性の悩みに焦点を当てた男性学が必要なのだ」。その主張は、とてもよくわかる。

でも、「男女間格差」は相変わらずでは…?

だが、世代間比較において自分たちは上の世代ほど「男の特権を持っていない」といえるとしても、そのことは、同じ世代の女性と比較して「男女間格差」がないということと、同じではない。非正規化・低賃金化は、男女共通する問題であるだけでなく、女性のほうがずっと深刻な問題である。男性の方が未婚化率は高いが、同じ結婚しない非正規の男女では、女性の経済的困窮の不安の方が、ずっと大きい。

日本社会は、ジェンダー平等の観点から見ると、先進国で最も男女間格差が大きい国であることはよく知られている。たとえ「今の社会、男はつらい」といいうるとしても「今の社会、男性のほうが女性よりもつらい」といいうるかどうかは、疑問に思う人も多いはずだ。

いや、「日本では男性よりも女性のほうが、幸福度が高い」という反論もあるだろう。近年、そうした調査結果がいくつか発表されている。

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それどころか、「幸福度の男女間格差」という点で見ると、「女性のほうが男性よりも幸福だ」と感じている国の中で、一番男女間格差が大きいのが日本なのだそうだ(世界価値観調査、2010。ちなみに、この調査では、男性のほうが女性よりも幸福な国もかなり多くあり、男女差がない国も多い。女性のほうが男性よりも幸福度が高い国には、紛争国等戦闘に男性が多く従事している国や、東アジア儒教圏が多いという)。

日本の女性の約90%が「幸せ」と回答したのに対し、男性は約82%しか回答しておらず、その差は約8%で世界一大きいという。「女性が世界一幸福な国」「男性が世界一不幸な国」などの見出しのネット記事も多く出回っている。

しかし「主観的な幸福度の高さ」は、客観的な生活の質の高さを意味しない。

「女性の方が、幸福度が高い」という調査結果の一つである男女共同参画局の調査(平成22年度)は、居住・余暇・家計・友人関係・健康。仕事等、各要因に対する生活満足度も、同時に発表している。確かにそれらの個々の要因に対する男女別生活満足度は、過半数の項目で男性の方が、満足度が低い。

けれども、統計的にはずっと条件が良いはずの「仕事」においてさえ、男性の満足度の方が女性よりも低いのだ。さらに、「配偶者との関係」や「家庭生活」などにおいては、男性の満足度の方が女性よりも高くなっている。つまり男性は、客観的には女性よりもずっと良い条件にあるはずの仕事においても満足感が低く、「家庭生活」や「配偶者との関係」においては女性よりも満足感が高いのに、女性ほど「幸せ」とは感じていないのだ(この部分、公開当初の原稿に一部データの読み方に間違いがあり、訂正した)

「男はつらいよ型男性学」が「男らしさイメージを変える」ことに希望を見出すのは、おそらくこうした調査結果を踏まえているからなのだろう。男性は個々の要因で見れば女性よりも「満足」してもおかしくない状態にあるのに、「本来あるべき男性性」イメージに縛られて、「幸福」であると思えないでいる。だから変えるべきなのは、「男性性」のイメージなのだと。しかし、そのような主張は、男性たちにどこまで受け入れられるのか?

「無意識化された特権意識」

「男はつらいよ型男性学」のような、「『男性当事者』が『男性』に向けて、『男性性』イメージを変えよと呼びかける」男性学の戦略は、ジェンダー平等の視点から見ると、かなりリスクがある戦略である。なぜなら、主張をする本人の意図はどうあれ、そうした言説は容易に、「フェミニズム叩き」「マイノリティ叩き」という、「ジェンダー平等」とは逆の方向の言説と、呼応してしまいがちだからである。

実のところ、「男はつらいよ型男性学」が問題にした「男のつらさ」は、経済のグローバリゼーションによって苦境に立たされた先進国の製造業男性労働者の「つらさ」と、ほぼ一致している。

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社会主義崩壊とともに始まったグローバル市場経済は、先進国から旧社会主義国や発展途上国への工場移転を引き起こし、彼らの職を奪うことになった。中国やその他の中進国労働者が急激に所得を増加させたのに対して、先進国労働者はサービス経済化の進展のなかで失業や賃金低下・不安定就労化を余儀なくされた。

この層の不満が爆発し、イギリスのEU離脱が起きトランプ大統領が生まれ、移民排斥・自国第一主義が世界を席巻している。ポリティカル・コレクトネスを毛嫌いするこの反リベラル派の世論は、移民だけでなく国内のマイノリティにも反感をあらわにする。本来自分たちが得られたはずの富や特権を、弱者という名を借りて横取りしてくのが、マイノリティだからだ(A.R.ホックシールド、『壁の向こうの住人たち』、布施由紀子訳、岩波書店、2018)。

〔PHOTO〕Gettyimages

反感の背景にあるのが、「無意識化された特権意識」である。先進国の白人男性労働者たちの多くは、「自分は一定の水準の生活を保障されて当然」だと、暗黙に考えている。自分が苦境に立っているのに、マイノリティが自分よりも良い生活を得ていることを知ったときに、この「無意識の特権意識」はマイノリティに対する怒りとして現れる。「自分の方が当然優先されるべき」なのだ。無意識化されているがゆえに、その怒りは強烈である。

先述した日本の男性たちの幸福度に関する調査結果を、この「無意識の特権意識」から解釈してみよう。つまり個々の生活項目に対する満足度は女性と同じか男性の方が高いのに、男性の「幸福度」が女性よりも低いのは、「自分の方が当然優先されるべきなのに、そうなっていない」ことに、不満を感じているからではなかろうか。

もしそうだとしたら、「男性が享受している特権」には注目せずに、「男性のつらさ」に焦点を当て、男性に呼びかけるという戦略は、この呼びかけに答える男性たちに、男性アイデンティティを強く呼び覚ますことになり、「無意識の特権意識」を刺激してしまう可能性もある。

つまり、主張者の意図はどうあれ、「男性の人生は(女性と比較しても)つらいものだ」とみなす主張は「だから男性の地位をかつてのように戻せ」「だから女性の地位改善はおかしい」という主張に結びつく可能性がある、ということだ。

確かに「男性のつらさ」に焦点を当てることは、ジェンダー平等を説く言説よりも、男性の関心を引くだろう。けれども、「無意識の特権意識」を刺激してしまえば、たとえ「男性性を変える」ことを呼びかけられても、その方向にはいかない男性も多いのではなかろうか。

男性の雇用が大きく変動しているにもかかわらず、男性の生き方に対する社会的イメージに変化がなく、そのギャップに苦しんでいる男性からすれば、「男性性を変える」ことよりも「男性の雇用をもと通りにする」こと――それは「フェミニズム叩き」に繋がるかもしれない――の方が、ずっとわかりやすいはずだ。

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しかも田中氏が「男性性を変えよう」と主張する主な理由は、社会的公正や平等などの価値観ではなく、「もはや社会が変わってしまったから」という外在的根拠、「昔のような男性性を維持しても、メリットはない」という合理的根拠であるにすぎない。

実際、「仕事と結びついた男性性イメージを変えること」は、より根本的な「(男性は優遇されてしかるべきだ、男性は強くあらねばならない、といった)男性性アイデンティティ」を維持したままでは、非常に困難である。

その針の穴を通るような難しい「男性性イメージの変革」に向かうには、より強い動機付けが必要だ。それがなければ、「男性性アイデンティティ」を呼び覚ますことは、その中にすでに書き込まれている「無意識の特権意識」を刺激する方向で影響力を及ぼす可能性がある。

つまりは、「昔のような男性の特権を取り戻そう」と主張すること、「自分たちが当然優先されるべき」だという怒りをマイノリティ(=女性)に向けることにつながるかもしれないのだ。

無論、「男がつらい」時代に、「男のつらさ」に寄り添うことは、重要である。けれども、その際にもっともセンシティブであるべきなのは、「つらさの認識」が短絡的に「無意識の特権意識」に向かわないようにすることだと思う。「男性のつらさに寄り添いつつ、男性アイデンティティを開いていく」ような精妙な男性学の展開を、期待したい。

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